タイ語板 肆の型ぁ~  4

あれってそれってトルコの何処だったっけ ~ 鳩の洞窟がある村

あれってそれってトルコの何処だったっけ ~ 鳩の糞の洞窟がある村

 

 『カッパドキア、ソーマンル村』、、だとか。。

仏、ワインの木の肥料にも使われると聞いたことがあったけれど、コレは別の処だったかな?

 

--                                  洞窟 ถ้ำ /thâm タム  ※ごったい先生作                             鳩 นกพิราบ /Nk phirāab   ※G先生作 何れも既出

  

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー                                        M:【カッパドキアの何百万ものハトの本拠地: ピジョン バレー 】

 カッパドキアは、美しい渓谷、丘、自然の驚異に満ちた野外博物館のようなものです。  毎年、 何百万人もの観光客がカッパドキアを訪れます 世界中からこの素晴らしい地域を見たり、熱気球で美しい妖精の煙突の上を飛んだり、地下都市に飛び込んだりします。 この記事では、カッパドキアの素晴らしい渓谷の XNUMX つを見ていきます。 ピジョン バレー、またはそのトルコ語名 Güvercinlik Vadisi として。

 ピジョン バレーの見どころやアクティビティを見ていく前に、この地域で最高の観光パスを紹介しましょう。                           カッパドキア トラベル パス®. このパスは、実際には単なる観光パスではありません。 35 以上のアトラクション、体験、ローカル サービス 単一の価格で最高のカッパドキアを手に入れることができます。

 ピジョン バレーについて
鳩小屋の息をのむような景色に加えて、ウチヒサールの町に近い絵のように美しい谷であるピジョン バレーは、古代から柔らかいトゥファに切り込まれた数多くの鳩の家にちなんで名付けられました。                    ハトにちなんで名付けられた谷は、最も人気があり、有名で、壮観です カッパドキアの谷.

素晴らしい中で ピジョンバレー、いくつかの洞窟のハトの家は、鳥とその有利な糞を誘惑するために★白く塗られています.                    渓谷は素晴らしい景色でも有名です。  また、彼らの廃棄物は肥料に変わりました。 

鳩は伝統的に、メッセージはかつてハトによって届けられました。として使用されてきました 食料と肥料の供給源 カッパドキアで。 このように、余地があればどこにでも小さな穴が作られました。 人工肥料の発明により、鳩の糞の使用量は減少しました。  それにもかかわらず、昔ながらのやり方に固執し続ける農家もいます。 彼らは、ハトのうんちが、彼らの★果物がトルコ全土で最も美味しくて最もジューシーである唯一の理由であると主張しています.

長年のサービス実績により、 ハト 住む人にとって、なくてはならない存在です。 この地域のハトは XNUMX 世紀から存在しています。 鳩の卵は XNUMX 世紀にフレスコ画のフィラーとして利用され、この地域の畑や★ブドウ畑は養分を利用して信じられないほど成長しました。 豊作. カッパドキアの素晴らしいブドウとワイン造りの歴史はここから生まれました。

鳩の巣のために切り取られた美しい妖精の煙突がいくつか展示されています。 鳩の谷には、「邪眼の木」と呼ばれる木があります。 それも一見の価値があります。  ここでは、ハトに餌をあげたり、谷に隣接する丘を散歩したりできます。 伝説の端から谷を見ることもできます   邪眼ビーズの木。


ピジョンバレーは有名です 4kmのトラック ハイカー向けで、この谷の★西端はウチヒサールで終わります。  谷を通る道は一般の人には少し難しいですが、この地域は理想的な場所でもあります。 ハイキングとトレッキング. 遊歩道は少し長いので、歩きやすい靴で行くことをお勧めします。 谷の散歩には時間がかかります 約45分。 渓谷でのハイキングに最適な時間は早朝です。

渓谷にはカフェやマーケットがないので、 水のボトルを取る そしてあなたといくつかの軽食 ピジョン バレーへのルート沿いには素敵なテラスの飲食店やカフェがいくつかあり、息を呑むような景色を眺めながら食事やドリンクを楽しむことができます。  。

谷へのアプローチで、あなたは ギフトショップの数。 手作りの贈り物には、織物の敷物、カーペット、財布、石の彫刻、この地域の有名な妖精の煙突に似た磁石などがあります。
ピジョン バレーでやるべきこと

最高の写真を撮ろうとする人々で非常に忙しいにもかかわらず、日の出と日没の両方がこの珍しいシーンを探索するのに最適な時期です。 さらに、カッパドキアには毎年恒例の 国際熱気球フェスティバル 通常はXNUMX月またはXNUMX月に行われます。 そのため、そこに行けば、鳩の谷の空は見事な色の爆発です。 最高の写真を撮ろうとする人々で非常に忙しいにもかかわらず、日の出と日没の両方がこの珍しいシーンを探索するのに最適な時期です。

さらに、 カッパドキア 毎年 XNUMX 月または XNUMX 月に開催される国際熱気球フェスティバルの本拠地です。 そのため、そこに行けば、鳩の谷の空は見事な色の爆発です。 色とりどりの気球がこの珍しい環境を滑空するのを見ると、畏敬の念を起こさせる光景と素晴らしい写真撮影の機会が生まれます。

ほとんどが下り坂なので、 ウチヒサール 地域全体を横断したい場合は、谷の終わり。 私たちはハイキングに行ったことはありませんが、ハイキングは素晴らしく、負担が大きくないと聞いています. ピジョン バレーは、天候が穏やかで景色が最も美しい春または秋に訪れるのが最適です。

ハイカー向け カッパドキアを訪れる、ピジョンバレーは人気の場所です。 よく整備されたハイキング コースからは、渓谷と近くの奇岩層の息をのむような景色を眺めることができます。 ワイルドフラワー、イチジクの木、ワシは、谷を故郷と呼ぶ多くの動植物のほんの一部です。 この渓谷は息をのむような日の出と日の入りで有名で、世界中から観光客や自然愛好家が集まります。 の ギョレメ野外博物館、ウチヒサール城、およびその他の周辺のサイトが近くにあります。 鳩谷。

トルコの ピジョンバレー 政府によって国定記念物として保護されている重要な文化的および歴史的な場所です。 訪問者は、将来の世代のために渓谷の自然の美しさを維持し、保存するよう強く求められています。 自然を尊重することは常に非常に重要であり、私たちはそれを知っています カッパドキア トラベル パス® 保有者は常に観光地の美しさを維持することに気を配っています。
次にカッパドキアでやるべきこと

あなたが素晴らしい自然の美しさを楽しんだなら ピジョンバレー 魅了されたら、今度は他のアトラクションに参加しましょう。 あなたが簡単に決めるために、私たちは集めました 35 以上の素晴らしいアトラクション、体験、地下都市、博物館 あなたにとって最高のことは、あなたがそれらのために単一の価格を支払うだけであることです! カッパドキアトラベルパス® 低料金でカッパドキアを満喫できます。 2023年を作る、 あなたがカッパドキアを訪れた年。 その時です。

 よくある質問
なぜピジョンバレーと呼ばれるのですか?

