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あれってそれって何処だっけ ~ 世界三大紅茶

あれってそれって何処だっけ ~ 世界三大紅茶の産地

 

 『インド(ダージリン)、スリランカ(ウバ)、中国(キーマン) 』…だとか、、

 かつて英国が紅茶原料を仕入れるために仕掛けたと云われているアヘン戦争、、 インドの植民地化、、  これらの名残の文化なのかも、、

--                                 ชาฝรั่ง /chaa faràŋ チャー ファラン 紅茶                  ชาดำ /chaa dam チャー ダム タイ式紅茶  ※ごったい先生作

 

ーーーーーーーーーーーーー                      M1:【ダージリン・ティー 】とは

    ダージリン・ティーは、チャノキ Camellia sinensis (L.) Kuntze から作られる茶の一種であり、★西ベンガル州の➊ダージリン県および➋カリンポン県で栽培・生産される。 2004年からは「ダージリン・ティー」は地理的表示に登録され、ダージリンまたはカリンポンの特定地域で生産された茶以外は★名乗ることができなくなっている。 茶葉は紅茶に加工されることがほとんどであるが、茶園によっては緑茶や白茶、烏龍茶などに適した茶葉の生産を手掛けるようにもなった。

世界三大銘茶 > ダージリン・ティー
ダージリン・ティー
種類  ;紅茶(緑茶、白茶、烏龍茶も存在する)
起源  ;インド
説明  ;花や果実の香り、マスカテルフレーバー
温度  ;90~95℃
時間  ;3~4分
  ※ファーストフラッシュのダージリン・ティー ※※含有画像はHPからご参照ください。以下同じ。。

 茶葉は、★先端の葉2枚と新芽(一芯二葉)が摘まれる。★3月から11月までが収穫期であり、★4つの時期に区切られる。                    ➊「ファーストフラッシュ(春摘み)」と呼ばれる最初の旬は、茶樹が冬の休眠を終えて育つ最初の数枚の茶葉から成る。できあがる紅茶は★フローラルな香りと収斂味があり、白茶に仕立てるのにも向いている。    ➋「セカンドフラッシュ(夏摘み)」はヨコバイ類やハマキガ類の来襲の後に収穫されるが、これが★マスカテルフレーバーという顕著な香りを生み出すもとになる。➌「モンスーンフラッシュ」は温暖かつ湿潤な時期であり、茶葉は★急速に成長するものの★香りは弱いため、★ブレンド用に使われることが多い。            ➍「オータムナル(秋摘み)」は★セカンドフラッシュと似ているが、より★柔和な味わいとなる。

 茶樹が最初にダージリンに植えられたのは★1800年代半ばのことである。 当時の★イギリスは中国以外の茶の供給源を探しており、インドのいくつかの地域を候補として茶の栽培を目論んでいた。 ★中国から入手した分類学上の母変種にあたる➊チャノキだけではなく、インド東北部で発見されたばかりの➋アッサム変種 Camellia sinensis (L.) Kuntze var. assamica (J.W.Mast.) Kitam. も植え付けられた、しかし高冷地においては母種のチャノキのほうが好適であった。イギリスは数多くの茶園を設立したが、労働者の多くは★ネパールやシッキムから集められた★グルカ族やレプチャ人であった。 インド独立後は、すべての茶園がインド内の企業に売却され、インドの法律の下で営業することとなった。 その頃はダージリン・ティーの最も主要な取引国はイギリスから★ソビエト連邦に移っていた。 その後、ダージリン・ティーがその特徴と品質により評判を高めていくにつれ、ますます西欧での引き合いが強くなっていった。 多くの茶園が有機栽培やバイオダイナミック農法、フェアトレードの認証を取得しており、インド政府はダージリン・ティーの認証と世界的な振興を推進している。

 歴史としては、以下の通りである。        ※ダージリンの茶園で働く労働者の様子。1890年撮影。

茶樹が最初にダージリン地区に植え付けられたのは★1841年のことである。 アーチボルド・キャンベルは東インド会社で働いていたが、彼はカルカッタに駐在していたイギリス人のための避暑地として、森に覆われた人口希薄地帯である当地を避暑地として開発しようとした。 当時、イギリスは中国以外の茶の供給地を探していたが、その頃になってチャノキの新変種がアッサムで発見されたほか、中国から種や苗木が★ひそかに持ち出されていた。 中国産の母変種は★サハーランプル植物園で栽培され、そこから他の★ヒマラヤ地域の植物園に伝播したが、これはキャンベルがナサニエル・ウォーリッチを経由してクマウンから取り寄せた種子によるものである。 最初の植樹が成功するなか、キャンベルは1846年にルボンに移り何人かの住人とともに新たに母変種およびアッサム変種の植え付けを試みた。 それから1年後、最初の試験的な茶園が1852年に★3つ起業され、➊トゥクバー、➋スタインタール、➌アルバリに置かれた。 これらの茶園は2000本の茶樹を保有していると報告しており、丘の気候と土壌が茶の栽培と製造に適しているとのことで専門家としてロバート・フォーチュンが派遣された。 母変種とアッサム変種の両方を栽培できたが、★高地には母変種のほうがより適していた。 アッサム変種よりも母変種の方が寒冷と乾燥に対する耐性が高いためである。 最初にダージリンに商業的な茶園が設立されたのは1856年のことであった。1866年には★39園にまで増えていたが、その中にはこの地域で初めて萎凋・発酵を行う★工場を併設した「マカイバリ農園」も含まれる。 これらの工程はカルカッタからイギリスまで数か月かかる輸送に耐えるようにするためには必要不可欠である。 近隣のドアーズやテライでアッサム変種の栽培が成功したことからインフラへの投資が活発化し、それがダージリン高原まで波及したため、ダージリンの茶園への機械や物資の供給も容易になっていった。 ダージリンの人口は1830年代には100人以下であったが、★100を超える茶園が稼働していた1885年には95000人にまで増加し、ネパールやシッキムからのグルカ族やレプチャ人の移民が多数を占めるようになった。この頃には、ダージリン・ヒマラヤ鉄道に加え、蒸気船の活用とスエズ運河の開通によりヨーロッパへの茶の輸送にかかる期間は大きく短縮されていた。

