月刊誌「保育資料」11月号掲載に、
次のようなお話がありましたのでご紹介いたします。
後半、「なるほど」って思ってしまいました。
(事務員 弘中満雄)
「子供の言葉と教育」
パコダ幼稚園々長 石川 猛
【なもあみだぶつって何?】(【 】内の見出しは事務員による)
「質問していいですか?」
「これこれ」(お母さんが乗り出して)
「お母さん、いいですよ。どんな質問ですか」
「なぜ、おじいちゃんのお参りに、なもあみだぶつって言うンですか」
子供の疑問や質問を大切にしたいのが私の姿勢というか日常なのでして、
幼稚園でもお参りのあとの法話の際も、
子供たちが話に飛びかかってきます。
子供というのは、
途中で話を折って問いかけを拾ったり、
答えたりしながら話を進めてもちゃんとついてくるものです。
答えが自分の考えと違っていたり気に食わないからといって、
大人のように途中で席を立ったり、
顔をプイと横向けたりしません。
相手の話は話、
考えは考えとして虚心に耳を傾けてくれます。
さて、
法話の席で質問した子どもに私は尋ねました。
-キミはいくつですか?
-七歳です。
-おじいちゃん、大好きだったネ?
-ウン。
-いっぱいおこづかいくれただろう。
うなづく子ども。
-いろんな所へ遊びに連れて行ってくれたよね。
-ウン。
大好きだったおじいちゃんの突然の死を未だに受け入れることができないで、
死を理解しきれないで、
訣別の悲しみだけを小さな胸にいっぱい抱えて、
傷ついていたのでしょう。
やり場のない死への疑問に苦しんでいたのでしょう。
そして満中陰をむかえてついに思いが破裂して尋ねてきたと思うのです。
-なもあみだぶつって言うのはネ、
キミが大好きだったおじいちゃんに、
もう今は姿が見えなくなってしまったけれど、
いつまでもボクのことを見ててネ、
ボクがいい子に育つように見守っていてネってお話することなんだよ。
そしてネ、おじいちゃんもキミからの言葉をちゃあんと聞いていて、
つらいとき悲しいときうれしいとき、
楽しいとき、
どんなときにも一緒だよって、
声は聞こえないかもしれないけど、
キミを見守っているよっていうのが「なもあみだぶつ」のお念仏だよ。
その子ひとりに向かってお話を絞っていたのですが、
参詣の人たちもシーンとして聞き入り、
お母さんも涙しているようでした。
【守られている】
子どもという存在は親や大人の庇護が絶対の条件です。
守られていなければ生きてはいけないのですね。
守られているという安心感の元で子どもは健全に育つものなんです。
だから安心感を求めようとするのは子どもの本能なのですね。
たとえば赤ちゃんの授乳の中断や笑い顔など、
コミュニケーションの初発行為はそれを物語っているのではないでしょうか。
ともあれ、
安心感を求め確認していく行為は存在の根源にかかわることだと思います。
子どもにとって「守られている」事実を実感することは存在そのものの実感なのですね。
だから、
「守られている」という言葉を感覚的に理解できるのでしょう。
ところが成長という大人として社会での自立を実現していく過程というものは、
「守られている」存在からの卒業というか脱却であるわけですね。
ひとつひとつ「守られている」自分から「守る」自分へと変容していくのです。
社会的に強い自分を作り上げていくために、
知識を身につけ、
意志を磨き、
さらに社会の評価を必要としていい学校を選び、
金銭を望み、
地位を願い、
名声に憧れ、
健康に固執していくのでしょう。
でもそうして一生懸命に歩んできた強い自分への道が、
あるとき、
たちまち崩れさってしまうことにハッと気づくのですね。
たとえば病気、
事故、
不幸ごと、
そして年をとることで味わう淋しさや悲しみ。
ついには死という逃れられない現実に直面。
そこで私たちは、
大人といえども子どものように「守られている」安心感がなければ社会や人生を歩むことは困難なのだということを。
私たちは子どもたちに、
この社会で「生きる力」を教えているのかもしれませんが、
私は子どもから「よりよい生き方」を教えられているのです。
次のようなお話がありましたのでご紹介いたします。
後半、「なるほど」って思ってしまいました。
(事務員 弘中満雄)
「子供の言葉と教育」
パコダ幼稚園々長 石川 猛
【なもあみだぶつって何?】(【 】内の見出しは事務員による)
「質問していいですか?」
「これこれ」(お母さんが乗り出して)
「お母さん、いいですよ。どんな質問ですか」
「なぜ、おじいちゃんのお参りに、なもあみだぶつって言うンですか」
子供の疑問や質問を大切にしたいのが私の姿勢というか日常なのでして、
幼稚園でもお参りのあとの法話の際も、
子供たちが話に飛びかかってきます。
子供というのは、
途中で話を折って問いかけを拾ったり、
答えたりしながら話を進めてもちゃんとついてくるものです。
答えが自分の考えと違っていたり気に食わないからといって、
大人のように途中で席を立ったり、
顔をプイと横向けたりしません。
相手の話は話、
考えは考えとして虚心に耳を傾けてくれます。
さて、
法話の席で質問した子どもに私は尋ねました。
-キミはいくつですか?