柔らかい石から時間をかけて作られた小さな鳩の家は、その地域にピジョンバレーという名前を与えました.  ★カッパドキアのいたるところに鳩の巣がありますが、この谷は群を抜いて最も集中しています。 メッセージはかつてハトによって届けられました。

 ピジョン バレー ハイキングの所要時間は?
ピジョン バレーには、最西端のウチヒサールで終わる 4 km のルートがあります。 谷のトレイルは少し難しいですが、この地域はハイキングやトレッキングに最適です。 徒歩旅行の長さを考えると、適切なアウトドア シューズを持参することをお勧めします。 渓谷を 45 分間ハイキングする必要があります。 早朝は渓谷でのハイキングに最適な時間です。

 ピジョンバレーの歴史は?
ピジョン バレーの名前の由来は、柔らかい火山凝灰岩に切り込まれた人工のピジョン ハウスが数多くあることです。 ハトは古くからカッパドキア地方で食料や不毛の土地の肥料として使われてきました。

 ピジョン バレーの長さは?
★ウチヒサールとギョレメの都市の間には、★長さ 4 km、深さ 100 m のピジョン バレーがあります。 カッパドキアで人気のトレッキング スポットはピジョン バレーです。

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4.8 / 5 星
カッパドキア トラベル パスの平均評価は: 4.8 / 5 から 719 レビューをみる。

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(出展; 翻訳ソフト版? 少々読みずらいかも。  /カッパドキアトラベルパス)

 

 ーーーーーーーーーーーーーー                           M2:【カッパドキアの岩窟群(トルコ 複合遺産・1985年)|奇岩と初期キリスト教の遺跡】トルコの人気世界遺産

 カッパドキアは1985年に「ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群」として★世界遺産に登録されました。

カッパドキアには、地質学上も世界に類を見ない不思議な景観が広がっています。周辺の観光エリアは非常に広く、見どころが多数あります。「妖精の煙突」や「キノコ岩」と呼ばれる多種多様な奇岩、ギョレメ国立公園、岩窟教会をはじめとする初期キリスト教の貴重な遺跡、カイマクル・デリンクユなどの地下都市、ウチヒサルの岩の要塞、ウフララ渓谷、陶器と絨毯の名産地アヴァノスなど……

目次
カッパドキアの場所・地図
カッパドキアは世界遺産の中でも貴重な複合遺産
カッパドキアの発掘の歴史
カッパドキアの歴史的背景
カッパドキアの宗数的背景
カッパドキアはアナトリアの歴史上重要な世界遺産
カッパドキアの地形が作り出す芸術
カッパドキアの歴史
カッパドキアの地下都市
ギョレメ
チャヴシン
ギュルデレ・クズルチュクル
パシャバー
ゼルヴェ屋外博物館
アヴァノス
ウチヒサル
オルタヒサル
ウルギュプ
ムスタファ・パシャ
ソーアンル渓谷
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ネヴシェヒル
アチュクサライ
ハジベクタシ
カイセリ
カッパドキアといえば大人気の熱気球ツアー
カッパドキア特有の地形を利用した洞窟ホテル
世界遺産カッパドキアを舞台としたパルムドール受賞の映画『雪の轍』


カッパドキアは、★トルコの首都アンカラから約250㎞離れて、アクサライ~ニーデ~ネヴシェヒル~カイセリ地方に挟まれて中央アナトリアに位置しています。

世界遺産登録名 ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群(Göreme National Park and Rock Site of Cappadocia)
場所 トルコ・中央アナトリア地方のネヴシェヒル県
登録年 1985年
登録基準 (i)(iii)(v)(vii)
登録区分 複合遺産
面積 9,883.81ha
ユネスコ公式ページ https://whc.unesco.org/en/list/357/
アクセス ネヴシェヒル空港から車で約40分
観光のベストシーズン 4月~11月

カッパドキアは世界遺産の中でも貴重な複合遺産
カッパドキア
カッパドキアは、文化遺産と自然遺産両方の条件を満たす、世界でも珍しい複合遺産です。まるで慎重な彫刻家のような繊細さで、何千、何百もの月日をかけて自然が造り上げた岩層。そしてこの火山灰に覆われた一帯を、必要に応じて彫り、削って暮らした村人達。自然と人間が一体となって創造した見事な調和の世界が、私たちの目の前に姿をあらわします。

歴史の初期以来、様々な民族が集落を形成してきたカッパドキアには数知れない遺跡や古代都市が存在するに違いなく、此れらが発掘され、一帯の歴史の解明に役立つ考古学的な調査活動が一日も早く実施される事が望まれています。

例えば、カイセリ近郊のキュルテペ、アクサライ近郊のアジェムホユックは、今日までに発掘された非常に興味深い都市遺跡のほんの数例と言えます。

ここでは世界遺産カッパドキアの全貌と歴史をどこよりも詳しく解説します。

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 カッパドキアの発掘の歴史
カッパドキアは、アナトリア中央部の四方を山に囲まれた高原地帯です。今からおよそ1500万年前までこのあたりは広大な内海でした。カッパドキアの近郊にある塩湖(トゥズ湖/Tuz Gölü:1620平方km)はその名残です。
この内海が干上がった頃、地中海沿岸のタウロス山脈に住む旧石器狩猟民たちが、内陸部、カッパドキア地方の大部分を占める現在のコンヤ平原の肥沃な土地に向かって、移動し始めたと言われています。