 イギリス政府が★東インド会社を国有化した後も、土地は茶園のオーナーに★30年ごとに貸し出され、その土地のうち茶の栽培に用いられるのは4割であり、4割を自然なままに残し、2割を居住地や生産設備に充てるという慣行は維持された。 ★1947年のインド独立後になると、イギリス人はインド人に権利を売るようになり、慣行も変化していった。 1953年の茶法は茶産業をインド紅茶局による法規制の下に置くものである。茶の栽培を広げるため自然の土地を拓き、農薬や肥料を導入することで、収量は★1950年から1960年の10年間で780万キログラムから1000万キログラムまで増加した。ただし、これにより土壌は不安定になった。 茶産業に対する一部免除にもかかわらず、1973年の外国為替規制法(Foreign Exchange Regulations Act、FERA)により外国人が新たに茶園の権利を入手することが制限されるようになると、★インド政府がダージリンの茶産業の権利のうち過半をもつようになった。その頃にはインドにとっての茶の最大の顧客はイギリスからソビエト連邦に移っており、そこではアッサム変種が好まれることに合わせて、ダージリンでも★アッサム変種の植え付けが増えていった。

1990年代には再び茶の生産方針の転換があった。すなわち、★ソ連の崩壊に伴いダージリンの主たる顧客が西ヨーロッパ諸国と日本に移り、また新たな茶園のマネージャーが★「バイオダイナミック農法」を持ち込んだのである。★1988年にはマカイバリ農園が茶園としてはインドで初めて有機栽培認証を受け、タムソン農園がそれに続いた。 マカイバリ農園はバイオダイナミックの認証についても最も早く、1993年に取得した。その後はアンブーシャ農園も認証を受けた。 ダージリンは他の紅茶生産地に対して生産量や価格面での優位性はなかった。これは地理的な制約や消費地から遠いこと、チャノキの成長の遅さ、機械化の困難さといった要因に由来する。そこで品質の高さに目が向けられた。 認証制度は優れた製品を示す指標になるだけでなく、認証に向けた活動により、土地の浸食や斜面の不安定化、地力の劣化といった雨の多い丘陵地で農薬や化学肥料に頼った農業を行った際に頻発する問題への対策にも一役買った。1994には収穫量は★1400万キログラムに達していたが、2010年代後半には★多くの茶園が有機栽培に転換したこともあり、年の収量は平均900万キログラムにまで減少した。 ダージリン・ティーの差別化を目指し、1983年にはダージリン茶協会が設立され、他国への宣伝を行うとともに、ロゴの権利を保護した。このロゴは女性の横顔と一芯二葉で摘まれた茶葉が描かれているが、様々な国で商標登録されるとともに、かつてのマドリッド協定により国際的な保護を受けた。2000年には紅茶局により輸出業者に対する新たな許可要件が制定されたが、これには★製品認証やブレンドの禁止が含まれており、許可を受けることで原産地証明書の発行を受けることができるようになった。 2004年には、ダージリン・ティーはインドで初めて地理的表示として登録され、世界貿易機関のTRIPS協定に基づく法的保護を受けるようになった。

 栽培環境:テロワールについて、、
  ※ダージリンの茶園

栽培と製茶が発展してきた歴史とも結びついているが、テロワール(栽培環境)はダージリン・ティーの個性を生み出す主要因である。 ダージリン・ティーはマーケティング上「★紅茶のシャンパン」とも呼ばれている。また、不当なブレンドや偽装表示と言った問題も抱えており、事実ダージリンでの★生産量の5倍ほどの「ダージリン・ティー」が取引されているとされる。 ネパールでは比較的近い特徴の紅茶が産出される。

 地理・気候に関して、ダージリン・ティーはダージリンおよびカリンポンで栽培されるが、この地域は★西でネパールに接し、東にブータン、北にシッキムが隣接している。 インド紅茶局はダージリン・ティーを「栽培・生産・加工・製品化までを、★インド・西ベンガル州の、カリンポン県の丘陵地の中では➊サダー郡、ダージリン県のなかでは➋クルセオン郡にある茶園で行ったもの」と定義している。 茶園は★標高300~2100メートルのヒマラヤ山脈東部の丘陵地に位置しており、平地に茶樹が植えられていることは稀である。 このようにダージリン・ヒマラヤ丘陵はベンガル湾とヒマラヤ山脈にはさまれている地理的特徴があるために、★6月から9月の夏季はモンスーン気候となり、★11月から2月の冬季は冷涼で乾燥した気候となる。このような気候条件では亜熱帯多雨林が発達するため、土壌は★弱酸性で有機物を含んだ★ローム質となる。 斜面のため排水がよく、斜面に定着するために根を張のに必要な深さの土壌がある。標高の高い丘陵地の斜面では、冷たく乾燥した空気と暖かく湿った空気がぶつかるため、生育期には恒常的に霧や雲が発生する。このような環境がもたらす排水性、弱酸性の土壌、休眠期の存在、直射日光が遮られることは、茶樹にとっては理想的な環境である。

 栽培について、
 ※ファーストフラッシュのダージリンの茶葉。そのままの状態(上)と淹れた後(下)。

茶樹のうち、もともと植えられていたものは中国由来の母変種であるが、★アッサム変種との交配によって作出された栽培品種が植えられることもある。 主な栽培品種には、Bannockburn 157、Phoobsering 312、Ambari Vegetative 2等があり栄養繁殖によって繁殖される。

