2011年4月24日、東京武道館避難所は閉鎖になりました。
最後まで残っていた方も、行き先を決め、それぞれの場所に向かわれました。
今は、普通営業の武道館として機能しています。覗いてきましたが、静かなものでした。
3月18日の避難所開設時から、このblogに武道館の様子を書くにあたり、できるだけ客観的に様子を伝えようと努力したつもりです。あまり私の感情を入れず、たまたま出会った人の偏った情報を書かないよう、先入観を与えないように、淡々と記録するように書きました。
でも、もう東京武道館は閉鎖されましたし、最後に私の感想を少し書き残しておきたいと思います。
東京武道館には、おもに福島県の方が多く避難してきました(宮城県の方、山形県の方もいましたが、ごく少数です)。海沿いに家がある人は家が全壊、少し内陸に住む方は家は残っているけどライフラインがダメ、内陸で南の方の方は家は大丈夫だったし、避難区域ではないけど放射能が怖いという理由で、避難されていたかたもいました。つまり、人によって被災の状況は大きく違いました。
3月19日頃に出会った方々は、家が壊れている、又は原発に近くて住めないケースが多かったです。一週間分避難できる程度の荷物を車に積み、家族と親せきが固まってとにかく南下してきて、後から武道館避難所のことを知り、入られた方々です。避難勧告がされた日から4日間ほど車の中で寝泊まりして、疲れきってたどり着かれたこの方々は、寝る場所しか用意されてない武道館避難所でも「ありがたい」と言って、とても安堵しているように思いました。
私は、食事もなくて、地元の人もまだ知らない様子で、大丈夫なんだろうかとすごく心配でしたが、一週間もすると地元の支援が火付け役になり、行政も手厚く衣食住の支援をするようになったので、ほっとしました。
でも、最初に来た方々の多くは、支援が手厚くなり、都営住宅の申し込みが始まった頃、「自宅に戻る」と言って、帰って行かれました。東京に住むことはできない、仕事がいわき市にあるからと言って、都の援助を断ち切って帰って行ったのです。私は、まだ現地は住むには大変だろうに、どうして帰るのだろうと思いながらも、さよならの挨拶を何度も交わしました。
その後も続々人が出ていき、また、どんどん入ってきました。
いつも人数をホワイトボードでチェックしていましたが、その中身はどんどん人が入れ替わっていたのです。
正直、食事を用意したり、物品を用意しても、居心地は悪かったと思います。いつも「ありがとう」と感謝しながら生活するのは、実は非常にストレスフルな状態です。知り合いになった一人がふっと「自分の稼いだお金で食べて、誰にも遠慮なく暮らしたい」と漏らした言葉が、本音をちらりと感じさせてくれました。
歯磨き粉がない、支援物資にあればうれしい、でも、自分でそのくらい買える。だけど、将来のことを考えると無駄遣いできない。いつもそんなことを考え続けるのは、どんなに苦痛だったでしょう。「ありがとう」と笑顔で受け取りながら、心の中で苦悩していたのだと思います。彼らはつい先日まで、普通に暮らしていた方々だったのです。支援されることも、ストレスになってしまったのです。
貧富の差もありましたし、そういう人たち同士の雑魚寝です。親が疲れ果てて寝た後に、子どもが走り回って夜中まで遊んでいるなんていう話も聞きました。お酒が大好きなお父さんも、ずっと飲まないでいるという話も聞きました。着替える時は、タオルケットを頭からかぶって、周りの視線を気にしながら着替えるしかなかったり、3月中は本当にプライバシーのない状態で、つらかったと思います。4月以降、改善されてきたのは、都が真摯に働いてくれたおかげだと思いますが、やはり行政のすること、時間がかかりすぎました。
