ノーやん日記パート2

「奥の細道むすびの地」メモ

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 晴れ。あさから蒸し暑い。忘備帳にきのうの大垣「奥の細道むすびの地」と「記念館」行きのことを書き留める。①水門川の川沿いのモニュメントにも「記念館」にも芭蕉の親友・谷木因との関係がクローズアップされていた。芭蕉と木因の立像や木因作らしい道標など印象的に。奥の細道の「むすびの地」を大垣としたのも木因との深い交友関係からかと思わせる。芭蕉が大垣の地を訪れたのは「奥の細道」行脚で4回目という。船町で船問屋を営んでいた蕉風俳人木因とは、昵懇の間柄だったよう。②大垣の俳句風土は、まちを歩いていても感じる。あちこちで俳句の投句箱を見たし句碑もまちなかに立っている(写真上=船町の港跡、中=「むすびの地」モニュメント、下=街中に立つ芭蕉の句碑「涼しさを我宿にしてねまる也」)。

 ③大垣は、川舟が物資や人を運ぶ水都だったという。いまも地下から湧水が出ている。川底には水草が生えきれいだった。「住吉神社」の祠も燈台と背中合わせにあった。芭蕉はここの川舟に乗ってお伊勢参りに向かい、「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」の句で紀行文をむすんでいる。

 ④「奥の細道」は元禄2年(1689)3月27日から9月上旬まで、西行や能因の歌枕を追慕しての長期旅行だったとされてきた。その「紀行文」はたんなるルポではなく、文芸的な数々のフィクションや潤色があることは各方面から指摘されている通り。ただ、路通に伴われて大垣に着いたのは、「8月21日」と「記念館」の説明書きにあった。どうしてその月日が特定できたのか。帰ってから知りたくなった。
          水澄むや舟歌聞きに川港 昇龍子

コメント一覧

ノーやん
https://55926699.at.webry.info/
{%笑いwebry%}水門川の川沿いは観光ガイドが標示されていていいですが、肝心の旅人の姿がなく駅前商店街も人寄せのいろんな工夫をしているようすでした。
fm
芭蕉記念館に行ったことないですが、水都大垣はいいですね。昔大垣にバイトに出かけ、夜に帰るときの駅の立ち食いうどんの湯気が懐かしいです。最近田舎くさく開発されて魅力を失いました。
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