アマノシチロー「なるほどさん」雑記帖

いろんなジャンルの第一人者による様々の「なるほど」をご案内します 

勝田康三対談: ゲスト小沢昭一

2005-10-10 10:59:38 | 人物記

勝田康三「男の見る男の空間」より、ゲスト:小沢昭一

 <小沢昭一の小沢昭一的こころ>

「小沢昭一の小沢昭一的こころ」の原点は、露天商の啖呵売にあり。

勝田 このコーナーは、対談は得意ではないという方のところに私
が無理やり行ってお話を伺うものなんですよ。(笑い)
小沢 ははぁ、なるほど (笑い)
勝田 TBSラジオの「小沢昭一の小沢昭一的こころ」は本も出さ
れていらっしやいますが、あれはもう何年目ですか。
小沢 21年目です。
勝田 21年ですか、すごいですねぇ。
小沢 あれも最初はそれ程意気込んだわけでもなく、何となく始ま
ったんですけどね。その頃あったいろんな仕事のうちで、あれだけ
が残ったというのは、僕にあっていたんでしょうね。それが10年く
らい経ってからわかりかけてきて、これはちゃんとやらなくちゃっ
てね。それまでちゃんとやっていないんですよ。(笑い)
勝田 いや-(笑い)。小沢昭一さんと対談すると言うとね、TV
朝日の広報部の女の子たちが「小沢昭一の小沢昭一的こころ」のラ
ジオの話を開いてきてください、っていうんですよ。あれは他のラ
ジオ番組と違うって言ってね。
小沢 あぁそうですか。どこが違うんでしょうね。
勝田 普通はマイクに向かうと、視聴者に向かって語りかけるとい
う調子なんです。でも小沢さんのは、回りにずっと人がいて、いわ
ば小沢エリアというのがあって、その人たちを自分の芸で魅了して
いくっていう感じだ、と彼女たちなりに分析してましたよ。
小沢 おっしゃる通りですね。自分でもね、夜店とか露店とかの、
俗に言う啖呵売を意識してますよ。縁日で歩いている不特定多数の
人たちの足を無理やり止めて、自分の回りにワーツと人だかりを作
って、最後にはなんとか品物を売っていってしまう、というあの露
店商たちの語り口に子供の頃から親しんでいて、それに異様に関心
があって、ず-っと見てきましたからね。いつの間にかに身につい
てしまったんでしょうね。

 活動弁士の話術を密かに尊敬しています。

小沢 だから、ラジオの前でしゃべるというより、どうしても大声
張り上げて、大勢の人の前で獅子吼に近いやり方ですよ。
勝田 あぁ、獅子が吼えるね。(笑い)
小沢 夏なんか汗だくだくで、顔なんか真っ赤でしょうね。自分で
も、なんでこんなでかい声で、マイクだけ相手にして、こんな狭い
スタジオで、って我ながら滑稽だなって思いながら。
 でもまぁ、そういうやり方がいつの間にか身についたというか、
それしかやりようがないというか・・・。
勝田 いや、でも私は、それだけではないんだなって思いますよ。
例えば、徳川夢声さんに代表される活弁、活動写真の弁士ですね、
あの要素も実に巧みに入っておられますよね。
小沢 徳川夢声先生は心中密かに尊敬しておりますから、お見通し
の通りでございまして・・・。夢声さんは緩急自在、活字でいう行
変え、句読点の呼吸の話術が、千変万化なんですね。内容がどんな
に良くても、リズムが二足だとお経と同じで、眠くなってくるんで
す。そこを急に声を強くしてみたり、ひそひそにしたり、意表をつ
いて出てくる徳川夢声先生の話術は実に多彩で、不滅だと思ってる
んですがね。
 ところが、この間、多少なりとも芸術や芸能に興味を持っている
学生が100人以上集まっている所で、「徳川夢声を知っている人、
もしくは名前くらい聞いたことがある人、」 って聞いてみたとこ
ろ、4人ですよ。まして、芝居の世界では金字塔を打ち立てた、そ
の時代を代表する名女優の田村秋子さんなんて、誰も知りませんね。
勝田 は-。まぁ、特にあの方は新劇ですからね。映画にそう何本
もお出になってないですからね。
小沢 だからですね、芸能稼業も惨いものだ、とね。天下とったと
ころで、五十歩百歩だと、それなら"五十歩"のところでラクして、
少しは楽しんでる方がいいんじゃないか、とね。若い頃はそう思い
ませんでしたけど、段々そう思うようになりますね。

「小沢昭一の小沢昭一的こころ」全体を通して流れる古今亭志ん生
 の精神。

勝田 「小沢昭一の小沢昭一的こころ」の中で、全体を通して流れ
ているのは、この間、多少なりとも芸術や芸能に興味をもっている
学生が100人以上集まっているところで古今亭志ん生の精神だろ
うと思うんです。というのは、古今亭志ん生さんは、最後はお酒を
飲んで高座に出られて眠ってしまったっていくらい、気楽に過ごさ
れたようですからね。ああいう生き態を、小沢さんはどこかで狙っ
ていらっしやるんじゃないかと思うんです。
小沢 はい、あこがれております。
 ところが、自分の中に、生的要素というものが非常に少ないんで
す。志ん生的要素というのは、何日も家に帰らないで、家族を困ら
せる。女に溺れてうつつを抜かすとか、芸人として実は非常に大事
なんじゃないかと思える要素が欠落してまして。真面目というと聞
こえはいいんですが、当たり前なんですね。常識人というのは、世
の中を送っていく上にはいいですけど、芸能人としては、魅力に乏
しくなる可能性があるんです。常識を逸している奴ほど、やっぱり
面白い。そういう意味では、古今亭志ん生は、高座で寝てしまうよ
うな、これは非常識ですな。普通でしたら高座に上がって寝て、起
きてただ引っ込むだけなんてのは許されない。ところが許さないど
ころか、志ん生の場合は、お客さんが、「高座で寝た志ん生を見
た」というのを自分の人生の中で"宝"にするようなところがあった
んですね。そういうところが芸能人ととしては、一般の人と違って
非常に大事な要素ですね。

 カーッと上がってしまうことは、人を魅き付けるには大切な要素

勝田 「小沢昭一の小沢昭一的こころ」を聞いてると、ワツと思わ
ず大爆笑してしまって、あれは車を運転しながら聞いていると危な
いくらい笑いころげますね。
小沢 車の中で笑ってると、隣りの車の奴も笑ってたなんてお誉め
の言葉をいただくこともあります。ところで我々にはカーツ髪の毛
が逆立つような上がることが必要だと思うんですね。僕は上がって
しまうように心掛けているんすよ。ところが慣れてくると上がらな
くなってくる。素人の方は上がらないことが大切だろうと思ってる
ようですけど。よくテーブルスピーチなんかで上がらないようにす
るにはどうしたらいいんでか、とか聞かれるんですけど、上がらな
いと面白くないですね。ただ冷静にしゃべってるだけじや聞いてる
方は面白くも何ともない。カーッとなって何だか辻褄合わない事し
ゃべっちゃう方が、聞いている方としては面白いんですね。
勝田 ははぁ、なるほどね。(笑い)
小沢 人を魅き付けるたには上がるということは非常に大事なんで
すね。名優を見てますと、みんな上がり症ですね。だから、自分を
上がらせる技術を身に付けないと。
勝田 あ-、なるほど、わかります。
小沢 僕は今、笑福亭鶴瓶さんが一番面白いと思って見てるんです
が、あの意味なくカーッとなって、どんどんわれを忘れて、何だか
わかんなくなっちゃうという面白さがあるんですね。何かにとりつ
かれるような、あれが大事だなぁっていつも思ってるんです。
勝田 そうですか。(笑い)番組が21年続いている秘密が良くわ
かりました。(笑)

 褒めちぎることが盲導犬とトレーナーの信頼関係。人間も褒めた
 方が何十倍も成長が早いですね。

勝田 小沢さんの一中で、老若男女さまざまなお客とお付き合いし
たけれども、犬のお客とお付き合いしたのは始めてだっていう話が
たいへん面白かったんですが。
小沢 今から7~8年前ですかね、横浜の小屋で芝居やってましてね、
舞台の一番前の席に盲人の方と、その横に盲導犬がピタッと付いて
いるんですね。困りましてね。というのは 芝居の最後、その盲導
犬の真ン前で、絶叫して のた打ち回るシーンかあるんてすよ。い
くら盲導犬とはいえ、自分の鼻先ででかい声出されてドタバタされ
たら、吠えるなり、動くなり、何か反応を示すに違いないと思いま
してね。最後のシーンは控え目にやろうか、場所を変えようか、と
か芝居をやりながら考えるわですからね。やり込んた芝居にもかか
かわらずトチったりしましてぬ。そうこうしているうちに、その最
後のシーンになりました。もう仕方ないって、そのままやりました
よ。あのシーンは 客席の人間でさえびっくりしてギャーッと声が
上がったりすることもあるというのに 犬ほ毫も動かない。すごい
もんてすね あの盲導犬という、あ人柄というかあの犬柄というか
少し嫌そうに顔をしかめただけで、身動きもしなかったもんで僕は
もう、その犬がいとしくなってね。
勝田 ほほーっ。(笑い)
小沢 盲導犬を訓練するのは本当に大変でしてね。世の中で起こり
うるありとあらゆるケースを訓練させるんですね。一番難しい最後
の仕上げは 街でやな犬と、つまり自分より強いような犬と擦れ違
うことなんてすね。もう、ワンワンワン阿修羅のように吠えまくる
大きな犬の前を何辺も何辺も通させて慣れさせるんてす。犬はちょ
っとでも逃げようとすると盲人の方にとって具合が悪うこざいます
からね。
勝田 それはそうでしょっね。
小沢 それで犬がやっと平気で通ったときは、もう訓練する方も道
端に寝転んで犬と抱き合って体中をさすってなでて、褒めちきるん
ですよ。褒めるだけが、犬とトレーナーの信頼関係なんですね。こ
れでもう犬はどんなものか来ても身じろかない度胸がつくんでしょ
うね。
勝田 犬であって犬でなくなっちゃうんじゃないですかね。
小沢 でも-、 犬であれ入間であれ 褒めた方か間違いがないで
すね。僕の俳優教育の多少の経験から言っても 褒めた方か何十倍
も成長か早いてすわ。けなしていいことはないてす。子供の教育も
同じような気がしますな-。