また、都営住宅の抽選が当たるなど、行き先が決まってもずっと避難所にい続ける人もいました。地震が怖くて、安全な場所にいたいという思いや、三食ついて衣類等も補充できるという経済的な利点、理由は様々でした。最後は、被災地から来た人じゃない方も紛れ込んでいるという声も聞きました。これは、本当の被災者の中に、家を流されて身元確認できるものがないケースでも、遠慮なく入館できるよう、最初のチェックが甘いために起きたのです。すべて自己申告でしたから、中には悪用する人もいたのでしょう。でも、本当に困っている人を優先するためには、仕方のないことでした。
ただ、本当の被災者の方々は、こういう方と一緒に暮らすのはいやですよね。なので、どんどん出て行ってしまったのかなと思います。
本当の福島の方々は誇り高く、いつも謙虚で、常に将来家族とどうするかを考え、行動も早かったと思います。ですが、最後はいろんな方がいましたので、避難所を閉鎖しない限り、ずっとい続ける人もいたと思います。次のステップに進んでもらうためにも、東京武道館の閉鎖は、仕方がないことだったと思います。
最後まで残った方の中には、東京等県外に住むつもりはないけど、今は放射能が怖いから一時的に避難していたいという方達でした。その方々は、味の素スタジアム避難所に移動されたと伺っています。今後も、希望する人がいる限り、都は受け入れを続けると言ってますので、将来はともかく、とりあえずの行き先がなくて困る人は出なかったと思います。
都営住宅や赤プリに移られた方も、この先のことを考えると、とてもお辛いと思います。今後も最後まで、都はできる限りの支援をしてほしいと思います。
支援というとなんだかかっこいいですが、支援してもらう側の気持ちはとても繊細でした。あんな目にあったんだから、助け合うのは当然と私たちは思っていましたが、受ける側は、いつまでも甘えていられない、自分で自立しなくちゃ、そのためのリスクがあっても、自分の力で立ち直りたい、そう思っている方も多かったように思います。
「ありがとう」と言うたびに、自尊心がずたずたになっていく。そういうのをどうしたらいいのか、私にはわかりませんでした。ただ、見ていることしかできませんでした。
堂々と支援を享受するためには、やはり国や県の支援しかないのだと思います。それなら彼らも遠慮なく、支援を受けるでしょう。個人である私たちが、かわいそうだから、お気の毒だからと何かするのは、避難して10日間くらいのものでしょうか。それ以降は、あまり個人単位でできることはないんだなぁと、私は思いました。
自分が被災者になった立場になって、このことを振り返ると、彼らの気持ちが少しわかったような気がするのです。きっと、なんだか、申し訳ない気分になって、落ち込んでしまったと思うのです。私だったら。
景気を回復させるため、被災者じゃない私たちは普通の生活をし、経済に貢献しましょうという言葉もよく聞きました。それも一理あるのはわかっています。
だけど、自分が被災者で、避難した町の人が普通に暮らしていたら、ほっとするような、自分達との違いを思い知るような、複雑な気分になったと思います。だから私は、いつもと同じように暮らすことはできませんでした。彼らと同じ境遇になることはできませんが、近い気持になったのかもしれません。
東京で311を経験した人は、地震や計画停電、交通機関の麻痺を通して、少しは被災地に住む人の不便を想像できるはずです。忘れてはいけないのです。そして、原発に関しては、福島の人たちと同じように、自分のこととしてとらえていくべきです。電気料金が割引になるから節電しようじゃなくて、電気の使用を減らさないと、原発はなくならないんだという危機感を持って、もっと真剣に電気を使わない方法を模索すべきです。そうじゃないと、福島の方々に申し訳ないと思うのです。
私も311以降、本来の本業であるデジモノ系のライティングが苦痛になりました。どうエコな視点に変えたとしても、電気を使うものを紹介しなければならないからです。違う分野のライティングにシフトするため、4月に入ってすぐ、行動を起こしました。そして今、新しい分野のことを学んでいます。
強制的に新しい生活にチェンジしていくしかない福島の方々をみていて、私も変わらなくてはと思ったのです。今までと同じ生活をしていたら、また同じことが起きてしまう。同じような商売をして、同じような生活をしようと思ってはいけないんじゃないだろうか。もちろん、すぐにできなくとも、今から準備をして、将来は違う生活、違う目的、違う未来を描かないといけないんじゃないか。
