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すんごいおためし。

2011年02月15日 | 日記
声が聴こえだしてから、半年ほどたった頃のことです。
すんごいおためしがやってきました。

友人が、「近くに、声が聴こえている方で、セッションをされている方がいるよ。」
と教えてくれたのです。
友人は、そのセッションを受けに行く予約をとったと、ワクワクしながら話してくれました。

興味深々のわたし。

なんせわたしのまわりで、声が聴こえるという方が一人もおられなかったので、
お会いしてお話ししてみたい気持ちでいっぱいだったんです。

予約してみると、なんと友人よりも先にセッションを受ける日取りになりました。
いざ、セッションルームへ。

ところが、わたしが思ってもいなかった展開に・・・。

まず出だしから、
「あなたについているのは、低級な動物霊、狐がついています。
あなたがいろんな人にサポートしているせいで、あなたの守護霊さまが困っている。」
なんてところからスタート。

「あなたの守護霊さまが、あなたがサポートした人の守護霊様に、手土産をもって謝りに行っています。
ほらっ、こっちにも、あっちにも・・・。」
そう言うと、その方は虚空を指さすんです。

びっくり仰天のわたし。

それ以降、わたしがいかに人に迷惑をかけているか?ということを、十三箇所にわたり指摘し、
「今からその低級な動物霊を浄化させます。」と言われました。

わたし、人から自分のことを悪く言われた経験が、あまりありません。

それを一方的に十三箇所も人に迷惑をかけている点を指摘され、しかも、重罪のような扱い。

なんだ?なんだ? 頭の中が混乱しました。
その人の前だと、自分が犯罪者にでもなったような気がしてきます。

誤認逮捕された無実の人が捕まって、刑事さんに一方的に責め立てられると、
頭がもうろうとしてきて、やってもいない罪を自供してしまう・・・というシーンがありますが、
そんな感じ。

「わたしって、そんなに人に迷惑かけてたんだろうか・・・?
どうしよう・・・。守護霊様、怒ってるのかな?」
なんて思考が頭をよぎりました。

フラフラになりながら帰宅。

頭はまだ混乱状態のままです。
しばらくたつと、だんだん冷静になってきました。

わたしに聴こえてくる声は、人を責めたり悪く言ったことが、一度もないんです。
犯罪者に対しても、一度も責めたことがありません。

ただ愛のある言葉、認める言葉、許す言葉しか言われない。
人の心が軽くなることしか言われない。

これが「愛」じゃなかったら、いったい何を「愛」って言うんだろうか?

わたしに聴こえてくる声は、犯罪者さえ責めないのに、
犯罪も犯していないわたしが、ここまで責められるのはおかしい。

守護霊様は光の存在であり、生きている人間よりも、魂本来の姿「愛そのもの」に近いはず。

そんな方々が、たとえわたしが間違っていて、人に迷惑をかけたとしても、
はたしてわたしのことを責めるだろうか?
手土産もって、相手の守護霊様に謝りに行くだろうか?

結論として、わたしは自分を導いてくれている声を信じることにしました。

例えそれが間違っていて、人に迷惑をかけてたり、守護霊様を怒らせることになったとしても、
わたしは自分の心が「YES」と思った方を信じよう!

もし迷惑をかけてしまったら、わたしが死んで魂の世界に戻った時に、
守護霊様たちに土下座して謝ってもいい・・・。

そんなふうに決心したんです。

次の日になりました。
わたしは心がだいぶ落ち着いてきたと同時に、セッションをしたセラピストに対し、
猛烈に怒りの感情が湧いてきました。

その時に、声が聴こえてきたのです。

聴こえたメッセージは、愛にあふれていました。
わたしは聴いているうちに、涙が流れてきたのですが・・・。

続きは次回のブログで。

人をジャッジしない(続き)

2011年02月12日 | なんでも仙人のメッセージ

  「どうやって解放したらいいんですか?」

  「そちは、人を導く人は、相手の心を軽くしてくれて、なおかつ
   宇宙の真理について、正しい知恵をもっている者でなければならぬと思うておろう?」

  「はい・・・。」

  「じゃがな、人の魂には、いくつもの学びの段階があるんじゃよ。」

  「学びの段階?」
 
  「そう。みんながいっせいに、心が軽くなるわけではないのじゃ。
   中には、押さえつけられて押さえつけられて、ようやく自分の心の声に気づける者もおる。
   そういう者にとっては、押さえつける役をしてくれる指導者も必要なんじゃ。」

