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東北福祉大学(仙台)から石母田の静かな生活を守ろう

http://blogs.yahoo.co.jp/noiselimit07のミラーサイト

東北福祉大学と住民との「和解」成立

2008年06月10日 | Weblog
 さる平成20年5月28日、仙台地方裁判所における第三回審尋において、東北福祉大学と住民とのあいだで「和解」が成立しました。
 和解調書は、「被害者を救う会」のブログ(http://blog.goo.ne.jp/sukuukaijimu)に公開されています。
 この「和解」が「コンプライアンス」の精神に則り、誠実に履行されることを、今後とも見守っていきます。

「盗まれた」静けさ――東北福祉大学への盗難届

2008年03月29日 | Weblog
 「毎晩深夜12時過ぎ、終電がおわるまで学生の嬌声や女子学生のカンカンよく響く靴音で眠られない毎日が続いていますね」、という声は朝の挨拶になっている。高齢者や専業主婦の多い沿道住民の健康被害は深刻だ!! もはや我慢の限界を超えている。

 昨年、3月18日、東北福祉大学前駅が開業して以来、私たちは、こうした状態を改善し、「静かな生活を返すように」東北福祉大学に対して、いったいどれくらいの時間と労力をかけて訴え続けてきたことだろうか。

 しかし、このブログにこの半年、報告してきたように学校側は、沿道住民の安心できる静かな生活の回復のために、実効性のある手立てをほとんど講じていない。人間愛のかけれも感じられない。その証拠に、被害者をこうした苦しみのどん底に突き落としておいて、謝罪の言葉すらない。

 学生に対して「住民の静かな生活を乱さないように」という指導はまったくなされていない。指導をしていますといってもダメである。何の成果も上がっていないわけだから、していないのと選ぶところがない。

 ステーションキャンパスの建物の目立つところに依然として、私道通行掲示がなされており、ある人が「これだけ騒音等の被害が深刻なのに、住民感情を逆なでするにもほどがある」とひどく怒っていたが、まったく同感だ。

 「通行止め」の看板(http://blogs.yahoo.co.jp/hukushidai07に掲載されている)を設置したら、少なくとも自校の学生くらいには守らせるべきであるのに、誰もが無視して過ぎていく。「自分が気に入らない規則は、守らなくていい」。そうした社会教育を実践しているということだろうか。そのような理解しがい学校であってみれば、ポスターだって「貼っているだけです」、と答えるのだろうか。異常な光景だ。

 人事担当者の立場で考えるなら、このような身勝手な教育の洗礼を受けてきた学校の卒業生は、一切採用しない、だろう。またしたくない。学校は、自分のことではなく、自校の学生の将来の進路を真剣に考えるべきではないか。ことの重大性に気づかなければならない。

 少なくとも駅(東北福祉大が費用負担をして作ってもらった請願駅)には、警備員を24時間常駐させるべきである。しっかりした環境管理をする責任がある。それが福祉、防災を売り文句にする東北福祉大学の責任ではないか。派手にマスコミを賑わす金力があるのだから、貧乏で無力な私たち弱者の生活が守れないはずがない。誇大広告ではなく、日常の地道な活動こそ評価されるのである。


 「東北福祉大学被害者を救う会」(http://blog.goo.ne.jp/sukuukaijimu)の今後の活動を支援し、「盗まれた」静かで安心できる生活を取り返すべく、東北福祉大学にその返還を強く要求していく。

涅槃会に寄せて

2008年02月15日 | Weblog
 「願わくば 花のもとにて 春死なん その如月の望月のころ」
これはあまりにも有名な歌です。作者は平安時代の歌人、西行。

 如月の望月の頃といえば、陰暦の2月15日で、釈迦入滅の日と重なります。春、桜の花の下で静かに生涯を閉じたいという西行の切なる願いがこめられた歌でしょう。釈迦の涅槃、極楽のイメージとも見える花、そしてそこへおのれ自身の死を二重写しにしたものです。浄土への憧憬の念が切々と伝わってきます。