私のように、「このままでいいわけない」と思っている人は、この日本中にたくさんいるはずです。そういう人に、今までと同じ視点を押しつけても、今までと同じ反応はできません。結局日本は、否が応でも意識を変えなくては生活できなくなると私は思ってます。ビジネスも、生活も、考え方のすべてもです。
東京武道館に避難してきた方々に出会ったことは、私にとっても大きな転機になりました。何もして差し上げられることはありませんでしたが、振り絞るような笑顔を思い出すと、今も胸が痛いです。どうか、前向きに暮らしていらっしゃることを、願ってやみません。そして、私に考えるきっかけと、踏み出す勇気を与えてくださったことを、心から感謝しています。
偉そうなことを言っても、なかなか自分の生活を変えるのは難しいことですが、時間がかかっても、福島の皆さんに恥じない生活を送るために、これからも努力を忘れずに、いつかは新しい生活ができるように、頑張っていきたいと思います。
避難所に暮らしていた皆さん、また、お会いしましょう。ありがとう!
このblogには、また震災のことについて、思ったこと等がありましたら、書いていきたいと思います。震災前に書いていたつぶやきのような日記に関しては、以後はこちらに書くことにします。
kyotaのココロ
http://kyotacom.tumblr.com/
私個人のblogに興味をお持ちの方は、どうぞそちらを読んでいただければと思います。
綾瀬周辺に住む皆さん、今までこちらを読んでくださってどうもありがとう。
これを機会に知り合いになった方々もいます。復興はまだまだ長丁場です。また、協力しあえることがあったら、ぜひご連絡くださいね。地域の暖かい支援、本当に地元民として誇らしかったです。
今まで、どうもありがとうございました。これからも、「がんぱっぺし・東北」!!

最後まで残っていた方も、行き先を決め、それぞれの場所に向かわれました。
今は、普通営業の武道館として機能しています。覗いてきましたが、静かなものでした。
3月18日の避難所開設時から、このblogに武道館の様子を書くにあたり、できるだけ客観的に様子を伝えようと努力したつもりです。あまり私の感情を入れず、たまたま出会った人の偏った情報を書かないよう、先入観を与えないように、淡々と記録するように書きました。
でも、もう東京武道館は閉鎖されましたし、最後に私の感想を少し書き残しておきたいと思います。
東京武道館には、おもに福島県の方が多く避難してきました(宮城県の方、山形県の方もいましたが、ごく少数です)。海沿いに家がある人は家が全壊、少し内陸に住む方は家は残っているけどライフラインがダメ、内陸で南の方の方は家は大丈夫だったし、避難区域ではないけど放射能が怖いという理由で、避難されていたかたもいました。つまり、人によって被災の状況は大きく違いました。
3月19日頃に出会った方々は、家が壊れている、又は原発に近くて住めないケースが多かったです。一週間分避難できる程度の荷物を車に積み、家族と親せきが固まってとにかく南下してきて、後から武道館避難所のことを知り、入られた方々です。避難勧告がされた日から4日間ほど車の中で寝泊まりして、疲れきってたどり着かれたこの方々は、寝る場所しか用意されてない武道館避難所でも「ありがたい」と言って、とても安堵しているように思いました。
私は、食事もなくて、地元の人もまだ知らない様子で、大丈夫なんだろうかとすごく心配でしたが、一週間もすると地元の支援が火付け役になり、行政も手厚く衣食住の支援をするようになったので、ほっとしました。
でも、最初に来た方々の多くは、支援が手厚くなり、都営住宅の申し込みが始まった頃、「自宅に戻る」と言って、帰って行かれました。東京に住むことはできない、仕事がいわき市にあるからと言って、都の援助を断ち切って帰って行ったのです。私は、まだ現地は住むには大変だろうに、どうして帰るのだろうと思いながらも、さよならの挨拶を何度も交わしました。