季節により4つの収穫期に分かれるが、それぞれが特徴を持つ。 ★5~10日おきに手摘みで収穫され、先端の葉2枚と新芽を摘むのが一般的であるが、生育条件や仕上げる製品のタイプによっては★新芽だけ、あるいは新芽と先端の葉1枚だけを摘むこともある。

春、一般には3月から5月にかけて最初に収穫される茶は➊ファーストフラッシュと呼ばれる。➋セカンドフラッシュは5月から6月のヨコバイ類やハマキガ類の来襲の後に収穫されるが、これにより茶葉にマスカテルフレーバーと呼ばれる香りを与えられる。虫害により様々な化学物質が生成されるためである。ここに挙げた➊➋2つの旬は、愛好家の間で特に人気が高い。

6月から9月の➌モンスーンフラッシュでは、茶葉は大きいが香りは弱い。雨がちな気候のため、製茶時の萎凋と酸化がうまくいかないこともある。茶園によっては萎凋の工程が少なくて済み酸化が不要な緑茶や白茶をこの時期に生産することもある。紅茶の品質が揃いにくいのでブレンド用や国内消費向けにまわることが多い。雨季が終わると休眠期の前の最後の葉が成長するが、これは➍オータムナルと呼ばれる。収穫は10月から11月にかけて行われ、他の季節と比較して味わいや香が柔和である。

 製茶は、わずかな例外を除けばダージリンで生産されるのは紅茶である。 各茶園がそれぞれ製茶設備を備えているため、収穫したその日から製茶を始めることができる。茶葉はまず屋内の施設に運び込まれ、そこで★一昼夜以上の十分な送風乾燥が行われる。これにより、茶葉をそのままの形で揉捻したとしても、細胞が破壊されているため★酸化が始まるのである。 ダージリンでは他の紅茶と比べ★長時間かけて萎凋を行うことが多く、ファーストフラッシュでは特にその傾向が強い。 強く萎凋することで茶葉の水分の多くが失われるが、それにより★ポリフェノールオキシダーゼの活性を抑えられるため、茶に青々とした香りが残りやすい。 茶園によっては、一部の茶の★酸化を抑制することで「烏龍茶」を生産する場合もある。 揉捻の後、酸化発酵が行われ、完了し次第加熱乾燥により★水分量は約2%まで減らされる。 そして、消費者の手元で抽出されるまで水分に触れないよう密封される。 乾燥後の茶をグレードに応じて選別する作業はこの時点で完了しており、一部はコルカタに運ばれてオークションにかけられるが、多くの茶園では個別契約により販売を行っている。

 淹れ方と香り・味については、★150ミリリットル当たり2~3グラム(ティースプーン1杯分)の茶葉を用いる。 ダージリン・ティーは花や果実のような繊細な香りを堪能するために、★ミルクや甘味料は入れないことが一般的である。

ダージリン・ティーで最もよく知られる★マスカテルフレーバーは「麝香の香り」「マスカットのようなフルーティーな香り」などと表現される。 この香りは★セカンドフラッシュで顕著であり、オータムナルではそれほど明確ではない。 通常の紅茶の香り成分は★➊テアルビジンと➋テアフラビンであるが、化学的な分析によればダージリン・ティー特有のマスカテルフレーバーは➌3,7-ジメチルー1,5,7-オクタトリエン-3-オールおよび➍2,6-ジメチル-3,7-オクタジエン-2,6-ジオールによるものである。 その他の香り成分として、➎リナロール、➏ベンジルアルコール、➐青葉アルコール、➑α-ファルネセン、➒ベンジルニトリル、➓インドール、⓫ネロリドール、⓬オシメンなどが含まれる。

 茶園について、インド紅茶局は★87の茶園(tea estateないしはtea garden)をダージリン・ティーの生産者として認めている。それらの面積は総計で★17500ヘクタールにのぼる(東京ドーム3804個分;1個@4.6ヘクタール)。 この茶園以外では、少量の茶が農業組合により生産されるが、製茶や品質管理の観点では優れているとはいえない。 栽培面積は★インド全体の3%ほどであり、生産量でいえば10,000トン程度と約1%にすぎない。高品質な茶を算出する茶園としては、例えば以下が挙げられる。

    アリヤ
    アボングローブ
    バダンタム
    バラスン
    キャッスルトン

    グレンバーン
    ゴパルダラ
    ハッピーバレー
    ジュンパナ
    ロプチュー

    マカイバリ
    マーガレッツホープ
    ノーストゥクバー
    オカイティ
    フーセリン

    ピュグリ
    プッシンビン
    プッタボン
    タルボ
    セリンボン 

 ※ダージリンの茶園で茶摘みをする女性

 西ベンガル州土地収用法に基づき、茶園の存在する土地は西ベンガル州政府が所有しており、茶園の運営企業に30~90年のリースを行っている。 州政府は土地使用や労働協約など、多方面にわたる規制・管理も行っている。 インド茶協会傘下のダージリン茶協会は、茶園および輸出業者それぞれの労使が代表を務める業界団体であり、数多く存在する茶園の労働者が同じ待遇を得られるよう各々の労働組合と政府の間で共同的に交渉が行われている。

