この前の、大雨による大水で亡くなった人の中には
家から逃げずにそのままだった人がすくなからずいたそうです。
どうしてそんな。逃げればよかったのに。
と思うと同時に、逃げればよかったのか? とも思いました。
思えば、戦時中など、戦艦(戦争に使う艦艇)の船長は
船が沈む際は乗員全部逃がした後に自分も一緒に沈むのが
美徳であり美学であった……と思います。
家とともに沈むのもそれと同じことで、人の美徳や美学、
その人の命のあり方に他人が文句をつけられるものなのか、
とも考えるのです。
家が沈む際に逃げたとして、その後はいつ終わるかわからない避難所暮らし。
沈んだ家はどうよみがえるかもわからず、
場合によっては思い出も過ごした年月も、
過去のものがすべて流されてしまいます。
草で言えば根っこを切られた根無し草として
それから生きて、それでも生きていたほうがいいと
本当に言えるものなのでしょうか。
わたしは自分が死ぬよりも、他人や思い出が無くなっていくほうが
よっぽど嫌です。
みんながいなくなった中で一人だけで生き、
最後は一人で死んで、腐ったところを見つかって、
顔をしかめられながら、侮辱されながら
ごみのように片付けられるなんて恐ろしくてたまりません。
それなら、見送ってくれる人がいるうちに
死んでしまえたほうがよっぽど楽だと思います。
今回のことでも、自ら選んで無くなった人が苦しまずにいけたのなら
それはそれで幸せなことだったのではないかと思うのです。
でも問題は、世界と魂の判定です。
話によると、この世の一番の罪は自殺で、
自殺すると魂にためてきた人生ポイントが失われ、
また輪廻の浅い場所からやりなおしになるのだとか。
逃げられるのに逃げなかったことが、自殺だと判定されたら、
今までの人生も、その人生にいたるまでの魂の航跡も
全部完全に無駄になり、今回の人生よりもさらに厳しい重荷を
背負わされて別の人生をやりなおしさせられると考えると、
人生の問題ではなく、魂の問題として、
やはり逃げるべきでなかったのかと思います。
でもそうすると、人生や魂が求めていたのは、
それなりに山あり谷ありあった生涯の終わりのほうで、
二度と立ち直れないほどの苦痛を持ちながら
それでも生きていくことだ、ということになります。
人生は、乗り越えられない苦行は与えないと聞きますが、
実際に乗り越えられないと考えて諦める人もいるのですから
どうにもうそ臭いです。
みんな幸せに生きて、幸せに死ぬ世界ならいいのに。