亡き父のことを思うと必ず延命治療の患者たちを思い出します。父が入院した時から延命治療患者は全く意識はなく衰弱や病気などで生命の維持が難しい、回復ではなく「延命」を目的に治療することです。呼吸のサポートをしたり、栄養や薬などを投与したりすることで生存時間を延ばします。2か月後父は自然死で亡くなり自宅に帰る時にも延命治療患者は入院時の時のままでした。
死を自然なこととして捉えない家族や医療者によって、欲していないのに無理に食べさせられたり、望まない治療のために身体を拘束されたりすることがあります。「頼むからもう放っておいてくれ!」人が死ねない社会の日本で悲痛な叫びが聴こえてきます。望まない延命治療はもはや虐待なのではないでしょうか。
欧米豪では高齢者の終末期には緩和医療だけを行い、点滴や経管栄養は行いません。口から食べたり飲んだり出来なくなったら、そのまま自然に亡くなるので、「寝たきり老人」はいません。
父がそうであったように点滴や経管栄養をしない看取りは、苦しくありません。枯木が音もなく倒れるような、穏やかな最期を迎えた方の周りには、温かな笑顔があふれます。父は最後に苦しくないよ、苦しくないと笑顔で家族に最後の別れを告げました。
わたしは父に死に方を教わったと思っています。
延命治療は保険適用ですし、患者の家族は年金を受け取ります。病院側も儲かります。そのツケは国民の高額医療費を直撃しています。
