2011年3月11日、東日本大震災で108人中84人の児童が犠牲になった、「あの」大川小学校。
そこは、今、「震災遺構」として公園となり、保存されています。
大川小の位置はこの辺です。
海から直線距離で3.7キロも離れているので、まさか津波がここまで来るとは思わなかったのでしょう。
しかも途中には山もあります。当時のハザードマップでも津波は想定外でした。
ただ、すぐ近くには山があります。
学校の「裏山」的な存在であるこの山に登ってさえれば、多くの命が救われたでしょうに…。
……それは「結果論」に過ぎないのかもしれませんが、
津波への避難訓練が徹底されていた「釜石の奇跡」に比べると、どうしても悔やまれてなりません。
だって、よりによって、長々と先生たちが議論した末に、川沿いに避難したんですからね(*´Д`)
施設は全体としてこんな感じです。駐車場スペースも完備されており、非常に見学のしやすい施設になっております。
ちなみに震災前はこんな感じだったようです。
現在は周囲の家々は流されてしまい、更地になってしまっています。
学校の校舎もかなり独特な配置です。
当時は先進的な学校として建設されたようです。
校門の跡地から見学していきましょう。
こっちがかつて校門だったらしい場所です。この門柱もたぶん、一旦津波で持って行かれているのでしょう。
校舎の反対側には「震災伝承館」があります。
キレイな建物です。トイレもすっごくキレイです。この地の伝統や大川小の歴史、被災の状況などが記録されています。
(展示内容は割愛します)
さて、校舎を見ていきましょう。
近づけないように柵があります。
献花台もあります。
この表示案内からかつての大川小の様子をうかがい知ることができます。
今は外側の壁も土砂撤去のために取り壊されてむき出しになっています。
かつてはそこに腰壁とガラス窓が入っていたでしょう。
変わった教室です。円を均等に分けたような部屋割りでケーキの一片のような教室になっています。
どんな目的でそんな校舎を作ったのか、今では全くわかりません。
もはやどこまでが廊下でどこまでが教室だったか分かりません。
屋根もやられています。水がそこまで浸かったのでしょう。
3年生以上の教室です。
……生々しいですね。
なんとも痛々しい。
がらんどうです。
東日本大震災では津波が相当の高さまで来ていました。たぶん、この校舎の2階まですべてが飲み込まれていたでしょう。
しかし、河口から5キロくらい離れているここまでそんな津波が来るとは…。
モダンな低層建築がアダとなったか。いや、そもそもこの小学校では「屋上に避難する」という選択肢もなかったのです。
一方、体育館やプールの方面です。
体育館は建物のほとんどが持って行かれています。津波の到達は15時37分ごろ。
地震は14時46分に起きていますから、津波はほぼ一時間後だったということです。
渡り廊下の鉄骨入支柱がやられていますね。津波の力はものすごいです。
堤防に使われていた分厚い鋼鉄の扉も飴細工のようにベコベコに曲げるくらいですからね…。
体育館の倉庫跡です。
よく見ると、建物の中に机や備品などがあり、生々しいです。
こっちは基礎だけが残されています。
こちらは「野外ステージ」があった場所だったらしいです。子どもたちが書いたであろう壁画がなお痛々しい…。
学校に隣接する山は泥炭地で急斜面。「登りづらい」「山が崩れたらどうしよう」という判断で避難に使われなかった模様です。
釜石なら、迷いなくみんな必死に登ったでしょうね…。だって、命には代えられないもん…。
痛々しい詩が残されています。
上の写真とは別の碑です。
この大川小の事例は「人災」だと言われています。
ハザードマップではこの小学校までの津波は想定されていませんでした。
さらに避難マニュアルも避難先は「高台」とだけされ、具体的にどこに逃げるのか想定されていませんでした。
それが教職員の迷走を生み、「川沿いの避難」という愚行を生み出します。
「愚行」というのは結果論に過ぎないのかもしれませんが、
私が釜石の教育委員会や小学校に取材したところによると、
釜石の学校はどこも避難先がしっかり指定されています。あるいは学校ごとに練りこまれています。