  「押さえつけられてっ・・・て、そんなことを望む人がいるんですか?」

  「たくさんいるよ。自己肯定感が低い者は、このような押さえつける指導者に出会いやすいな。」

  「どうして?」

  「普通の状態だと、自分が大切な存在なんだと、叫べないからじゃよ。
   自分なんてどうせ・・・と、自分を過小評価し、自分の存在価値をちっぽけにちっぽけに思っている。
   多少押さえつけられたくらいでは、心の声を叫ぼうとしないのじゃ。」
 
  「苦しいですね。」
 
  「そうじゃのぅ。ゆえ、それをフォローする助っ人役の者も、ちゃんと存在している。」

  「助っ人役?」

  「そう。助っ人役には、生きている人間のほかに、光の仲間たちもたくさんいる。
   そちらは実にたくさんのサポート体制の中で、今世の課題に向き合っているというわけじゃな。」

  「そうなんですか!」
  
  「人はな、失敗せずに、誰にも迷惑をかけずに生きていこうと思うと、肩がこるじゃろ?
   そんなところを目指すよりも、
  『相手の言葉の中に、何か自分にとって意味のある言葉はなかっただろうか?』
     この一点に集中して、相手の言葉を聴いてみる。」
 
  「ほぅ。」

  『自分にとって都合の悪い状況であったとしても、そこから何一つ学ぶことはなかっただろうか?』  
   そう自分に聴いてみる。ゼロではあるまい?」

  「確かに・・・、そうですね。」

  「このような視点で相手の言葉を観察すると、今まで気づかなかった発見がきっとみつかる。
   自分がもっと楽に生きられるヒントがな・・・。」

  「なるほど。」

  「これが人をジャッジしなくなる方法じゃ。」



人をジャッジしない

2011年02月10日 | なんでも仙人のメッセージ
 声が聴こえだしてすぐの頃のお話です。

 この頃のわたしは、人をジャッジしてました。

 「この人はどういう人だろうか?」
 「この人の言ってることは正しいのか?正しくないのか?」
 「この人の言ってることに耳をかす価値は、あるのか?ないのか?」

 嫌なやつですね、わたし。
 でも自分の中に、人をジャッジするもうひとりの自分がいたんです。

 誰にでもジャッジするわけではなく、
 特に自分の目上にあたる人(メンターとか、上司とか)に対して、
 ジャッジする自分がいたように思います。

 それで、「正しくない」と思うと、そのメンターにはもうついていけなくなっちゃうんです。
 その人の言葉は、わたしの耳を素通りしていきます。

 そんな時こう言われました。

 「そちは人の話を、0%か100%で聴いていないかね?」

 「え?」

 「自分が納得できる人の話は、100%。納得できない人の話は、0%。耳に入らない。」

「でも・・・。」

 「でも?」

 「納得できないと、心の抵抗があって、入っていかないんです。」

 「なるほどのぅ。」

 「それ、聴かないとまずいですかね?」

 「まずくはないよ。じゃが・・・。」

 「じゃが?」

 「そちがもっと楽に生きられるヒントが届いておるのを、
  みすみす見逃しておることになるのぅ。」

 「えっ?そうなんですか?」

 「そうじゃよ。出会いとは、お互いに課題と課題の奇跡的な組み合わせで成り立っておるからのぅ。」

 「う~ん。」

 「そちは目上の者(メンターや上司)に対して、手厳しい見方をしておるよのぅ。
  メンターたるもの、完璧でなければいけない。
  正しくなければいけない。
  そうでなければ、人を導く時、間違った方向に導いてしまうから・・・と。」

 「・・・そうですね。」

 「それ、そっくりそのまま、自分自身に言うておるセリフよのぅ。」

 「えっ?」

 「気づいてなかったのかね?
  そちは自分に対し、完璧を求めているのじゃよ。
  自分が常に正しい道を歩まなければいけないと。
  そうでなければ、人に伝えたり、人を導いてはいけない。そんな資格はないと。」

  「!」

  「じゃから、目上の人を見る時も、判断のフィルターにひっかかるんじゃよ。
   この人は本当に正しいことをいっているのか?
   人の上に立つ資格がある人なのか?とな。」

  「確かに・・・。そうですね。」

  「それ、解放してみぬか?」

  「え? どうやって解放したらいいんですか?」

  さて、このあとなんでも仙人は、どんな解放の仕方を教えてくれたのでしょうか?
  そして、人をジャッジしない方法とは?

