直列☆ちょこれいつ

最近は神社や神道などの古い文書の解読をしています。
研究のまとめはカテゴリ『自作本』から。

おとぎばなしと裏の意味

2012年05月15日 | ちょこのひとかけ


わたしは今まで、おとぎばなしはおとぎばなしで
それ以上の意味なんてないと思っていました。
でも、竹取物語を調べているうちに、
そうではない可能性の話を見つけ、
確かにおとぎ話はただのおとぎ話ではないのかもしれないと
思うようになりました。

話に言うには、おとぎばなしとは、為政者の正当性を
裏付けるために作られたものなのだそうです。

それを見て思い出したのが、北朝鮮と南朝鮮です。
北朝鮮の放送らしい番組では言います。
「ねずみを退治する」「ねずみが死んだら愉快」
みたいなことを。

これがおとぎばなしになったらどうなるかと考えたところ――
思いついたのが、前日のお話。


それと近い構図をもっともよく持っていると思ったのが、『ももたろう』です。
まず、桃太郎は桃に入っています。
人間が桃に入っていること自体、わけがわかりません。
これはかぐや姫が竹に入っていることにすごく近いです。

かぐや姫は実在の人物がいる、ともいいます。
たとえばかぐやひめであったり、タケノヒメであったりと
考えられているようです。

では桃太郎はと考えると、桃が霊力のある実だとか、
桃が桃尻で、またから生まれたことの隠喩とかではない気がします。

意味不明に桃からうまれた太郎が、後に仲間にするのは、
犬・猿・雉という、これまた意味不明のものです。
古来の鳥といえば、朱鷺や鶏などにとられてしまうのでしょうから、
そこを『鳥』とせずに『きじ』としているところに
なみなみならぬ情熱と意味を感じます。

でも、あの動物が人のことだとしたら、どうでしょう。
犬といえば犬上氏もいますし、猿といえば猿田彦もいます。
きじは……後には木地氏なんていうのも出てきますので
名前である可能性は捨て切れません。

それらが人の話だとすると、桃太郎のもも自体、
人名、うじ名である可能性があります。

『もも』の漢字と言って真っ先に思い出すのは、
ひと・そ・もも・ちの一十百千、『百』です。
当時の百といえば百済などもありますし、
八十八歳のお祝いを『米寿』と呼ぶように、
百から一をとった『白寿』の『白』関係や、
百から一をとって『九十九』の『つくも』あたりも考えられます。

そのまま百として考えると、大きな桃が川を下ってきた、というので
百の字を持つ人間たちの大集団が川の上流から、
下流にと勢力を拡大してやってきたのかもしれません。

そのころ、その大集団のほかに小集団があって、
宝石などを手にして暴れていたようです。
暴れていたというので、反対勢力であり、
百の字側と小競り合いを繰り返していたようです。
宝石を手にするというところからすると、
玉などの加工技術をもち、財産を蓄えていたのでしょう。

そこで、百の字の一族の中から男を出して、
鬼どもをぶち殺して財宝や宝石加工技術を奪うことにしました。
お供につけたのは、先述の犬の字、猿の字、キジの字の家の者です。
百の字の将軍を筆頭に、それぞれの一族が指揮をとり、
勢力に反発するものたちを鬼として殺しまくり征服しました。

鬼は悪者なので、懲らしめていいんです。
殺しても財宝を奪っても、こちらに義があるんです。
めでたしめでたし。

という内容です。

昔、他国の文化を侵略した人間がまっさきにやったのは、
その国の文化を破壊しつくすことだったと言います。
キリスト教国も、よくほかの国を侵略して行っては
その国の神様を殺し、キリスト教で洗脳して
自分たちのいいように操ろうとしてきた歴史があります。

日本もある時期から無駄に仏教が入ってきて
日本中に広がっていますから、そのころに侵略があったのかもしれません。
でも、日本にはまだまだ神社が残っています。
かつては本地垂迹説なんて言って、神様が仏になったなんていう
おとぎばなしもあったせいで、神様も仏様も
変に混じってしまいましたが、今考えると悲しいことです。
日本の神様、チの精霊たちは神様であって、仏ではありません。

そんな手助けをしてきたのかもしれないと考えると、
おとぎばなしにそら恐ろしさを感じるのです。
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