労働者の待遇は多面的である。 季節ごとに臨時労働者が流入することはあるが、正規労働者は茶園の敷地内に永住し、農園労働法(Plantations Labour Act)に従い、基本給に加え住居、教育、健康およびその他の福利厚生を茶園から受けられる。 これらの福利厚生が法的に定められていることもあり、国際フェアトレードラベル機構のようなフェアトレードに関する機関はフェアトレードによるプレミアムを農園の経営者に支払うことを認可している。これは労働者に直接支払われているわけではないものの、経営者はこの予算の使途をこれら福利厚生のコストに充てることが義務付けられている。ただし、研究の中にはこの取り組みが労働者の生計にとってはマイナスであることを示唆しているものもある。すなわち、★福利厚生に対する経営者自身の寄与をその分減らしてしまうからである。 社会的サービスをなくす代わりに給与をわずかに増やすというようなことが行われる懸念もあり、賃金交渉が複雑化する要因にもなっている。しかし、労働者は低賃金のため、給与が高い他の職業に移ることで★欠勤が頻発している。 歴史的に、茶園の労働力はネパールからやってくる低賃金労働者に依存してきた。結果的に、➊ダージリン、➋カリンポン、➌クルセオン地域の住人、あるいはその茶園で働く労働者は➍グルカ族で占められている。 彼らの間には★統一的な民族意識が芽生えており、それゆえ★西ベンガルの独立も提唱されている。 2017年の大規模ストライキ時のように、グルカランドの独立運動が茶園の運営に影響を与えることすらある。  (Wiki)

 

ーーーーーーーーーーー                 M2:【ウバ (紅茶;スリランカ) 】とは

 ウバ(Uva)は、スリランカの★ウバ州の高地で生産される高級茶であり、ダージリン、キーマンと並び、世界三大銘茶の一つに数えられる。 ★「セイロンティー(スリランカ産の紅茶)」において、★最も標高の高い地域で栽培される★「ハイグロウンティー」に区分され、中でも、★香りと風味がしっかりしたウバ茶はその代表格をなすものである。

 世界三大銘茶 > ウバ

種類  ;紅茶
起源  ;スリランカ ウバ州
説明  ;独特の爽やかな香りと適度なコク、キレのいい渋みが特徴。

 特徴として、➊適度な渋さを伴う➋深い味わいと、「★ウバ・フレーバー」と呼ばれる➌特徴的で鮮明な香気をもっている。

★バラの花にたとえられるほのかな香りの上に、★サリチル酸メチルのような➍爽やかな芳香を伴うものが代表的な上質種とされるが、➎スモーキーな香りをもつものもあり、またサリチル酸メチル香の有無・程度も様々であるなど、茶園と収穫時期さらには年度やロットによってもかなりの★違いがある。

サリチル酸メチルおよびメントール香という表現は2000年代中盤以降より発生しており、★それ以前はバラの香気という表現であったが、バラの香気とメントール香が同一かは疑わしい。

スリランカ産の紅茶の通例にしたがい、★細かくきざんだ茶葉形態(ブロークン等級)をしているものがほとんどであり、このことが、濃い味わいの紅茶の抽出をいっそう助けている。

➏水色は澄みながらも濃い深紅色であり、カップに注ぐと水面の淵が金色の輪のように映る場合があって、これが「★ゴールデンリング」と呼ばれるウバ茶の楽しみ方の一つになっている。

その特徴的な香りと渋みを含む強い味わいのために、★好みの分かれやすい紅茶である。 特にサリチル酸メチル香の強いものは苦手とする人もおり、紅茶の香りの比較を楽しむ人に向いているとも言える。 以上のような特徴があるため、ウバ茶を選ぶにあたっては、品名だけに頼らず、試飲による評価が欠かせないとされる。

上級種はストレートティーとして香りを楽しむことが多い。ウバ茶一般としては、➐ミルクとの相性が良く ミルクティーとして楽しまれる。

 収穫期として、ウバの茶葉の収穫は★一年中行われている。クオリティシーズンは★7月から9月頃。

 現在ウバを生産している茶園の一例。ここに挙がっている以外にも多数の茶園で生産が行われている。

    アイスレビー茶園
    アッタンピティア茶園
    グレンスプリン茶園
    ショウランズ茶園
    セント・ジェームズ茶園
    ディックウェラ茶園
    ディラアバ茶園
    デモダラ茶園
    ハイランズ茶園
    ハルダムラ茶園  (Wiki)

 

ーーーーーーーーー                     M3:【祁門紅茶(キーマンー;中国)】とは 

    祁門紅茶(キームンこうちゃ、きもんこうちゃ)は、中華人民共和国★安徽省(アンキー)祁門県でつくられる紅茶。 なお、周辺他県でつくられる紅茶は「安徽紅茶」(あんきこうちゃ)と呼ばれ明確に区分されている。日本では「キーマン」「キームン」「キーモン」などとよばれる。★中国十大銘茶のひとつ。

★「紅茶のブルゴーニュ酒」と称されることもある。 インドの「ダージリン」・スリランカの「ウヴァ」とならび世界三大銘茶の1つとされている。

中国茶 > 紅茶 > 祁門紅茶
中国茶 > 中国十大銘茶 > 祁門紅茶
世界三大銘茶 > 祁門紅茶
祁門紅茶 /Qimen Hao Ya.jpg
各種表記
繁体字: 祁門
簡体字: 祁门
拼音: Qímén
発音: チーメン
広東語発音: Kei4mun4 ケイムン
英文: Keemun [ˈki:mu:n]キームーン、[ˈki:mən]キーマン。

 特徴として、祁門紅茶の➊外観は★細く美しく整った条形の茶葉で、➋色沢は艶のある黒色、➌上級茶には黄金色のティップが混ざる。 ➍よく締まった茶葉は容易に開かずまたそのことが質の良いことの証明でもある。そのため➎蒸らし時間は5分又はそれ以上を要する。 ➏水色は鮮やかな赤。➐滋味は穏やかで柔らかくほのかな甘みがある、香味は➑蘭の花の香りを内蔵するといわれている。