そもそも学校を高台の上に作ったりしています。
大震災当日は学校が終わったあとだったので、校庭での集合や点呼は行われていませんでした。
それでもめいめいが真っ先に高台に避難しています。小学校の高学年や中学生は、高齢者や幼児の避難を手伝ってすらいます。
もう、地域の心構えが違っているのです。
一言で言うなら「油断」でしょうね。「ここまで津波は来ないだろう」という油断。
学校の子どもたちだけではなく、この地域では大人たちも大勢亡くなっています。住民の4割が犠牲になっています。
一言で「油断」と片づけるのも、それこそ「結果論」です。
この辺りは、ここまで津波が来たことがない地域だったかもしれません。
逆に釜石は過去の歴史上、何度も津波の被害に遭っています。
がらんどうになった校舎が痛々しいです。
こうしてみると、ちょっと古くなっただけの校舎にも見えます。
放課後には子どもたちの声が聞こえてきそうなくらい。
……、しかし、起こってしまったことはもう取り返しがつきません。
「想定の甘さ」を教訓にするしかないのです。
気仙地方を走っていると、時々、このように残された建物、「震災遺構」を見つけます。
もとはホテルかなにかだったのでしょう。
津波が三階以上のところまで来ています。
そして、震災で犠牲になったのはもちろん大川小だけではなく、
同じ「石巻市立吉浜小学校」というところもそうです。
すでに吉浜小学校は移転してしまっているので、慰霊碑があります。
海の近くです。
しかし、石巻市ってなんで海の近くが好きなんでしょう…?
いや、東日本大震災以来、学校とか建物を海の近くに建てなくなっただろうとは思うのですが…、
この小学校も犠牲を出しました。
慰霊の鐘です。
ワシをかたどったモニュメントです。
この地域の説明と、
犠牲者の名札です。この辺り一帯は今はほとんど更地になっています。
ここにあった「吉浜小学校」の顛末を書いた石碑です。
読みづらいので、拡大するとこうです。
参考に香川大学の調査がこんな風にあります。
これだけ海から近いと建物の3階まで飲み込まれるんですよね…。本当におっかねえ…。
最後に「女川港」からお届けします。
「女川」というと「原発」が有名ですが、ここは本来漁港として栄えている地です。
震災によってここも甚大な被害を受けましたが、だいぶ復興は進みつつあります。
今回写真には撮っていませんが、道の駅とかとても綺麗でおススメです。
でもやっぱり、朝の海っていいですよね。
何処がいいって、う~~ん、言葉にできないところとか?(+_+)
そんな女川にも震災遺構があります。
それがココ、「旧女川交番」です。
倒壊も心配される震災遺構ですから、周囲は柵でおおわれていますが、周りをぐるりと見られるようになっています。
かつては、こんな感じだったらしいです。
それが、こう。
さっきの写真の左側にあった「物置」に寄り掛かるようにぐるりと回転して横たわっています。
左側が地面に埋まっていた基礎部分で、右側が建物の屋根の方らしいです。
津波に「転がされて」こうなったんでしょうね。
外観がこんな感じです。屋根部分が緑色になっています。
この部分だけが「震災直後」の雰囲気を残しています。
窓の方から中がのぞけます。
建物の中はこんな感じです。
ちなみに、この交番の周辺は復興が進み、実にきれいに整備されているので、この交番跡とのギャップに愕然とします。
建物の基礎部分です。
地中に打たれたコンクリートの杭が引っこ抜かれています。
もちろん、鉄筋ですよ。
こんなのが一か所につき三本も埋め込まれているのに、津波はいとも簡単に引き抜いて「転がして」いるわけです。
津波って、おっかなすぎですよ。
がれきがいまだに残されています。
周囲は枯れた木ですら残されているので夏には「蜂」注意です。(*´Д`)
しかし、逆にこういうものを、周囲の環境も含めて保存しているのは実にいい選択だと思います。
人はいい意味でも悪い意味でも、「忘れてしまう」生き物ですから…。
(終わります)
【撮影日:2024年2月10日】
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