カッパドキア近郊のチャタル・ヒュユクの丘は、これまでに発見された中で最大の新石器時代の遺跡としてユニークなものです。発掘はまだほんの一部行われたにすぎませんが、その出土品によって先史時代の独特な文化の担い手としてのアナトリアの役割が明らかになってきました。これらの出土品は紀元前6500年から5500年頃のものと推定され、アンカラのアナトリア文明博物館に展示されています。

出土品の中で注目すべきものは人工の壁に描かれた最古の壁画です。壁画のひとつには、えんじ色の矩形が並び、ピンクに赤のふちどりの二つの山型がみられます。

この絵の下の部分が居住地の図だと考えると、上の二つ並んだ山型はハッサン火山(Hasan Dağı)と思われます。一つの山の上方に赤い点々が見えますが、ハッサン火山は紀元前2世紀まで活火山でした。そうしたことから、この壁画はこれまでのところ最古の地図だといえます。

遺跡発掘の結果、青銅器時代においてもアナトリアは独特の文化を創りだしていた事が分かってきました。
メソポタミア地方以外で私たちが知っている国々の中では、古代の民族ハッティが最も早く文明化された国で、その言語や宗教についても多少知られるようになってきました。

ヒッタイトの首都「ハットゥシャ」という名には “ハッティの住むところ”という意味があります。
そして、ハットゥシャから遠くない、アラジャホユックにある歴代のハッティ人の王の墓地からは、貴重な金や青銅の財宝がみつかり、それらは今アナトリア文明博物館に展示されています。

紀元前2000年ころ、インドヨーロッパ語族のヒッタイトが、ボスポラスとダーダネルスの両海峡を越えやって来て、アナトリア諸国に支配力を振るうようになりました。ハットゥシャの王家の公文書庫から出土した楔形タブレットはまだ断片的にしか解読されていませんが、古代世界史上においてヒッタイトが極めて特殊な位置を占めていたことを示しています。

 ヒッタイトの歴史とハットゥシャ遺跡|トルコ世界遺産(文化遺産・1986年)
 カッパドキアの歴史的背景
ヒッタイトがアナトリアヘやって来た頃、カッパドキアにはいくつかの小国とアッシリアの交易都市がありました。カイセリに近いキュルテペ(古代のカネシュ)は交易都市の中でも最も重要な町でした。
紀元前1200年頃、ヒッタイト帝国が滅んでアナトリアの暗黒時代が始まり、その後紀元前6世紀にリディア(首都サルディス)の属国になるまでカッパドキアに関する消息はほとんどありません。紀元前6世紀半ば、リディア王クロエソスは、アケメニッド王国のキュロス大王に敗れカッパドキアを失いました。

紀元前333年、アレクサンダー大王の遠征の後、紀元後17年にローマの属州となるまでの間、カッパドキア地方は比較的自由な時代でした。この時期、カッパドキアを支配した地元の諸王朝の中で、紀元前332年にアリアラテスが樹立した王朝が一番重要なものと言われています。

ローマ帝国も、続いてやってきたビザンティン帝国も、この地域の文化を吸収しようとはしませんでした。なぜなら彼らの関心は、道路を確保し交易ルートを守ることと、この広大な平原の労働力をビザンティン軍のために有効に使う事にしかなかったからです。

その後、支配階級や軍隊は便利な地点に駐留しそこに町ができていきます。
ゾロパスス(Zoropassos)~現在のギュルシェヒル(Gülşehir)、ソアンドス(Soandos)、ペリストレマ(Peristrema)~現ベリスルマ(Belisırma)、コラマ(Korama)~現ギョレメ(Göreme)、ソアンダス(Soandos)~現ネブシェヒル(Nevşehir)などがローマとビザンティンの時代の中心都市として発達していきました。

カッパドキア
この地方の住民はいつも岩の多い場所に好んで住んでいました。石を利用し、あるいは自然の岩を穿って、山の上や谷、深い峡谷の岸辺に家を作りそこに住んでいました。穴から地中にもぐり、岩の割れめや迷路のような隠れ家に住んでいた事から、10世紀のビザンティンの歴史家は、カッパドキアの住民はかつて世捨て人と呼ばれたと言いました。
住民の多くは主に農業に従事しており、特に★ぶどう栽培と家畜の飼育が主な仕事でしたが農地や牧草地は町に住む地主のものでした。住民は、作物の大部分を占領軍や、神殿の維持のために供出するよう強制されていました。

2世紀にキリスト教が知られるようになったころ、カッパドキアはさまざまな思想、哲学、東方諸宗教の入り乱れるるつぼでした。 初期のキリスト教徒はおそらく、★ローマの宗教的迫害から逃れてきた人々で、キリスト教徒の大部分は、タウロス山脈全域を占領したアラブ人の支配からカッパドキアヘ避難してきた人々でした。

これらの新しい住人たちは、丘の斜面を掘り、岩を刻んで教会を造り、内部をフレスコ画で飾ります。こうしてカッパドキアの岩石地帯は修道院や修道士の祈り、教会などの大展示場の様相を呈するようになりました。
11世紀後半にセルジュク族がやってきたときには、カッパドキアには1000を越える宗数的施設があったそうです。カッパドキアのキリスト教社会と、イスラムのセルジュクトルコの関係は友好的でしたが、14世紀に入るとオスマン帝国に吸収されてしまいました。キリスト教信者のギリシャ人たちは、後世のトルコとギリシャの人民交換政策により、1920年代にカッパドキアを離れることになってしまいました。

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カッパドキアの宗数的背景
この地域は交易ルートの交差点だったので、さまざまな思想、信条、哲学、宗教が入り乱れて入ってきました。1世紀の半ばに聖パウロがここを訪れたときは、ゼウス、ミトラ、アティス、ディオニソス、地母神などの神々がひとつ、または一緒くたに崇拝されていたに違いないと考えられます。その為、新しい宗教はこれらの既成宗教と対決しなければなりませんでした。

カッパドキア
聖バジル、ナジアンザスの聖ジョージ、カッパドキアのニサの人、聖グレゴリーは、これらの異教信仰と立ち向かい、当時のキリスト教思想を形成するのに力を尽くしました。

中でも、聖バジルはギリシャ正教会の4人の教父のひとりとされ、カッパドキアの教会にもしばしば、肖像が描かれています。(他の3人というのは、聖ジョン・クリソストム、ナジアンザスのグレゴリー、そしてアタナシウス)

