ITSELF

何もしない瞑想(一切の作為も持たずに体の各機能そのままにしてみること)について。

虚無感・ニヒリズムについて

2024-06-24 | くらし

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何も解釈せず認識の全てを放っておくことと「虚無感・ニヒリズム」との関係について、よく質問されることがありますので、こちらにも書いておきます。

 

まずシンプルに言うと、何もしない瞑想において「虚無感」も当然「思考による解釈」です。

 

何であれ「呼ぶこと」が出来る対象は例外なく思考による解釈で、そもそも認識に対する意味や価値の無さ、あるいは虚しさという解釈をするには、個別の何か(わたし)という参照点が必要になります。

 

例えば、何も解釈しない時間が蓄積され、それに慣れてきて、以前に比べて頻繁に思考が起こらなくなってきたタイミングに、ふいに起こる「虚無感」と呼びたくなるような微かな感情の動き。

 

そして、虚無感として確定させ、自分のものにして、さらにそれを解決しようとする動き。

 

もちろんこの一連の流れも、何か特別な対策をする必要はありません。

そのまんま放っておきっぱなしです。

 

条件が整えば、思考や感情もその通りに起こりますので、一貫して何も捕まえず、解釈せず、常の無い同じものの無い新鮮なこのもののまんまでいてみてください。

 

 

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非解釈

2024-06-21 | くらし

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くらし

この生き物のリズム、反応

食べる、想う、笑う。

 

ラマナマハルシが言った。

道元が書いた。

この人間そのもの。

 

この文を読んでいる誰ひとり例外なく

そのもの通りに動いている本当に。

 

たとえば「にゃあ」という音を聞いたと言う。

だけど本来は ”私が猫の鳴き声を聞く”

なんて悠長なことを言う暇もなく「にゃあ」のみ。

 

「私、猫、鳴き声、聞く」何一つ間に合わない。

即座に「にゃあ」

そしてもう何の跡すら残っていない。

 

思考はこれまでのクセで

認識を後付けで解釈して

感情と思考に引き継いで、

解釈して、また引き継ぐ。

 

何も迎えに行かないで

何もつかまえないで

何も解釈も作為もしないで

認識そのまんま全て放っておきっぱなし。

 

 

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もしもまだ探求が止まないのなら

まずはこの「何もしない瞑想」をやってみることをおすすめします。

(便宜上”瞑想”と書いてるけど 何でも好きなように呼んでください)

これ以上シンプルなことは無いので、すぐに飽きてきて、

その状況すら”より良くしよう”という動きが現れるかもしれまんが、

もちろんそれも「そのまんま」です。

油断するとすぐやること(作為)を探す動きは

誰でも必ず起こりますので安心してそのまんま続けてみてください。

出来たら20〜30分くらい、難しい日はスキマでも。

30分のみですがZoomでの個人セッションもお気軽にどうぞ。

 

 

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一行だけで。

2024-05-21 | くらし

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今回のブルータス「一行だけで」を読んでいる、面白い。

 

言葉とか観念は、この迷いようのない現れそのものに”仮の選択肢”を与えることが出来る魔法のようなものだけど、これが原因で迷いが生じることになる。

 

なぜ迷うのかというと、自分で選択肢を創ってしまっているからで、選択肢があるから疑問というものが起こって、それでどんどん複雑になっていくから。

 

はじめから、誰も何もしようがなくバチっと(一択で)あるだけの”現れそのもの”に、自分なりに深みや幅を持たせようとするのは、娯楽にも極楽にも地獄にもなり得る。だから面白い。

 

だけどそんな極楽や地獄は一旦休憩してもいいから、現実をハッキリさせたいというなら、何もしないで認識の全てをそのまんまにしておくのがシンプルで手っ取り早い。

 

よし、じゃあ少しやってみようかなと思って、少し経って、

ふぅ〜っと、ため息をついて、この「何もしないこと」について少し考えを巡らせようとしても、どう考えたらいいのか分からないと思います。

考えとか理解とかが起動し始める前の話だからです。

 

そのまんまこのまんま、手をつけないで、工夫しようとしないで、ただこのまんまです。

 

よかったらスッとやってみてください。

 

 

そう言えば先ほど、沖縄と奄美は「梅雨入りしたとみられる」と発表がありました。

 

みられるって言葉も何だか面白いですね。

 

 

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思考

2024-04-12 | くらし

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あらゆる宗教、スピリチュアル、形而上学的な何か、それらを一旦すべて脇に置いておく。

 

本当に何もかも(出来るだけ見えないところに)置いておく。

 

 

そして、座る。

 

 

 

 

特に何もせず、何も目指さず、何かを受け流そうともせず、

思考を止めようとせず、より良い心の状態にコントロールしようとせず、

何もしないように努力していないかと心を見張らず、

ただありのままでいる。

 

 

座っている間は、例えば「3分前に心をコントロールしようとしていたかもしれない」と後悔しない。一切しない。

そして3分後のための予防もしない。対策もしない。

 

すっかりそのまんまで、ただ座る。

 

 

例えば、家の外から車の音が聞こえたとする。

でも、そこには車の音なんて存在しない。

あるのは「ブーン」だけ。

それを「音」という分類をしない。

「ブーン」

 

あっちで走っていた車の音を私の耳が聞いて、それを脳が解釈した、という物語は思考の中の出来事。

起こっているのは、ただの「ブーン」のみ。

 

 

そこまでシンプル。

極限の極限までシンプル。

 

どんなに当たり前に感じる固定観念でも、根っ子から丸ごと脇に置いておく。

 

 

でも思考は、

「いやいや、そういうことじゃない」と、すぐに慣れ親しんだ思考に戻りたくなる。

心がしっかりと立てる足場のような固定された受皿がないから、不安すぎるから。

そしてきっとすぐに「私という固定の受皿と、それ以外の世界」というシステムに戻りたいと構える。

 

それも当然のこと。

そのまんまで大丈夫。

その思考の働きについて後悔しない。

また同じような思考が起こらないように予防もしない。

頭の中に「時間という流れ」を創り出して、さっきと今を想像の中で繋げない。もっと言えば「さっき」や「今」という観念を想像の中で創らない。

どんな思考でも起こったら起こったまんま。終わり。

「そのまんま」であれば、自然と思考は出なくなる。

 

極限まで「世界丸ごとそのまんま」の無限一択で

ただ、すわる。

 

 

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「私」という思考と、世界が一つになるんじゃない。

「猫のように自由になりたい」という思考と、猫が一つになるんじゃない。

 

「真我」という特別な何かは無い。

「私」という特別な何かは無い。

 

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この文章を読んでいる。

出てくる思考。

何らかの方向を持った思考。

それも全部、自然なこと。

どんな思考も、それで終わり。

出たら終わり。

何もつながらない。

継続した全く同じ思考は無い。

 

 

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葉が揺れる。

 

その揺れに、「次」というものは無い。

その揺れ方に、「二択」は無い。

 

 

 

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オンライン個人セッション

2024-04-01 | オンラインセッション
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「何もしない瞑想」についてのZoomオンライン個人セッションです。
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