心に刻まれた3月11日がやってきます。

2016-03-06 11:44:32 | 文化人類学

震災の日、私は会社のビルの29階にいました。私はちょうど友達に電話している最中でした。久しぶりの相手の声に懐かしみを込めて話していると無防備な私の心は一瞬にして激しい揺れに戸惑いと緊張を覚え、途中で電話を切り、身を屈めました。揺れは激しさを増し、机の引き出しがポルターガイストのように動きだし、書類の置かれたスチールの戸棚はガタガタ音をたてながら軋んでいました。社内にいた人々は、私と同じように突然の出来事にわが身を支えることと近くの引き出しを抑えることしかできませんでした。激しい揺れはとても長く感じられました。その後、高層ビル特有の耐震構造なのか、揺れの修復に時間がかかり緩やかな揺れが、漁場に着いた釣り船のように伝わってきて、気分を悪くする人もいました。今思うとあの時、初めての経験にここでこのまま死ぬのかなっていう恐怖感からそんなことはあり得ないという変な執着心が直ぐに支配し出して、収まるのを待つしかないという冷静さもありました。しかし、事の重大さを知ることになったのは夕方頃の報道やネットによる配信映像を目の当たりにしてからでした。海辺の街並みや田畑や林が押し寄せる大波にどんどん飲み込まれる様子が現われ、私はその光景に息を呑んでみていました。その中には取り残された人々や逃げ遅れた人々はどんな思いで飲み込まれていったのか想像を絶することであったでしょう。本当にご冥福をお祈り申し上げます。自然界は時に我々に感動を与えてくれるときがありますが、無慈悲な計り知れない破壊力を持って人間に襲い掛かってくるものです。後に残された人々は身内を失い荒れ果てた住み慣れた土地の光景にどんな思いで向かったのでしょうか。被害者の方々の思いは簡単に語られるものではないと思います。被災地の皆様は復興と共に少しづつではありますが未来への生きる希望が芽生えてきているのでしょうか。皆様に幸多かれとお祈りいたします。私の故郷は福島県の保原町と言うところです。春になると桃の花や桜の花や梅の花が一挙に咲き誇る今でも戻りたいと思う田舎町です。福島は相馬の海辺は津波の被害に遇いましたが、第一原発の事故により帰還困難区域である大熊町、双葉町、浪江町、飯館村と原発から北西に向けて30Km圏内の住民は今だ戻れない圏外への避難を続けています。住み慣れた町、土地、そんな当たり前の環境を奪われ、放浪の生活を余儀なくされています。本当に心が痛む思いです。私の故郷である保原町は四五十キロの位置ですから飯館村の直ぐ隣り合わせに位置しています。とても他人事には思えません。故郷を奪われた思いは如何ほどでしょうか、ご本人でなければ計り知れません。よく安全神話と言われますが、今に至れば、原発の安全性は日本においては不確実であることが立証されたものです。政府関係者や東電は未曽有の自然災害であり予想不可能な事態だとか口にするけど、避難者はたまったものでは無い筈です。責任は国にあり、東電にあるのです。もう少し真摯に必死に取り組んでほしいものです。自分に置き換えて当事者の思いを真剣に考え、第一にこの事態を収拾して住民の安心できる環境を作らなくてはいけません。徹底した補償と心のケアーが大事なのです。そのために今、何をすべきか、そのことを実行してほしいものです。福島の復興なしで日本の何とやらはお題目だけじゃもう済まされません。生ぬるい政府の対応はとても歯がゆいし、担当大臣の言動にも自分に置き換えた切実感が感じられません。兎に角、私は声を大にして言いたいです。当事者の現状はその一人一人がどんな思いで生活しているのか、あなたがその立場に置かれたら、何に憤りを感じるのか、想像してみてください。

 

 


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