また➒果物の香りや➓甘い糖蜜の香りをも漂わせる。 一部でいわれている★烟臭さが特徴というのは明らかな誤解である。 一般的にはできたばかりの★新茶よりも半年から1年ほど経過した方が味香りをさらに発揮させる。これは香気成分などが貯蔵により増加することと密接な関係があるとされている。

 歴史として、産地の祁門県は、その地理条件や気候などの自然環境が茶作りに適していることから、★千年以上前から質の高い茶の産地として有名であったことが★唐の時代の書物に記されている。 しかし紅茶が作られ始めたのは★1870年代の中期だとされ、創始者については➊余氏説・➋胡氏説・➌陳氏説など諸説があるが、現在地元の祁門県では★➋胡氏説が最も有力である。

    ➊余氏説 - 福建での官職を辞した黟県人の余昌愷(字は幹臣)は福建工夫紅茶が海外で人気になっていることをみて、その作り方に倣い建徳県と祁門県で紅茶製造を始め成功した。
    ➋胡氏説 - 地元の緑茶が売れ行き不振に陥り他の方法を模索していた祁門県人の胡元龍は、緑茶から紅茶作りへの転換を試み、各地を視察し当時最高の紅茶といわれていた寧紅(ねいこう)工夫の製茶師を大金で招き自宅に紅茶工場をつくり祁門紅茶の品質と名声を高めた。

このように祁門紅茶は福建工夫紅茶や寧紅工夫の影響をうけて創られたものだが、品質は★それらを上回り、★「後来居上」(コウライジョウ;後から来た者が先輩を追い抜くこと)★「後起之秀」(hòu qǐ zhī xiù ;優秀な新人という意味)などの四字熟語で形容され、出藍の誉れを讃えられた。 なお★紅茶の起源といわれる小種紅茶とは直接のつながりはない。

20世紀初頭には祁門紅茶の輸出量は3000トンを越えていた。 祁門紅茶の高い評価は世界中に広まり、1915年、パナマ運河開通を記念して開催された★サンフランシスコ万国博覧会で最高金賞を受賞した。「世界三大銘茶」(ダージリン・ウバ・祁門紅茶)と称されるようになるが、同時に複雑な製法を簡略化させた★香りの悪い粗悪紅茶も増えてしまった。祁門のことをスモーキーフレーバーなどと形容されてしまうことが多いのは、この粗悪品の流通の弊害である。

1950年「安徽省祁門製茶工場」が設立され、2005年に閉鎖されるまでの★55年間、最も高い品質のキームンを作り続けてきた。 また戦後では1987年ベルギーのブリュッセルで開催された世界食品コンクール(モンドセレクション)で最優秀金賞を受賞している。

 製茶と等級については祁門紅茶の製茶は★全17の精巧な工程を経て作られ厳密な等級選別がなされる。 製茶工程は次の★3段階に分けられる。

    1 原料茶葉の選別

        等級によって摘まれる時期、一芯一葉・一芯二葉などの生葉の比率が細かく定められていてこれにより品質の確保が保証される。

    2 初製工程

        萎凋→揉捻→発酵→乾燥の4工程。ロータバンなどの揉切機は使わない。荒茶を作る工程。
        この中の「発酵工程」は紅茶製造の核心的部分で、その実体は酵素の作用が促す★ポリフェノール化合物の酸化が主体である。 酸化により★テアフラビン (TF)と★テアルビジン (TR)を形成する。 更に酸化が進むと★褐色物質テアブラウニンに変化し★品質は劣化する。 ★TFとTRの含有量と両者の比率は紅茶の水色、香り、滋味に大きく影響し、紅茶品質に決定的な作用をもたらす。よって現場では発酵の「程度」に細心の注意を払う。
        その次の「乾燥工程」は普通★二回に分けて行う。
        一次乾燥は「★毛火」と言い、高温で速く乾燥することにより酵素の活性を破壊し発酵を止める。
        二次乾燥は「★足火」といい、「ゆるやかな火でゆっくり」行うことで茶葉の香りを十分に発揮させる。以上により荒茶が出来上がる。

    3 精製工程

        上記の初製工程で作り上げた荒茶をさらに精製し商品茶とする。
        大小・長短・太細・重軽などを➊分別する篩い工程を主とし、異物除去、水分除去、再火入れ、ブレンドなど★全13工程、品質を高め、一層の細分化と均等化が求められる。

以上の非常に細かく念入りな工程を経て商品茶として完成する。 このように時間と労力を十分にかけ丁寧に作る紅茶は一般に「工夫紅茶」と呼ばれ(工夫とは漢語で時間と手間をかける意味)★19世紀初頭から➊福建省・➋江西省・➌湖北省などで創られ始めた。

 祁門紅茶の等級は「祁紅正茶品質規格」と「祁紅荒茶品質規格」によって、各等級の外観・滋味・香気・水色などが細かく規定されている。 工夫紅茶の★高級3種、中級2種、低級2種の他、ブロークン、ファニング、ダスト、脚茶、梗茶、副茶などもそれぞれ等級が分けられる。 さらにその後、特級、超級、礼茶の規格が定められた。またこれ以外に「完整芽葉茶」と呼ばれる祁門毛峰や、地元の研究所が開発した紅香螺がある。以上が祁門県が認める正式な祁門紅茶の等級である。

 祁門の現況として、最高の祁門紅茶を作り続けてきた「安徽省祁門製茶工場」は2005年に閉鎖され、その後は中国国内の紅茶ブームに乗って外地(他県や他省)からの投資による茶工場経営が活発化し★多くの茶工場が乱立するようになる。 安徽省祁門製茶工場の設備と施設は浙江省の茶会社に買収されたが★人材は散逸した。同工場が閉鎖した2005年以降、祁門紅茶の★品質は年ごとに低下し逆に価格は上昇していく。 投資企業は★投入資金の早期回収を急ぐため、原料茶葉の質や製茶コストを落とし価格は逆に引き上げた。これが市場全体における価格の上昇と品質の低下を招く一因となったともいわれている。