その後も続々人が出ていき、また、どんどん入ってきました。
いつも人数をホワイトボードでチェックしていましたが、その中身はどんどん人が入れ替わっていたのです。
正直、食事を用意したり、物品を用意しても、居心地は悪かったと思います。いつも「ありがとう」と感謝しながら生活するのは、実は非常にストレスフルな状態です。知り合いになった一人がふっと「自分の稼いだお金で食べて、誰にも遠慮なく暮らしたい」と漏らした言葉が、本音をちらりと感じさせてくれました。
歯磨き粉がない、支援物資にあればうれしい、でも、自分でそのくらい買える。だけど、将来のことを考えると無駄遣いできない。いつもそんなことを考え続けるのは、どんなに苦痛だったでしょう。「ありがとう」と笑顔で受け取りながら、心の中で苦悩していたのだと思います。彼らはつい先日まで、普通に暮らしていた方々だったのです。支援されることも、ストレスになってしまったのです。
貧富の差もありましたし、そういう人たち同士の雑魚寝です。親が疲れ果てて寝た後に、子どもが走り回って夜中まで遊んでいるなんていう話も聞きました。お酒が大好きなお父さんも、ずっと飲まないでいるという話も聞きました。着替える時は、タオルケットを頭からかぶって、周りの視線を気にしながら着替えるしかなかったり、3月中は本当にプライバシーのない状態で、つらかったと思います。4月以降、改善されてきたのは、都が真摯に働いてくれたおかげだと思いますが、やはり行政のすること、時間がかかりすぎました。
また、都営住宅の抽選が当たるなど、行き先が決まってもずっと避難所にい続ける人もいました。地震が怖くて、安全な場所にいたいという思いや、三食ついて衣類等も補充できるという経済的な利点、理由は様々でした。最後は、被災地から来た人じゃない方も紛れ込んでいるという声も聞きました。これは、本当の被災者の中に、家を流されて身元確認できるものがないケースでも、遠慮なく入館できるよう、最初のチェックが甘いために起きたのです。すべて自己申告でしたから、中には悪用する人もいたのでしょう。でも、本当に困っている人を優先するためには、仕方のないことでした。
ただ、本当の被災者の方々は、こういう方と一緒に暮らすのはいやですよね。なので、どんどん出て行ってしまったのかなと思います。
本当の福島の方々は誇り高く、いつも謙虚で、常に将来家族とどうするかを考え、行動も早かったと思います。ですが、最後はいろんな方がいましたので、避難所を閉鎖しない限り、ずっとい続ける人もいたと思います。次のステップに進んでもらうためにも、東京武道館の閉鎖は、仕方がないことだったと思います。
最後まで残った方の中には、東京等県外に住むつもりはないけど、今は放射能が怖いから一時的に避難していたいという方達でした。その方々は、味の素スタジアム避難所に移動されたと伺っています。今後も、希望する人がいる限り、都は受け入れを続けると言ってますので、将来はともかく、とりあえずの行き先がなくて困る人は出なかったと思います。
都営住宅や赤プリに移られた方も、この先のことを考えると、とてもお辛いと思います。今後も最後まで、都はできる限りの支援をしてほしいと思います。
支援というとなんだかかっこいいですが、支援してもらう側の気持ちはとても繊細でした。あんな目にあったんだから、助け合うのは当然と私たちは思っていましたが、受ける側は、いつまでも甘えていられない、自分で自立しなくちゃ、そのためのリスクがあっても、自分の力で立ち直りたい、そう思っている方も多かったように思います。
「ありがとう」と言うたびに、自尊心がずたずたになっていく。そういうのをどうしたらいいのか、私にはわかりませんでした。ただ、見ていることしかできませんでした。
