【岡潔・魔法の森】1情緒の哲学
今回は岡潔氏の情緒について考えたい。帯金充利著『天上の歌・岡潔の生涯』の一章「情緒の教育」の中で、後年の岡氏が少年期を振り返ったとき『お伽花籠』というおとぎ話集の中に入っていた「魔法の森」という物語に〃なつかしさ〃という情緒を教えられたと言っている箇所があります。岡氏が言っている〃〃情緒とは何かを探るうえで、この重要な作品である「魔法の森」を、実は私も岡氏の著作から、この物語を読んで非常な感銘をうけた経験が、帯金氏と同じようにありましたので紹介したい。
森のこなたに小さな村があって、姉と弟が住んでいた。父はすでになく、たった一人の母もいま息を引き取った。おとむらいがすむと、だれもかまってくれない。姉弟は仕方なく、森を越えると別のよい村があるかもしれないと思ってどんどん入っていった。これこそ人も恐れる魔法の森であることも知らずに。
ところが、行けども行けどもはてしがない。そのうち木がまばらになって、ヤマイチゴのいちめんに実をつけている所へ出た。もうだいぶおなかのすいていた姉弟は喜んでそれをつんだ。ところが、この天然のイチゴの畑に一本の細い木があって、その枝にきれいな鳥がとまっていた。姉弟がイチゴを食べようとするのを見て「一つイチゴは一年わーすれる、一つイチゴは一年わーすれる」とよく澄んだ声で鳴いた。姉はそれを聞いてイチゴを捨て、食べようとしている弟を急いで引きとめた。しかし弟はどうしても聞かないで、大きな実を十三も食べてしまった。
それで元気になった弟は、森ももうすぐ終わりになるだろう、ぼくがひと走り行って見てくるから姉さんはここで待っていてほしいというや否や走り出して、そのまま姿が見えなくなってしまった。いくら待っても帰って来ない。そのうちに日はだんだん暮れてくる。この森の中で一晩明かすと魔法にかけられて木にされてしまうので、小鳥も心配して、さっきからしきりに「こっちこい、こっちこい、こっち、こっち」と鳴き続けているのだが、姉は、「いえ、ここにいないと、弟が帰って来たとき、私がわからないから」といって、どうしてもその親切な澄んだ声の忠告に従わない。
一方、弟の方は、間もなく森を抜ける。出たところは豊かな村で、そこの名主にちょうど子がなく、さっそく引き取られて大切に育てられた。ところがそれから八年過ぎ、だんだん十三という年の数に近づくにつれて、何だかこころが落ち着かなくなっていった。何か大切なものを忘れているような気がして、どうしてもじっとしていられず、とうとう十一年目に意を決して義父母にわけを話し、しばらく暇を乞うて旅に出た。
それからどこをどう旅したろう。ある日ふと森を見つけ、何だか来たことのあるような所だと思ってしばらく行くと、イチゴ畑に出た。この時がちょど十三年目に当たっていたため、いっぺんにすべてを思い出し、姉が待っていたはずだと気がついて急いで探す。すると、あのとき姉の立っていた所に一本の弱々しい木が生えている。弟は、これが姉の変わり果てた姿だと悟って、その木につかまって思わずはらはらと涙を落とした。
ところが、そうするとふしぎに魔法がとけた。姉は元の姿に戻り、姉弟は手を取り合ってうれし泣きに泣く。小鳥がまた飛んで来て「こっち、こっち」と澄んだ声でうれしそうに鳴く。こんどは二人ともいそいそとその後についていって森を出る。義父母も夢かと喜び、その家で姉弟幸福に暮らす。
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※典比古
いかがでしょうか。この話の中で弟が、十三年目が近づくにつれて「何だか大切なものを忘れているような気がして・・・」
というのが、「なつかしさ」という情緒だと岡氏は言うのだ。なにかほのぼのわかるような気がしませんか。
3月3日に続きの記事を書きます。
さて今日は岡潔さんと小林秀雄さんの命日です!
※典比古 ホームページ『癒しの和歌山』に詳しく紹介されています。
(お墓のお写真をお借りいたしました。)
今年こそは、岡先生のお墓に詣でたいと思っています.。

いいお墓「ホームページ」より小林秀雄の墓
岡潔著『春の草』(日本経済新聞社・昭和41年10月)より