 地球全体が、女性時代に。これは自然の成り行き。

勝田 今度は世相評論家・小沢昭一としてお聞きしたいんですが、
私早朝マラソンをやってまして 最近走ってると、女性に良く抜か
れるんてすよ 女性のお尻を見ながら走るのはなかなかいいもんで
して、抜かれた方がいいんですが、それにしても女性に抜かれる回
数がどんどん多くなってきたもんですからね。
小沢 ははー。そうですか。(笑い)
勝田 マラソンに限らず、いろんな分野で女性が強くなりましたね
ー。大臣も女性が増えてきて、、まさしく世相は、女性時代。
小沢 僕ほこれはいい傾向たと思ってるんです。というのは、長い
物差しで見ると、男性の発想が出尽くしたんじゃないですか。
 作家にも<体筆宣言>があるように、一辺ここで、充電期間とし
て男も休んでみたらどうでしょう。
勝田 女性か強くなったのは、いろんなことを女性にバトンタッチ
して、男性休息時代に入ったんじゃないかって、言う人もいますけ
ど、女性にも向き不向きがあるんじゃないですかね。
小沢 それを一々探索してたらきりないんですよ。どれか向いてい
るのか見定めるためにも一度全部手を引いてみたらどうでしょう。
"これは男の仕事"って言い過ぎたんですよね。聖徳太子の時代から
ずうーッと、みんな男がやらなきゃならない社会でしたからね。
その前は卑弥呼さんだか、天照さんだか、女性がやってたんでしょ。
 男も300年か400年くらい休んでみたらどうですかね。いや
男も休息ばかりじゃなく、家事だの育児だのやってみたらいい。今
現在、こうやって、女のカメラマンがスナップを撮ってらしゃるっ
ているのも、何年か前だったら、大事件でしたからね。今は慣れち
ゃって、何とも思わないですけど。
勝田 それはそうですね。
小沢 もう、僕は男の発想はどの分野においても手詰まりだと思っ
ていますよ。政冶から芸術まで。
勝田 平和が続き過ぎたんですかね。 
小沢 欲望が野放しになって、便利になり過ぎてるっていう事も、
ございましょうね。この辺で、原点に戻ってみたらどうですかね。
勝田 世相評論家・小沢昭一としては、女性時代は、自然の成り行
きだということてすね。
小沢 まさしくそうてすね。誰に相談したわけじゃないのに、地球
全体か自然に<女性時代>でしょ。
多少先に進んでる国と遅れている国はありますけど。
勝田 それはそれとして、小沢さんには、TV朝日の男の時代劇に
是非出てもらいたい。このところ小沢さんはテレビはご無沙汰のよ
うですが・・・。
小沢 それはどうも・・・。
勝田 時代劇とは、最近、海外に見せるものだと思っているんです。
海外に向けて誇れる日本の芸人として、これからもぜひ頑張ってく
ださい。

勝田康三対談:ゲスト泊 懋「東映アニメを語る」

2005-10-09 16:00:37 | 人物記

勝田康三「男の見る男の空間」より、ゲスト:泊 懋(とまり つとむ)さん
(現在東映アニメーション株式会社 代表取締役会長)
                    (1994年の対談当時社長)
<「アクション!感動!友情!」アニメを使って熱い想いを描く>

「暴れん坊将軍」は26回でおわる予定が、17年

勝田 泊さんのお名前は懋(つとむ)さんとお読みになるそう
ですね。
泊 ええ、漢学者のはしくれだった祖父がつけてくれたんですよ。
何事も「盛ん」になる、という意味なんですが、出典は孟子なんで
すね。
勝田 その名前の通り極めて盛んな泊さんは現在、彼の東映動画の
アニメーション会社の社長として責任ある立場におられるわけです
が、とりあえずはプロフィール的な側面から、泊さんはどういう経
歴の持ち主なのかから参りますが。
泊 はい、どうぞ。
勝田 誰もがよく知っている長寿番組、テレビ朝日の「特捜最前線」
の生みの親であること、また「暴れん坊将軍」という奇想天外の時
代劇を、確か今は亡きシナリオライター小川英さんとのコンビで誕
生させたりしてますね。だから、泊さんは大プロデューサーである
ということから始めなければ話にならないんです。「暴れん坊将軍」
は将軍が主人公の捕物帳。ああいう大胆不敵な発想はどのようにし
て出て来たんですか?
泊 あれは、局の偉い人から吉宗をやれと云われましてね。丁度、
三木武夫が総理になった頃で「吉宗は三木なんだよ。将軍になりた
くてなったんじゃない、青天の霹靂なんだから、その過程が面白い
からヤレ」という見解でね。最初は大河ドラマ"吉宗一代記"だった
んですよ。民放じゃ大河ドラマは成功したことなかったでしょ。だ
から企画書だけ作って放っておいたんですよ。GO!と云われたら大
変だから。それから数年後歴史に残る「五街道まっしぐら」(笑)
という番組を作っちゃったんですよ。最盛期だった裏番組のドリフ
のターゲットを狙って大失敗。これはもう本道に戻ろう、とロッカ
ーで埃をかぶっていた吉宗を引っ張りだしてきたんですよ。このま
まじゃ当らないから、小川英さんの所へ持っていって一話完結のご
存じ時代劇にしたんです。当時吉宗はご存じではなかったけど、今
や後世に残る最強のご存じものになったと思いますね。
勝田 時代劇というのは変身願望を満足させてくれるものでしょう。
「暴れん坊将軍」や「遠山金四郎」みたいな大胆な変身を考えつく
人は東映にしかいない。最後は"捕物をやってしまう将軍″なんて、
泊さんと小川英さんの絶妙のコンビだから誕生出来た。
泊 そうかもしれません。小川さんはテレビの申し子のような人で
ね、「あ・うん」の呼吸というか、お互い何を望んでいるかがよく
解っていたなぁ。随分仕事をしたけど。僕が動画にかわり、彼はこ
の四月にNHKの平家物語を書き上げて逝ってしまった。いやあ、そ
の小川さんの「暴れん坊将軍」の企画書をもっていったら、当時の
斉藤制作局長が「泊くん、将軍が毎回毎回城を抜け出して、人を斬
っていいのか」と。「いや、吉宗というのは、26年という長期政権
を持続した将軍です。長い治世のなかでたった26夜だけ、外に出て
いったんですよ」なんて云ってね。あの人もシャレッ気のある人だ
から「わかった、わかった、26回だけやったんだな」と云ってくれ
て。あれからもう17年になりますから、七百回も人を斬っちゃっ
た。こんなに続くとは思わなかった。
勝田 あの時の松平健さんは新人ですからね、そこに北島三郎とい
う演歌歌手というよりも、国際的な芸人を連れて来て、大衆にアピ
ールするというのは、やっぱりあなたって、並みのプロデューサー
じゃないと思ってました。

 健気にガマン、そしてアクション!「セーラームーン」は東映そ
のもの

勝田 その泊さんがテレビのドラマ部門からアニメーション会社の
最高責任者になっていくんですね。それまで扱ってきたキャラクタ
ーは「金四郎」にしても「暴れん坊将軍」にしても、スーパーマン
的な存在ですよね。つぎの、アニメーションにしましても、絶大な
る権力を持っている訳ですが、これもまた、キャラクター勝負です
よね。「あれ、困った」という時に、″パーツ"と飛んできたりし
てね。これからのアニメーショシの中で、泊さんがどういうふうな
展開をなさっていかれるのか、やはり奇想天外な「暴れん坊将軍」
を産み出したように、アニメで今までとは違った形の主人公像なん
か、考えておられるんでしょう。
泊 63歳の男がアニメの企画を考えても、気持ちが悪いでしょう。
(笑)この世界には優秀な人がたくさんいますから、現在はそこか
らいかに拾い上げるかということを考えています。ただ、東映には
東映のカラーがありますから。ゴルフでいえばスイングの軌道です
ね。だからここを外さないのが東映の本流の作品だと思いますよ。
時代劇、アクションからヤクザものに至る映画の伝統は、テレビの
時代劇、刑事もの、仮面ライターといったジャンルに脈脈と流れて
いる。勧善懲悪、忍耐、勝利。これが東映作品のスイングの軌道な
んですよ。動画にもこの伝統は生きていますね。色々なタイプの作
品を作るけど、「ドラゴンボール」や「セーラームーン」、この手
の奴は他社の追随を許さないと思いますね。地球を狙う悪の帝国の
女王に美少女戦士たちが次々とやられていく、セーラームーンは必
死に立ち上がって"ムーンパワー"を送る。そのパワーを出すと彼女
は死んでしまうかもしれない、でも仲間を救けるために、自分の命
と引き替えに敵に立ち向かっていくこの自己犠牲。そして最後に五
人が集まって壮烈なアクションで勝つ。まさしく東映の伝統的なお
家芸なんですよ。このセーラームーンの映画で今年の正月はゴジラ
を向うに回して、さすがは健気に戦って、ゴジラがよろけましたか
らね、嬉しかったですね。
勝田 なにか制作の途中で印象に残っていることとかありますか?
色々ありそうですね。
泊 アニメーションのシナリオって、実写のテレビのシナリオとち
ょっと違うのね。今の正月映画の「セーラームーン」の脚本を初め
て読んだときは "ようやくセーラームーンを映画にしたのに、こ
の程度のシナリオだったのか"と思って絶望的な気持ちになりまし
たね。しかも、このシナリオでいかないともう間に合わないんだと
聞いていましたしね。気を取り直して一生懸命いいところを探して
ね、翌日監督に合ったんですよ。びっくりしましたね、監督は29歳
の金髪の青年ですよ。テレビの監督とは大違いですから。「脚本で
はこうなっているけど、こういう画面になります」シナリオと絵コ
ンテが随分違うんですね。中身のことは解らないから、監督の目ば
かりを見ていました。幾原君というんだけど、彼、自信満々で、
「セーラームーン」の強さ、魅力を語っているんですね。そうか、
こいつと心中するんだな、そう思いました。
勝田 アニメーションというのは撮影の仕事もかなり手間暇かかり
ますから、金髪の青年はいいとしましても、第二の金髪の青年を育
てていかないと、先程もおっしゃっていたように、東映の持ってい
るアクションとか忍耐とかが、連綿として繋がっていかないんじゃ
ないですか。
泊 その通りですね。東映動画はなかなかいい会社で、その金髪青
年のような人が、他にも何人かいるんですよ。チャンスを掴めばパ
ーツと脚光をあびそうな演出家、第二の宮崎駿になりそうな男がい
るんです。その人達をどうやって押し出していくか、ですね。でも
それだけではいけませんから、ご指摘のようにね、東映動画の伝統
や技術、文化を伝えていくために東映アニメーションスクールを作
ろうと思っているところです。日本中から本当にアニメの好きな人
達を集めて、育成していきたいと思っています。アニメーターの育
成、演出コース、コンピュータ・グラフィックスの技術者の養成と
いったところが柱になると思います。いま子供の数が減少している
から難しいんじゃないか、という声もありますが、21世紀のマルチ
メディアの時代には、いまより更にアニメの環境は良くなるし、そ
れに対応する人材は足りなくなって来るんですから、心配はないと
思いますね。CG科の準備がなかなか大変でしてね。教科書とか、
カリキュラムとか、講師陣とか、いろいろと手間取っています。C
Gによるアニメーション制作が企業として成り立たないと、私は将
来のアニメ産業は成り立たないと思っています。芸術的というか創
造的なところは人の才能が必要ですが、非創造的な部分はCGで処
理して省力化していかないと駄目ですね。いつ迄も製作費に苦しむ
ことになる。まあ、しかし、この次のセーラームーンSの劇場用映
画は、第二の金髪青年で準備中で、きっとご期待に添えると思いま
すよ。
勝田 「セーラームーンというのはテレビ朝日のテレビ番組から
出てきたもので、それの拡大版というもので劇場に公開されている
わけですよね。たくさんの人に育てられた彼らの可愛いキャラクタ
ーなんですね。