 古来釈迦の死を描いた「涅槃図」は仏画として数多く描かれてきました。80歳になった釈迦が、旅の途中に倒れ、死の床についたとき、四方から弟子たちがはせ参じ、その枕べに集うありさまは感動的です。仏教から遠い生活をしているものでも心揺さぶられる光景です。現代のように病院で管を刺され、スパゲッティ状態で亡くなる姿と比べれば、その気持ちはひとしおです。

 皆に看取られて死ぬ釈迦とは対照的な最期を迎えたのがキリストです。
十字架にかけられたキリストは死の間際、「マタイの福音書」によれば、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)という呪いにもにた絶望の言葉を吐きます。人の罪をわが身一身に背負って磔刑に処せられたとはいえ、その最期は悲惨です。

 ここで仏教とキリスト教を比較してどうこういうつもりはまったくありません。ただ釈迦とキリストの死の瞬間に立ち会ったなら素朴な気持ちとしては、釈迦のような死を迎えることを願わざるを得ません。

 キリスト教は、だから、出発点からしてキリストは罪人として処刑されたのではない、という自分たちが目にした現実を否定することから出発しなければならないわけです。ヨーロッパの思想に理想主義が生まれるゆえんです。

 それにたいして仏教は、釈迦の死から受ける慈悲の心から出発するわけです。

 そうだとしますと、現在、私たちに騒音等でたいへんな苦しみを与え、被害者の声にいっこうに耳を傾けようとしない東北福祉大学とは、いったい何だろうか、という疑念がやはりわき上がってきます。この学校は、HPにも掲げているように仏教の精神を基本にすえているというからです。仏教とは慈悲の心であり、その精神を伝える菩薩の心がその中心にあるのです。
 
 ですから、いやしくも仏教を奉じる学校が周辺住民に苦しみを与えるなどは、だれが見ても、正気の沙汰とは思えません。ましてや、このありさまをお釈迦様がご覧になったら、なんといわれるでしょうか?


 この学校の高僧といわれる方から、そのあたりの講釈をとくとうかがってみたいものです。

 涅槃会に寄せて、東北福祉大学に対し、自校の被害者救済に真剣に取り組むよう強く要求します!!

 

「騒音爆撃」――東北福祉大学は地域の弱者の声を無視するな!!

2008年02月11日 | Weblog
 静かであるはずの、夜中。電車が駅に着く時刻が近づくと、今晩も、大声で談笑しながら騒いで歩いていく若い学生の一団が断続的に私道を降りたり登ったりしています。

 夜中まで「騒音爆弾」を投下し続けるというのは、学校が無策であることの何よりの証拠です。
言い訳は許されません。

 この無神経さはいったい何ですか。騒音に苦しんでいる弱者がいることは、すでに周知されてて久しいのです。にもかかわらず、無神経な行為を続けるということは、故意にしているということですか。

 静かに休んでいる他人のことなど気にもとめない、自分の利益になる「福祉」以外は、くそ食らえ、と本当はそう思っている、と学生さん自身が疑われてもしかたありません。無神経なおしゃべりやかんかん靴音を立ててこれ見よがしに歩行することで、自分たち自身が告白していることに早く気づいてください。学校の無神経さを習っているのかもしれませんが、それは恥ずかしいことです。
 3歳児ならいざしらず、大学生はもう立派な大人なのですから。

 学生は授業料を学校に納めているのだから、社会人として巣立っていく学生に対するサービスの一環として、生活指導をしてあげなさい。福祉とは、特別なことではない、日常の振る舞いの中にあることを指導すべきです。貴校の教職員では無理なら、外部から人を導入したらいいのです。


