神や仏や、天国、極楽浄土、地獄、天使と悪魔。
神話や聖書や経典で語られているのは事実ではなく
フィクション、作り話が大半だと現代人は普通は認識しているだろう。
モーセが行った、紅海が二つに割れる事や、イエスが行ったとされるさまざまな奇跡など。
それをそのまま起きた事実だと信じる人は、バイブルの影響のほぼない日本では皆無だろう。
そしてそれは、日本人にとってはとてもラッキーな事ではあったと私は思う。
西洋世界やイスラム世界での宗教的な概念の束縛は今だ大きい。
キリスト教に関しては確かにその本来の信仰的影響力は衰えていると思うが
文化として西洋文明の中に脈々と流れ影響を与え続けている事は事実だろう。
2011年刊の『レッドステイツの真実』という本のデーターでは
アメリカ人の70%がイエスの再臨を信じ
62%が悪魔の実在を信じているという事であった。
1973年公開のオカルト映画『エクソシスト』では日本での公開に先立ちアメリカで
観客の失神者が相次ぎ、また映画関係スタッフや役者が死亡したりした為
日本での公開時の盛り上がりは異常だったのを覚えている。
バイブルランドの人々がこの映画に恐怖した一番の理由は、
やはり悪魔の実在を信じているという文化圏に生きているからに他ならないと思う。
二代前の法王、ヨハネ・パウロ・二世は生前からエクソシストとして有名だった。
現、フランシスコ法王も、悪魔祓いをしたというニュースが2013年の5月に流れ騒動になり
法王庁がそれを否定する声明を出している。
バイブルランドの多くの人々にとっては
悪魔は今だ完全な絵空事ではなく、
日常の生活の中で人間の弱い心のすきを狙い
本能的恐怖心に影響を与える力を持つオカルト的存在なのだと思う。
の記事にも書いたが、
私は昭和の田舎の子供だったから、小さい頃はまだ人工照明が少ない世界で育った。
それは、子供にとっては日が暮れると闇が迫ってきて
五感全体を震わせる恐怖を日常的に味わう経験でもあった。
『逢魔時』という言葉どうり、西の空の紅い帯が光を失い始めると
不気味な何かを含んだ暗闇は想像異常の早さで迫ってくるものだった。
子供の頃真の闇の中に独りで取り残されるほど恐ろしいものはなかった。
それは、見知らぬ、場所の外はもちろんだが、
罰として押し込められた押し入れや納戸の中もその真っ暗闇の中の恐怖は同じであった。
それ故、闇は私のような子供にとっては幽霊や妖怪が棲む異界への出入り口と同じ意味をもつ
何か得体の知れないモノたちといつ出会うかもしれない
恐ろしい空間であった。
過去の時代、私のように本能的に闇を恐れる心や幼い頃から文化的な背景によって
悪魔の存在を信じるような育ち方をした人間にとっては
その心の底に流れている、本能的な恐怖が
宗教を信じる事の一つの理由であったと私は思う。
人間の心は弱く、闇に巣食う悪魔や悪霊から心を守るには
神、仏に対する信仰こそが
その弱さに勇気を与えてくれる実感があったのだろう。
しかし、物質文明が成熟した国家において
夜の真の闇はなく、子供たちがその五感以外のシックスセンスを磨く機会は
限りなくなくなってしまった。
それ故、今の日本の若者たちの大半は
真の闇の怖さや自然の恐ろしさを体験しないで
大人になってしまっているのだと思う。
東日本大震災などの自然災害はあいかわらず各地で起こっているが
日常の中に潜んでいる自然の怖さは親の世代も含めほとんど体験していないのだと
夏起こる水難事故などをニュースで見たりすると思ってしまう。
川や海で遊ぶ事がどれだけ危険な事は田舎の子供なら
小さい時に一度くらいは恐ろしい思いをして知っている。
私も海で潮に持って行かれた事はあったし、川で溺れそうになった友人がいて
その子から『足を引っ張られた』と真顔で言われた経験があるから
川の深みには絶対に近寄らないとそれ以後は思ったものだった。
昔は親がそういう経験をして自然の怖さを知っていたから
その経験を子供に直接伝える事ができたが、
今は親の世代もそういう言い伝えや経験を伝授されているものは少ないから
非科学的と思える言い伝えは無くなってしまい
闇が駆逐された現代では、東日本大震災のような自然の本当の恐ろしさを容赦なく
体験させるような出来事を経験しない限り、
危険に対する直感は中々養われないのだろう。
私は今の若い人が昔に比べ宗教的な事に懐疑的な理由は
そのような、五感全体で味わう感覚的な恐怖を
日常的に体験する機会が持てないまま成長している事も理由の一つだろうと思う。
物事は明るい照明の元、科学や社会的な常識が揺るがない日常が続き
オカルト的な何かは漫画やアニメの中の作り物の世界でしか体験しないから
現実にそのようなものが存在する可能性を最初から考える余地がないのだと。
今でも田舎に行けば、野山はあるが、その自然と深く触れ合うような生活を
田舎の子供たち全員がしているわけではなく、都会と同じようにスマホを持ち
インターネットでゲームをする生活である事は都会と何も変わらないだろう。
ただ、中ニ病にかかる年代だけはホルモンの影響でそういう
目に見えない事やオカルト的な事にロマンを感じて、一時的に信じたりするが
現代の日本では成長と共に、
多くはそういう非科学的なモノを客観的に分析して
排除してゆくように育ってゆくだろう。
それは、霊感商法や過去の束縛して収奪するのが目的の宗教に引っ掛かり難いという意味では
大変良い事だと思う。
が何か言葉にできない恐怖や畏怖の念を子供の時に心の底に持つという事もまた
人間が生きてゆく上では大切な事だと私は思う。
それは自分ではない何者かを恐怖すると同時に認める事でもあるから。
そういう体験をしないで成長してしまうと、人間に対してはもちろん、自然に対しても
怖いもの知らずの心のままで、いざ何かに直面した時に、
抑制のきかない行動を取ってしまう原因になってしまうだろうと思う。
心の底から震え上がる経験を子供の時にしておく事は大事な事だ。
そういう経験をすれば、自己と他者の違いを少なくとも認める意識は育ってゆく。
真の恐怖を知らないで育つと、世界の全てが自己の意識の延長上にあるように肥大化しまま
コントロールできるような勘違いをして成長してしまい、
コントロール出来ない事象にぶつかると
大した理由もなく他者を傷つけたりするようになってしまいがちだ。
私の分析では今の若い人たちの犯罪はそのような事に起因する事が多々あると思えてならない。
大きな人生上の出来事はトラウマになると言われるが、
運命論者の私にすれば、心の底に記憶として残るような事は必然的に起きたのだと思う。
人間が生きてゆく理由はその記憶や経験とどう向き合って忘れてゆくかであって
向き合いもせず無視して生きてゆく事ではない。
そして、人間ではない自然や超自然的なモノから感じる、畏怖や恐怖の思いが
子供の頃に刷り込まれる事は、心の予防接種に似て
人間が打ちひしがれた後心を切り替えて生きてゆくのに必要な
諦観を教えてくれると思う。
子供の頃の感覚は大人になると忘れがちになるものだ。
だが、完全にその感覚を忘れてしまうものでもない。
今の私の中にもその感覚は生きていて、それは時として直感として私を助けてくれている。
人間の感覚は磨けば、よりミクロの世界に近づけると思うのは
私の偽りない実感だ。
デジタルの時代だからこそ、
計測できず残されたアナログ世界の中にこそ
デジタルの可能性があるのだと。
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