彼はカエサリアの裕福な家庭に生まれ、コンスタンティノープルとアテネで学問を修めました。そして広く各地を旅した後、貧しい人々に自分の財産を分け与え、自ら定めた厳格な規律に基づく修道的共同体の創設に献身しました。

カッパドキアはアナトリアの歴史上重要な世界遺産
アナトリアで偉大な文化を育て上げた民族の中でも筆頭に挙げられるヒッタイト人達・・・。そのヒッタイト文化が華麗に開花し、繁栄の舞台となったカッパドキアでは、彼等の生きた証をそこここに見る事ができます。

帝国の滅亡後、ダバル王国と呼ばれたカッパドキアは、フリギア、リディア、ペルシャ、マケドニアそしてアリアラテスによって支配され、ローマ時代にあっては軍の要地でした。

初期キリスト教徒の隠れ家
地方への人口集中はキリスト教の浸透と共に始まることになりました。
4世紀のカッパドキアを生きた高名な宗教家聖バシリウスの教えである修道院の暮らしに従い、地方一帯には無数与の教会や修道院が建設されましたが、ビザンチン時代になり東部、南部からの大襲撃を受けると、村人達はこれらの建物を主要道路から離れた人目につきにくい谷間に造らざるをえなくなったのです。

7世紀以降、東からペルシャが、南からはアラブの民が地方に進攻して暴れまわると、カッパドキアの人々は避難場所として、今日地元の人々が「世界七不思議に続く、八番目の不思議」と呼ぶ、火山灰などの堆積層を削った大規模な地下都市を建設しました。

また、同時期、その初期にあっては絵やイメージに対するある種の反抗と受け取られても、実のところは教会への権力集中にストップをかける為に始められた偶像破壊運動の波が、ビザンチンはもとよりこのカッパドキアにも押し寄せてきました。

後に、アラブの襲撃と偶像破壊の動きが下火になると、カッパドキアには新たに何百もの教会が建設され、再び宗教画で装飾される様になったのです。

地方にて最も大掛かりな調査を実施したジェルファニオンは、此れら初期の教会を《アルカイック期》の教会と呼び、偶像破壊時代に対する一種の反抗精神から生まれた当時の造りを、非常に闊達で自由な精神をもって装飾されたものである、としています。

10世紀以降、大規模で壮麗な教会が造られたカッパドキアは、その黄金期を11世紀に入って迎えることになります。特にギョレメとその近郊に建設された教会は、外観、内部の宗教画ともに注目に値するものと言えます。

同じ11世紀、アナトリアは大きな攻防戦の舞台となりました。この地に進攻し、国家を形成したセルジューク・トルコ人をアナトリアの大地から解放し、聖地奪回を目指す十字軍やビサンチンの間の戦いが頻発した時代でもありました。セルジューク・トルコはこの波乱の時代から彼等の黄金期とされる13世紀までに、アナトリアを宗教的、軍事的な様々な建造物で飾り立てたのです。

当時造られたウフララ谷の聖ジョージ教会には、セルジュークのスルタン・メスドとビザンチン皇帝アンドロニコスの名が記されており、キリスト教徒がセルジュークの支配下におかれていた当時の状況を踏まえて考える時、教会を自由に建てて、支配者と非支配者の代表者の名を並べて掲げた意味で、大変重要なものと言えます。

セルジューク建築の代表作は、カッパドキアに続くあのシルクロード沿線と、周囲のアクサライ、ニーデ、ネヴシェヒル、カイセリ等、当時の主要都市にて目にすることができます。

カッパドキアの岩窟群
モンゴルによって歴史の舞台から姿を消したセルジュークの後を継いだのは、13世紀にアナトリアに進出して以来、短期間のうちにヨーロッパ、アジア、アフリカの三大陸に跨がる大帝国を形成したオスマン帝国でした。

同帝国に属する建造物は、カイセリ、ニーデ、ウルギュプ、アヴァノス、ネヴシェヒルに多く、特にチューリップ期の名宰相イブラヒム・パシャの時代には、その故郷であるネヴシェヒルに数多くの施設が設けられています。

長い間、「田舎の芸術作品」と軽んじられたカッパドキア地方の教会ですが、その初期から末期まで継続してビザンチン芸術の何たるかを表現しているかと言う意味に於いては大変重要なものと言えます。実際、ビザンチン時代の初期から建設されたここの教会では、宗教画、イコン、建築など、その時代の歴史を一歩一歩辿る様にして見届けることができます。

実施された調査の結果、同一工房や同一画家の手による装飾画が発見された事は、即ち皇帝をはじめ高貴な身分にある人々の為に建てられた教会や、そのお抱え芸術家の存在を裏付けます。

ウフララ谷の教会に顕著なエジプトやパレスチナの影響は、カッパドキアがこれら外部からの要素に独自の文化を混合し、自らの解釈をつけた証拠と言えるでしょう。この岩窟教会を単に芸術的見地から分析しようとするのは実際のところあまり正解とは言い難く、何千もの岩窟教会に見られる宗教画は、当時の信仰、習慣、修道院生活などをも今に伝える大切な証人でもあるのです。

私たち一人一人に、カッパドキアの自然の奇跡、信じ難い文化遺産を保護していく責任が課せられていることは、この地を訪れた者であれば誰でも強く感じるところでしょう。この美の創造主である自然の力は、同時に新しい美を作り上げる為に過去の自身の作品である風景を破壊してしまう力でもあるのです。

かつてこの岩層を造り上げた侵食の作用は、同じ作用で岩層を蝕み続け、これを無くし、人々の生活した区域をゴーストタウンに変えました。また、自然や文化遺産に直接影響を及ぼさないまでも、世界で唯一無二のカッパドキアの景観を乱す近代建築には、一定の制限を加える必要があるでしょう。

ネヴシェヒルからウチヒサルヘ向かう時に目に付く、カッパドキアの象徴とも言えるウチヒサルの風景にそぐわないホテルの数々や、ギョレメからオルタヒサルを眺める時にエルジェスと美しいカッパドキアの景観に全くもってそぐわない建物など・・・。

観光業推進の名の下に犯されたこの過ちを見つめ、この世のものとは思えない魅力に溢れた一帯を大切に保護して後世に伝えてゆく義務を、現代人として私たちはしっかりと認識しなくてはならないのです。