 税金も投入され資金が潤沢なはずですから、学校は、素行を指導し、注意する警備員を常駐させることを本気で考えるときが来ているようです。それを強く求めます。
 
 学校は、私道と駅の境に立派な門を2008年1月、設置しました。閉じられることなく開けてありますが、あれはまさしく東北福祉大学の騒音被害に対する姿勢を端的にあらわすものです。建造するものは立派だが、そこには被害者に対する優しさのかけらもない。駅が開設して9ヶ月もたって、いまさら何のために設置したのかわからない門(しかも開け放たれ用をなさない)などより、警備員をちゃんと配置して、被害者に現実的な対応をして欲しい。

 「門を閉じれば静かになるよ」と言って、それをしない。これでは「生殺し」と同じで、被害者感情を逆撫でして楽しんでいるかに見えます。私たち貧乏な凡人には、その無情な仕打ちは理解を超えています。

 曹洞宗にも人の道はしっかりあるはずです。人に対する優しさ、人に迷惑をかけないこと、それくらいは、せめて教えてあげるべきではないですか。

 地域の弱者に対してまるで鬼のような恐ろしげなふるまいを、いつまで続けるのでしょうか。

 今晩も強く抗議しておきます。

 大声で眠れなくなりブログを書いています。

東北福祉大学への抗議

2008年02月07日 | Weblog
 今朝はよく晴れています。陽光も明るく、立春を過ぎた仙台は、日差しだけは春の足音を感じさせます。

 春の足音なら、心も弾むのだが、カツンカツンという靴音や大きな笑い声では、逆です。頭がずきんずきんとしてきて、気持ちの傷に塩を塗り込められているようです。

 昨晩もそうだが、今朝も8時台から多数の学生を断続的に私道に流し込んでいます。
学生に対する社会教育を放棄するのが学校の方針であれば、好きにすればいいでしょうが、苦しんでいる人間にさらなら苦しみを与えるのは、いったいどういうつもりなのですか。これは、現場の方の声をうかがってみたいものです。

 自分の権利を踏みにじられる私たち弱者は、福祉大からすれば虫けらかもしれませんが、その迷惑行為に対しては強く抗議し続けます。

Breaking news--「東北福祉大学被害者を救う会」設立のお知らせ

2008年02月04日 | Weblog

 2008年2月4日、東北福祉大学による騒音等で苦しみ続けている被害者を支援すべく、「東北福祉大学被害者を救う会」(以降「救う会」)が設立されました。


 通学路として公道があるにもかかわらず、単に至便であるというだけで私道に大量の学生を誘導してきた行いに、私たちは抗議します。
 
 福祉とは利便性を追求することとは、本来相反するものです。

 詳しくは、http://blogs.yahoo.co.jp/hukushidai07/14568766.htmlをご覧ください。


皆様のご支援をお願い申し上げます。


東北福祉大学は、謝罪と自力更生の誓いをHPで

2008年01月24日 | Weblog

 昨年、4月以来深刻な東北福祉大学による騒音被害をうけてきたことは、すでに周知されているとおりです。

 しかるに、学校は現在に至るまで、ただの一度も謝罪を行っていません。このブログで、いちいち迷惑行為を糺してきましたが、それに対しても、教育機関としての道義的、社会的責任に対する、なんらの誠意ある意見表明もうかがっておりません。

 学校が、このまま私道を大学のキャンパス道路であるかのように使用を続け、これを常態化するかのような行為は断じて容認できません。

 以前にブログでも書きましたが、東北福祉大学のホームページに私道における迷惑行為が存在し、関係住民に物心両面で想像を超えた苦痛を味あわせてしまった事実を正直に告知し、謝罪した上で、ただちに私道の通学路使用(キャンパス間移動も含む)を全面的に中止し、そう行動した旨の告知文を掲載されるように要求します。

 東北福祉大学が教育機関として、福祉教育のリーダ的存在として、社会に貢献しようという意志と責任の心が、微かにでも残っていることを期待します。

 

 


