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あらゆる宗教、スピリチュアル、形而上学的な何か、それらを一旦すべて脇に置いておく。
本当に何もかも(出来るだけ見えないところに)置いておく。
そして、座る。
特に何もせず、何も目指さず、何かを受け流そうともせず、
思考を止めようとせず、より良い心の状態にコントロールしようとせず、
何もしないように努力していないかと心を見張らず、
ただありのままでいる。
座っている間は、例えば「3分前に心をコントロールしようとしていたかもしれない」と後悔しない。一切しない。
そして3分後のための予防もしない。対策もしない。
すっかりそのまんまで、ただ座る。
例えば、家の外から車の音が聞こえたとする。
でも、そこには車の音なんて存在しない。
あるのは「ブーン」だけ。
それを「音」という分類をしない。
「ブーン」
あっちで走っていた車の音を私の耳が聞いて、それを脳が解釈した、という物語は思考の中の出来事。
起こっているのは、ただの「ブーン」のみ。
そこまでシンプル。
極限の極限までシンプル。
どんなに当たり前に感じる固定観念でも、根っ子から丸ごと脇に置いておく。
でも思考は、
「いやいや、そういうことじゃない」と、すぐに慣れ親しんだ思考に戻りたくなる。
心がしっかりと立てる足場のような固定された受皿がないから、不安すぎるから。
そしてきっとすぐに「私という固定の受皿と、それ以外の世界」というシステムに戻りたいと構える。
それも当然のこと。
そのまんまで大丈夫。
その思考の働きについて後悔しない。
また同じような思考が起こらないように予防もしない。
頭の中に「時間という流れ」を創り出して、さっきと今を想像の中で繋げない。もっと言えば「さっき」や「今」という観念を想像の中で創らない。
どんな思考でも起こったら起こったまんま。終わり。
「そのまんま」であれば、自然と思考は出なくなる。
極限まで「世界丸ごとそのまんま」の無限一択で
ただ、すわる。
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「私」という思考と、世界が一つになるんじゃない。
「猫のように自由になりたい」という思考と、猫が一つになるんじゃない。
「真我」という特別な何かは無い。
「私」という特別な何かは無い。
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この文章を読んでいる。
出てくる思考。
何らかの方向を持った思考。
それも全部、自然なこと。
どんな思考も、それで終わり。
出たら終わり。
何もつながらない。
継続した全く同じ思考は無い。
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葉が揺れる。
その揺れに、「次」というものは無い。
その揺れ方に、「二択」は無い。
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