ムツ兄の、てげてげ人生日記

シマッチュ(奄美人)のムツ兄が、奄美での「テゲテゲ」(気まま)な暮しを記します。

St. Louis Blues (1929) / Bessie Smith

2008年11月27日 21時00分00秒 | 音楽
この曲は《Bluesの女王》と呼ばれたベッシー・スミス(Bessie Smith, 1894年4月15日 - 1937年9月26日)、アメリカ合衆国の黒人女性歌手で、テネシー州チャタヌーガ出身。の持ち歌です。ベッシー・スミスは、主に1920年代から 1930年代にかけて活躍しました。ビリー・ホリデイ、ダイナ・ワシントン、マヘリア・ジャクソン、アレサ・フランクリン……近年では、ジャニス・ジョプリン、ノラ・ジョーンズ達も、彼女の影響を受けた女性シンガーとして挙げられます。正に彼女は、その後の黒人女性シンガーのルーツとなった巨星です。そして堂々とした歌いっぷり、恰幅のいい体型。--まさに《ブルーズの女王》の名にふさわしいシンガーでした。建物を震わせるほどの声量を誇りながらも、力押しせず、細やかで感情のヒダにまで染み入る歌唱は、大恐慌時代に生きる人々の心をワシ掴みにしました。その後 1933年までに200曲以上の録音を残しますが、37年に自動車事故で他界しました。もし彼女がいなかったら、ブルーズの歴史も変わっていたかもしれません。ベッシー・スミスと、ロック・ファンを結びつけたのは、ジャニス・ジョプリンでした。ジャニスが最大のアイドルとして、ブルーズの女帝 (empress)、ベッシーの名を挙げていたからです。白人の中流家庭に育ちながら、父親、学校になじめなかったジャニスは、絵を描き音楽にひたり、孤独を愛する少女でした。ジャニスは、高校を卒業と同時に家出しましたが、その頃からベッシーの歌が好きで、27歳で亡くなる数週間前にはベッシーの墓参りに行っていたといいます。ジャニスは言いました。「ベッシーが空気をみせてくれ、どうやって、その気で歌を充たすかを教えてくれたのよ」と。
ブルーズ全般について語っておくと、1960年代からのポピュラー・ミュージックには、ブルーズの影響が顕著に現れるようになりました。ローリング・ストーンズが「コンフェッシン・ザ・ブルーズ」を歌い、ラヴィン・スプーンフルが「ブルーズ・イン・ザ・ボトル」、ボブ・ディランが「死ぬ定めのブルーズ」を歌いました。今もポピュラー音楽のなかで、ブルーズの威力はみちみちています。正確にいえば、すべてのポピュラー音楽のルーツをたどると、ブルーズにたどりつくのです。

 ブルーズは、アメリカ南部で、農作業や工場労働の辛さをバンジョーやギターの弾き語りで歌う歌として、1800年代に生まれました。奴隷制度がゆるみだした19世紀半ばには、大規模農場 (プランテーション) を渡り歩くブルーズ・メンによって、南部一帯に広まったのです。広大なプランテーションでは、主人たちが住む家と、奴隷たちの居住区は遠く離れていましたから、騒ぎさえしなければ、夜が更けると奴隷達は比較的自由に楽器を手にし、歌い、音楽にひたることができたのです。ブルーズと、ジャズの関係について、 BBキングがこう語っています。「ブルーズは、ジャズのおじさんのようなものだ。そしてブルーズが、すべてのポピュラー音楽の父親だと言っていい。ブルーズは、労働の苦しさ、恋、人間が持ち得るすべてのエモーションを歌うんだ。率直に。好きなら好き。辛いなら辛い。言葉やリズムで、エモーションを飾ることがない。だからいつの時代でも、人の心を揺さぶるんだ」と。

今夜は、奄美は朝から曇り空で、僕はブルージーな気分です。ベッシー・スミスの「セントルイス・ブルーズ」を聴いて浸りたい夜です。

Bessie Smith - St. Louis Blues (1929)



最新の画像もっと見る