東北福祉大学が教える、ゆがめられた「清貧の」思想

2008年01月20日 | Weblog

  私立大学といえども、国から私学助成金が交付されている以上、私たちの税金で運営されているわけです。ですから交付を受けている大学が、それにふさわしい社会的活動をしているのかどうか、国民はしっかり観察する義務があります。

 一般論はさておき、問題の東北福祉大学が自分の大学の名前を冠した新駅開設にともなって支出した金額を福祉大の「平成18年度事業報告書」(http://www.tfu.ac.jp/outline/pdf/b_report_h18.pdf)から拾ってみると、1、167、660千円「東北福祉大前駅ステーションキャンパス棟」建設事業には、2、631 百万円(予算額)が投じられてことが記されています(ちなみに私学助成金ははっきりわかるだけでも、5億円は越えているようです)。

 さて、新駅に併設する形でステーションキャンパスを新設していますが、それでは肝心の通学路(本校とのキャンパス間移動にも使用)はどうかというと、この報告書を見るかぎり、そうした支出項目は見あたりません。

 そう言うと、知らない方は、「通学路は公道なのだろうから、計上されていないのはあたりませじゃないか」、と怪訝な顔をされることでしょう。

 誰しもがそう思います。しかし現実が、いかにかけ離れているかはこのブログおよびhttp://blogs.yahoo.co.jp/hukushidai07等々に示されているとおりです。

 つまり、大学は通学路としては、くり返して書きますが、「他人」の共有地である私道を、事前に何の説明も了解も得ることなく、無断で力任せに使っている、というのが実態なのです。

 無断使用だけでもどうかと思いますが、深刻なのは、大量の学生を通学させることで、私道の沿道住民にたいする騒音、ゴミの投棄、私道アスファルトの損傷等々、計り知れない妨害行為および迷惑行為を一貫して続けていることです。

 駅開設と新校舎建設に福祉大の資料を素人なりに見ると、あわせて38億円あまりもの巨費を投じていることになります。これだけの費用を用意できるなら、じぶんの学生の通学路は、駅から本校まで専用のトンネルでも開通させることが可能ではないか、と考えます。

 私たちは、建設的なあらたな提案として、新駅から本校まで通学トンネルの建設を主張します。

 自分の駅(JR側にも糾す必要がありますが)と校舎には、巨費を惜しげもなく投じるのに、通学路には支出を惜しみ、高齢者や介護を必要とする社会的弱者の生活道路を勝手に自分たちで、びた一文払わないで有無をいわさず占有する。

 力ずくでできるそうなら、「ごまかしてしまえ。どうせみんなバカで無力なのだから。はむかうやつがいたら、脅かしてやれ。すぐに黙るよ」。

 これが、東北福祉大学の教える「清貧の」思想なのですか?

 あなたの学生にも社会に出たら、こうしなさいと無言で範を示しているのですか?


「俺のものは俺のもの、君のものも俺のもの」?―東北福祉大学

2008年01月19日 | Weblog
狭い雪道を学生たちが滑るためよろけながら歩いていく。危ない!!

 このブログで一貫して述べているように、この私道を東北福祉大学が勝手に通学路にするような行為は断じて許されない。それはわかりやすく言えばこういうことだろう。

 私が切符を買ってバスに乗ったとしよう。満席で座るところがなかった。切符を買った以上座るべきだと考え、一番弱そうな老人につかみかかり、有無をいわせず席から引きずり降ろして、かわりに私が腰掛けたとしよう。これは褒められた行為だろうか。答は幼稚園児でもわかるはずだ。

 いま東北福祉大学がこの石母田の私道で行っていることはまったくこれと同じことなのだ。他人の権利などどうでもいい、いやそれどころか驚いたことに、自分の学生の安全だって本当は気にかけていない。この雪道での対応ではっきりした。

 東北福祉大学が自分たちが掲げている看板に冬期間閉鎖(駅へ通じる門を閉鎖すること)とはっきり書きながら、開けっ放しにしている。学校関係者の言い分はこうだろうか。
「一応注意していますから。あとは自己責任で」。「ばかやろう、そんなことで教育ができるのか。それが責任ある教育といえるのか」。