 カッパドキアの岩窟群
カッパドキアの地形が作り出す芸術
カッパドキアの地層は地上に見られる自然の奇跡の一つであり、中央アナトリアの火山が盛んに活動し、溶岩や火山灰に覆われた「堆積期」、そして火山活動の停止と共に始まった「侵食期」に於いて、自然が持っている二つの相反する作用が作り上げた作品と言えます。

ヨーロッパの★アルプス山脈同様、南アナトリアのトロス山脈も地質年代上、新生代の第三紀(6500万~200万年前)に形成されました。 この時期、中央アナトリアでは活発な地殻の変動で深い亀裂や地盤の沈下が見られ、亀裂を這って地表に噴出しだしたマグマは、エルジェス、デヴェリ、メレンディス、ケチボイドゥラン火山を作り上げたのです。

そして、度重なる激しい噴火の後、中央アナトリアでトロス山脈に並行して走る火山連ができあがったのです。火山の吐き出した噴出物は既に形成されていた丘や谷の上に長い時間をかけてゆっくりと降り積もり、周辺一帯は巨大な台地と化しました。

 妖精煙突(ペリバジャ)
ウルギュプ
カッパドキアを御伽噺の舞台足らしめている妖精煙突は、何百年もの間の地質変化の賜物です。世界中で唯一カッパドキア地方でのみ見られる妖精煙突の誕生は、中央アナトリア全域に影響を及ぼした火山活動にからはじまったのです。

最も美しい妖精煙突は、北からクズルウルマックの18kmあたり、東からダムサ川、西よりネヴシェヒル川、南からはオイル、ケルミル山に囲まれた約288k㎡にわたる一帯に見られます。

全く侵食されていない部分の断面を見てみると、★下に凝灰岩、上部には玄武岩が層を成していることがわかります。かつては凝灰岩の表面を完全に覆っていた玄武岩の層は、今日ごく一部にのみ残り、例えば円錐形の妖精煙突の上に頂いた帽子にも似た部分、あるいは火山灰の上部の岩の棚がそれであるのです。

この妖精煙突が形成されたのは、地質時代第四紀、雨による侵食と風化によるもので、あるものは高さ40m程にも達し、円錐形で頭部には玄武岩の“帽子”を頂いています。

初期の形成期の後、帽子の下部にある軟らかい部分は侵食されて徐々に細くなり、更には支え切れずに帽子が転げ落ちてしまった煙突もあります。あるいは完全に削り去られ、もはや姿形も無くなってしまった煙突もある様に、この侵食作用は今なお続いているのです。

ウルギュプ~ウチヒサル~アヴァノスを結んだ三角形の内側を妖精煙突の見所としてお薦めします。

 エルジェス山
エルジェス
カイセリの南西に3,917mの雄姿を誇るエルジェス山は、アナトリアの山々の中でも屈指の高峰です。地方で最も重要な火山と言え、太古の昔に始まった火山活動は歴史時代まで続きました。直径18㎞、1500km2の面積におよび、地方にとっては同様に重要な意味合いをもつハサン山に比較すると年老いて疲れた表情をみせており、火山活動初期の噴出物が火山灰の、中期のものが玄武岩の層を形成しました。

年間を通じて雪を頂くこの山をヒッタイト人は「ハルカソス」即ち「白の山」と呼び、神々を奉るヒッタイトの聖地に於いて殊に重要な位置を占めていた山の神々の中でも、一帯の最高峰であるエルジェスは特別な意味を担っていたと思われます。

発見されたヒッタイトの浮き彫りにも山の神々が刻まれており、その後も続いたエルジェスを山の神として崇拝する行為はローマ時代の皇帝とジュピター信仰と交わって浸透していきました。地方で鋳造された貨幣にも見られるエルジェスは、当時、アルジエウスと呼ばれていたといいます。

ハサン山
裾野から2,300m、海抜3,300mの高さにあり、アナトリアの山々の中でもその優美さで名高いです。エルジェス山と同時期に誕生したにも拘わらずより若々しく、カッパドキアを訪れる人々を深い懐に抱く様に出迎えてくれるこの山の頂は年間を通じて雪に覆われています。

メレンディス川
カッパドキア地方の重要な川の一つは、メレンディス山の麓を水源とし、セリメ村を流れて名高いウフララ渓谷をつくりあげました。

 クズルウルマック
クズルウルマック川
トルコ最長の★クズルウルマック川は、国の東から大きなうねりを描いて黒海に流れ出しています。長さは約1,182kmで何本もの支流を持ち、その色からクズル(赤い)ウルマック(川)と呼ばれる川は、カッパドキアの信じ難い景観を作り上げた“芸術家”の一人と言えます。

ヒッタイト人は「マラッサンティア」と呼び、ギリシア・ローマ時代になると「ハリス」川と変わったこの川は、ヒッタイト帝国の発祥地を流れつつ、歴史を通じて数々の民族の栄枯盛衰をみつめてきたのです。



カッパドキアの歴史

 チャタルホユックのフレスコ画
チャタルホユック
中央アナトリアに於ける最古の新石器時代の集落跡チャタルホユックで発見された壁画を語りながら、カッパドキアの長い歴史を紐解いていきましょう。

世界最古の風景画と言われるハサン山を描いたこの壁画は、紀元前6200年もの昔にアナトリアの人達が家々の壁をこんなにも美しい絵を用いて飾りたてていた事実を表す貴重な作品です。手前にチャタルホユックの家並み、後方に火山から昇り立つ噴煙、溶岩を描いたフレスコ画で、現在はアンカラのアナトリア文明博物館に保管されています。

また、地方で屈指の★火山であるハサン山の、その当時、活火山として活発な活動をしていた様子をチャタルホユックのある画家がこの様な方法でそこに永遠にとどめようとした意味でも重要です。

紀元前5000~4000年の間、カッパドキアには小さな、しかし独立した君侯国がいくつも存在していました。この頃からアナトリアの人々は北、東、南の隣国と交易を始め、時としてこの取引が滞り、あるいは悪化し、紀元前2300年には団結したアナトリアの17の王達(カッパドキア―カニシ王ズィハ二も含む)が、アッシリア王ナラムスィンに対して戦いを挑んだ事が知られています。この事実はアナトリアの歴史上はじめて組織された連合体制として重要です。

トルコ旅行(ツアー・観光)ブログ:世界最古のまち、チャタルホユック。 | トルコ旅行・ツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!

