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西やん奮闘記

土佐の「防災・減災」特定市民が、あらゆるジャンルで奮闘いたします。

日本最後の朝鮮人部落 ウトロ

2008-03-03 22:21:59 | うんちく・小ネタ

曺弘利からの連絡で、長田レポートの反響の大きさに・・・・・。

で、曺弘利ウトロレポート 2008.2.16を

この話は、今 まさに現実の話です。

Utoro_0412_2  ●宇治市伊勢田ウトロ地区の今

 6400坪の敷地全体がウトロ地区である。
この場所ウトロは現在、65世帯200人が居住する、集落であり、そのほとんどの住人が在日韓国・朝鮮人で、戦前この近くに実存した軍用の京都飛行場の建設のために集められた、朝鮮人労働者の飯場あとにそのまま住み着いてしまったのが、このウトロの始まりで、今もなお、当時作られた、飯場の建物が一部残っている。

宇治市郊外のベットタウンでもある、伊勢田周辺は開発が進み、新しい住宅、マンションが昨今多くなり、道沿いにはショッピングセンターが出来るなどし、他の町と同様、変化がめまぐるしくもあるのだが、そんな中にあって、このウトロは、下水どころか、水道もなく、集落の3分の一にあたる住居が井戸水での生活でもある。
また、集落の道には側溝がなくて、雨が降れば、周辺の水路、道路のあふれた水がこの地区に流れこんで、地区内が浸水し、また下水が敷設されていないので、汲み取り便所のし尿も流れ出すといった、今の日本社会にあって考えられない劣悪な環境の中で、この地区の住人が、戦後から今日まで暮らしている。
取り残され、放置されてきた、今の日本に残存する最後の朝鮮人といってもよい。
 
それでも、ここで永年、住んできた人にとっては、唯一の故郷で、生活の基盤をこの場所に持つようになった。
1942年ごろ、太平洋戦争が激化して、この近くの巨椋池に面した低い地帯100万坪を埋め立て、飛行場の建設に着手した、そのための土砂が、緩やかな丘陵地であった、このウトロ周辺のから採取し、その跡地に飯場が建てられそのあとも住むようになった。

多い時には、1300人の朝鮮人労働者がこの場所で暮らし、厳しい労働に従事した。
しかしこの場所は日本各地に点在している、強制徴用の跡ではなく、少なくも、賃金を与えられ、配給もありむしろこの場所にいることで、強制徴用から逃れることが出来る事で、当時、多くの朝鮮人がここへと集まってきたともいわれるが、日本の敗戦で、半数の人が朝鮮に帰り、半数が残った。
戦後、残った人はここで困窮した生活を余儀なくされ、この場所から離れることも出来ずし、土木労働、廃品回収などをしながら、暮らしてきたのである。

戦後、60年余を経て、何ら行政の恩恵にも属することもなく、今日まで放置されたのかというのは、
このウトロは、戦前から、軍需工場であった日産車体の所有の土地であったのだが、
その土地の上に建った建物は、飯場跡を、そのまま朝鮮人労働者が住むあてがなく住みついてしまったのが今日に至った。
居住権を主張されることを恐れた日産車体が1987年当時、業績悪化を契機に遊休財産の処分の名目にこの場所を、この地区に住んでいた。自称「自治会長」と名乗る、許昌九に日産車体が3億円で売却したのが、その後ウトロ事件として、民族差別問題、戦後処理問題、居住権問題としこの場所が広く知られるようになった。

許昌九は戦後、朝鮮人連盟に所属し民族学校の教師だった時があった、その後は方向性の違いから民団京都地方本部の執行委員に就任していた当時に、この土地の購入を行ったといい、その買取資金に民団系の金融機関が関与をしており、在日も深く絡んだ問題でもあった。しかし、そのあたりは紹介されておらず、全ての原因は日本の戦後処理問題ということだけが、表面に出ていたようにも見受けられる。