  続きは次回のブログで。

託されたメッセージ

2011年02月09日 | なんでも仙人のメッセージ


さて、体外離脱して、

真っ暗なトンネルの中をすべっていった先にあった、

あったかくてまぶしい光の玉。


その光の玉の前に立ちはだかった、

超巨大な大日如来様。


西遊記に出てくるシーンで、

孫悟空がきんとうんに乗ってこの世のはて?

まで飛んでいき、

最果てにあった五本の柱に、証拠のサインを残したら、

実はそれはお釈迦様の指だった・・・


というシーンがありますよね。


あんな感じ。


超巨大なんです。


その時、大日如来さまからか?光の玉からか?

どっちか分かりませんが、言葉が聴こえてきました。


耳に聴こえるというより、感応するという感じでしょうか?


テレパシーみたいに、相手の言葉がなぜか分かるんです。


「そちに届けている声が、

 夢や気のせいではないことを
   分からせるため、 
   このように体に感じさせた。


 
  そちは自分が
  信じられなくなっているのであろう?

 


 まわりの者に言われて、
 夢か?
 自分の意識が作り出したのではないか?

 


 と思い始めている。

 


 そちの言葉ではなく、
 受け取った言葉だと、

 そちが自覚していおらねばならぬ。」


 ほへ~っ・・・という感じです。


 もぅ圧倒されて、口をぽかんとあけて、
  
   見上げるしかない状況なんです。


「この光が本当の自分。
 
   本来の姿。


   みなどの者も光をもっている。


 しかし、

   自分の中の光を見失い、
  もがき苦しんでいる人がたくさんいる。


 自分なんて・・・と、
   自分を過小評価している人が
   たくさんいる。


 みなに声を届けているが、
   なかなかにこの声が聴こえないから、

   どうか代わりに
   この声を届けてほしい。」




 そう言い終わると、今まで見ていた景色が急に小さくなって、

 空間が閉じるように自分の部屋の景色に変わりました。


 映画のCGみたい。

 こんな体験はじめてしました。


 ドラえもんの四次元ポケットを描いた藤子不二雄さんは、

 もしかしたらこのような体験をされたんじゃないかな?


 なんてことが頭をよぎりました。


 信じられないような体験ですが、

 体が滑っていく感覚や、浮き上がる感覚を実際に体感したので、

 これは間違いようのない事実だと、わたし本人は分かります。


 四年たった今でも、あの滑っていくスピード感や、

 背中に摩擦が一切ないツルツルした感じは、忘れられません。


 「もう一回魂の故郷に行ってみたいなぁ~。
 
      空間がパカッと開かないかなぁ。」


 なんて、ワクワクしながら待っているのですが、 

 あれ以来さっぱりありません。



 きっと亡くなる時は、あんなふうに光に戻っていくのかなぁ・・・、
 

 そんなことを思いました。


 あのジェットコースターなみのすべり台体験は、
 
 あの世に帰る時の楽しみにとっておこうと思います。

 
   実は今年になって、わたしが見た光の玉にそっくりな絵を見つけました!


   その絵は、ツキを呼ぶ魔法の言葉の著者、五日市剛さんの
 
   講演会のチケットハガキの裏に、印刷されていました。


 「この絵を見てると波動が上がるそうだよ。
       
       五日市さんが言ってた。」
 
 
   と、チケットハガキの持ち主の友人が言ってました。

 
 五日市さんも、行ったんでしょうかね? あちらに。


体外離脱体験

2011年02月08日 | 日記


 みなさんは

体外離脱」って、

したことあります?

 

  魂が体から抜けだして、真上から自分の体を見てる・・・
 

 とかっていう、あれです。



 わたし、あるんですよ。

 体外離脱体験。


 一回だけですけど。


 今から四年前、

  声が聴こえ出して一カ月くらいたった頃に、



 それは起きました! 



 あの頃は、聴こえてくる声が、


 ●いったい幻聴なのか?

 ●自分が作り出した声なのか?

 ●ちゃんとしたところから届いている声なのか?