 アッシリア交易都市時代
アッシリア
紀元前2000年初期、黄金期を迎えつつあったアナトリアには急激な勢いの人口流入が始まりました。地方の富みに注目した“商いの天才”アッシリア人はアナトリア各地にカルンと呼ばれる貿易センターを設け、中でもカニシの町に設定されたキュルテペ・カルンは重要な役割を担っていました。一定の交易路を利用した彼等は、アナトリアに香料、錫、布、消耗品の数々を持ち込み、代わりに金銀銅を持ち帰りました。

アナトリア~アッシリア間の商取引は約150年間続きましたが、各地の小王国間の戦の影響を受けて紀元前1850~1800年頃には途絶えました。一帯は19世紀初期より専門家達の興味の的となり、1925年にカッパドキアはキュルテペでアッシリアの交易都市跡が発掘されると一層の注目を集めました。その際の出土品《カッパドキアの粘土板》は、アナトリアの歴史を解明するのに重要な役割を担う最古の記録として大変に貴重です。

 ヒッタイト人
ヒッタイト
紀元前2000年の始まりと共にアナトリアにはヒッタイトと呼ばれる民族が定住し始め、既に高度な文明を築いていた先住のハッチ族と混住して王国を建設しました。彼等がどこから、どの経路でやって来たのかは未だ明確になっていませんが、コーカサス説が有力視されています。

同期のものと思われる粘土板には多くの国王の名が刻まれているものの、並み居る強豪を倒しキュルテペに都を置いたアニッタは特筆に値する王でした。カッパドキアに興り、以後の月日の中でアナトリア最大の帝国を形成したヒッタイト人はアレッポとバビロニアを征服し、かの有名なハムラビ王朝をも歴史の表舞台から引きずり下ろしたのです。

この進攻はヒッタイト人とメソポタミア、シリア人との関係を緊密にもしました。急速に拡大する帝国は、特に紀元前15、14世紀に強い権力を手中にし、シリア、パレスチナ、エジプト、ヒッタイト間の激しい攻防戦で知られる紀元前1286年のカデシの戦いでは、ヒッタイト王ハットゥシリス三世がエジプトのファラオ、ラムセスニ世とカデシ平和条約に調印し戦いも終結を迎えたのです。

紀元前12世紀、ヨーロッパ大陸から“海の民”と呼ばれる民族がこの地に襲撃をかけてきました。これにはさすがの大帝国も太刀打ちできずに衰退の一途を辿り、以降、中央アナトリアを取り巻いた暗黒の時代は“海の民”の一派とされるフリギアがここに王国を建設するまで続いたのです。

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 ペルシャ
紀元前世紀、ペルシャが高名なリディア王クロイソスを破ると同時に、リディア王国の支配下にあったカッパドキアはペルシャの監督下に敷かれました。この状態はアレキサンダー大王がこの地に遠征してくるまで続き、その間、ペルシャはアナトリアを多くの州に分割し、監督者としてサトラップを配置しました。

彼等の政治は寛容かつ柔軟で、続治下の民と良い関係を築こうとしたと言えます。ペルシャ経済を支えたのは、エフェスとサルデスに起点し、マザカ(カイセリ)を経由してメソポタミアからシリアの都スサヘ至る有名な "王の道" でした。

サトラップ達は税として金、羊、ラバ、そして知る人ぞ知るカッパドキア産の馬をペルシャに贈ったと言います。火を奉るペルシャ人は火山地帯のこの地を愛し、自らの信仰を全うする為に最適な土地と認めていたのです。

 カッパドキアとは?
カッパドキアの馬
カッパドキアとは★“美しい馬の国”を意味する“カトゥパトゥクヤ”に由来しているのです。 カッパドキアの馬史書や資料を紐解いてもカッパドキア産の名馬と畜産については頻繁に触れられています。貢ぎ物として馬を供する習慣はカッパドキアに端を発したと思われ、古い資料にはアッシリア王アッシュール・バニパルに、ダレイオスに、クセルクセスに土地の名馬を贈呈したとあります。

カッパドキアに近い関係にある人物と言えば、あのゴルディオンの結び目を一刀両断にしてからここへやって来たアレキサンダー大王でしょう。大王の訪問以降、一帯はマケドニアの支配下に入り、王の死後にはアリアラテス朝に統治されて、カイセリは独立したカッパドキア王国の都としてユーセビアの名で呼ばれ始めました。

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アナトリア全土に大小の勢力争いが広がる中、この独立王国の国民達は他の国の人々と婚姻関係を結んで融合していきました。こうして出来上がった政治、家族等の関係は、その後、ポントス、ビティニア、ローマ帝国の間に権力争いを引き起こす要因ともなったのです。

アリアラテス一族の治世はポントス王ミトリダテスが紀元前90年に王子をカッパドキア王と宣言するまで保持され、紀元前66年になると地方は再びローマ人の手に渡りました。この様な飽くなき攻防はカッパドキアがローマの属州となった西暦17年まで続いたのです。

 ローマ時代
ローマ時代は皇帝ヴェスパスィアヌスの治世下、東はパルティアの脅威から地方を防御する目的で常駐のローマの軍隊が配備されたほか、皇帝トラヤヌスの支配下では軍用路を敷き、万全の防衛策を組みました。 129年の後半、皇帝ハドリアヌスは東側ルートから直々にカッパドキアを訪れています。

3世紀の初期になるとエフェス、イズミル、カッパドキア間での商取引が拡大し、これらの都市の名を掲げた貨幣が鋳造され始めました。東西を結ぶこの交易路上に位置する都市間で、一種の経済共同体が形成されたと言うことができるでしょう。

 ビザンチン時代
ビザンチン
4世紀、カッパドキアでは三人の高名な聖者による宗教活動が展開されました。聖バシリウス、ニサのグレゴリウス、そしてナズィアンススのグレゴリウスの思想は地方の修道院生活の規則を作り上げる基礎となりましたが、カイセリの裕福な名家出身のバシリウスは、これにあたり最初はパレスチナ、エジプト等の僧院を訪ね、ここでの生活様式を研究しました。これらの僧院で高潔な魂の誠に達する為の行として認められたのです。

《忍耐》と《隠遁》の生活に同意しかねた彼は、新しい規律を敷いたのです。過度にストイックな忍耐生活を防ごうと、修道僧達を小集団に分けて共同生活をさせ、上からの命令形態を敷くと共に、俗世からきれいさっぱり隔離された隠遁生活をする僧よりも、病人や貧しい人々を救済し、彼等の日々の暮らしに援助の手を差し伸べる僧の育成に心を砕きました。

