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音がしたら
鼓膜や神経や脳たちが
この人間という生き物の構造上どおりの働き
(あっ音がする)という認識をする。
そしてその「音」も
それが鳴る原因たちの構造上の
ただその通りの音を
ただ発する。
もちろんその「音」自体に
主体のようなものを
見つけることは出来ない。
「音が鳴る働き」と
「音が認識される働き」
そして
これら自然の動き(働き)の間に
「境界線みたいなもの」を表現する働き。
その他の働きと同じ「働き」の一つである
「思考」という働き。
「音が鳴る働き」
「音が認識される働き」
たった今「この文字を認識するという働き」
「この画面が文字というものを表す働き」
人間という生き物の中で起こる様々な働きと
風が吹いて洗濯物が揺れる働きは
どちらもただの「働き」
境界線のない「ただの働き」だらけの世界。
トイレの中での
何気ない思考の働きも
浜辺のサンゴに染み入る波の音も
(それが聞こえるという働きも)
何から何まで
全く平等な「働きそのもの」
この単純な単純な
事実が
ただ働き、働く。
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【 実 験 】
鏡の前に立つ。
そこに映った生き物が「生まれたこと」
それだけが
事実。
あとのことは
「思考のなか」のこと。
静寂という言葉も
涅槃という言葉も
「思考のなか」のこと。
誰でもない
生き物が
わずかに動く
働き。
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そういう意味です^ ^
主体というものが思考の働きでしかないので〜