【岡潔の思想】302「1969年の質疑応答」
【岡の嘆き】
(質問) 先生は今までの長い人生の中で一番自分の弱さというものを感じたことがおありですか。
(岡) ありません。私は日本が滅びなければ良い!それ以外なにも考えてやしない。弱さも強さもない! 大体、「自分の」ってものがない!
(質問) 今までに一番強く感じたことというのは。
(岡) ありません。この、日本は心配だって書くんです、本にね。そうすると心暖ったまる思いっちゅうような手紙をもらうと、そりゃあ無力だなあと思いますよ。思いますけど仕様ない、それでもやっぱり日本は心配だと書かなきゃ。そしたら心暖ったまる思いっちゅう手紙もらう。それしかし、仕様ないじゃないですか。
(質問) 特にお聞きしたいのは、先生の私達くらいの年代の時に、人生というものをどのようにお考えになって今まで歩んでいらっしゃったか・・・
(岡) えーと、高校のどれくらい。(笑) 大学ですか。
(質問) 24です。(笑)
(岡) 僕はその頃、まだ数学の研究のことばかり考えてたでしょう。どうにか自分にもできそうだと思って、数学へ変わったのが大学2年だから。いやあ、フランスへ洋行しようと思って、数え年29の時、シンガポールへ行ってひどく懐かしかった。それで数学の研究なんていうのは、そんなに第一義的に取るべきものではないんだと初めてわかったんです。あなた方の頃はまだ数学の研究ばかり考えてたでしょう。
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横山賢二さんの解説です。
🔶岡潔講演録(17):【23】岡の嘆き (okakiyoshi-ken.jp)
※典比古
岡さんの人生の転機となった最初は、フランス留学の途次、シンガポールに寄港されたときの強烈な体験にあったのだと思っています。
以前にもこのブログにこのように書きました。「今、手元にございます岡先生の著書『曙』(昭和44年6月16日・講談社)の「まえがき1」に次のように記されておられます。
「一九二九年の晩春、数え年二十九の私は、フランスに渡ろうとして、シンガポールの渚に一人立っていた。その時私は、突然強烈極まりない懐かしさの情緒に襲われて、初めて日本民族は、人が知らないだけで、『常住にして変易なき』ことを知った。それから四十年になる。」と・・・
「実にこの体験が、日本民族の「越し方行く末」を思う契機となったに違いありません。この体験こそが、爾来、岡先生の脳裡を離れることなく、「日本民族」をもっとよく知ろうという探求心になり、そこから「芭蕉」、「道元」と続き先生独特の思想が醸成されたのでした。」と。
注 典)今でもこの考え方は変わりません。
横山さんは「岡の専門の「数学」への本音がここでは語られている。既に29才の時シンガポールの浜辺で「日本民族は常住にして変易なし」という天啓を受け、「数学は第1義的に取るべきではない」と悟ったという岡の晩年の証言である。
岡は実際60才の中場まで数学の論文を発表してきていたのだが、その心理の背後にはこういう思惑が隠されていたのであって、70才台に入ってその確信はより鮮明となり、「今や滅亡寸前の人類は、数学をやっている暇はない!」という発言にまで発展するのである。」と。
郵便局に入りましたら、なにかの景品でしょうか。 撮影 典比古