蝉の鳴き声が暑さを助長している。芭蕉の「しづかさや岩にしみ入る蝉の聲」とはまったく趣が違う。なにせここのセミは、シャッシャッシャッシャアシャアシャアシシシイ…。忙しないこと。それも早朝から夜中まで。ゆんべなんぞ、ぼくが昼夜寝間違えたんかいな、と錯覚したよ。人の真似してそんなに働かんでええで。だれも褒美くれへんのやから。
仕方ないから部屋に籠って、力作「エミリー・ディキンソンーわたしは可能性に住んでいるー」(岩田典子著)を読み続ける。アメリカの南北戦争の時代を生きた詩人。一見ひ弱そうで強い精神と繊細な心を持った詩人として成長した。この爺にもなにか得るところあるやしれん。
昼食後、一休みして千里南公園へ。日中の公園は人気が少ない。椋鳥や鳩、雀が草むらを這い歩いている。ぼくの方を見向きもしない。ぼくも相手にせず碑の丘を歩く。「あさがおに釣瓶とられてもらひ水」(写真)。標柱の文字が読みづらいが間違いない。句碑の横にだれかがアサガオの鉢を置いている。江戸時代の俳人・加賀の千代女真筆の句碑。小学校で習った覚えがある。有名な句と思っていたが意外にも世評はきびしい。わざとらしく実感がないというのが大方の評価のようだ。そういわれてみればその通りだが井戸を知らない現代社会で、そういう時代を語る教材になるのではないか。つい引きずられて、
くらき井戸西瓜を浸けし水の音 愚句