「世界のアニメは東映!」が現実になる日も近い

泊 原作の武内直子さんもセーラームーンのように可愛い人でね
(笑)僕は去年、岡田会長から動画の社長をやれ、といわれた時に、
大海にどんと押し出されたような気がしたんですね。だから社長就
任の<施政方針>を話した時にこんなことを云って社員に約束しま
した。「私が東映連合艦隊の枢要な位置にある"戦略空母動画号″
の艦長である。第一に安全な航海を心掛ける。さまざまな敵に遭遇
するが、これに勝っていこう。いい戦いをしよう」。安全な航海と
いうのはテレビ番組の安定した受注量を獲得することです。そして
戦いは面白作品を作って、いい視聴率をあげて局に貢献することで
すね。そしてそれを映画化して当てることなんです。今年は「セー
ラームーン」、「スラムダンク」、「ドラゴンボール」、「GS美
神」などで、東映邦画系の4プロがアニメになり大いに稼いでいま
す。第二に「動画号のマストには志のある旗を立てよう」と云って、
そこには「メディアはどんなに変わろうと、世界のアニメは東映動
画」と書きました。世界を目指すんですよ。小学生みたいでしょう。
勝田 日本で今の言葉に近い志をもって、進出して行ったのが「手
塚治虫」だったと思うんですよ。手塚プロは鉄腕アトムを先頭に、
世界に繰り出して行きましたでしょう。浦安にディズニーランドが
ありますけれど、ウォルトディズニー社に日本は、破れたとは言い
ませんけれど、やはり「手塚治虫」の目指した世界へ。彼亡きあと
は「泊 懋」ですよ。それぐらいの気持ちでプロデューサーをやっ
て項かないと。
泊 そんなにプレッシャーをかけないで下さいよ。テレビでは日本
の、東映のアニメは地球を駆け巡っているんですが、問題は映画で
すよね。これも夢物語ではないと思うんですね。僕等は戦後、日本
の自動車産業がアメリカに追いつき追い越すなんて、思いもしませ
んでしたね。電気産業でもそうだと思うんですね。何しろアメリカ
の影も形も見えないほど引き離されていたんですから。それに比べ
ればアニメーションは、アメリカの背中は見えているじゃありませ
んか。追い越せないまでも、すぐ後ろにつくぐらいにはいきたいと
思っています。
勝田 そうなるためにも、あの「暴れん坊将軍」のような、何か奇
想天外な発想はないですか?
泊 そうなんです。第三番目の約束が「大泉発進のドラマを創ろう」
なのです。″宮崎駿″ではないけれども、自前の作品を出していき
ませんと、プロダクションとして尊敬されないと思うんですよ。そ
の作品がコケちゃいけませんから、満を持していかなければ。かつ
て「白蛇伝」や「長靴をはいた猫」といった傑作、名作長編アニメ
を製作した東映動画ですから、何とか立ち上げていきたいですね。
自前の長編アニメでアメリカ本土上陸が動画号の目的地です。少し
軍国調(笑)ですが。

 意外なところにアニメのネタあり

勝田 私は去年ヒットしたディズニーの「美女と野獣」見ました。
観客は大人が多くて、あの野獣が出てきてかなり艶めかしいシーン
があったりしました。こういう少年少女向けのものではなくて、大
人の世界に入って行くというようなものはどうでしょう? いや、
たまたまね、さっきお話に出て来た、小川英さんの師匠である「隆
慶一郎」作品が少年ジャンプに登場してます。柴田練三郎賞の「一
夢庵風流記」が「花の慶次」として、更に「影武者徳川家康」など
という歴史もののストーリーが劇画として連載されていますね。い
ずれもこれらはみなウケているという。青年青女たちがワクワクし
ながら読んでいるわけですよ。だからアニメーションも既成で考え
ているものとは全く別な感じではいかがですか?
泊 いや、いいヒントを貰いましたよ。原作を探していく時に、つ
いアニメーションということで、狭い範囲でネタ探しをしているん
ですね。もっと自由に、隆さんの時代小説に注目するような発想が
あっていいですね。「シルバージャンプ」なんていいですよね。
勝田 「盛ん」という意味の名前を持った懋さんは、東映の内務官
僚として社長になったのではなくて、色々な発想をもったプロデュ
ーサーが会社の責任者になったのであり、東映動画はそういう会社
だと思いますよ。そういう意味では泊さんあなたが掲げるZ旗とい
うのは本音であろう思うし、あなたの下にいる若者達はワクワクし
ていると思うんです。だから、その志を実行していかないと。そう
いえば今日、ある若者にあったんですよ。あなたと対談するのだ、
と言ったら、泊さんの柔軟な考え方をよく聞いて欲しい、って言わ
れました。
泊 またまたプレッシャーをかけ通しましたね。(笑)
勝田 ますますご盛んの活躍をお祈りしております。きょうは有り
難うございました。

勝田康三対談:ゲスト島田正吾・その2

2005-10-02 13:42:35 | 人物記

勝田康三の対談:「男の見る男の空間」より・ゲスト島田正吾

 <新国劇に夢と情熱を注ぎ込んだ半生を振り返って>

 創設者沢田正二郎さん亡き後、六十余年にもわたり辰巳柳太郎さ
んと共に二枚看板として、新国劇を支えてこられた島田正吾師が今
日のゲスト。おりしも外は今年二度目の雪。島田師のお宅の竹林に、
笹の葉にも、天からの白きひとひらが次から次へと降り続く。あた
かも絶好の舞台さながらに。
 しかし、芸一筋に歩んでこられた正吾師のお話は、穏やかな口調
の中に雪をも解かす熱い情熱を感じさせて、時のたつのを忘れたほ
どであった。 今宵、″男の空間″は冷えた体にしみ入る熱燗のご
とき・・・。

演じる側も見る側も今の芝居には情感が欠けているように思い
ます。

勝田 日本人は雪には弱いですねえ。雪の場面になるとほっとしま
す。島田先生は雪にまつわる思い出がかなりおありでしょう?
島田 そうですね。もう数十年も前のことでしょうか。芝居中に雪
が降り出しましてね、終演後お客様が何十人か帰れなくなってしま
ったんです。それで、我々も帰るわけにはいかないということで、
座員が代わる代わる舞台に立って歌ったり隠し芸をしたり、そのう
ちにお客様も歌ったり踊ったり、一緒になって・・・(笑い)そん
なことがありましたねえ。
勝田一晩中ですか?
島田、そう。仲よく、一晩中です。古き佳き時代を彷彿とさせる、
ほのぼのとしたいいお話ですね。
島田 そのときの雪と、あともう一つ思い出すのは、やはり二・二
六事件の雪ですね。ぼくは当時、赤坂に住んでいましたが、東京の
街中がシーンと静まり返っていて反乱軍の兵隊さんの歌声がよく聞
こえましたよ。あのときの雪は異様なものでしたなあ。
勝田 雪というものは、情景や状況を鮮明にする力のようなものが
ありますからね。網膜に焼き付くというか、消えないんですね。
 話は変わりますが、先ほどのお話にあったように、一晩中お客様
と過ごせた時代をご存知の島田先生にとって、現代のお客様は昔と
随分違って感じられるでしょうね。
島田 そうですね。今のお客様は昔にくらべて芸を見ることを知ら
ないように思います。
勝田 団体客が増えたせいでしょうか。
島田 そうかもしれません。無論、芸を求めて劇場に来られる方も
たくさんいらっしゃいますよ。激励の手紙もいただきますし。
 ただ、全体的に言えることはお客様も変わったけれど、むしろ演
ずる側が変わってきたような気がするんです。
勝田 といいますと。
島田 "手作りの芝居" というものがあります。それをぼくたちは
学んできたし、教わってきたものです。ところが今の若い人達は、
生活も何もかもが便利になりすぎて・・・。苦労して学ぶとか、厳
しい修行に耐えるとか、そういうものに関心がなくなってきたよう
に思うのです。
勝田 それは俳優に限ったことではありませんね。
島田 そうですね。ただ俳優があまりに安易な生活になれると、演        
技に情感というものがなくなりますよね。とにかく今の芝居には情
感が薄くなりましたね。台詞を言わないでジーッとしているだけで
も、お客様が反応してくれる芝居が昔はあったのですから。
勝田 情感という言葉から思うのですが、現代人は夢の見方が浅く
なったような気がしますが。
島田 夢を見られる人はまだいいほうですよ。あんまり夢を見ない
んじゃありませんか。
 夢を見る、夢を持つということを知らないんじゃないかなあ。
勝田 情感や夢を生み出す環境が失われていく時代に育ったお客様
と創り手ですか・・・。これはもう一度人間を鍛錬しなおさなけれ
ばいけませんね。
島田 ぼくと辰巳(柳太郎)の二人で新国劇を背負って、新作を次
次と発表し、夢をもって新国劇独自の演劇活動をした時代もありま
したが、現代はもう、芝居の環境を見ても観客を見てもできそうも
ありませんねえ・・・。
 この先、芝居はどうなっていくんでしょうかね、心配だなあ。

新国劇にとって、鮮やかな方向転換だった『白野弁十郎』

島田 今度ひとり芝居で、『白野弁十郎』を演るんですよ。今の若
い人達が『白野』のロマンをどう受け取ってくれるか、反応が楽し
みですねえ。
勝田 いい芝居ですね、あれは。
島田 本当に。沢田(正二郎)先生の初演をみた時は感動して身体
が振るえましたよ。
 ですから、ばくが初めて白野を演じることになった時には、それ
こそ「芝居の神様が幸福を授けて下さった」と感謝したものです。
勝田 役者冥利に尽きる・・・。
島田 その通りです。その言葉はぼくのためにあるようなものだと。
(笑い)
勝田 よっぽどの惚れ込みようですね。
島田 はい。この芝居にはいい台詞がたくさんあります。いかに芝
居には、台詞の力が偉大であるかということを教えられます。
勝田 一体どなたがシラノ・ド・ベルジュラックを<白野弁十郎>
と置き換えて名づけたのですか?
島田 そんな質問受けたことなかったなあ。(笑い)そういえば、
いったい誰だったんだろう。
 沢田先生だろうと思いますが・・・。
勝田 いずれにしても沢田先生はこの芝居を新国劇の新しいだし物
としてとり挙げられましたね。
島田 国定忠次や月形半平太が新国劇を代表する演目のように言わ
れてましたし、はっきり言って当時の新国劇は、曲がり角の状態に
ありましたから・・・。そこで沢田先生が思い切ってロスタンのシ
ラノの日本版を思いつかれたんです。鮮やかな方向転換でした。
勝田 そしてそれが島田先生にとっても、俳優として大きな転機と
なったわけですね。
 セカンドでキャッチャーマスクをかぶって守る。そんな男だった
なあ、辰巳は・・・。