-七歳です。
-おじいちゃん、大好きだったネ?
-ウン。
-いっぱいおこづかいくれただろう。
うなづく子ども。
-いろんな所へ遊びに連れて行ってくれたよね。
-ウン。
大好きだったおじいちゃんの突然の死を未だに受け入れることができないで、
死を理解しきれないで、
訣別の悲しみだけを小さな胸にいっぱい抱えて、
傷ついていたのでしょう。
やり場のない死への疑問に苦しんでいたのでしょう。
そして満中陰をむかえてついに思いが破裂して尋ねてきたと思うのです。
-なもあみだぶつって言うのはネ、
キミが大好きだったおじいちゃんに、
もう今は姿が見えなくなってしまったけれど、
いつまでもボクのことを見ててネ、
ボクがいい子に育つように見守っていてネってお話することなんだよ。
そしてネ、おじいちゃんもキミからの言葉をちゃあんと聞いていて、
つらいとき悲しいときうれしいとき、
楽しいとき、
どんなときにも一緒だよって、
声は聞こえないかもしれないけど、
キミを見守っているよっていうのが「なもあみだぶつ」のお念仏だよ。
その子ひとりに向かってお話を絞っていたのですが、
参詣の人たちもシーンとして聞き入り、
お母さんも涙しているようでした。
【守られている】
子どもという存在は親や大人の庇護が絶対の条件です。
守られていなければ生きてはいけないのですね。
守られているという安心感の元で子どもは健全に育つものなんです。
だから安心感を求めようとするのは子どもの本能なのですね。
たとえば赤ちゃんの授乳の中断や笑い顔など、
コミュニケーションの初発行為はそれを物語っているのではないでしょうか。
ともあれ、
安心感を求め確認していく行為は存在の根源にかかわることだと思います。
子どもにとって「守られている」事実を実感することは存在そのものの実感なのですね。
だから、
「守られている」という言葉を感覚的に理解できるのでしょう。
ところが成長という大人として社会での自立を実現していく過程というものは、
「守られている」存在からの卒業というか脱却であるわけですね。
ひとつひとつ「守られている」自分から「守る」自分へと変容していくのです。
社会的に強い自分を作り上げていくために、
知識を身につけ、
意志を磨き、
さらに社会の評価を必要としていい学校を選び、
金銭を望み、
地位を願い、
名声に憧れ、
健康に固執していくのでしょう。
でもそうして一生懸命に歩んできた強い自分への道が、
あるとき、
たちまち崩れさってしまうことにハッと気づくのですね。
たとえば病気、
事故、
不幸ごと、
そして年をとることで味わう淋しさや悲しみ。
ついには死という逃れられない現実に直面。
そこで私たちは、
大人といえども子どものように「守られている」安心感がなければ社会や人生を歩むことは困難なのだということを。
私たちは子どもたちに、
この社会で「生きる力」を教えているのかもしれませんが、
私は子どもから「よりよい生き方」を教えられているのです。