上州からの山旅

凡人noyamaの山旅の記録

日光道中21次を歩く (幸手宿~間々田宿)

2024年02月11日 | 街道を歩く




【3日目 武蔵国・下総国・下野國】 令和6年(2024)2月8日(木)晴
 前橋駅5:40==5:52伊勢崎駅5:56==6:51館林駅6:52==7:35東武動物公園駅7:45==7:52幸手駅8:00--8:25幸手の一里塚--9:00筑波道追分--9:35小右衛門の一里塚--10:30八坂神社--11:30中田宿解説版--12:00うどん茶屋俵屋12:40--13:20原町の一里塚--13:50古河城下本陣跡--14:45野木宿木戸跡--14:55野木の一里塚--16:07乙女の一里塚--16:44間々田駅16:47==16:53小山駅--スーパーホテル小山泊(朝食付き5600円)
 (前橋~伊勢崎:242円JR 伊勢崎~幸手:912円東武 間々田~小山:199円JR)
 幸手宿~間々田宿:宿場間距離25.7km 歩行距離29.4km 宿場間距離の歩行距離比較累積(86.2/74.9=1.15)


【6越谷宿 幸手駅8:00出立   武蔵国】

 前橋駅を一番列車で出発通勤時間帯と重なったが比較的空いていた



幸手駅に着くと今日も快晴
街路灯とマンホールは市の花「権現堂堤の桜」がデザインされている



問屋場跡
解説版があるが摩耗して読めない



幸手宿本陣跡(現在 うなぎ義語家 参考1)





浄土宗菩提山東皐院聖福寺
例幣使や歴代将軍が日光社参の折、御殿所(将軍の休憩所)として使用
菊の紋章の入った勅使門(唐門)は寛保元年(1741建設) 市指定有形文化財




幸手の一里塚跡  江戸日本橋より数えて十二里目 (8:25 幸手駅から1.6km)
ここで道は直角に曲がる枡形跡、幸手宿の日光(北)口



石太(いした)菓子店
「当店は江戸時代(文久年間)に、初代中村石太郎氏により創業しました。天保年間からある『塩がま』は、もち米・砂糖・赤穂の塩を用いた和菓子です。」(石太菓子店)
ドームの様な形で砂糖がコーティングされたシュトーレンの様なものを想像していたが違うようだ
1本270円食べたっかったが開店前



権現堂桜堤 権現堂川の氾濫から江戸を護るため、天正四年(1576)頃に築堤
堤防上約1 kmにわたって、約1000本の桜並木が続き、ここの桜が市の花になっている



中川に架かる「行幸橋」から上流、鉄橋は東武日光線



橋を渡り旧道に入ると静かな住宅街





筑波道追分 (9:00 幸手駅から4.0km)
安永四年(1775)建立の追分道標「左日光道」「右つくば道」「東かわつま前はやし」と刻まれてる
ここを左に行く




雷電社湯殿社 外国府間村(そとごうま)の鎮守
境内に馬頭観音、青面金剛像庚申塔、如意輪観音像十九夜塔(弘化二年(1845)、四国秩父坂東供養塔(安永8年(1779))
 江戸時代に四国88霊場、坂東33観音、秩父34観音を廻って来たのだろうか?



国道4号線したの細い道を歩くが車の心配もなく景色を楽しみながら歩ける




言宗豊山派真光寺
明治六年(1873)栗橋南小学校の前身となった愛敬学校、聲聞学校が開校跡碑がある
「聲聞学校」とは今の「ろうあ学校」か「仏教の学校」なのだろうか解らない




弁財天堂と小右衛門の一里塚 江戸日本橋から13里目 (9:35 幸手駅から5.7km)



国道4号線に出たところに「栗橋大一劇場」」
壁に貼ってある踊り子さんの写真は撮影禁止
昔群馬県太田市にも「太田大一劇場」というのがあった様な





川通(かわどおり)神社 
嘉永五年(1852)奉納の力石があったが持ち上げられない
常夜燈は文化11年(1814)




会津見送り稲荷
「会津藩の武士がこの地まで来ると大事な書面をなくしまったが、白髪の老人が現れ助けてくれた。その老人はキツネの化身であったので稲荷様を祀り、会津藩が天明5年(1785)手水鉢を送った。」