勝田 新国劇といえば島田先生と二枚看板を張っておられた辰巳柳
太郎さん、昨年亡くなられた時は長年のパートナーを失って、島田
先生も、さぞお悲しみだったと思います。
 私は、島田先生が述べられた弔辞を新開で読み、(欄外参照)泣
けてきました。
 島田先生が述べられた時の情景が、ありありと浮かんできます。
島田 今は亡い辰巳に向って自然と口から出た言葉ですよ。
勝田 それだけ長いお付き合いの、かけがえのない方だった・・・。
島田 ええ、本当にかけがえのないよき相棒でありライバルでした。
勝田 話はとびますが、かつて新国劇は野球がさかんで、島田チー
ムと辰巳チームとがあって双方よく対戦なさってたとか。
島田"丼試合"と言いましてね。負けた方が勝った方に"丼"をおごる
んです。ぼくの部屋っ子たちのが島田組。辰巳のほうは、辰巳一家。
勝田 辰巳さんは新国劇さながらの選手でしたか?
島田 あいつは豪快に見えて気の弱いところがある男でしてね。そ
のくせ殿様野球でいつもピッチャーをやりたがるんですよ。ところ
が投げる球は超スローボール。ちっともうまくないんですけど、あ
まりにスローボールすぎて打つ方はタイミングがあわない。だから
結構、三振をとっていたなあ。(笑い)
勝田 見かけによりませんね。
島田 そうそう、こんなことがありましたよ。あいつがセカンドを
守ったときのことですが、キャッチャーマスクをかぶって守備する
んですよ。
勝田 セカンドがキャッチャーマスクですか。(笑い)
島田 いくら役者は顔が命だといってもですよ。(笑い)
勝田 "丼試合"らしいですね、え。(笑い)沢田先生もお好きだっ
たんですか。
島田 ええ。とてもお好きでした。チームワークを大切にされる方
でしたから。野球に置き換えてよく芝居の教訓を話してくださいま
したよ。書生時代に・・・。
勝田 新国劇のチームワークのよさは、野球で培われてきたものだ
ったのかもしれませんね。
 まだまだお聞きしたいことはたくさんあるのですが、本日はどう
もありがとうございました。

 <島田正吾弔辞 青山葬儀所にて>

 平成元年八月二十二日、青山葬儀所で行われた親友辰巳柳太郎の
葬儀で祭壇に立った島田正吾は、遺影に向かってこう切り出した。
 "お前は、一昨年の新国劇七十年のあと、目に見えて衰えていった。
重い荷物を背負って、長い道中を歩き続けた疲れが、いっペんに出
たのかもしれないな"
 "お前の舞台は男性的で明るく、賑やかだった。けれど、もう一人
の辰巳柳太郎は人一倍、神経質で寂しがりやだった。そんなお前え
だから『王将』の坂田三吉の名演技ができたんだ"
 "おれとお前は六十年以上、ひとつ釜の飯をたべ、喜怒哀楽を共に
した。女房、子供より二人一緒の方が長かった。だから、腹の中で、
こんちくしょうと思いながらもけんか別れしないで長い年月持ちこ
たえられたよな"
 "新国劇の名前を、一昨年の七十周年公演を限りに沢田家にお返し
した。あれは、俺とお前しか分からない男の悲しみ。しかし、心は
永遠に新国劇だ。それでいいんじゃないか。そう、思うよ"
 "島田のやつ長げえなあ、とお前にどなられそうだからこれくらい
にするよ。長い間、本当に有り難う"
 書かれたものは全くなく、切々と語りかけるように、約十分間、
友を思う情愛に心打たれ、参列する者粛として声なく、悉く涙をぬ
ぐおうともしなかった。
 新国劇の二枚看板だった、島田と辰巳。二人の友情を描いた弔辞
は、どんな芝居にも勝る男の世界の感動のドラマだった。

アジアにおける台湾と日本の生い立ち

2005-09-29 17:26:50 | 風土記
台湾茶屋の女性給仕の写真(年代不詳だが戦前の写真か、現地入手)
台湾である。台湾と日本は実はよく似ている。
約1万年前後の氷河時期にアジアの島々は大陸と地続きになり、現在の島を形成しているインドネシア、マレーシア、フィリピン(これらはひとつの島・スンダ島と呼ばれる)と台湾、日本は大陸やこれらの島々と陸上移動が可能であった。その時期に人間や動植物が自在に移動したと思われる。人間で言うと、古モンゴルといわれる中国の揚子江以南を中心に広域にすんでいた人種が特にな南方や東方に移動したようである。現在の東南アジアの人々に共通するタイプの外形イメージである。氷河期が終わり、温暖化が始まると、海面の上昇も始まりだした。当然一方で温暖化で生息領域となった北方ユーラシア大陸で勢力拡大を始めた人種はその行動半径の広さから、東の果て、現在のロシアのアムール川を経て、現在でも冬は凍結する間宮海峡を渡り、樺太を経由し北海道からさらに本州に到達したと思われる。アイヌ民族の衣装の柄は中国の北方民族の流れを汲む。いわばミニ北方シルクロードが存在し、人や物の交易や移動が在ったと思われる。さらに温暖化が進むと、海面の更なる上昇とともに、大陸との分断が始り、切り離された島には独自の文化・風習・言語が形成・醸成され現在に至ったと思われる。一方で様々の部分で発展をとげた大陸の文化や征服の圧力をあたかも偏西風のように受け続けた、つい100年前までは。
日本人はどこから来たのかというと、二層構造からなり下層部分は前記の通りである。では上層部分はというと、温暖期に拡大してきた北方新モンゴル系である。彼らは南進し、中国に朝鮮半島にそして日本に、幾層にも津波の様に押し寄せ、侵略をしながら同時に、融合・融和してきたと思われる。さらにもう一方で、温暖化によるモンスーンの発達で四季が鮮明になり、南方では乾季と雨季が形成され、我々の祖先は同時に広く暖かくなった海洋の有機的な活用を始めた。つまり舟による大航海時代が始まった。産業革命によるそれ以前の第1次とでも言うべきものである。これらはくり舟等の人的エネルギーによる移動である。星座や海流を利用した方法で、太平洋やインド洋を自在に移動した形跡が残されている。特にミクロネシアやメラネシアの海洋民族はフィリピンや台湾を経由し回遊しながら日本にもたどり着いた、又その過程で定住する人々も多数いたと考えられる。同時に人間のあくなき欲望や支配志向や拡大性向は抗争や排除をもたらし、劣勢に立つものを追いやった。追われた人々は陸上を山地や大河を超え、さらに海岸から未知なる島を目指して逃避していった。これらの人々が我々の祖先である。つい30年前にもベトナムから数多のボートピープルが日本にも漂着した様に、これらがアジアにおけ人種や民族の形成・成立の初期過程と想定する。私たち日本人は顔かたちが実は大変異なることを認識していない。江戸時代に来日した宣教師の談話記には、これほどまでに顔かたちが異なるのも珍しいと記されている。確かに、髪の毛や眼が黒い、体形が小柄で、胴長などアジアの特徴以外は、大変異なると。皆さんの隣の友人や知人の顔をご覧ください。まったく異なる事に気づく。ヨーロッパ人が10パターンだとするとその数倍の個々の型があるように思われる。もちろん慣れると相違が分かるという部分は差し引いても。言語については諸説ありここでは言及しない。台湾ではどうか。北方系の影響は薄かったと思われるが、それ以外は日本と同じような過程を経たと思われる。東南アジアから、南方から、中国大陸から、幾層にも時を超え、移動してきたのである。特に台湾少数民族はポリネシア南方海洋民族であることは言語風習から実証されている。日本と異なるのは、幾多の外部侵略を受け、また内部抗争で多くの犠牲を強いられた歴史である。記録と口承によるものだけでも数え切れない程である。近年でも、1600年代にオランダとスペインに、そしてその前後に中国大陸の支配を受けた。その後日本も100年前の統治時には約2万人の抵抗者の処刑をしている。そして戦後の国民党支配で外省人のよる少数民族および内省人(在来台湾人)の十数万人のの犠牲を強いた。これが現在の台湾における政治抗争の元凶になっている。常に戦いと融和の歴史なのである。また、台湾を語る際に特筆すべきは、風土病についてである。日本が日清戦争による勝利で割譲したが、あまりの居住環境の悪さに、根本からの改革を実行した。特にインフラである。鉄道、上下水道、港湾、道路、橋、治水、電力、通信それに治安、教育、医療、などである。決してこれらの事柄は事実を述べるだけであって占領や支配を美化したり正当化するものではない。一般的に、欧米系の植民地化や支配は、経済的な搾取やキリスト教の布教が目的であって、被植民地の発展や平和や幸福の即ち共存共栄の概念はまったくない。キリスト教による内面の幸福のいわば押し付けだけで物理的な貢献はほとんどしていない。また中国のたとえば1800年代の清の支配時にも、そのような貢献はない。派遣される官吏は訳ありか、犯罪人が多く島流しと同等のレベルである。特に風土病で亡くなる率が異常に高く、台湾行きは地獄に行くことと同等に扱われた。残念ながら欧米人も中国人も、台湾を良くしようとは思っていなかったのである。
日本の台湾総督府はまず医療と教育からはじめた。台湾大学の医学部は精鋭の人材を本土より集め、風土病の根治に挑戦し、大幅に改善した。現在でも台湾大学の疫学は世界的な権威である。教育は識字率でアジアで2位になった。(もちろん当時の日本の台湾同化策は間違いではあるが)
一方現在の台湾は名産の「台湾茶」と「足つぼマッサージ」、一方でパソコン製造や液晶テレビなどIT関連や先端産業が中心となっている。本年台北市に世界一の高さの500m強のビルが出現した。来年には日本と同型の新幹線が開通し、台北と南部の高雄を1.5時間で結ぶ。今でも昔の日本の情緒や自然が残っている台湾もまたいいものである。
台湾島の概略:日本から飛行機で2.5時間、面積北海道ほど、平地の年間平均気温22度、冬13度、夏28度、ほぼ沖縄と同じ、南部の台南、台中、高雄は熱帯性気候、山間部は標高3952mの最高峰玉山(旧日本名:新高山)はじめ3000mクラスの山々が林立し冬は冠雪しスキー場もあり亜寒帯性気候である。いわば熱帯から北海道までの感覚。台湾檜は日本の神社仏閣で利用され、大変貴重品である。日本ではそのような大木は存在しなくなった。台湾でのブームは3年前は「冬のソナタ」、日本より1年早かった。旅行先は北海道と韓国が大人気、特に冬場の雪や氷の世界が好評。アジアで数少ない親日的な台湾もまたお勧めである。 by k


