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サンボ、柔道、内田良平(黒龍会)

2014-01-28 22:29:03 | ニュース
引用開始

サンボの成立過程における柔道との関係
http://www5.ocn.ne.jp/~ysc2/sambotojudou.htm


 旧ソ連の国技「サンボ」が、その成立過程において柔道の影響を強く受けたことは、間違いのない事実です。

軍神広瀬中佐の影響

 広瀬武夫中佐は、日露戦争で第二回旅順閉塞隊の福井丸の指揮官として壮烈な戦死をし、軍神として祭られた人物であることはよく知られています。しかし、その一方で、広瀬武夫中佐が柔道の達人であったことはあまり知られていません。この広瀬武夫大尉(当時)が駐在武官として1897年(明治30年)から1902年(明治35年)の4年5カ月の間、ロシアの首都ペテルブルグ市に滞在し、その間に1899年(明治32年)8月末のロシア海軍大臣主催の園遊会に招待されたとき、ウラジミール・コワレスフスキー少将と知り合い、少将からぜひ遊びにくるように勧められ、少将の自宅を訪れるようになり、やがて家族全員に慕われ親しまれるようになりました。
 広瀬武夫大尉がコワレフスキー少将と知り合って親しくなり5カ月ほどたった1900年(明治33年)1月下旬に、コワレフスキー邸で上級将校を招待して晩餐会が開催されました。広瀬大尉も特別に招待され、その時にコワレフスキー少将の勧めで柔道を紹介する羽目になり、若手の大男の少将を相手に一本背負い投げで投げ飛ばして喝采を浴びたということです。その後、軍の参謀本部の将校を中心に柔道を教えたということです。このことが後のサンボの成立に影響を与えたと考えられる一つの事実であると思われます。

内田良平の場合

 後に黒竜会の総氏として日本の大陸政策の大立役者となった若き日の内田良平二段が、1896年(明治29年)23歳の頃ウラジオストクに滞在していた時、ギリシャ正教の牧師ニコライなる23、4歳の人物に乞われて柔道を教えたといいます。これなども後のサンボに影響を与えた一つの例と考えられます。その内田良平二段のロシアでの目的は、風雲告げる日露の関係の中で、シベリアにおけるロシアの動きを探ることにありました。
 日清戦争が終わって講和条約が結ばれた結果、遼東半島を譲られることになったが、ロシアなどの干渉があって涙をのんで日本は遼東半島を返還しました。ところが、そのロシア自身が軍隊をどんどん満州に送り込み、大陸での野心を露骨に示し始めたのです。ロシアに特別の関心を持っていた内田良平二段は、平岡浩太郎代議士の後援を得てシベリアに潜入し、ロシアの軍隊政策や地理、風俗習慣などを探ることになったのです。
 内田良平二段は、1896年(明治29年)8月箱崎丸で長崎を出港し極東のウラジオストクに向かいました。ウラジオストクに上陸し、西本願寺布教所に落ち着いた内田二段はここで情報活動を開始しました。というのも、ここ西本願寺布教所は、日本人の溜まり場でいろいろな情報を得ることができたからです。ここには西本願寺別院道場があり、ここで内田二段は多くの日本人に柔道を指導することになりました。中にはニコライのようなロシア人にも指導することもありました。
 1905年(明治38年)8月17日、内田二段はいよいよシベリアを横断してロシアの大動脈を調査するために出発することになりました。ロシア官憲も日本人スパイに対して神経をとがらせていたので、それを警戒するためにロシアの首都ペテルスブルグに商用で行くという証明書をウラジオストク駐在貿易官からもらいました。過去日本人でシベリアを横断日本人は数名います。その一人は明治11年7月ペイルスブルグを7月に出発し8月にウラジオストクに到着した榎本武揚と、明治25年2月ドイツの首都ベルリンを出発して6月にウラジオストクに達した福島安正中佐と、明治25年12月ウラジオストクを出発して27年2月にベルリンに達した山口の商人玉井喜作がいました。もっとも、江戸時代には漂流民大黒屋光太夫が時のロシアの女帝エカテリーナ2世に日本への帰国嘆願のためシベリアを横断してペテルスブルグに至っています。
 ウラジオストクを出発した内田二段は、イーマンまで汽車で行き、ハバロフスクで二、三泊してブラゴエに着いたのが8月31日でありました。その後、ネルチンスクを通りチタに至り、ウエルフネウージンスクから船でバイカル湖を渡ってイルクーツクに到達しました。ここで約三ヶ月滞在し、付近の地理・風俗習慣・軍事などを密かに調査して、ここで年を越してから首都ペテルスブルグに向かい、到着したのが31年2月の初めでありました。
 ペテルスブルグに着いた内田二段は、コンノグバルディスキー通りにある日本公使館を訪ね講道館で旧知の間柄であった駐在武官広瀬武夫大尉に会うことができました。その広瀬大尉に不意に頼まれたことがありました。それは先日のコワレフスキー将軍邸での柔道の武勇伝が、皇帝ニコライ2世の耳に入り、是非柔道を見たい、それについては皇帝お抱えのレスラーと試合をしてほしいという要請があったのです。しかし、広瀬大尉は急用でドイツに出張することになり、試合に出られなくなってしまつたのです。そこで、自分の代わりに内田二段に出場してくれないかとの頼みでした。突然広瀬大尉からレスラーとの試合を依頼された内田二段は快くこれを引き受けました。
 明治31年2月20日試合当日がやってきました。場所は冬宮体育館で、内田二段の相手は皇帝自慢のレスラージャハーリンでした。ジャハーリンは当時のロシアの最強レスラーで、クラチスキースタイルを得意とする重量級の選手でした。ニコライ2世をはじめ皇后アレクサンドラ、大蔵大臣ウイッテら高位高官、軍人や各国公使等も参列しての試合です。
 ルールは、クラチスキースタイルと柔道をミックスしたルールで実施することになりました。審判は王室体育館のロシチンがあたりました。ロシチンの合図で試合が始められました。ジャハーリンは腰を低くして構え、内田二段にジリジリと迫ります。機を見て、内田二段はジャハーリンの懐に飛び込み小内刈りで崩し、相手が態勢を立て直すところを横捨て身で投げ、すかさず十字固めでジャハーリンの腕を決めて勝負を決しました。内田二段は数日後、陸軍予備学校で柔道を教えることになり、特に彼の得意とした関節技は好評でロシア人たちに受け入れられていきました。このようなことからも、サンボが数多くの関節技を得意としているは柔道からの影響ではないかと思われます。と言うのも、旧ソ連の民族格闘技には関節技らしきものは殆んど見られず、しかも、外来のレスリングを除いては寝技も見られないのであります。