 分からなくなってしまい、混乱していた時期でした。



 まわりの友達に相談しても、

 

「自分は聴こえないから、よく分からない。」


 と言われたり、


 「気のせいじゃないかな?」


 と言われたり・・・。


 その当時、わたしのまわりには、

 私の体に起こっている変化に的確に答えてくれる人が

 いなかったんです。


 それで一人でずっと考えているうちに、

 だんだん面倒くさくなってきて、


 「どーでもいいや。もぅ寝よっと。」

 とベッドにもぐった瞬間、

 

 それは起きました! 

 


 なんと寝ているベットの上空に、

 直径80センチくらいの真っ暗い空間ができ、

 

 体が寝た状態のまま、

 その空間の中に

 全速力で滑りだしたんです! 


 プールにある長い長い滑り台を、全速力で滑っていく感じです。


 「おおおーっっっ!!!」

  びっくりしました!



 滑り台のまわりはトンネルのように暗くて、

 まわりの景色は何も見えません。
  


 その中を、どこまでもどこまでも滑っていきます。



 背中にまったく抵抗がない感じ。

 ツルンツルンなんです。  

 

 ひぃぇ~~~っっっ!!

 

 滑って行くはるか先に、

 とても明るく優しい光の玉が見えました。 

 

 その光の玉は、まん中が真っ白い玉になっていて、

 グラデェーションのように黄色からオレンジ色へと

 まわりに広がっていました。



 とってもまぶしい光なんですけど、目で見ることができます。


  
 肉体の目で見ているというより、肉体から飛び出した、

 魂が見ている映像のようでした。


 
 その光の玉に近づくにつれて、

 なんだかとっても懐かしい感覚がよみがえってきました。

  
「わたしはここを知っている!」



「わたしはかつて、ここにいたことがある!」

 

 光の玉の真ん中、真っ白い部分の輪郭をよく見ると、

 ホタルのように、出たり入ったりしている光たちが

 いくつもありました。


  
 その光たちが、なんだか懐かしくてしかたないんです。


  「ああ、久しぶり~。元気だった?」

 

  「ふんふん、どんな体験をしてきたの?」

 

  「へ~、そうなんだぁ。」

 


 無意識に光たちと会話をしている自分がいました。



 この光の中は、

 すべての知識や経験が共有できること。 

 

 そして

 この光はすべて、自分自身であること。
 
  
 そんなことがなぜか分かる。


  
 この光は愛そのもので、この中にいると

 なんとも言えないやすらぎや、あたたかさや愛で包まれる。

  
 「あぁ、ここが魂の故郷なんだ・・・」


 なんてことを感じながら、まだまだ体はすべり続けています。


 
 その時ふと不安がよぎりました。

 

「このまま光の中に溶け込んだら、

 わたしはもうこの世に戻ってこれないんじゃないの?」

  
 「えっ? もしかして、わたし死んじゃうってこと?」

 

 「そりゃ、まずいよ!」



 とっさに浮かんだのは、息子の顔。



 「お母さん、まだ死ぬわけにはいかない。

  やり残したことがあるわ!」


  すると、

  今までトンネルの中のような景色だったのが、

  突然わたしの部屋の景色に戻り、ベッドの上で横になっていました。



  「なっ、なんだったんだ?!今のは?」



  びっくりしてるのもつかの間、

  今度は体が上に浮き上がり出しました。


  「おーっ!!」

 


  ベッドと体の浮いてる隙間は約2㎝。

  これって浮いてるって言えるんだろうか?

  
  おもしろいので、ちょっと隣の部屋まで行ってみようか?


  
  なんてのんきなことを考えましたが、

  2㎝浮いた地点から、微動だにせず。

 

  しばらくしてベッドに着地。


  「今日はいったいなんなんだろう?!」
  
  

  すると、また空間が開いて、

  斜め下にドゥァーッ!と滑りだしました。  


  (くどい表現だったらごめんなさい。

  体験したことを、忠実に再現しております。)

 


  滑っていく先には、先ほど見た光の玉があり、  

  光の玉の前には、超巨大な大日如来さまが立っておられました。

  (ウソみたいですけど、立ってたんです。

  わたしには大日如来さまに見えました。

  そのでっかいこと、でっかいこと。)



  その大日如来さまが、わたしに伝えてきた言葉があるんですけど、


  続きはまた明日のブログにて・・・。