さだまさし・音楽の証言

2005-09-27 14:21:40 | 人物記
 音楽評論家・富澤一誠 特別寄稿「さだまさし」を語る。

 さだまさしが73年10月に"グレープ"でデビューしてから、早い
もので23年目になる。この23年間、さだの人生は波乱に富んでいた。
 過去2回 "さだまさしブーム" があった。74年の「精霊流し」と
79年の「関白宣言」の大ヒットである。特に「関白宣言」のときは
すさまじかった。「女性を侮辱しないで!」「よくぞ中年男性の気
持ちを代弁してくれた」新聞が社会面の半分をさき、<関白宣言、
女性侮辱に反論続々>と大見出しをつけて報道した。その結果、社
会的な話題となって、実に169万枚を売り切った。
 波に乗っていたちょうどその頃、さだは映画「二百三高地」のテ
ーマ曲「防人の詩」を発表した。「関白宣言」の余韻がさめやらぬ
ときだっただけに、この曲が評論家からやり玉にあげられ、さだ自
身"反戦歌″として歌ったつもりが"右翼歌手″とまで決めつけられ
てしまった。さだは次第に自分を見失い始めた。
 <なぜ、オレの歌を素直に聴いてくれないんだろう。素直に聴い
てくれれば、なんの問題もないはずなのに・・・>と。
 「気にしないつもりが、実際はかなり気になっていたんだね」
そこへ映画「長江」の興業失敗のために赤字28億円がまるで洪水の
ように流れ込んできた。                   
 「81年かな、ちょうど詩島(79年、長崎県から2000万円で購入)
で"独立宣言"をしようと思っていたやさきのことだった」
 "購入した島で独立する″というロマンに満ちたさだの壮大な夢
は借金のためにたちまち吹き飛んでしまった。それどころか、その
"夢の島"まで担保に入れなければならないほど追いつめられる。
さだは、ただただぼう然とするしかなかった。フォローの風が一転
してアゲインストの風に変わってしまったのだ。
 82年から、さだは年間150本以上のコンサートをこなしていく。
武道館から小さい町の1000人も入れないような小ホールまで、天下
のさだまさしが死に物狂いで回った。格好などつけている余裕はな
かったのだ。コンサートの回数を重ねていくうちに、さだは少しず
つ自分を取り戻し始める。さだを支えたのはコンサートに来てくれ
た"客″だった。
 「アゲインストのときもコンサートだけはフォローだったんです。
どんな片田舎に行っても、たくさんの人たちが頼みもしないのに、
さだがコンサートをやってるといったら来てくれて、オレみたいな
もんの歌を聴いて、うれしそうな顔をしてくれた。これが支えでし
たね。だって、コンサートに足を運んでくれるほど明確な意志表示
はないもん。そういう人たちを見ると、この人たちのためにオレは
頑張ればいいのかな、と・・・。それで今までやってこれた気がす
る。」
 そしてさだは腹をくくった。
 「オレはオレだ、と。聴いてくれる人だけに歌っていく。もとも
とたいしたことをやってるわけじゃない。批判に耳を貸すこともな
い。たかが音楽だし・・・。」
 借金も3億円に減っていた。さだは新たな気持ちでスタートした。
35歳のときのことだ。
 さだの人生は、20歳から25歳がグレープ。25歳から30歳までが
「関白宣言」と映画「長江」の製作。30歳から35歳は借金返済だっ
た。そして35歳のときに、さだは「もうひと花咲かせたい」と真剣
に思ったと言う。
 「35歳から40歳までの5年間でもうひとつピークを作りたい。
『関白宣言』みたいな人気のピークじゃなく、音楽のピークをね。
他人にはもう十分評価してもらった。さだは一応ピークを終わって
いるという評価なら、それでけっこう。ただオレは人気のピークで
はなく、オレの音楽のピークはまだ来ていないと思っている」
 そう決意して、今まできている。
今さだは「自分がこれから登る山ははっきり見えている」と言う。
「『関白宣言』のときに登った山を富士山とするなら、今登ってい
る山はヒマラヤだと思う。15、16年前はあまりにも急に登ってしま
ったためにコケちゃったけど、今度はゆっくりと時間をかけてゆる
やかな稜線をしっかりと踏みしめながら行こうと思っている」
 ヒマラヤを歌にたとえるなら、何年経っても繰り返し聴くことの
できる歌を作るということだろう。その日は近いようだ。


アジアの動物

2005-09-24 14:36:15 | 風土記
タイの首都バンコクの中心部にあるルンピニー公園の野良猫
この公園は東京で言えば、代々木公園や日比谷公園のようなイメージで、中心部にあり緑豊かで、南国の木々が生い茂り、原色の草花が咲き乱れている。
そこの猫であるが、まず血色が豊かである。日本のそれのように、傷だらけで、栄養不足によるやせ細った感じはない。まったく人を怖がらず、写真のように大きなあくびをしていた。日本の野良猫で初対面でここまで接近はまれである。これらから感じることは、人と動物がこの共通空間でともに社会を構成していること、又は共有しているという感覚を持った。したがって、困っている人や弱いものや自立できない人やものに対しては、与えるというよりも相互にシェアーするという無意識の観念が働いているような気がする。その対象物は動物でも変わらない。仏教の自然と生命の調和の概念から来ているのだろうか。ちなみに猫に関しては、初対面でも膝や肩に乗るなど、驚きの連続である。もちろん一度や二度のことではない。これほどまでに、生育や生活環境で変わるものだろうか、日本の怯えと恐怖と不信感に満ちた野良猫の目や態度をみるにつけ思う。野良犬でも同じである。食事は野良犬(猫)に与えるために、わざと残して分け与えている。いつもは歩道の中心部に横になって寝ており、どう見ても、通行の邪魔であるが、全員がそれをよけて、歩いている。日本ならすぐ蹴飛ばされるところであろう。まさに万物共生の生態環境である。このような国だから、人ものんびりである。他より先行しても、そのうち追いつかれるし、脚を引っぱってもさほど得はしないし、自分も引っぱれれるだけだからそれはやめよう。無理もやめよう。ただ困っているときはみんなで助け合おう。というベーシックな行動概念は、わが日本にも100年前は存在した。アジアを旅するごとにその思いは強くなる。逆にだからアジアを旅するのである。もっとも旅ができるのもわが国が高度に発達した事の恩恵(1人1人の努力の結集による成果の意味)によるものであることは否定できない。今日の新聞に「住みたい県のトップは沖縄」の記事があったが、これらの事柄が沖縄にはまだ残っているからだろう。キーワードは「ゆったり、のんびり、あせらず、楽しく、明るく、元気で、みんなで、一緒に生きよう」かな。みんなでは:自然とともに、生物(いきもの)とともに、諸々包含して、共生する。の意味である。ちょっと疲れたな、と思ったらこれらのアジアで癒されたいものだ。 by k

勝田康三対談:ゲスト田中邦衛

2005-09-23 15:57:45 | 人物記
勝田康三の「男の見る男の空間」ゲストは個性派俳優・ 田中邦衛
 映画「浪人街」のロケの合間に自転車で京都の下町を探訪。
勝田 確か今、京都ロケの真っ最中ですよね。
田中 「浪人街」のね。といっても僕の出番はほとんど撮り終りま
したけれど。 
勝田 撮影所は「京都映画」、建て替えたんですか?とてもきれい
になりましたね。
 京都が本拠地なんて聞くと、何かこう時代劇復活という感じがし
て胸躍るものがありますね。
田中 でも僕、京都は久し振りなんですよ。フジの「時代劇スペシ
ャル」以来ですから何年ぶりなのかな。
勝田 この「浪人街」、監督はねばることでは定評がある黒木和雄
さん、俳優陣は勝新さんをはじめ田中邦衛と、ビッグどころが揃っ
て、久々に大型の時代劇が見られると楽しみにしてるんです。
 ところで、長期にわたる京都ロケで祇園界隈の辺りは大分お馴染
みになったんじゃないかと思っていたら、何と撮影の合間は自転車
で京都の下町を走り回っていたとか。(笑い)
田中 ネオンサインがまばゆいころもあったけど、どうも齢と共に
すっかり普通のおっちゃんの生活がよくなってしまって。(笑い)
ま、もとから俺、歩くのは好きなの。ホテルから撮影所に通うのも
自転車。タクシーなんて乗ったらつまんないですよ。京都は特に路
地裏がいいんだから。途中で銭湯なんか入ったりしてね。
勝田 銭湯?一人で?
田中 それでその銭湯に毎日来てるとかいうおっちゃんがいて、あ
れ一人?芸能人っていっても見ると普通なんだねぇなんて言われて。
勝田 貴方はそれでなくともユニークな顔立ちと演技でめだってる
ほうだから。(笑い)
田中 ひと風呂浴びたあと、駄菓子やで50円のキャンデーを買って
食べるのが唯一の楽しみになっちゃって。どんどんマイナーな、つ
まんないおっちゃんをやってるの。何て言うのかな。芸能人が持た
なきゃいけない<光>みたいなものを自分から消しているところが
あるね。
勝田 ほうー。

『椿三十郎』で鮮烈なデビュー、日本人離れした多彩な表情が持味。

田中 たとえば高倉健さんなんかいつどんなときでも何をしていて
も光っているけれど、俺の場合はわずかに光るところがあったとし
ても、あえて消してる。
勝田 でもね、邦衝さんは本来、押えても押えても光る人ですよ。
映画でのデビューは黒沢監督の『椿三十郎』でしたね。あのときは
ぴっくりしましたもん。あの田中邦衛という役者は何者だって。表
情の豊かさというか多彩というか、非常に個性的雰囲気の若侍が印
象に残りましたねぇ。
田中 あの頃はむろんだけど、仕事がくるとうれしかった時期って
あるのね。やってやろうじゃないか!っていきごんでさ、でも、あ
る作品をやりながら考えたんだけど、力を入れてがんばることが表
現の邪魔をすることもあると思いました。
勝田 あえて<光>を消したいというのは・・・。
田中 ま、そんなことも影響してるかもしれないすね。
勝田 でも好感度タレントの常に上位を占めている理由は、僕はそ
の笑顔にあると思うんだけど。何というか透明感というか。女性が
安心して受け止められる笑顔なんですよね。
田中 よして下さいよ、透明感だなんて、そんな。(笑い)
勝田 で、家庭では一体どんな人なのかな。それと子供時代はどん
な家でどんな風に育ったのかな?どうも、そこいらに貴方の独特な
笑顔のベースがあるような気がするんですが。

「パパって変わってるわね」と娘が言うんだ。

田中 家じゃ、ひねこびた只のおっさんですよ。娘が二人いるんだ
けど、"パパ、しつかりして!″という叱咤激励の目線を感じながら
いつもソファでゴロゴロしてます。
勝田 いつぞや奥様と買い物中にお合いしたことがありましたよね。
とても静かな感じの方で少し意外でした。貴方の奥さんというと非
常に個性的な方を想像してしまうものだから。
田中 僕の生家は茶碗屋で、親はいつも働いていて、兄弟が7人も
いて、時代も物のないときだったから放ったらかされて、結構屈折
して育ってきたんですが、女房は普通のサラり-マンの家庭で育っ
たごく普通の女ですよ。だからというわけでもないけど、普通の夫
婦です。今京都にいるでしょ、やっぱ帰りたくなるものね。我が家
ってのは不思議だよね。
勝田 結局、一番居心地のいいところなんですよね。
田中 でもね、この間も娘が俺をみてしみじみ言うんですよ。パパ
っ本当に変わってるわねぇって。どういう意味なんすかね。自分で
もつくづく思うんだけど確かに奇妙な大人になったと思うよ。見た
目だってさ、遊び人風にしては色気もないし、職人風でもなく、ま
して知識階級にもみえない。この人何だろう?っ人は思うんじゃな
いすか。
勝田 いや、貴方は役者以外の何者でもないですよ。