沿海州では

 1909年(明治42年)オシエプコフという僅か13歳のロシア人が講道館に入門して柔道を学んだと言われています。彼は熱心に修行して1913年(大正2年)に初段になり、1917年(大正6年)には二段となっています。当時講道館二段といえば現在と違ってれっきとした柔道の先生として食べていけるほどのものでした。彼は19歳の時、ロシアのウラジオストクに帰り道場を開設してロシア革命まではかなり多くの弟子に柔道を教授したと言われています。このオシエプコフという人物が、内田二段がウラジオストクで柔道を教えたニコライ・オシエプコフと同一人物であるかは定かではありません。年令的にずれがあるのでたぶん違う人物と考えられます。
 オシエプコフは、ロシア革命後各地を点々とすることを余儀なくされましたが、それでも熱心に柔道を指導したそうです。そのような環境の中で、当時ロシアの民族格闘技に興味を持ち研究していたハルランピエフと出会い彼に柔道を教えることになりました。ハルランピエフはオシエプコフから熱心に柔道を学び習得し、ロシアの民族格闘技と柔道や柔術の他モンゴル相撲や外来のレスリング、ボクシングを取り入れてサンボを創設したと言われています。しかし、サンボを創設するにあたって最も中心になったものは何と言っても柔道であると考えられます。

モスクワでは

 また、当時スピリドノフなるロシア人が日本で柔術を学びロシアに帰国して保安員などの人達に柔術を教えたと言われています。彼の優れた柔術は犯人逮捕などの際に非常に有効であることが認められ、かなり広く学ばれていたようです。このスピリドノフが学んだ柔術もサンボにかなりの影響を与えたと考えられます。
 以上のようにサンボは、柔道を母体としてロシアの民族格闘技を子供として誕生したことは紛れもない事実と考えられます。

以上
オシエプコフ氏とスピリドノフ氏

引用終わり

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