この教訓はカイセリ近郊にバシリウスが建設したとしてバシリアドの名で呼ばれた町で実践に移され、修道僧の精神的バランスを崩すのは何よりも怠慢であり、奉仕は最も貴い修養であると主張しました。

後にその教えを継承して何干もの修道院を建設した修道僧の日々は、ギリシアはアトス山やメテオラ修道院の様に人々から隔離された完全な隠遁生活の代わりに、人の日常生活の中で彼等に奉仕しながら暮らしたものである事がわかります。

地方で宗教画を施した教会が建設される様になったのは、6~7世紀のことです。特に7世紀以降、カッパドキアはまずペルシャ、続いてアラブの攻撃の的となり、一帯で最も重要な町カイセリはこれに屈して何度か征服されました。

このように常に敵の脅威にさらされた土地に暮らしていた人々とビザンチン国家の中央は、起こり得る攻撃に対して何らかの対策を講じる必要に迫られました。南部から地方に続く路に沿って無数の要塞が設けられる一方、近づく敵の襲来をいち早く同胞、及び(現)イスタンブールに知らしめる為“光りでの伝達方法”が工夫されたのです。

光りを信号化したこの方法で、南部から迫りつつある危険は一時間以内でイスタンブールヘ知らせる事ができたと言います。ビザンチン軍はそれぞれに独立して行動し、戦い、作戦をたてることができる部隊に分割されており、彼等の攻撃と防御の常日頃からの備えに加えて、一般の人々は危機に際して非難する為の、そしてそれが去るまで暮らしを営む為の地下都市を建設しました。

726~843年の間、ビザンチン帝国には絵画を破壊する動きが蔓延し、偶像破壊時代と呼ばれるこの時期に、人物像を中心に多くの作品が被害を受けました。

964~965年、カッパドキアは高名な皇帝ニケフォロス・フォカス一家を迎えました。カッパドキアに生まれビザンチンの最高司令官の一人となったフォカスは、特にアラブの襲撃に対して活躍し、皇帝ロマノス2世の死後、皇后テオファノと結婚したことで皇位につきました。故郷への凱旋帰郷のおり、偉大な軍人であるにも拘わらず彼は修道院生活にも深い理解を示し、その記念にチャヴシン教会が建設されました。

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 セルジューク時代
セルジュクトルコ
9世紀、アナトリア高原には遊牧トルコ民族の一派がやって来ました。 1071年に勃発し、セルジュークとビザンチンを敵対させたマラズギルトの戦いは、アナトリアの大地にトルコ民族がしっかりと足を踏み入れ、支配者となるきっかけとなったのです。

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これに続く100年の間、アナトリアはセルジューク、十字軍、ビザンチンの間で繰り広げられる激しい争奪戦の的となり、十字軍の襲撃に際して最初の都イズニックを失ったセルジュークは、中央アナトリアの有名な町コンヤに中心を移しました。

戦いに明け暮れ、短命ではあったものの、セルジューク帝国が短期間で手にした商的、軍事的、政治的な成功の数々は我々を驚愕させる質のものです。後に歴史の舞台に登場してくるオスマン帝国の為に、あたかも基礎を固めたセルジューク帝国の存在は、アナトリアの大地で初のトルコ系国家を形成した意味でも、非常に重要なのです。

1082年にカイセリを征服するとセルジュークは活発な建築活動を展開させ、カッパドキアも無数のセルジューク建築で飾られる結果となりました。 1135~1150に建造されたカイセリのウル・ジャーミ(モスク)、1156年のアクサライのアラエッディン・ジャーミ、1202年のカイセリ、チフテ神学校などはこの良い例です。

また、1206年、カイセリで設立された医学専門学校、ニーデのアラエッディン・ジャーミ、カイセリのサーヒビエ神学校(1268年)等も同期の重要建築物として列挙しておくべきでしょう。しかし、何と言ってもこの時代を代表する施設といえば、キャラバンサライ、即ち隊商宿です。

他のイスラム諸国と商取引を結ぼうと努め、地中海、黒海に出て造船所を設けたセルジューク・トルコ人は、取引の拡大を目指すと共に、快適な旅を提供し、旅人を保護することを目的に、今や全人類の遺産とも言うべきこの見事な設備を設けたのです。主要交易路上に位置するカッパドキア、殊にコンヤ~カイセリ間の街道上に造られた隊商宿の数は20にも及びます。

★商業を重視した彼等は、スルタン・クルチ・アルスランニ世以来、旅人に床と食料、健康管理を供する設備を建築し始めました。 内部のモスク、ハマム(浴場)、保健所、厩などを見ても、単にこれらが宿泊の為だけに使用されていなかった事は一目瞭然です。★約30~40km間隔で置かれた宿は、同時に高い壁と塔をもつ防衛の要でもあったのです。

カッパドキアの地下都市

カイマクル地下都市
ネヴシェヒルの南20kmに位置し、ここ数年で重要な観光スポットに成長しています。“カイマクルの要塞”と呼ばれる村の東の頂きの下にあって1964年から公開されているカイマクル地下都市は、6~10世紀にかけてこの地を襲ったペルシャ、アラブの襲撃に際して建設されたと考えられています。

★合計2.5k㎡の面積を有し、★未だ全貌が解明されていませんが、およそ地下7~8階の規模であろうと想定されています。 デリンクユ地下都市と比較して構造上の相違点を指摘するとすれば、例えば、各階をつなぐ通路はカイマクルの方が狭く、天井も低いうえに傾斜も急です。現在は地下4階まで整備されており、居間が通路の周囲に集まっているのが特徴と言えます。

迷路の様な都市の★1階には馬屋がありますが、規模は非常に小さいです。まだ整備されていない他の階に更に広い馬屋があるのでしょう。 直ぐ左の通路を通って地下2階の小さな教会に入ることができますが、壁にフレスコ画が皆無なことから年代を想定するのは難しいです。同じ階には墓も置かれていて、修道僧達が使用していた階と思われています。

地下都市で最も重要な部門は地下3階に集中しています。食料倉庫、ワイン醸造所、台所などに注目してみましょう。地下倉庫の大きさ、集会所の広さ、多くの居間からして、いかに沢山の人達が一時的にここで生活することができたか想像できます。