 <振り>だけの芝居なんかしたくない。

勝田 「蒼き狼」の時の衣装、あれはご自分で選んだとか。個性的
ないい衣装だったですね。あれを選ぶ選択眼、すごいと思いました
よ。素晴らしく冴えてた。
田中 あのモンゴルロケは楽しかったなあ。モンゴルの町がとても
すてきで自分に合ってた。大平原で見る星が電球みたいなの。今に
も落っこちてきそうでさあ。
勝田 そうでしたねぇ。ところで貴方の演技ってラフなようで実は
すごい集中力が感じられるんですが、結構、手続きは踏むほうなん
ですか?
田中 ホテルのシェフの役をやった時は1週間ニューグランドに通
いつめてオムレツを習ったりしました。あと、「不帰水道」でうら
ぶれた刑事の役をやったときも、伊勢原署へ通って実物の刑事さん
の行動や所作をじっと見てたりしてね。力がないから、いろいろも
だえながら作品に入ります。
勝田 洞察力、観察力をひけらかさないところが貴方の良さなんだ
な。内面に培っていたものから引き出された演技だからリアルなん
ですよ。
田中 『浪人街』でも勝さんから当て身くらってドーンと激昂する
シーンがあるんだけど、これが待ってても内側からやってこなくて
ね。苦労しました。
勝田 怒りの感情がですか?
田中 「北の国から」のときも、怒りでうち震えるシーンがあって
3、4日前からその怒りに何とか達しようとイレこむわけです。で、
本番のヨーイ・ハイで "ブルッブルッ″すると「ちょっと待って、
それ、怒ってるふりしてるだけだな・・・」なんて言われて、自分
が情けなくなって、腹が立って、そしたらポーンと弾けたというこ
とがありましたね。
勝田 振りするだけの演技なら・・・。
田中 楽なものですよ。

"代用教員役″もl年経験して。

勝田 俳優座養成所に入る前、英語の先生だったと聞いてますが。
田中 10ヶ月ほど、頼まれて出身中学の代用教員をね。あの頃の文
部省はおおらかだったんだなあ。俺に先生をさせるんだもん。
(笑い)
 最初の授業でスペル間違えて、先生違います!なんて言われて。
勝田 生徒にやり込められて泣いたこともあるとか。(笑い)
田中 生意気盛りの女子学生にいじめられて悔しくて(笑い)22歳
くらいだもの、まだ純情だったんすよ、たまに岐阜に帰ると当時の
生徒たちが集まったりしてくれるんですが、もう彼らも48~49歳で
すからね。
勝田 いいなあ、そういうのは。プロになるためではない、利害の
ない師弟関係って人間の優しさの原点じゃないかな。貴方の笑顔の
いいのは多分、ここらあたりが源泉ですね。

 話題作は必ず見るようにしている。

勝田 そうそう、先日、貴方が言ってたビートたけしの「この男凶
暴につき」見ましたよ。日本版ダーティハリー。意外といい質感の
映画で。
田中 演技のスタイルとか画面構成が今まで見慣れている映画の語
り口にない、ある種の強烈な文体を感じましたね。独自の言葉があ
る。
勝田 刑事ものとギャングもの、両方のおもしろさがあってね。内
容はどぎついアメリカ映画だけど撮り方はしゃれたフランス映画風
なんですよね。
田中 たけしさんの部下役の俳優、芦川誠さん、彼と以前「婚約」
ー北海道の花嫁というテレ朝のドラマで共演したことがあるんです
が、彼なんかもよく生かされていて、びっくりしました。キャステ
ィングが不気味なくらいいいのね。
勝田 鍋島さんの技ですかね。
田中 殺人鬼の役をやった俳優、韓国の人らしいけどあれも素晴ら
しかった。たけちゃんってのは並じゃない。確実に現代を呼吸して
るね。
勝田 刺激になる作品が出てくることは大いに歓迎、ということで
今日はどうもありがとうございした。



言語とコンピュータの「なるほどさん」・中尾浩寄稿

2005-09-17 12:04:34 | 人物記
 
 コンピュータの内/外の闘う言語・・・・中尾 浩(言語情報学者)
 はじめに
 旧約聖書に書かれている「バベルの塔」の物語をご存じだろうか。
栄華を誇った人類は神にも届かんとばかりに巨大な塔を建てはじめ、
それに怒った神は人間の言葉がお互いに通じないようにし、その結
果、地球上にはさまざまな言語が存在することになった、というも
のである。
 神代の時代から人間は言葉と闘わざるをえない状況にあるのだが、
これは単に人間が言葉と闘うとだけ捕らえていたのでは問題の本質
を見誤ることになる。現代では言葉と闘った結果、さらにその言葉
同士が闘争を始める結果となっている。このエッセーでは特にコン
ピュータと言語に関してさまざまな闘争の現象について考えてみよ
う。まなじりを決して挑む必要などない。戯れつつ闘争し、闘争し
つつ楽しむことこそ、われわれに求められている態度だろう。その
中から情報化社会、国際化などと掛け声ばかりの風潮に対して、自
分たちが言葉と共にどのような立場に置かれているかについて少し
でも考えるきっかけを見つけていただければ幸いである。
 コンピュータの中で
 このエッセーを読んでいる人たちも、何らかの形でコンピュータ
を仕事に使っているに違いない。私自身はいわゆるコンピュータと
の付き合いは7、8年ほどだが、ワープロ専用機を含めれば、10年以
上になるだろうか。コンピュータとはそもそも電子計算機である。
今でこそコンピュータで原稿を書いたり、電子メールを送ることは
珍しくもないが、元来電子計算機にすぎない機械に英語や日本語が
扱えるようにすることはそれほど簡単なことではなかった。コンピ
ュータではどのように言葉を扱っているのだろうか。
 いくつか方法はあるのだが、もっとも一般的な方法は文字コード
を使うことである。「あ」は00で「い」は01であると番号を与えて
おく。そして、その番号に対応した文字の図像データは別に作って
おけば、どのソフトでも同じように使える。すなわち、その番号が
文字コードで、そのコード番号に応じた文字の図像データの集まり
がフォントと呼ばれるものである。後はどのソフトでも文字を扱う
ときにはこの方法を使えばよいことになる。紆余曲折、さまざまな
困難はあったが、日本語も文字コードが制定され、とりあえずコン
ピュータで日本語が扱えるようになった。ここまでは人間の言語と
の闘いの歴史である。ところが、ここから別の間違いが生じる。
 文字コードが1種類だけなら問題ないのだが、現実には日本語で
さえ、代表的なところで3種類の文字コードがある。しかも、それ
らがお互いに食い違っているのだ。せっかく画面上に日本語を表示
するために考え出されたものが、いくつも存在することによって、
逆に「読めないエクリチュール」を生み出してしまったのだ。エク
リチュールとはフランス語で「書くこと」「書かれたもの」を意味
する。
 たとえばインターネット経由で意味不明の文字が並んだメールを
受け取った経験はないだろうか。その原因がすべて文字コードであ
るとは限らないのだが、たいていはコードのミスマッチだ。コンピ
ュータの中の言語の闘争の始まりである。
 たとえば、ある文字コードでは「あ」が00で「い」が01だとしよ
う。別の文字コードでは「あ」が01で「い」が10のように一つずれ
ただけで、「なかおひろし」は「にきかふわす」になってしまう。
じっさいにはこの程度では済まず、記号なども入り交じって、読め
たものではないが、原理は大体この通りである。適当な文字転換コ
ードさえほどこせば読めるのだが、初めて経験したときはびっくり
してしまう。
 あるいは、私のようにフランス語やドイツ語、イタリア語など英
語以外の欧米語を扱うのが仕事の人間になると、日本語とフランス
語を混在させるのは、はっきり言って現在の文字コード体系ではほ
とんど不可能なのである。おかげですっかりコンピュータに「はま
って」しまうことになったのだが、それが幸いなことだったのか不
幸なことだったのかは今もってよくわからない。
 コンピュータで言語を扱いたいという人間の情熱の結果、一見し
たところ、何の不都合もなくコンピュータは言語を扱っているのだ
が、他方において衝突も産んでいたのである。
 コンピュータの外で
 アメリカ主導で発達してきたコンピュータ環境は、当初は英語の
ことだけを考えていればよかった。そして各国はそれぞれ自国の言
語のことだけを考えていればよかった。その結果多数の文字コード
が生まれ、それらが互いに「読めないエクリチュール」を作り出し
てしまった。つまり、コンピュ-タという現代のバベルの塔は、ま
たもや言語の混乱を生み出していたのだ。そればかりではない。
 インターネット時代になって、情報のやり取りに国境などほとん
どないに等しい状況になってくると、当然、さまざまな言語が互い
にぶつかり合うことになる。自国の言語のことだけを考えていれば
よい時代は過ぎ去った。それを解消するために、一つのコード体系
の中にすべて(と言うと大袈裟だが)の文字を定義しようという思
想のもとに生まれたのがUnicode(ユニコード)である。
 ところが、ここにも問題がある。いったい、世界中にいくつの言
語があり、どれくらいの文字種があるだろうか。世界中の言語は30
00とも4000とも言われている。それぞれの言語が持っている異なっ
た文字を一つずつ数えていたのでは気が遠くなるような数字になっ
てしまう。
 しかも、日本語でさえ、通産省が定めたJIS第一水準と第二水準
の文字だけ(ひらがな、カタカナなども含む)で約7千文字ほどだ
が、実際には漢字は8万から10万ほどあると言われている。一般の
人間はそんなに必要はないのだが、フランス語やフランス文学を研
究している人がフランス語と日本語の混在で困っているように、特
殊な漢字まで必要としている日本語学、日本文学研究者などは大い
に困っている。
 もっと日常的には、このエッセーの読者の中にも、実は戸籍に記
載されている自分の名前の正しい漢字がコンピュータで出てこない
人もいるだろう。7千文字とはその程度なのである。1997年6月に通
産省は従来の第一水準と第二水準に加えて、1999年中に第三、第四
水準として人名、地名を中心に約5千字の漢字を追加すると発表し
たが、それによってカバーされる範囲がどの程度まで広がるのかは
わからない。
 さらに、同じ漢字文化圏の日本、中国、韓国であっても、よく似
ているのだが、実は違う漢字が多数ある。たとえば、「海」という
漢字は日本では「毎」のように縦の棒がつながっているが「中国や
韓国では「母」のように二つの点を打つ。Unicodeではこうした違
いを無視して、原則として一つの文字コードに一つの漢字しか割り
当てていない。つまり、今度は一つのコード体系の中で日本語、中
国語、韓国語の間での闘争にまで広がってしまった。もはやコンピ
ュータの中でも外でも言語の闘争はとどまるところを知らないとい
った状況である。もしUnicodeが広く受け入れられたら、われわれ
日本人は「海」が出てくるたびに違和感を覚えなければならない。
さらに学校などではどのように教育すればよいことになるだろうか。
 おわりに
 コンピュータで言語を扱う!もちろんここにはさまざまなレベル
がある。今まで紹介した事例は、むしろ小さなことと言える。単に
画面上に日本語やフランス語が出てくればよいものではない。自動
翻訳・通訳システム、エキスパートシステム(たとえば医療などで
コンピュータの質問にいくつか答えると、診断の目安をコンピュー
タが判断するもの)、音声認識システムなど、実用段階にあるもの
から、まだ実験投階のものまで、コンピュータの中で人間は言語と
闘い続けている。さらに、そうしたコンピュータの中での闘いは外
にも飛び火し、思わぬところで、今まで専門家だけが知っていれば
よかった、さまざまな言語の違いに、一般の人も直面せざるをえな
くなってきている。
 私は拙著「文科系のパソコン技術」(中公新書)でコンピュータ
を「言語処理マシン」と位置づけたが、もちろん、それがコンピュ
ータのすべてではない。コンピュータ利用の保守本道は数値処理マ
シンであり、最近ではグラフィック処理マシン、サウンド処理マシ
ンとしてもコンピュータは活躍している。コンピュータを扱えるか
どうかは、研究者、ビジネスマン、アーチストを問わず、もはや必
須の技能の一つとなりつつある。
 そこで問われているのは、単にコンピュータの知識だけではない。
言語処理マシンと位置づけた場合、コンピュータについて知れば知
るほど、同時に「言語」についても知らなければならないことが増
えてくる。私はグラフィックやサウンドについてはまったくの門外
漢だが、同じ事だと思う。そうでなければ坂本龍一氏よりコンピュ
ータエンジニアの方が優れた音楽を作り出すことになってしまう。
可能性は排除しないが、実際問題としてはありえない。エンジニア
には音楽の知識が欠けている。とはいえ、コンピュータに関しては
坂本氏よりエンジニアの方がよく知っているのも事実である。とな
ると、言語もグラフィックもサウンドも、もはや従来のような縦割
り行政、自分の領域を墨守していればそれでよい時代も過ぎ去った
のだ。実際、私は今後の研究を続けるにあたって、エンジニアとの
協力なしには不可能だと思っている。
 コンピュータと言語の闘争が明確に現れたのはインターネットと
いう黒船来襲である。これによって、われわれは自国の言語が扱え
ればそれでよいといった、ある種の言語鎖国状態から抜けださなけ
ればならなくなった。日本だけではない。一番あぐらをかいている
のは英語さえ扱えればよいと考えているアメリカかもしれない。国
境なきコンピュータネットワークはもはやそれではすまなくなりつ
つある。
 と同時に、コンピュータの垣根がなくなった現在、人的、ネット
ワークにも境界線は取り払われつつある。ミュージシャンとエンジ
ニアの協力によってさらに新しいサウンドが生みだされる可能性は
残されている。言語学者とエンジニアの協力もさらに推し進なけれ
ばならない。
 コンピュータの中や外で闘争する言語。それに立ち向かっていく
ためには、人間の間の垣根も取り払っていかなければならない。
日々、コンピュータで言語を扱うことに心を砕いている私は、痛感
するのである。
                        パリより寸信(1997-8)


