For Crying Out Loud By ギタリスト竹田和夫

ロスアンジェルス在住のギタリスト 竹田和夫
何でも書いちゃいます。For Crying Out Loud !

NAMM SHOWに行ってきました。

2014年01月23日 | ギター&音楽 

昨日から今週いっぱいLAではNAMM SHOWが開催されています。楽器業界とミュージッシャンの人たちで、アナハイムの街はごったがいしています。

昨日、その初日に行ってきました。 アナハイムはご存知デイズニーランドやナッツベリーファームがあるオレンジカウンテイの観光地で普段からたくさんの観光客が世界中から来るところで、フリーウエイも普段から混みまくるわけで、結構覚悟が必要です。

会場は大きな楽器屋さんという感じが1番近いわけですが、とにかく広いので歩く歩く、、人混みの中を歩くだけで大変なのです。 ラウンドハーフ歩いた感じです。(笑) 友人ともあえて楽しい一日でした。

 





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あれよあれよの17年、今年で18年目に突入。

2014年01月17日 | ロスアンジェルスから

ここ数日急にLAは暖かい。 このまま暖かくなっていくとは思えないし、あと、1,2回寒い週がありそうだけど。 今週は28度くらいが続いている。今日は30度 コンピューター制御の愛車はエアコンがまわっていた。(笑)

ストーヴもなし、靴下もはかない日々、、なんか快適かも、、。ただ、風がすこしあってそのせいで花粉が舞っているのだと思うけど、ちょっとアレルギー鼻炎になったりしてこれもやっかい。

そんなかんなで2014年が始まったわけです。 で、ちょっと考えてみた、時の経つのは本当に早く、今年の3月でLAに移り住んでまるまる17年になる。 今年で18年目のLA生活。 

1997年の3月にそれまで住み慣れた東京、いや日本から米国に引っ越したわけです。 たまに聞かれるんだけど、竹田さんはどうしてアメリカに行ったんですか? 実際その度僕は返事に困る。 今となると、どうしてもその時の気持ちをはっきりと思い起こせないからだ。 答えは何通りかあって 適当にブレンドしながら言うわけだけど、どうもどの理由も違うような気がするから不思議だ。 

しかし、新宿から荻窪に引っ越すのとは確かにわけが違うし、実際最初は大変面倒な一大イベントだったわけです。

雑誌(某有名ガイドブック)で見たオレンジカウンテイの郵便局の住所を書いて巨大ダンボール数個を送ったわけです。何分住む家も決まっていないのだから局留めがいいと考えたわけですね。 この時点でそうとう無謀だけど(笑)

現地についてあせった、そんな住所はなかった(がーーん、)普通はもっと調べますネ。21654 New Port Beach Tustinこんなかんじだったか、、 (これを、東京にたとえるなら、東京都中央区渋谷歌舞伎町2丁目、そんなバカな、、)こんなことは序の口でした、今となれば笑い話は沢山あります。

友人や多くの人は音楽が原因に違いない、と想ったかもしれない。確かに日本の音楽界とアメリカのそれは文化が違うし、人間、人種が違うので ことポピュラー・ミュージックに関してはサブカルチャーそのものが音楽を作り、それがリアリテイであるなら、全てが当然ちがうし、それはそれで当たり前だし、それはある程度想像していた通りだった。

もちろん、思っていた通りのことだけじゃなく、こっちに住んで初めて実感する知らなかったことも多いわけです。

住めば都、どちらも一長一短、もしかして僕は環境順応性の天才、いやカメレオンな僕は何もなかったような顔をして溶け込み、自分のカンフォタブルな場所と時間を作りながら毎日を過ごしているうちにあれよあれよの2014年になったわけです。、

光陰矢のごとし 

昔の人は偉かった、、日本には毎年行っているし、ここ数年は2回行けている年もあるし、アメリカと日本の両方をエンジョイしている幸せものだなと思うことも多いわけです。

ここ数日結構楽しくギターを弾いて、あらためて面白いなあなんて思っています。 ほんと、子供の頃と変わらないですね。 いつになっても音楽、ギターは僕のメデイスン、、人生を楽しくする特効薬。あるいは最高のサプリメントなんですね。

さ、アコギ、今日はピックで弾きますよ。 楽しいね!

どちら様も素敵な週末を! Have a good one!



 

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新録音の準備中です。

2014年01月11日 | ギター&音楽 

これまでも何度か書いてきましたが現在クリエイションの新録音の準備の真っ最中です。

幅広い時代からのセルフ・カヴァーの曲が中心にはなりますが、新曲、未発表のオリジナル曲も何曲か用意しています。

ここ数日はLAの自宅ワークスペースにてDemoを作っていました。いい感じになってきています。

2014年の今の音での新録音です。 長いキャリアを積み重ねてきた各メンバーのアイデアも豊富で演奏力も当時の比ではないでしょう。足りないものがあるとすると体力でしょうか? いえいえ今日も腹筋300回やりました、(笑)

そう思うと、恵まれたこの機会に感謝です。

バンドメンバーはもとより レコード会社、出版会社、ブッキングエージェンシー、そして2つ返事で参加をOkしてくれた日本を代表するレコーデイングエンジニアなど、今回は関係者一丸となりまさに皆で作り育てていく作品になると思います。 まあ、本当に楽しみです。 春の花が咲き始める季節より日本で録音します。もうあっという間ですね。

さわり聞きます? あ、やめておきましょう(笑)

Have A Nice Week End!