特にこの数年来中国茶の泡沫経済は頂点に達し、「値段が高ければ高いほど売れる」状況で、それに伴い良質原料茶葉の奪い合い、★伝統的な祁門紅茶とは異なる異常な高額茶葉の出現、富裕層による値段のつり上げ、★目に見える品質の劣化などの事態に陥った。 上記の品質規格などはほぼ無視されるも同然になり、等級は★各茶工場が独自で定めるなど規律の乱れを引き起こしている。 現地の話ではこうした混乱状態や品質低下の問題などが、伝統ある祁門紅茶の信用と栄誉に深刻な打撃を与えていることに対しての強い危機感があり、早期の適正化が求められている。  (Wiki)

 

ーーーーーー                           M4:【アヘン戦争(中: 鴉片戰爭、第一次鴉片戰爭、英: First Opium War) とは 】

 清とイギリスの間で★1840年から2年間にわたり行われた戦争である。

 イギリスは、★インドで製造したアヘンを、清に輸出して巨額の利益を得ていた。 アヘン販売を禁止していた清は、アヘンの蔓延に対してその★全面禁輸を断行し、イギリス商人の保有するアヘンを没収・処分したため、反発したイギリスとの間で戦争となった。 イギリスの勝利に終わり、1842年に南京条約が締結され、イギリスへの香港の割譲他、清にとって★不平等条約となった。 なお、「アロー戦争」を第二次とみなして第一次アヘン戦争とも呼ばれる。

 戦争に至った経緯としては、もともと清は★1757年以来広東港でのみヨーロッパ諸国と交易を行い、公行という北京政府の特許を得た商人にしかヨーロッパ商人との交易を認めてこなかった(広東貿易制度)。

一方ヨーロッパ側で中国貿易の大半を握っているのはイギリス東インド会社であり、同社は現地に「管貨人委員会」(Select Committee of Supercargoes)という代表機関を設置していた。 しかし北京政府はヨーロッパとの★交易を一貫して「朝貢」と認識していたため、直接の貿易交渉には応じようとしなかった。そのため管貨人委員会さえも公行を通じて「稟」という請願書を広東地方当局に提出できるだけであった。

このような広東貿易制度は中国市場開拓を目指すイギリスにとっては★満足のいくものではなかった。 広東貿易制度の廃止、すなわち北京政府による貿易や居住の制限や北京政府の朝貢意識を是正することによって英中自由貿易を確立することが課題になっていった。

 イギリス東インド会社は1773年にベンガル阿片の専売権を獲得しており、ついで1797年にはその製造権も獲得しており、これ以降同社は中国への組織的な阿片売り込みを開始していた。 北京政府は阿片貿易を禁止していたが、★地方の中国人アヘン商人が官憲を買収して取り締まりを免れつつ密貿易に応じたため、阿片貿易は拡大していく一方だった。 1823年には阿片が★インド綿花に代わって中国向け輸出の最大の商品となり、収入の★20%が阿片になった。 広東貿易の枠外での阿片貿易の拡大は、広東貿易制度の崩壊につながることとなる。

イギリス東インド会社の対中国貿易特許は1834年に失効し、独占体制は終了して、これまで同社の下請等の形で貿易活動を行っていた★個人貿易商に委ねられることとなった。これに伴い、同年、イギリス政府は、東インド会社の管貨人委員会に代わって現地で自国商人の指導・監督を行う貿易監督官を派遣することとした。 初代監督官にはウィリアム・ジョン・ネイピアが任命され、ネイピアは清の両広総督との直接の接触を目指したが、性急な実現に固執したため紛争化し、武力衝突を招き、失敗した。

 アヘン貿易について、
※「三角貿易#イギリス、インド、清国の三角貿易」も参照

当時のイギリスは、➊茶、➋陶磁器、➌絹を大量に清から輸入していた。 一方、イギリスから清へ輸出されるものは➊時計や➋望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったものの、大量に輸出可能な製品が★存在しなかったため、イギリスの大幅な輸入超過であった。 イギリスは産業革命による資本蓄積やアメリカ独立戦争の★戦費確保のため、銀の国外流出を抑制する政策をとった。そのためイギリスは植民地のインドで栽培した麻薬であるアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺し、「三角貿易」を整えることとなった。

中国の★明代末期からアヘン吸引の習慣が広まり、清代の1796年(嘉慶元年)にアヘン輸入禁止となる。以降19世紀に入ってからも何度となく禁止令が発せられたが、アヘンの密輸入は止まず、国内産アヘンの取り締まりも効果がなかったので、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。 また、人口が18世紀以降急増したことに伴い、治安が低下し、自暴自棄の下層民が増えたこともそれを助長させた。アヘンの代金は銀で決済したことから、アヘンの輸入量増加により貿易収支が逆転、清国内の銀保有量が激減し後述のとおり銀の高騰を招いた。  (Wiki)

 

ーーーーーーー                          M5:【イギリス領インド帝国 とは 】 

 ★1858年にイギリスがインドに成立させたインド帝国(英語: British Raj)を指す。 1877年以降は★イギリスの君主がインド皇帝を兼ねる同君連合の形式が取られたが、事実上イギリスの植民地であった。 英領インド・英印とも呼ばれる。またイギリスによる統治を指してヒンディー語で「ब्रिटिश राज」(英語ではBritish Raj)と呼ぶ。

その領域はインド・パキスタン(後のバングラデシュを含む)のみならず、現在のミャンマーも版図とした。

 ※インド帝国の地方行政区画(1909年)