結果、許がどのような思惑であったのかは不明であるが、3億円で購入した、この場所を地域の同胞に、4億5千万円以上で買い取らそうと試みたが交渉にいたらず。
自らこの土地のために設立した会社は西日本殖産といい、この会社に土地の所有権を移して、住民に退去を迫る裁判を起こした。
2000年11月24日には最高裁で住民側の敗訴が決まり、そのあと強制執行の恐怖が住民を襲った。

運動の高まりによって、多くの地元住民、この問題を知った、全国の在日同胞、韓国市民がウトロ支援の運動に関わり、その支援運動の高まりの結果。2004年11月には、韓国政府が京都府知事に善処を要請するなどし、日韓の政治問題にまで発展するに至り、昨年、12月28日に韓国政府がこの土地の半分の購入代金30億ウォンの支出の決定を行った。

今年に入って、ようやく西日本殖産との間に契約も交わされた。
60年余にわたって、陽があたらなかった土地に、ようやく薄日が差してきたようで、またこれまで何ら手を下さなかった行政がこの決定を受け、本年になって始めて宇治市の実態調査が開始されることとなった。
これまでも、国連の日本政府に対して人権無視に対しての2回の勧告、そして韓国政府の具体的支援が追い風となって、ウトロ問題の解決への道が開けたようだ。

これまでウトロ町内会副会長とし、この問題に関わった厳明夫さん(54)にこれからの動きについて聞いた。
実態調査を行い、住民の意見を聞き、どのような街を作っていくかを、十分に話し合いながら、早急に計画を進めたいという。
また、このウトロを側面で、この20年間支えてきた、ウトロを守る会の斉藤 正樹さんは、「マイナスがゼロになった、出発点にようやく立つことが出来た」。という。

ともあれ、強制退去の不安からの開放と、未来を覗く希望が見えた喜びが、伝わってくるのが、集落入り口にかけられた看板の絵が明るい絵に変わっていた。
その看板に詩が書かれていた。

いやや。
どんなことがあっても。私は
よそへ行かないよ
あの世からお迎えが来るまでは
なんでか、わかるかね?
それはね、ここは私の「ふるさと」なんだ
私はひとり暮らし
この年まで学校に縁がない
具合が悪いときは
近所の人がよくしてくれる
食べ物を作ってくれたり
薬を手にとって
こうして飲むんだと
飲ませてくれる
みんなが気遣ってくれる
だから、一人ぼっちじゃない
淋しくない
なんでって?
私は「ウトロ」のオモニだから
みんな私だと知っているから
どこか、よそではこうはいかない
この街を離れたくない
私は私でなくなる

2年まえ、この街の最高齢の崔忠圭さん(91)が亡くなった。26歳のとき、強制連行で福岡の炭鉱に連れてこられ、逃げ出してやがて、ウトロで暮らすようになった。
今、一人になった、妻の石玉先さん(78)体の調子が思わしくなく、最近は病院通い、ようやく落ち着いて暮らせるようになって、今は落ち着くようになったともいうが、気がつけば60年の歳月が過ぎさり、長い影だけが残ったような思いがすると言う。

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4 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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僕も伊勢田に住んでます (亀さん)
2012-11-19 23:38:05
僕も伊勢田に住んでます
ウトロに知り合いもいます
中一ですが「はやく平等な世界になればいいのに」
とつくづく思います
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Unknown (韓国中国さいてー)
2019-02-10 18:24:57
はよ出て行けウトロ人。 韓国との断交も近いしウザいのだよお前ら。色々と図々しいだよボケ共が。
返信する
Unknown (名無し)
2019-02-12 01:51:36
別に韓国人やからって出ていく必要ないし、なんの被害もないし、ウトロに友達もいるし、出ていけってゆう意味がわからへん
返信する
ウトロ住民は不法滞在者 (non)
2019-05-31 21:13:13
強制連行の嘘は、とっくにばれている。
返信する

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