 こちらが正義感と使命感から、いきりたちそういうと、「いいえ、教育のことは言わないでくれ」という答が返ってきそうだ。

 もとを正せば、駅に通じる道を相談もなく勝手に作ってしまったことに重大な違反行為があるわけだが、学校の勝手で開け閉めがそもそもできるものではない。私は道義的な立場にたってものをいうが、他人の土地(私道)を勝手に通ってもいいなどというのは、日常生活の中で考えられないだろう。

 冗談でよく「俺のものは俺のもの、君のものも俺のもの」といってじゃれていることはある。福祉大もじゃれているのか? 他人のものと自分のもの、共有しているものなら相手のことを尊重する、こんなことは家庭教育のイロハだが、まあ、幼稚園での教育だ。

 まさか、この自他の区別が曖昧な人たちが、東北福祉大学の進路を決定しているわけではあるまい。愚者のふりをするのは、もうそろそろ止めにしてはどうか。

 


「わが辞書に慈愛なし」?―東北福祉大学

2008年01月19日 | Weblog
 仏教にいう道徳に、六波羅蜜(ろくはらみつ)というのがある。正しい生活を送るために訓練して会得する心のあり方のことであろうか。
 
 六波羅蜜の一つに、忍辱(にんにく)というのがある。その意味は辱めに耐えるということだ。これはなかなか難しい。真にこの境地に達し得たらどれほどすばらしいか。

 しかし世の中には、「賢い」奴がいる。ここでいう「賢い」奴とは、ひたすら弱者には、「耐えることが」さも美徳でもあるかのように教える技を心得ている者のことだ。私流に、少し大げさに言えば、仏教の言葉を支配の道具につかっている鬼のことだ。おそらくそんな大それたことを意識して行っているわけではなかろうが。

 さっきも雪の中、女子学生が大声で過ぎていった。が、この「賢い」連中が、「耐えることです。そうすれば慣れますよ。(訓練です、とまでいうかどうかは憶えていないが)」、と諭すようにいったのを何度か聞いてきた。「ばかもやすみやすみいえ」。さすがに私たちも、心の中でそう怒鳴った。

 このブログでずっとくり返し書いてきたことは、無力な老人や貧しく社会的な発言力とてないわれわれ凡人の「静かな生活を返せ」ということだ。ところが、この衣を着た「賢者」たちは、自らの利益のために、われわれの生活を踏みにじっている。

 自分の欲望だけを主張し、弱者の声などに全く耳を傾けない。自分たちに都合のいいものの声だけ拾い出し、さもみんなそう望んでいるかのような物語を作り上げる。

 公道を通るより、住民の私道を通る方が利便性がある。

 利便性と何か高尚なことでも言った気になっているようだが、何が利便性だ。駅まで公道を使った場合と私道を使った場合で、いったどれくらいの違いがあるか、よく知っているはずではないか。

 80メートルもあるだろうか? 人の生活を踏みにじり、ノイローゼ気味の人がいても知らん顔。立場の弱い人や老人の生活を犠牲にして、わずか1分弱のことをさして利便性などとは、笑わせる。「自分の利益のためなら、他人の迷惑など一顧だにしない。警察にでも捕まえられない限り」。そう学生に教育しているのか。まさかそんなことはないはずだ。

 人間らしい優しさをもて。組織に縛られるのではなく、人としての顔をもて。
先頃人気の映画「ボーン・アルティメイタム」の末尾で、主人公がCIAの職員に投げかけた言葉だ。

 福祉大の関係者も家に帰れば人の子の親だろう。老母も老父も祖父母だっているだろう。自分の身に引きうつしてよくよく考えてみるべきだ。

 この言葉は、残念ながら、東北福祉大学には届かないだろう。もはや人の言葉を解せなくなっているようだ。

 無駄と知りつつ、人には仏性が宿っていることを信じたい(一切衆生悉有仏性)。

    