【7栗橋宿着   (10:20 幸手駅から8.6km)】

右「会津見返り地蔵」 左「焙烙地蔵」と書かれた標柱を左に




真宗大谷派幡谷山破邪山顕正寺 慶長19年(1614)開基
本尊 木造阿弥陀如来像は市指定有形文化財




栗橋宿の古い建物

このあたり利根川堤防強化改修工事のため道路や建築物等移転され本陣跡等解らなくなっている




栗橋関所址碑も仮移転され元の場所では無い
「房川渡中田関所」と呼ばれ寛永元年(1624)設置の日光道中唯一の関所
東海道の箱根、中山道の碓氷と並んで重要な関所で入り鉄砲に出女を厳しく取り締まった



八坂神社 栗橋宿の総鎮守、狛犬が鯉
この神社も堤防下にあったものが堤防改修で令和3年(2022)現地に移転
慶長年間(1596~1615))利根川の洪水の時に鯉と泥亀が元栗橋の神輿を運んできたので狛犬が鯉で鯉の口は阿吽



八坂神社から利根川を渡る利根川橋は目と鼻の距離だが堤防工事中のため
八坂神社から江戸方面へ戻り、さらに上流側にまわり再び八坂神社脇まで戻る1km近くの迂回をさせられる
車では大した距離では無いが歩行者を無視したような迂回路には少々怒りがこみ上げる
この迂回も3月中には回避できるようだ




利根川橋 武蔵国(埼玉県)・下総國(茨城県)境 (11:15 幸手駅から11.8km)




利根川を渡った茨城県側(中田宿側)に房川(ぼうせん)渡中田御関所がったが、対岸の栗橋宿側に移転
このあたりも工事中で位置不明


【8中田宿着 下総國 (11:30 幸手駅から12.7km)】


中田宿は利根川河川敷に設けられていたが、明治末からの利根川改修によって宿並は利根川橋下の河原になってしまったため古い建物や遺構は無い



鶴峯八幡宮 養和元年(1181)源頼朝が鎌倉鶴ケ岡八幡宮の分霊を勧請し創建
中田宿の鎮守、明治四十四年(1911)河川改修に伴い、現在地に遷座。



現在の中田宿街並み



JR東北本線 日光街道踏切




うどん茶屋俵屋 ランチメニュー親子丼セット880円
このあたり食堂は無く、昼食時は込み合っている 旧道沿いに飲食店が少ないのが街道歩きの弱点




中田の松原
寛永七年(1630)古河藩二代藩主永井信濃守尚政が植栽した松並木がここから1km程あった
「左右に松並木が続き 道幅も広く 東海道にもこれほどきれいな松並木はない」といわれたが、戦時中に松根油採取のために伐採されてしまった
現在の松は平成6年(1994)から3年かけて復元したもの



香取神社 茶屋新田村の氏神、宝永元年(1704)創建



香取神社と隣り合わせの茶屋町会議所あたりが立場跡で「中田の松原」解説版がある



十九夜塔 原町女人講中三拾一人、関宿境道と刻まれ道標を兼ねいる
如意輪観音が刻まれており女人講(女同士が夜中に集まり飲食を共にしたり念仏を唱えたりした)




古河第二高等学校の校庭隅に原町の一里塚 江戸日本橋より十六里目(13:20 幸手駅から17.3km) 



古河市のマンホールは渡良瀬川河畔の花火大会のデザイン


【9古河宿着 (13:40 幸手駅から18.1km)】


往時松並木が5km程整然と続き、、松並木の間から見える白壁の古河城、そして富士山や筑波山、浅間山や男体山などは多くの文化人や画家達の漢詩、紀行文、絵画に表現されている



古河城御茶屋口門碑
古河藩初代藩主土井利勝がここに茶屋を設け徳川三代将軍家光を出迎え、以降歴代の将軍はここから古河城に入った



古河の街並




古河城下本陣址
自転車の放置場となっている



手前に「二丁目金刀比羅宮」(文化11年(1814)の建立)と表示がある
何故コンクリート壁を造って高くしてあるのか不自然な感じ




古河宿道標「左日光道 東筑波山 右江戸道」 文久元年(1861)建立
ここで道が折れる桝形



古民家が残る街並み



日光街道古河宿燈籠モニュメント 古河宿の日光(北)口
このY字路を左に進む



「史跡 栗橋道」の道標



野木神社 延暦二年(783)創建
「のぎ」の縁から陸軍大将乃木希典が指揮用サーベルを奉納している


【10野木宿着 下野國(14:45 幸手駅から22.0km)】


野木宿周辺の松並木の解説「野木宿内では松と杉が植えられていた」


町の花「ひまわり」がデザインされたマンホール蓋



野木宿入口標識 
「この場所に木戸が設置されていた」と書いてある野木宿の江戸(南)口
チープな標識だがあるとありがたい




本陣跡と解説版 (14:50 幸手駅から22.2km)