アジアにおいてイギリスは、➊1796年には現スリランカを併合、➋1814年から1816年の「グルカ戦争」によってネパールを保護国にした。また、➌1824年から3次に及んだイギリス・ビルマ戦争の結果、ビルマ(現・ミャンマー)を奪取し、➍1886年から1937年までイギリス領インド帝国の版図に組み込んでいた(イギリス領ビルマの独立は1948年)。 イギリス領インド帝国はカナダやオーストラリアといったイギリス帝国内の自治領とは異なり、名目上は独立国とされた。 第一次世界大戦および第二次世界大戦には連合国として参戦し、★国際連盟、国際連合ともに原加盟国である。

そして1858年、「インド大反乱(シパーヒーの乱)」の後、イギリスは★ムガル帝国の君主を廃し、イギリス東インド会社を解散させ、インドをイギリスの直轄植民地とした。 そのうえで、本国イギリスにはインド省が、現地には「副王(英語: viceroy)」の称号を持つイギリス人総督が置かれ、1877年にはイギリス国王(★当時はヴィクトリア女王)がインド皇帝を兼任するようになった。 国内は直轄州と大小552の藩王国にわかれており、軍隊(英印軍)も存在した。

★1923年、イギリスはネパールとの友好条約でその地位を保護国ではなく★独立国として認めた。 大戦後、★1947年にインドとパキスタンが分離独立し、解体した。

なお、セイロンはイギリス東インド会社のマドラス管区に編入されていた時期もあったが、インド帝国が存在していた期間は一貫してイギリス直轄植民地(イギリス領セイロン)であり、インド帝国には属していない。 (中略)

 イギリスを支えるインドの富

当時のインド経済は、イギリス東インド会社時代から引き続き、「富の流失」に直面していた。インド政庁は毎年、イギリス本国に対して莫大な経費を支払っており、インドで生み出された富がインドに投資されるという環境ではなかった。インドから流失した富は、イギリスに対してポンドで行われ、インドが銀本位制を採用していたこともあり、19世紀末の銀価格の下落は、結果的にインドによるイギリスへの支払額を増大させることとなった。 ★イギリスは常に、インドに対して輸出超過の状態を創出することにより、その貿易黒字でもって、インド以外の貿易で生まれた赤字を補填する形を採っていた。

 頻繁に発生した飢饉

少なくとも、帝国時代の★農業生産力は、著しく低下していたと考えられる。 その背景には、イギリスによる➊経済的搾取のみならず、➋在来の産業が衰退しながらも、これに➌代わる産業が発展することがなかったこと、➍農業の停滞を導いた農村の構造、農民への➎様々な階層からによる搾取が挙げられる。 このような搾取構造により、農民層が農産物を獲得する手段を持っていなかったことが、飢饉をより深刻なものとした。

代表的なものでは、地方レヴェルで発生した飢饉としては、1866年に発生した「オリッサ飢饉」、1869年の「ラージプーターナー飢饉」、1873年に発生した「ビハール飢饉」が有名であり、全国的な飢饉としては、★3回のインド大飢饉(1876–78、1896–1897、1899–1900 )が挙げられる。 1854年から1901年の間でのインド国内の死亡数は、★28,825,000人に上るという推計 があり、さらに、第二次世界大戦中の「ベンガル飢饉」では300万人が命を落とした。

 植民地経済の形成

19世紀の後半にはインド経済は世界経済の一角に完全に組み込まれた。しかし、主な産品は、➊綿、➋インディゴ、➌ジュート、➍コメ、➎採油用種子、➏茶といった一次産品が多く、これらの輸出用作物の国際価格の変動は大きかった。 綿は、南北戦争をはさむ前後20年間に★価格が3倍に上がったが、1900年までには★1/9まで下落した。 インディゴは合成染料に代用されるようになり輸出産品としての価値を失い、インド経済を支える一次産品はジュートと茶であった。

この時代のインド経済は輸出産品を生産する★農業に大きく依存しており、工業転換はほとんど進まなかった。また、★商品作物の生産のために、彼らが口にする穀物類は輸入に頼らざるを得なかった。 穀物の生産を伸ばすことができたのは★インダス川の灌漑が成功したパンジャーブ地方であった。 パンジャーブ地方では、★小麦、サトウキビ、トウモロコシの生産が伸び、海外向けのみならず、国内向けにも生産するようになった。
  ※ヴィクトリア・ターミナス駅(ムンバイ)

イギリス東インド会社時代から続いていた鉄道の建設は引き続きインド国内で実施された。 19世紀末におけるインドの★鉄道総延長距離は世界で第5位になっており、商品作物の生産地と輸出港を結んだ。 1887年に建設されたヴィクトリア・ターミナス駅(現名称チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅)がロンドン、メルボルンのヴィクトリア駅と同様の建築様式で建設されたことは、当時のインドがイギリス帝国の中心であったことの証である。 加えて、インドにおける鉄道網の整備によって、徐々にではあるが工業化の媒介となった。ゾロアスター教徒(パールシー)であった★ジャムシェトジー・タタは、★1877年にナーグプルに紡績工場を建設し、その後、ムンバイやアフマダーバードにも紡績工場を建設した。また、1907年にはビハールに、タタ・スチールを創業し、現在のタタ・グループの原型が形成されたのもこの時代である。同様に、ラージャスターンのマールワールで商業活動を展開していた★ビルラ家も第一次世界大戦中に繊維工業、鉄鋼業に進出し成功を収めていった。

イギリス領インド帝国は「★イギリス国王の王冠にはめ込まれた最大の宝石」とも表現された。1900年、カーゾン提督は、以下のように述べることでインドの重要性を訴えた。

    "我々は、インド以外の全ての植民地を失っても生き延びることができるだろう。しかし、インドを失えば、我々の太陽は没するであろう[38]"