堂々と支援を享受するためには、やはり国や県の支援しかないのだと思います。それなら彼らも遠慮なく、支援を受けるでしょう。個人である私たちが、かわいそうだから、お気の毒だからと何かするのは、避難して10日間くらいのものでしょうか。それ以降は、あまり個人単位でできることはないんだなぁと、私は思いました。
自分が被災者になった立場になって、このことを振り返ると、彼らの気持ちが少しわかったような気がするのです。きっと、なんだか、申し訳ない気分になって、落ち込んでしまったと思うのです。私だったら。
景気を回復させるため、被災者じゃない私たちは普通の生活をし、経済に貢献しましょうという言葉もよく聞きました。それも一理あるのはわかっています。
だけど、自分が被災者で、避難した町の人が普通に暮らしていたら、ほっとするような、自分達との違いを思い知るような、複雑な気分になったと思います。だから私は、いつもと同じように暮らすことはできませんでした。彼らと同じ境遇になることはできませんが、近い気持になったのかもしれません。
東京で311を経験した人は、地震や計画停電、交通機関の麻痺を通して、少しは被災地に住む人の不便を想像できるはずです。忘れてはいけないのです。そして、原発に関しては、福島の人たちと同じように、自分のこととしてとらえていくべきです。電気料金が割引になるから節電しようじゃなくて、電気の使用を減らさないと、原発はなくならないんだという危機感を持って、もっと真剣に電気を使わない方法を模索すべきです。そうじゃないと、福島の方々に申し訳ないと思うのです。
私も311以降、本来の本業であるデジモノ系のライティングが苦痛になりました。どうエコな視点に変えたとしても、電気を使うものを紹介しなければならないからです。違う分野のライティングにシフトするため、4月に入ってすぐ、行動を起こしました。そして今、新しい分野のことを学んでいます。
強制的に新しい生活にチェンジしていくしかない福島の方々をみていて、私も変わらなくてはと思ったのです。今までと同じ生活をしていたら、また同じことが起きてしまう。同じような商売をして、同じような生活をしようと思ってはいけないんじゃないだろうか。もちろん、すぐにできなくとも、今から準備をして、将来は違う生活、違う目的、違う未来を描かないといけないんじゃないか。
私のように、「このままでいいわけない」と思っている人は、この日本中にたくさんいるはずです。そういう人に、今までと同じ視点を押しつけても、今までと同じ反応はできません。結局日本は、否が応でも意識を変えなくては生活できなくなると私は思ってます。ビジネスも、生活も、考え方のすべてもです。
東京武道館に避難してきた方々に出会ったことは、私にとっても大きな転機になりました。何もして差し上げられることはありませんでしたが、振り絞るような笑顔を思い出すと、今も胸が痛いです。どうか、前向きに暮らしていらっしゃることを、願ってやみません。そして、私に考えるきっかけと、踏み出す勇気を与えてくださったことを、心から感謝しています。
偉そうなことを言っても、なかなか自分の生活を変えるのは難しいことですが、時間がかかっても、福島の皆さんに恥じない生活を送るために、これからも努力を忘れずに、いつかは新しい生活ができるように、頑張っていきたいと思います。
避難所に暮らしていた皆さん、また、お会いしましょう。ありがとう!
このblogには、また震災のことについて、思ったこと等がありましたら、書いていきたいと思います。震災前に書いていたつぶやきのような日記に関しては、以後はこちらに書くことにします。
kyotaのココロ
http://kyotacom.tumblr.com/
私個人のblogに興味をお持ちの方は、どうぞそちらを読んでいただければと思います。
綾瀬周辺に住む皆さん、今までこちらを読んでくださってどうもありがとう。
これを機会に知り合いになった方々もいます。復興はまだまだ長丁場です。また、協力しあえることがあったら、ぜひご連絡くださいね。地域の暖かい支援、本当に地元民として誇らしかったです。
今まで、どうもありがとうございました。これからも、「がんぱっぺし・東北」!!