街並み




真言宗満徳山自性院満願寺、元和二年(1616)の創建
門前の大きな十九夜塔(元治元年(1864)建立)




野木の一里塚 江戸日本橋から17里 (14:55 幸手駅から22.5km)
民家の生垣の中に表示がある




大平山道標「是より太平山道」
日光例幣使道の栃木宿太平山神社に至る。日光山近裏道とも呼ばれた。



観音堂
ここにも大きな十九夜供養塔(嘉永三年(1850))建立、馬頭観世音(寛政十二年(1800))



猿田彦大神 (庚申塔)



馬頭観音




観音堂
境内に十九夜塔(嘉永元年(1848))、廿三夜塔(文政二年(1819))
このあたりの月待塔は大きい、年代から月待の信仰は二三夜から十九夜に変ったのだろうか?




真言宗地蔵山法音寺、応永二年(1395)の創建
門前には芭蕉翁句碑「道ばたの むくげは馬に 喰れけり」安永九年(1780)建立
解説版にはこの句は奥の細道の旅に出る5年前、東海道の旅で詠んだ句とある



野木町・小山市境 (16:00 幸手駅から26.8km)



馬頭観音道標「是より左 乙女河岸 あしと とちき さのみち」文化十年(1813)




乙女の一里塚 江戸日本橋より十八里 (16:07 幸手駅から22.2km)
エノキの大木の根方に鳥居、石燈籠、石祠





若宮八幡宮
境内に銅製大日如来坐像(宝永六年(1709) 小山市指定文化財
元は覆屋が無く風雨に晒されていたところから濡れ仏様と呼ばれた
平成10年(1998)野ざらしで痛みが激しいので屋根を架けた



ここにも大きな十九夜塔 明治22年(1889)の建立で江戸期から信仰は続く



真言宗豊山派絵唐山佛光寺
門前の仁王像が特徴的




乙女八幡宮 乙女村の鎮守 小山市指定有形文化財
鳥居は元禄十六年(1703)乙女河岸の船問屋が寄進したもの



乙女交差点 左が乙女河岸道
乙女河岸(おとめかし)
「徳川家康公が会津への進軍の際、武器や兵糧を乙女河岸から陸揚げし、帰路は乙女河岸から乗船し江戸に戻ったとされています。それを吉例として、家康公を祀る日光東照宮の造営や修復の際も、建築資材を陸揚げする重要な役割を果たしました」(栃木ナビ)



間々田駅 
本日はここまで、電車で宿泊地小山へ向かう (16:44 幸手駅から29.4km)





本日は幸手駅から間々田宿まで約30km、9時間程歩いた
後の行程を考えると小山宿まで行きたかったが無理せず宿泊予定の小山まで電車で行き明日引き返すことに
これまでの経験で宿場間距離25km位が一日の行程の目安
ここまで道路や河川改修、都市計画等で解説書(参考1)にあるが現地は変っている所が沢山ありました
解説書にこだわり過ぎると自分なりの面白さを失う事にも気づき始めたこの頃でもあります
四国巡礼88か所でも御朱印集めに拘泥する余り見所を失念してしまうことに気づいた事を思い出しました


 ↓そんな訳で 押していただくとたすかります





 地図


*参考
参考1:「ちゃんと歩ける日光街道」 八木牧夫著 山と渓谷社
参考2:五街道ウオーク:上記本の著者八木牧夫さんのホームページ
参考3:電子足跡・中山道歩き旅GPSログがとても参考になります
参考4:「日本史 小辞典」(改訂版) 山川出版社
参考5:ウイキペディア

*用 語
【距 離】1間≒1.818m 1町=60間≒109m 1里=36町≒3.927km
【日光街道or日光道中】
 慶長5年(1600)関ケ原の合戦に勝利した徳川家康は主要五街道(東海道・中仙道・甲州海道・奥州海道・日光海道)の整備に着手。正徳6年(1761)幕府道中奉行は5街道の名称を統一。中仙道は東山道の中筋の道なので「仙」を「山」に「海道」は海端を通らない甲州・奥州・日光は「道中」に変更した。明治新政府は「道中」を「街道」と改名。
【問屋場】
問屋場(とんやば・といやば)は、江戸時代の街道の宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締ともいった(参考5)
【立場(たてば)】
五街道等で次の宿場町が遠い場合はその途中に、また、峠のような難所がある場合はその難所に、休憩施設として設けられたものが立場である。茶屋や売店が設けられていた。
【月待塔】
月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事で
【桝形(ますがた)】
 宿場町の枡形とは、街道を二度直角に曲げ、外敵が進入しにくいようにしたもの


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