人命軽視の東北福祉大学

2008年01月18日 | Weblog
外は雪が降り、私道はところどころ凍結している。
 滑りやすい道になっている。そこを30人くらいの学生たちが「うわー滑る、ワハハ。。。」ときゃきゃ騒ぎながら、どひゃどひゃ過ぎていった。
 
 車が来なかったからよかったようなものの、車が来れば車は進めなくなり、二輪駆動だと滑って動けなくなる。これは例年しばしば起こる光景だ。だから、心配した町内会会長は冬期間の通行止めを福祉大と合意し、回覧板で町内にも回覧し、「冬期間通行止め」の大きな看板を福祉大自身が立てている(誤解のないように断っておくが、そもそも私道の共有者は、この私道を福祉大の通学路にすることには一貫して反対している)。

 それなのになんだ。自分の学生が事故に遭うかもしれない危険があるにもかかわらず、何の学生指導もしていないではないか。

 「ボランティアの学生がいないから、できません」とは言わせないぞ。「ボランティア」とは、学生をただで使うことではない。根本的な理解を誤っている。

 あるいは「学生の一人でも事故にあったら考えましょう」ですか?

 こんな人命軽視の学校が大学の看板を掛けているのかと思うと、それだけでなさけない。

 すこしは、せめて自分の学生のことくらい心配してあげなさい!!

泣く子と地頭には勝てぬ、を真似る東北福祉大学の怪

2008年01月18日 | Weblog

  新しい年が始まって早いもので、2週間あまりがあっという間に過ぎてしまった。
このブログを休んで一ヶ月あまりが経ち、最近は、人から、「「迷惑行為」もなくなったのですか」とか「静かになりましたか」とよく聞かれる。

 このところブログを上げなかったものだから、心配してくれている人たちは、問題が解決したのだ、と勘違いしたようだ。

 遺憾ながらそうではないのです。
「いや実はこうですよ」と委細に説明していると舌はだんだん滑らかになってくるものの、こちらも身体が持たない。東北福祉大学による「騒音被害」はおさまる気配はなく、ますます陰湿かつ愚劣になってきている。

 最近は2カ所に「冬期間通行禁止」なる看板をでっかく掲げておきながら、通行禁止などまったく実行しておらず、依然として平然と「迷惑行為」を続けている
(なお「迷惑行為」の実態の一部は、このブログを参照されたい。http://blog.goo.ne.jp/silence_2007_august)。これでは事故が起きるのを懐手で待っているようなものだ。

 学生の安全一つとっても、これほど無神経でいられる「教育機関」があることにいまさらながらあきれると同時に、その蛮勇には逆に感心させられる。

 悪質としかいいようがない。これでは、学生教育に際して、「学校の規則など守らなくてもいいよ。守るふりだけしていればいいんだ」と教えているわけだ。いやそれだけではない。「社会に出ても約束など守らなくてもいい。守るふりさえすればいいのだ」という、生きた手本を示しているわけだ。

 こんな破廉恥なものを私たちは学校とはいわない。が、それにしても、このような「大人」の背中を見て育つ学生は気の毒でもあり、日本の将来が恐ろしい。

 福祉大というところは、「俺たちは常識も何もない無頼の輩だ。虫けらのような住民よ、あきらめな。日本語は通じません」とでも叫んで回っているつもりなのだろうか。私たち凡人の理解をはるかに越えた人たちだ。

 敬愛する道元禅師がこの惨状をご覧になったらなんといわれるのか。想像もできない。しかし禅師を開祖とする曹洞宗の流れをくむ「といわれる」東北福祉大学が、どうしてこんな不可解かつ不誠実な行動をとっているのか、つくづく考えてみる。