アート・びっくりギャラリー探訪記

2005-09-14 22:12:23 | アート記
「中谷時男」画:世界遺産への旅シリーズより
ベギン会修道院・ブルージュ

アート・びっくりギャラリー探訪記

2005-09-11 15:04:40 | アート記
「中谷時男」画:世界遺産への旅シリーズより
「ブナの森・白神山地」

アート・びっくりギャラリー探訪記

2005-09-10 18:04:26 | アート記
「中谷時雄」画:世界遺産への旅シリーズより
「馬車が行く」 セビーリャ・スペイン広場

緒に就く世界遺産への旅・・・・・・・中谷時男
              
色面構成による絵を描き始めて、20年、よい環境とモチーフに恵
まれ、ここまで描き続けることができた。この作品集は最近描きは
じめた世界遺産をテーマに、スケッチとガラス絵を交えて出展しま
した。700を超える世界遺産のうち私が歩いたのは30にも満た
ない。この先どの位歩けるか楽しみである。

中谷時男(なかたにときお)画歴
 新構造展都知事賞
 現代洋画精鋭選抜展金賞
 安井賞展入選
 浅井忠記念展入選
 上野の森美術館絵画大賞展入選  他多数。

言葉の風景館「このひと言」

2005-08-31 00:29:45 | 歩絵夢記
 私の生きる力となった・・・言葉の風景館「このひと言」

 生きるのが下手な人がいちばん多くなっています。
何かのきっかけで、たったひと言で生きることのカとなった例は、
万人に及んで映像では描くことのできないものがあります。そのと
きにカづけられたその「ひとこと」が無様な自分を助けてくれたこ
とになって、生きることの道標となっていった。
 素直に語る言葉はあらゆる仕掛けを乗り越えたものの「言葉と人」
との関わり合いを教えてくれるでしよう。
「どのような道を
 どのように歩くとも
 いのちいっぱいに
 生きればいいぞ」・・・<相田みつを>作品集より
   by アマノ



勝田康三対談:ゲスト島田正吾・その1 「藤山寛美を語る。」

2005-08-27 17:27:43 | 人物記
写真提供:松竹(株)新橋演舞場 藤山寛美・三女藤山直美


勝田康三の対談:「男の見る男の空間」
ゲスト島田正吾『享年六十歳。間の魔術師・藤山寛美を語る。』より
                         
 日本語は「テニヲハ」の膠質の語によって文章や言語が綴られて
いる。だからこそ、全体の語られることもしっかりと整えられてい
る。島田正吾師の語り口は、聊さかこれと異なるものがあって、
「テニヲハ」の一語一語が、水の一滴一滴のように生命感がある。
そして独立しているようなこの対談の「テニヲハ」である。妙なる
語を一語、亦一語、噛みしめるように読まされる。

 法善寺横町で飲んだのが寛美氏との最後の酒
勝田(庭を眺めて)前々回島田先生にお話しをうかがったのは、確
かこの竹林一面に大雪が降った1月31日の日だったと思いますが。
島田 そうだったですねぇ。
勝田 大変見事な竹林なんですね。
島田 最初はこんなにはなかったんですけど、私は竹が好きなもん
ですから、孟宗竹を何本か植えたらいつの間にかこんなになってし
まいまして・・・。
勝田 そうですか。今日はちょうど七夕ですね。竹にゆかりのある
日に沢山の竹を眺めながらまことに印象的な日ばかりで光栄です。
 ところで日本酒がお好きだと伺っていましたが。
 大阪の舞台(男の花道)を終えられて、召し上がっていらっしゃ
いますか。
島田 ええ、日本酒は若い時分からでして。後年になってからは洋
酒に変え、ブランデーばかり飲んでいましたが、最近医者におどろ
かされましてね。現在は禁酒状態です。
勝田 確か一昨年の秋でしたか、大阪の飲み屋さんで藤山寛美さん
と合って話をしたのが最後になった、というふうに聞いております
が・・・。
島田 法善寺横町だったと思いますが、日本風の小料理屋で…。寛
美さんの方は何人か座員も一緒でしたが僕の方は一人でした。
勝田 寛美さんは日本酒ですか?
島田 その時は日本酒。でもなんでもやるんじゃないですか。
勝田 あの方のお酒の呑みっぷりはいろいろと聞きますが、いかが
でしたか? ご一緒のことも多かったと思いますが。
島田 そうですね。僕が客演したときは必ず一席設けてくれました。
そういうことにはとても気を使ってくれる人でしたね。その気配り
は、人の真似のできないほどです。
勝田 酒豪の方なんでしょう?
島田 強いんでしょうねぇ。ただ顔には出しませんが、たえず細か
く神経を働かせながら飲む酒でしたから・・・。
 まあ、もちろん年齢的にもこっちが上ですし、先輩に対して礼を
尽くすといいますか、楽屋も舞台もこっちが恐縮するほど気を使っ
て下さるのがよくわかりましたよ。
 子役だった寛美氏と掏摸の兄弟に
勝田 かつて、先生が大阪でお演りになった「掏摸の家」の舞台の
時に、当時まだ大阪新派だった松竹家庭劇から寛美さんが出ておら
れて、お二人で兄弟を演じて、最後の幕切れの花道が大変印象的で
あったという文を拝見したことがあるんですが。
 その頃、寛美さんは十二歳位ですか?
島田 僕のおぼろ気の印象としては、十歳位だったと思いますが
…。それから何年か経って向こうから打ち明けられたんです。あの
時のスリの弟役は私ですと…。
勝田 はあ、そうだったんですか。
島田 その打ち明けられたチャンスもちょっと覚えてないんですけ
れど、その頃寛美君はすでに関西の喜劇王として名を成してい
ましたし、また借金王としても有名でしたから、・・・。
勝田 なるほど・・・。
島田 寛美君の演ったその弟の役というのが大変ませた不良役なん
ですよ。僕の役はスリですけど、自分の弟がスリみたいな不正なこ
とをしようとするのを怒るところがあるんです。ほっぺたをひっぱ
たいたりして・・・。駄々をこねる寛美くんの手をぐいぐい引っ張
って夜逃げするように長屋を去っていくんですが、あの折りのまだ
幼かった寛美くんの手のぬくもりが、六十年後のいまも昨日のこと
のように、想い出されます。
勝田 そうですか。
島田 それがまた一昨年の七月、新橋演舞場で客演したんですが、
二人が顔を合わせた芝居が、僕はスリじゃなかったけど寛美君はま
たスリ。スリで出合ってスリに終わる。(笑い)
勝田 なかなか面白い話ですね。
 そうしますと、その後、新喜劇に客演なさるまであまりお二人は
お合いになることはなかったわけですね。
島田 えぇ。でも寛美君の芸能生活満五十周年記念公演の時に僕と
辰巳をゲストとして呼んでくれました。
 わざわざ僕と辰巳を選んでくれた理由というのは、僕の口からい
うのはちょっと気が引けるんですが、かねがね寛美君は芸能界の中
で心から尊敬しているのは新国劇の辰巳先生と島田先生であるとい
うようなことを言っていたらしいんですねぇ。
 ということはまぁ、新国も関西で旗揚げしてますし、道頓堀に
も馴染みの深い劇団ですし、長い苦闘を続けた末、七十周年を契機
に新国劇の名前を沢田家に返上しましたが、それまで、喘ぎながら
もとにかく恩師の意志を守って、劇団活動を続けてきた、というこ
とに、何か自分たちの劇団と自身の懊悩をタブらせて、親愛の情を
寄せていられたんだと思いますねぇ。
勝田 なるほど。分かります。
 芝居は一体どうなるのかと言ったあの彼の目が・・・。
島田 ですから僕が最後にミナミの飲み屋で合った時分は、いろん
な面で悩み苦しんでいた絶頂だったんじゃないかと思いますねぇ。
というのは、世間の目から見ても新国劇の凋落は目に見えていまし
たし・・・。かつて新橋演舞場を二ヶ月超満員にしたような神通力
はなくなってしまっていましたから。
 新国劇そのものがお客様に飽きられてきたという、現実の悲劇、
激しい時の流れの中で笑いの劇団の長として、新国劇の伝統をどう
正しく残していくか・・・。
 あの時僕に向かって「せんせ、芝居は一体どないなりますねんや
ろ・・・と言った、寛美君の眼ざしがいつまでも忘れられませんね。
いろんな意味を含んだ言葉と一緒に・・・。
勝田 やはり世相が変わって来てどうしても義理・人情・正義とい
うようなものを軽んじていく風潮が強くなって来てますよね。世相
が段々、そのように変化していく中で寛美さんはきっとピンチを感
じてたんじゃないかと思うんですね。                     
島田 えぇ。えぇ、もう。
勝田 ところで、寛美さんの大変魔訶不思議な「間」と言いましょ
うか、あの独特な演技、芸風、一体あれは何なんだろうと。こうい
うことを言うと大変失礼なんですが、先生のお演りになったあの
「霧の音」における「間」、あの場合はシーンとした静寂の中で一
人じ-っとしていて何か霧の音が聞こえ、これか霧の音なのか。
あっ、これはこの俳優さんでなければ出せない「間」なんだなあ。
というのがわかってきますが、寛美さんの独特な何かはずれたみた
いな、ピシッと入り過ぎているみたいな、あの「間」は何というの
でしょうか? 
実際、舞台の板を踏んでいる方でないとわからない”間の魔術”と
いいましょうか、これはやはり新国劇をずっと支えて来られた大先
輩の島田先生に、舞台の間合いの問題としてお聞きしたいんですが。
 盗みたいほど絶妙な独特の間合い
昔亡くなった森雅之さんが新派にいっぺん入ったことがありました
ですね。新派の芸を盗みたいという意味のことを云われて・・・。
僕にもそれに似た気持ちは確かにありましたですね。
 それをどの程度盗めたかは良く分りませんですけどね。
ただ、さっきおっしゃった「霧の音」の舞台の間は、あれは台本が
いいからですよ。台本が自然にそういう間をとらすようなムードを
作ってくれている。
 寛美くんの場合は、そうでない台本でも、独自の演出、演技で微
妙な間を作っちゃうんですよ。自分で。なかなかそれは出来ないこ
とですよ。
勝田 そうしますと、客と一体になって創り出していく間なんでし
ょうかね。
 これは、どなたかが書いていらしたんですけど、寛美さんがひと
頃よく受けた丁稚でデビューした時に彼が出て行ったら、客席から
クスクスッと笑い声が聞こえたと。
で、それを彼がわかって「あっこれは私を認めて笑ってくれてい
る」という自信になったと。そうするとそこらへんが彼の独特の演
技のスタートなのかと。クスクスをつくり出したのはお客様だと。
 本当に舞台ってのはこわいものだなぁと思いまして。
勝田 私、この前の演舞場で寛美さんが演った最後の春団治を見て
ますし、昔の春団治も見てますが、私が見た限りでは最後の春団治
の時は、以前のように脇が充実してなくて、寛美さんの一人芝居に
なってましたですね。寛美さん一人が浮き上がって・・・。それが
見ていて辛かったですね。
勝田 脇の衰えなんでしょうか。
島田 それは言えると思います。
寛美君も、自分でもそれはよくわかってた。だからそれをカバーし
ようとして肉体も神経もすり減らしてゆく・・・。それにしても、
あの「間」の芸は天性プラス努力だとぼくにはおもわれますがね。
 寛美君はやっぱり春団治に近い
島田 春団治の奇想天外な人間的な面白さってのは、今度の富十郎
さんの舞台は見てませんけど、彼はやっぱり春団治に近いっていい
ますかねぇ。(笑い)
勝田 追悼公演を観て、富十郎さんならではの好演をしています。
それと「お祭りちょうちん」では三女の直美さんが父親の寛美さん       ソックリの丁稚役。驚きましたねぇ。
島田 ほう、なるほどね・・・。.
勝田 とにかく、やっぱり俳優さんは生身の人間がやる訳ですから
そういうふうな所をかいくぐって来た人とそうでない人とでは、や
はり何か違うんでしょうねぇ。
島田 それはあるでしょうね。喜劇にしても作りものじゃなくて
自分のもので役を演じて笑わせるんですものねぇ。
勝田 台本もご自分で書いてられたようですし、演出もそうですね。
春団治も演出はほとんど寛美さんですね。プロデューサーとか演出
の才能もおありになったんでしょうね。
島田 私たちの沢田正二郎先生もプロデューサーであり、俳優であ
り演出家でもありましたからね。寛美さんも同じように、常にお客
さんと手を握り合い、ともに悦び、ともに楽しむ芝居を理想に、独
自の笑いと「間」の芸を努力してつくりあげた。
 不世出の喜劇俳優だったと僕は思いますね。
勝田 今日は寛美さんの役者の神髄を、先生にお話し戴いたことで、
せめても、寛美さんのご家族や座員の方々への大きな慰めになると
思います。どうもありがとうございました。



