8年もツンドク状態だった本書を書棚から取り出し、附箋だらけになって読了。読み終えて、日本って、一体どういう国なんだろう、と深く、重く、考えさせられた次第。著者は、まえがきで、「これは、研究者ではない一人のごく普通の日本人が、自国の近現代史を知ろうともがいた一つの記録である」と述べているが、だからこそ、一つ一つの問いに、近現代史の専門家も含めて、読者がハッとさせられるのであろう。
「この国では、特別に関心を持って勉強をしない限りは、近現代史はわからないようになっていた。私は大学を出たけれど、それだけでは近現代史は何も知らない。それは教育の自殺行為でもあったのだけれど。しかし、ひとつの国や民族が、これほどに歴史なしに生きていけるのだろうか?私の国の戦後は、人間心理の無意識な実験のようである。どれだけ歴史を忘れてやっていけるのか」。
第2章「日本語はどこまで私たちのものか」⇒そもそも憲法の「憲」って、どういう意味なのかという問いかけから始まる。この問いかけに、ほとんどの人が答えられない。つまり、憲法の意味もわからずに、何を論じるというのか。日本語という言語をはたして私たちはわかっているのか。わかっていないとしたら、それで議論することは、一体なんなのだろうか?
第4章「安保闘争とは何だったのか」⇒「日本の近代とは、アメリカの軍艦に始まってアメリカの軍艦に終わった時代のことである」というジョン・ダワー(『敗北を抱きしめて』:ブログで紹介済み)の言葉を引用しながら、日本のアメリカとの関係は、黒船のはじめから、「市場開放」と「不平等条約」が、「武力」を背景にやってきたとし、戦後も、アメリカとの問題は、この三つの組み合わせで起きているとみなす。そして、これに異を唱えたのが安保闘争だったと。ただ、60年安保闘争は、条約改定の内容より、誰がどういう姿勢でそれを出したかということが、もっと言えば、岸信介が首相であり、そのやり方が、戦前と戦中を彷彿とさせるということが問題だったのではないだろうか、と著者は述べている。そして、60年安保闘争の直後に「所得倍増計画」が打ち出され国民が一斉にそちらを向いたように、70年安保闘争の直後にも、「列島改造論」が出て、国民は一斉にそちらを向いた、と指摘し、政治の季節の後には大掛かりでキャッチャーな経済政策が打ち出され、その都度、国民は経済の方を選んだ、戦争より政治より闘争より、わかりやすくて万国共通そうに見える「数字」に、夢中になったのであると結んでいる。
第5章「1980年の断絶」、第7章「この国を覆う閉塞感の正体」、そして、圧巻は、第8章「憲法を考える補助線」とエピローグ「まったく新しい物語のために」である。エピローグでは、著者が感銘を受けた本を2冊紹介している。山形孝夫『黒い記憶-いま、死者の語りを聞くこと』(岩波書店)と佐々木幹郎『東北を聴く-民謡の原点を訪ねて』(岩波新書)である。
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