 ある人が私にこんな話をしてくれたことがある。
      
私「例の福祉大だが、住民に騒音被害を与え続け、自分の権利だけを不当に主張して、てんとして恥じない。こんな体質に、どうしてなってしまったのだろうか」
A氏「あの学校か。あれはね、曹洞宗の学校の体質なんじゃないの。」
私「どういうことだい」
A氏「多々良学園の財政破綻について知っているかい?」
私「あのサッカーで有名な、たしか山口県周防市にある学校?」
A氏「ああ、もういまはないけどね。無軌道な新校舎移転計画が破綻したという事件さ。詳しいことは知らないけれど、なんでも学校経営には宗務庁が深く関与していたそうだ。いわゆる無責任体質という奴だ。その無責任体質が、同じ流れをくむ東北福祉大学にもある、ということさ」

  無責任。無責任。。。。。。

 いやそれだけではすむまい。「福祉」に泥を塗り、学生教育を愚弄する道義的、社会的責任は厳しく問われなければならない。


東北福祉大学駅から本校への「連絡通路」(陳情書(案))の問題点

2007年12月06日 | Weblog
 東北福祉大学駅と東北福祉大学を結ぶ「連絡通路」敷設の陳情説明会が開催されるという。この説明会開催の案内といっしょに、陳情書(案)(これ以降「案」と書く)も添付されてきた。

 この「連絡通路」が完成すれば、西山地区(福祉大本校側)から駅へのアクセスは、現在よりも多少はよくなるだろう。しかし、その利便性という聞こえのよい言葉に惑わされて、見過ごしてはならない大切なことを置き去りにしてしまってはいけない。

 現在の騒音問題が完全に解消され、新たに発生する可能性のある問題に、大学や関係機関が真摯に取り組む決意をもっているなら、「連絡通路」設置を歓迎する。
 
 危惧されることを思いつくままにいくつか記しておく。

 まず「案」に記された「連絡通路」設置の陳情理由の第二番目がよく理解できない。
それは、騒音の苦情が絶えないことを心配し、東北福祉大学の学生が、駅の利用、教室間移動(ステーションキャンパスと本校)に際して、「私道の通行を余儀なくされていること」をあげていることだ。

 これは理由の重大なすり替えである。どこが?

 東北福祉大学は、学生に対して、ちゃんと現にある「公道」を全面的に通るように指導をすることが、まず求められている。しかし、その努力を怠っているがゆえに、現在の「騒音問題」が起きているのだ。そこのところをちゃんと認識して欲しい。
 さも私たち住民の迷惑を解消することをうたっているようだが、これこそ、おためごかしにすぎない。すこしでも住民の「福祉」を願っているなら、まずできることがあるではないか。

 「余儀なくされている」としたら、それは、大学側が学生に対してこの私道を通るしか本校へ行けないのだ、といった先入見を植え付けているからに他ならない。
 まずは、公道を通ることを徹底させ、その上で、問題が生じてきたときはじてめ学生の通学路としての「連絡通路」の役割がクローズアップされてくるのではないか。

 そのときは私たち住民も協力することを惜しまない。順序が逆だ。

 さらなる問題もある。

 この「連絡通路」が完成すると、新たな人の流れができ、これまで以上の利用が考えられる。くわえて、聞くところでは、道幅2メートル程度という。現在の「公道」の歩道とほど同じ幅だ。だとすれば、現在の私道の騒音は、この「連絡通路」によって解消されるのだろうか??

責任感こそ「福祉」教育の原点

2007年12月05日 | Weblog
依然として止むことのない東北福祉大学の「迷惑行為」のことを考えながら、つと想い出す言葉がある。

 夏目漱石が「私の個人主義」で書いている一節だ。ちょっと長くなるが、以下に引いておこう。

 「私の考えによると、責任を解しない金力家は、世の中にあってあってならないものなのです。・・・・ただ金を所有している人が、相当の徳義心をもって、それを道義上害のないように使いこなすよりほかに、人身の腐敗を防ぐ道はなくなってしまうのです。それで私は金力には必ず責任がついて回らなければならないといいたくなります。自分はこれだけの富の所有者であるが、それをこういう方面にこう使えばこういう結果になるし、ああいう社会にああ用いればああいう影響があると呑みこうむだけの見識を養成するばかりでなく、その見識におうじて、責任をもってわが富を所置しなければ、世の中に済まないというのです。いな自分自身にも済むまいというのです。」