アマノシチローの「なるほどさん」シリーズ "勝田康三の世界"

2005-08-21 16:45:58 | 人物記

「ある六本木物語」より
<勝田康三の世界>

 なぜ「なるほどさん」というタイトルにしたのか?と云うと昨今
「なるほど」という相槌を打つ人が少なくなった。老いも若きも
夫婦も子供も役人も政治家も先生も絶対にうんと少ないに違
いない。人類は忙しくて「なるほど」と頷いている暇もないだけ
だ。もし日本中の地域社会が「なるほどさん」に満ち溢れてく
れれば、世の中は一番よくなるのではないかと。ナジリ合って
いるようでは、究極は物と物がぶつかり合って、結局ナンセン
スということになる。産業革命以降は「こころ」から「物」だけが
進歩をした。究極は「物」の破局。

"テレビ界の巨像"で「勝田映像」とまで称された勝田康三が本年
6月29日に突如この世を去った。あまりにも彼らしい彼の死に方
である。「ねえっ!新しいものってモノは、古いモノの中から出て
くるものなんですよ!」勝田映像コト勝田康三はよくそういうこと
を云っていた。今でこそテレビでは時代劇を普通に取り上げてい
るが、当時は、時代モノはダメだといってマナイタにあげなかっ
た。これを取り上げたのは、田中亮吉という企画制作者の功績
である。

 勝田康三が"会いたい"と電話があって、今年の1月20日頃JR
小岩駅近くの「峠の茶屋」で会った。それが彼と僕との残酷にも最
期の別れになろうとは。その日純白のダウンを着て、颯爽とした彼
の後姿を見たとき、1月の末だというが、さほど寒くはない日だっ
たのに、なぜ厚めのダウンを?といやな予感が走った。ふんわりと
牡丹雪のような別れの姿を今でも思い出す。

           勝田 康三 作品経歴                      
略歴 昭和3年10月26日生まれ。
    明治大学中退,専修大学中退。
    三好十郎に演劇師事。  
    田中亮吉に師事し、ドラマ制作に励む。
    テレビ朝日制作局次長・総合プロデューサーを担当。
    SEDICを経て、ユニークな映像空間を確立する。
    その後東映(現東映アニメーション)の泊代表取締役会長
    にスカウトされ、東映シニアプロデューサーとなる。
    同時に東映Ⅴシネマの企画プロデューサーも兼務する。

 今日は、ネットワーキングの時代で、この代表的なものがテレビ
の仕事と言えよう。スピードとセンスとサービス。そのうえ広い人
のコネ、そして絶え間なき「べんきょう」で、そんな者だけがこの
連続的な企画表現社会のなかで生き抜くことを許される。人知を超
えた神の特別の命令によって、動かされているのが、彼だ。
 勝田康三と言う人間は"ネットワーキング"の代名詞のような異分
野でのその付き合いの広さに度肝を抜かされる。それだけに何を尋
ねても、当意即妙に答えが返ってくる。これには感心するばかりだ。
おなじ職場で、色々な仕事を共にして、企画制作者の中でこんなに
まで<技と見識と決断力>に富む人は見た事はない。バランスが取
れている。その制作分野は、横断的で縦横無尽。詰まるところ彼は
シリアスなアーチストであり、ロメンティックなアーチザンある、
と言える。彼を知る人は、口を揃えて言う。彼の活躍の秘密は彼だ
けしかもつことのできない「夢と勇気と励まし方」にあると。あの
燃えるような若さを実現した彼の姿が、今でもまざまざと目に浮ぶ。

昭和33年、テレビ朝日(当時NET)に入社。                 
 演劇・映画の経験を生かし大型ヒット番組は、当時は殆んど
田中亮吉との二人三脚によるものが多い。
昭和34年、入社時は外画部に所属し
◎外国テレビ映画「ララミー牧場」を担当。放送業界で空前絶後の
 視聴率を獲得し外画のNET(現テレビ朝日)と呼ばれることになる。
◎テレビ映画
◇アクションテレビ映画。
◆「五番目の刑事」で新人原田芳雄を起用。ジープの刑事像を初め
 て登場させる。
◆"世界のミフネ"のテレビ初出演に成功。
 大型時代劇「大忠臣蔵」を52回に亘って制作。田中亮吉制作局長
 の指揮の下に完結。

脚本・池田一朗:作家(隆慶一郎)大正13年東京赤坂生まれ。
東大仏文卒、立教・中央大学の助教授を経てシナリオライターに。
映画「にあんちゃん」「陽のあたる坂道」、テレビ「大忠臣蔵」
「火曜日の女」等ほか多数。
その後60歳を契機に小説家に転向し「吉原御免状」(直木賞
候補)「影武者徳川家康」「かくれ里苦界行」「鬼麿斬人剣」
「一夢庵風流記」(柴田錬三郎賞)「捨て童子松平忠輝」「花と
火の帝」「見知らぬ海へ」などの作品がある。

(映画スター三船敏郎を大石内蔵助に、佐久間良子、司葉子、
上月晃、萬屋錦之介、勝新太郎、 渡哲也、中野良子、竹下景子、
田村正和、丹波哲郎ほかキャスティング。 NHKを凌ぐ。
討ち入りは、32.8%の高視聴率を記録)

◆「荒野の素浪人」・(60本) ・三船 敏郎
  「荒野の用心棒」・(39本) ・渡   哲也 
 「破れ傘刀舟・悪人狩り」  ・萬屋 錦之介
 「破れ奉行」         ・萬屋 錦之介
 「破れ新九郎」        ・萬屋 錦之介
  「無法街の素浪人」 ・三船 敏郎・小川真由美
  「賞金稼ぎ」 ・若山 富三郎
  「江戸の鷹」         ・三船 敏郎                   
◆「遠山の金さんシリーズ」 ・高橋 英樹
◎芸術祭参加作品
 「蒼き狼」井上 靖・原作   ・ 加藤 剛・倍賞 美津子
 「わが愛の城」 向田邦子    ・ 萩原 健一・岸本 加代子
◆現代物
  「警視庁殺人課」       ・菅原 文太・鶴田 浩二
  「京都花見小路の女」     ・山本 陽子・篠田 三郎
  「パリ行最終便」       ・いしだあゆみ・岩城 滉一
☆「ロス発、第一級殺人の女」 二谷英明、真野あずさ。平成元年
テレビ朝日開局記念放送分
◎ニュース・ワイドショー
 従来のNHK型を打破したこんにちのはしり
「桂小金治アフタヌーン・ショー」、田村魚菜「料理教室」
 「小桜葉子の美容体操」ほか、数々の企画を生む。
◎スタジオドラマ
  「ポーラ名作劇場」「夫を成功させる法」などの路線を確立。
◎東映テレビ映像
平成元年 「手塚治虫物語」・ 古谷 一行 ・竹下 景子 (NTV)
平成2年 「緋牡丹お竜」 ・名取 裕子 ・松方 弘樹 (ANB)
平成2年「天皇陛下の野球チーム」林隆三・市川染五郎(フジTV)                              C:Copyrigting
勝田康三が関わった数々の日本のTV映画及びTVドラマ作品の
後世まで残る名作の一部を掲載しました。

三船敏郎 大忠臣蔵

2005-08-18 19:12:54 | 人物記