デリンクユ地下都市
かつてメレンギュビュの名で呼ばれたデリンクユは、ネヴシェヒル~ニーデ街道上、ネヴシェヒルの南29kmに位置しています。地方の人々は農業を生活の糧としていますが、同時にこの地下都市のお陰で観光収入も軽視できないものがあります。

周囲にある墓や出土品からして、7世紀以降ここに集落が形成されたと言え、これはここから9kmのカイマクルでの集落形成より少し古い時期にあたると考えられています。

カッパドキア一帯を覆う★火山灰を削り取って造ったこの地下都市の規模は★18~20階、深さ40m程度と想定されていますが、現在はこのうちの★8階までが整備され公開されています。 地下1階の入り口すぐ横には、家畜用の飼料を保存していたと思われる窪みが残る馬屋があります。つづいて、葡萄をしぼってワインをつくっていた場所、宗教の集いが催された丸天井のある部屋が目につきます。

人々が共同で暮らした迷路に似たこの都市ではプライバシーの侵害などはまったく問題にもならず、各々に入り組んだ部屋で使った火で黒く煤けた壁は、訪れる者を当時の生活にタイムスリップさせてくれます。

炊事場では食材や調理器具を置いた壁の窪みが見られ、厨房施設の直ぐ横には葡萄を絞るワイン醸造所がおかれていますが、絞った果汁が流れるように岩に施された溝を見落とさないようにしましょう。★地下3階のほとんどの部屋は食料倉庫として使用されていたもので、この階には水辺に出る為のトンネルもあります。

地下4階も生活の為のスペースと食料倉庫で占められています。3階に始まる長いギャラリーはそのまま地下5階にまで続き、これを途中で遮断する為には大きな円形の石が用いられていました。

★地下5、6階の間のトンネルの両側には居間が設けられ、通路の壁に削られた大小の窪みには照明用のオイルランプが置かれていたと思われます。

★地下7階には三本の柱で支えられるデリンクユ地下都市で最も広い空間があるほか、十文字形の教会、井戸、狭い通路の行き当たりにある墓地なども興味深いです。地下8階では小さな部屋と通気口が目につきます。

貯水槽、食料倉庫を備え、★約52ケ所に通気口をもつこの地下都市には、敵の襲撃などの危険時に約100,000人が避難したと言われています。
十字形の大きな教会、集会所なども発見されていますが、年代解明の糸口となりそうなものは何ら残されていません。

カッパドキアの地下都市とは?謎に包まれた歴史と観光のポイントを解説

ギョレメ
古代にマチャンと呼ばれた現在のギョレメは★7世紀に遡る歴史をもつ地方一帯の最古の集落で、「聖ヒエロンの勤め」と題される資料に「ギョレメ」の名で登場しています。他の集落の様に目につきにくい場所にあるとは言い難く、特にアラブの襲撃では村人の多くを失いました。

初期に於いては村を流れる川の近くに集落があったと思われ、支柱のある二つの墓もこの事実を裏付けると言えます。ギョレメ村と近郊には五つの教会があり、これらのうち最大のものは6世紀、もしくは7世紀に建設されたと思われるドゥルムシカディル教会で、大きな柱と説教壇を備えて保存状態も非常に良いです。

それ以外、アラブの襲撃後にあたる10~11世紀の造りと考えられる教会の内で最も新しいものは11世紀、マチャンに司祭館が置かれていた時期に建設されたユスフ・コチ教会であり、最も離れた場所にあるのは、約30分から40分程度の距離にある11世紀のカラブルット教会です。

自然の作りあげた岩層と、人間が手を加えた造りの素晴らしいハーモニーと言えるギョレメ村は一帯で最も注目されている地区です。今日もなお岩を掘って造った家に住む人々がいて、彼等は岩を住まいとすると同時に、これを倉庫としても利用し、過去からの生活様式を何ら変える事なく岩と共に暮らしています。

ギョレメ村では岩の家の他、岩を刳り貫いた洞窟レストランやホテルも観光客に人気が高いです。村を包囲して直立する妖精煙突と共に、ギョレメの美しさは強いインパクトをもって人々の心に焼き付くに違いありません。


エル・ナザール教会
テントを思わせる岩層の内部に設けられたエル・ナザール教会は、ギョレメにて見られる同種の施設の中でも特徴のある珍しいものです。

10世紀に建築された教会の壁は崩壊し、フレスコ画も何百年もの時の中で風化して傷んではいますが、それでもかつての美しさを彷彿とさせています。中央のドームには虹とその上を昇天するキリストが描かれています。

西のアーチには、吉報、訪問、献上が、南のアーチには誕生、東方の三人の博士、エジプトヘの逃避などをテーマにフレスコ画が描かれていて、その他にも黄泉の国へ、傑、洗礼、キリストの変容なども表現されています。
また、皇帝コンスタンチヌスと母御ヘレンの姿も図柄として用いられています。

ギョルギュンデレ渓谷
ギョレメ村とギョレメ屋外博物館の間にのびる遊歩道を利用して出ることができます。美しい妖精煙突と岩層で是非とも訪れてみたい谷のひとつですが、車の乗り入れは禁止されているので注意しましょう。葡萄とヒマワリ畑の間に屹立する不思議な岩の塊は、悠然としてダイナミックです。

クルチラルの谷
アクテペとギョレメ渓谷の間に位置するカッパドキア一美しい谷と言っても過言ではありませんが、徒歩でのみ入り込め為に訪れる者は多くありません。有名なクルチラル教会をはじめ、多くの岩窟教会があり、特に写真愛好家にはたまらない題材の多いスポットです。

"アイナル・キリセ"(鏡の教会)の名で親しまれるクルチラル教会は、十文字の基礎の上に建ち、四本の柱をもつ10世紀の建物として注目に値します。中央のドームにはキリストの昇天が表現される他、聖書を記した四人の聖者も描かれています。

カッパドキア出身の宗教家や聖人が描かれているのも興味深く、同世紀に建築された教会の中では、その規模とフレスコの質に於いて、大変重要な建造物に挙げられています。

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(画像・ 1) トルコ・カッパドキア、鳩の谷。背後に見える熱気球も名物なのだとか、、  /cappadocia-uchihisar-pigeon-valley ターキッシュ・カルチャークラブ 

(画像・ 1下)  /カッパドキアの鳩の出入り口 FC2

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