 よく知られているように、大正3(1914)年、この講演は、漱石が学習院で教員と生徒を前に語ったものだ。ここでは、やがて社会のリーダになっていく生徒たちに、金をどのように用いるべきか、そこには社会に対する責任感が不可欠であることを諄々と説いている。現代人にとってもすこしも古びていない。

 もちろん、このことが、東北福祉大学の「騒音問題」に直結するわけではない。

 しかし、聞くところでは、東北福祉大学は、新駅(JRに頼んで作ってもらったと言うことで、請願駅というらしいが)建設に10億円を超える費用をつぎ込んだという。私たち、非力な者からすると、天文学的な金額だ。

 これだけの巨費を投じる「金力家」であるにもかかわらず、学生(大学にとって最も大切なはず)の「通学路」は、貧しい住民の生活道路である私道を暫定と称して、問答無用といわんばかりに、勝手に使っている。使っているだけならまだしも、「騒音で家にいて静かに暮らせない、ノイローゼ状態の人まで出ている」しまつだ(まさか、病人を自分でつくりだして、福祉サービスをしようというのでもあるまい)。

 これが、はたして道義的にほめられた金の使い方だろうか。大学の管理者は、胸に手を当ててよく思案してもらいたいものだ。小学生でも分かりそうなことではないか。

「ただ乗り」だけでもゆゆしきことだが、それにくわえて、心的な苦しみまで与えている。

 こんなことが、「福祉」の大切さとやらをマスコミを通しても宣伝している学校に許されるか。「金力」のある者は、それに応じて社会的責任を果たす。これが原点だ。

 「福祉」の看板を掲げている学校が、こんなことを指摘されていること自体、心から恥じてほしい。

静けさを返せ!

2007年12月04日 | Weblog
 夜10時半を過ぎてもカツカツという靴音が響いてくる。
ある言葉が頭を過ぎる。 

「弱者の言うことなど気にするな。病人の世迷い言など忘れろ。やがて黙るだろう」

これは、この半年、東北福祉大学を間近で見てきたものの実感だ。

 これを聞いて東北福祉大学の関係者で、「中傷だ」というものがいれば、それは、批判が的を射ているからだ。見当違いの怒りを表すよりは、そういわれないように、ちゃんとすればいいだけだ。

 私たちは、何かを恵んでくれ、などと乞食みたいなことをいっているのではない。
あなた方が私たちから奪っていったものを返してくれ、といっているだけだ。

 奪っていったもの、それは、静かな生活だ。駅ができるまで道のなかったところへ道をつけ、「土足」で踏み込んできて、人の生活をかき乱している、その暴挙を止めなさい、といっているに過ぎない。
 こういっていることのどこが無理なのか。
 甚だしきに至っては、「あなた方の言いたいことは何ですか?」などととぼけた物言いをされると、唖然としてことばを失う。

 「通学路」に空を飛べとか地下に潜れ、などと荒唐無稽なことを言っているのではない。駅を作るときに大学が計画したとおり、5分で行ける公道を通ればいいのだ。
 こんな簡単なことがどうして理解できないのか??

 こう率直に申し上げると、「中傷だ」という福祉大関係者がいるという。これが「中傷」なら、被害者の悲鳴や教育的な指導は、すべて「中傷」ということになり、世の中から被害者はいなくなり、一切の教育活動は成り立たなくなる。

 しかし、ひよっとすると、東北福祉大学の現場では必死になって努力されているのかもしれない。しかし、その他の教職員のほとんどが非協力的でどうにもならないのかもしれない。

 これはうがった見方だが、もしそうだとすると、内部でモラルハザードが起きているのだろうか??