 

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大瀧詠一さん

2014年01月04日 | ギター&音楽 

日本を代表するメロデイメーカー 大瀧詠一さんと過ごした青春の1ページを思い出してみました。

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前の記事のコメントにもありました。 僕とエイイチさんの若いころの付き合いについて知りたいということなので、簡単に書いてみます。

エイイチさん、としか僕は呼べないんですが、その理由はあまり公表されていないようなので ここには書きませんが、とにかく 最初に会ったのは1968年 僕が16歳で彼が20才だったと思います。

その年の夏に僕はプロのギタリストとして活動を始めていて、彼はその時僕が弾いていたグループ Bikkies というバンドのリード・ヴォーカルだった布谷さんという人の友人だったわけです。

それから1971年いっぱいまでなんだかんだ お付き合いが会ったと記憶しています。 作曲家志望という人に会ったのはその時が初めてだったので 非常に驚いたことを覚えています。 僕はギター弾き、彼は作曲家、お互い若かったんですね。というか 僕にとては4つ上の兄貴のような存在で音楽はもとより、それ以外の私生活でかなり一緒にいたように思います。

僕達のライブにはほぼ毎回来てくれていましたし、ライブが終わるとその頃活動の場としていた新宿で遊ぶわけです、遊ぶと言ってもお互い酒は飲めない、女性にはもてない、することは映画を見たり、映画が終わって早朝ボーリングに行ったりするわけです。

そういうことが無いときは当時小田急線の梅ヶ丘に住んでいた布谷さんの4畳半のアパートに皆で行き、シケモクなど吸いながら音楽の話を中心に夜な夜な朝まで語り明かすわけです。

とわいっても僕はほとんど聞き役で 布谷さんは口下手な人だったのでエイイチさんの独壇場になるわけです。当時の日本の音楽界の現状、ミュージッシャンの評価、欧米の音楽界とミュージッシャンの凄さ、アメリカンポップスの歴史、谷岡ヤスジ、落語、政治、人生について、話は飛びますね、、(笑) 

若い僕はいろいろ影響を受けたと思います。 特に哲学に関して彼は非常に凝っていて、人生とは、人間とは、そういったことを教えてくれましたね。 ニーチェ二傾倒していて、、かなり僕も当時は影響を受けました。縄ない人になるな、とか、深淵を覗いているつもりが深淵に覗かれているのだ、とか、、難しいですね(笑)

音楽は彼は作曲家志望なので出てくる名前が面白いくらい新鮮で、例えば ジムウエッブ、バート・バカラック、アソシエイションだ、なんだとかんだと、いわいるアメリカンポップスのなかでプロの作曲家の果たす役目は大きのだということ、そして曲はこうして作るのだ、と、アコギを持って教えてくれるわけです。

コードの3度の音からメロデイを出発させろ、とか、その他スタンダードなコード進行を見せてくれるわけです。 まあ、その時は後の巨匠も出発点にいたのでしょう。

そしてその後エイイチさんはCSN&Yとかバッファロー、モビー・グレイプなどのソフトロック系のグループに傾倒していったわけですね。朝起きたらステイーヴ ステイルスやギャーリーブルッカーのような声になっていたらいいな、とか口癖のように言っていましたね。 プロコル・ハルムは僕も大好きで共通の好みでした。

そののち彼はそれまで付き合いのあった東京のミュージッシャンたちとバンドを組み、ハッピーエンドのリード・ヴォーカル&リズム・ギタリストとしてデビュー、その後は日本を代表するメロデイメーカーとして大成していくわけです。

71年ごろは僕が当時やっていたブルーズクリエイションとハッピーエンド、そして山下洋輔さんのグループと3つでよくツアーにも行った記憶もあります。今思うと凄いコンビネーションだったと思いますが、全てが創世記、Blues Rockも、日本語のソフトロックも、日本のフリージャズも荒野を目指していた時代だったのだと思います。

梅ヶ丘に向かう小田急線のなかで よく、、”カズオ、女性に声をかけるのは こうやってやるんだ、見てろよ、、” 

などといって 声をかけようとするのですが、、

”、、、、、” 

”あれ、エイイチさん、どうしたの?”失敗?

 ” いや、今のは悪いタイミングの見本だ、、” 

などと楽しい時間を過ごした思い出があります。 

僕には男の兄弟がいなかったので エイイチさんは僕にとって青春の兄貴そのままでしたね。ほんとうに充実した時間を過ごせたしずいぶんかわいがっていただいたと思います。

まだまだ若かったエイイチさんの出発でしたが 皆に愛されて素晴らしい人生を送られたんだなと 思いました。 良い人生でしたね。 

長いこと会っていなかったので もう一度お会いしたかったですね。 それだけが残念です。

Thank you Eiichi san See You In Heaven。 R.I.P.

 

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