 印僑の登場

インドからイギリスのインド以外への植民地に労働力人口が移動したのもこの時代である。彼らのことを印僑と呼ぶ。イギリスの植民地の中で、特に★熱帯地域へ人口の移動が促進された。 移住先として選ばれたのは、サトウキビ生産が活発だった➊西インド諸島(ジャマイカやトリニダード島)、錫生産や天然ゴムのプランテーションが発達した➋イギリス領マラヤ、あるいは➌ケニアやザンジバルといった東アフリカ、南アフリカやモーリシャスといったインド洋沿岸地域、➍フィジーなどの太平洋地域にも人口の移動が促進された。

その中で、東アフリカ貿易ルートで活躍したイスマーイール派の★アーガー・ハーン一族やビルマとセイロン島で商業作物の開発に投資した★ナットゥコッタイ・チェッティヤールのように商業活動で成功した人々も登場した。 また、移住先でのインド人が人種差別で苦境に立たされていることを世論に喚起した★マハトマ・ガンディーが登場した。

インド人の移動は、何も植民地に限定されていたわけではない。➎イギリス本国に留学しそのまま、現地にとどまった者も多い。 ロンドンで弁護士業を開業し、その後、帰国した人物の中では、後のパキスタン建国の父である★ムハンマド・アリー・ジンナーがいる。  (Wiki)

 

ーーー                             初版20230716 やぶ入り・ぼん送り火・えんま詣り 国土交通DAY←カレンダーにいっぱい書いてあった三連休中日。 今日も東京は蒸し暑い曇天、、   

ー時節項追記前日深夜未明迄 ※15土の内容が中心    ①秋田 車が冠水で 立ち往生 22:07    ▷東ー西日本 16日から危険な暑さ 19:50    ▷大雨 秋田県で河川の氾濫 相次ぐ 19:33       ▷東北 16日にかけ大雨続く 警戒を17:40    ▷秋田能代など 安全緊急確保 16:24    ▷秋田市 住宅に土砂崩れ 4人搬送 14:41       ➊欧州 熱波でアテネ・アクロポリス閉鎖 クロアチアでは山火事    ▶今年最強ハリケーン「カルビン」 ハワイ直撃コースか         ②政府 FTA交渉再開 湾岸6カ国と    ▷処理水巡り 日中関係改善に 暗雲        ➋スーダン衝突 3カ月 収集見通せず    ▶腹いせで 家に乱射 露軍の戦争犯罪       ③       ➌TPP 英加盟 正式決定  > 呼称替えるべきでは?    ▶爆買い 再び 円安で ~大阪ミナミ    ▶半導体で 重要特許 中国企業    ▶トルコ・リラ 急落 中央銀が「金」売り  > 個人買い盛んとも      ④       ⑤       ➎ウィンブルドン ジョコ 5連覇大手  > 4大大会35度目の決勝進出は男女を通じて最多、、      ⑥富士急コースター 停止 地上60mで    ▷シャインマスカット 実付かず 悲鳴    ▷札幌市清田 虫捕り中小学生たちが林道で クマに遭遇       ⑦       ➐米国版徳川埋蔵金 トウモロコシ畑で古金貨 700枚10万ドル見つかる  > 南北戦争時代のものどぇ1840-63年頃製造だとか、、      ⑧ゲーム文化の礎 ファミコン 40周年    ▷冷蔵庫、うっうかりで電気代UP 5つのこと  > 上に物、壁にくっつけて設置は放熱できなくなる、直射日光や高室温、長時間の扉開放、冷風吹き出し口に物、温度設定を1年中変えない…の5つとの事、、      ⑨神・ミエセス 岡田監督アドに感謝「頭と体連動していない」  > 頭を空にして打席に立て、とも。確かに、、真面目過ぎの気配がある    ▷高校野球 波乱 各地で強豪初戦で敗れる  > 智辯和歌山22年振り初戦で、岡山・創志社も    ▷高校野球 応援で「チア男子」 増加    ▷高校野球で大混乱 打順間違えで35分中断「レアケース生じた」~千葉・木更津総合vs市川東戦で  > 下手に処理すると後々云われるでしょうからね、、   🔴昨日15土のNPB結果 《C》広2-1De▷大瀬良・今永 先発   巨1-3ヤ 中6-4神▷才木・高橋宏斗 先発   《P》オ3-2ソ▷山本・有原 先発   ハ0-1西 楽7-9ロ       ➒ダル 復活の 6勝目    ▶大谷「ガックリ」 5失点5敗目、首傾げ降板    ▶藤浪 クローザー登板も 打たれる    🔴昨日のMLB結果 《A》Ga4-12 Ray[中止]Roy Ast7-5A▶大谷2番投5回94球5安打7K3四1死5失点 敗戦 通算7勝5敗 防3.50  5-2 .303    Tw5-4Ath▶前田3回80球4安打6K4四3失点 付かず 通算2勝5敗 防5.50 ▶藤浪7番手8回1/3から 27球2安打3K2失点 負け 通算5勝8敗 防9.06   T5-4Mna   《N》Pad8-3F▶ダル6回96球 5安打9K2四1失点 勝ち 通算6勝6敗 防4.65   G6-4P D6-0Met Bry1-0Red Nat0-1Kaj▶ヌート3レフト 1-1 1打点1本塁打 .262   《I》Maa2-5Ori DB2-7BJ WS8-3Cub▶吉田2指名 5-2 .317 ▶鈴木4ライト 4-0 .255   NY2-7Roc       ⑩

ー                             (画像・1) ウヴァ茶 /マカイパリジャパン 

 

(画像・2) ダージリン /ルピシア 

 

(画像・3) 祁門紅茶 /Amazon

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