常陸国 府中城 <フチュウジョウ> | ||
別称 | なし | |
城郭種別 | 城郭 | |
縄張り | 平城 | |
築城者 | 大掾詮国 | |
築城年 | 1346 | |
廃城年 | 不明 | |
主な城主 | 大掾氏、佐竹氏、六郷氏、皆川氏、松平氏 | |
指定史跡 | 市指定 | |
住所 | 茨城県石岡市総社 [Google] [地理院地図] | |
城址碑 | なし | |
現地案内板 | あり | |
スタンプ | ||
現存建造物 | なし | |
復元建造物 | なし |
概要
府中城は、正平年間(1346~1370)大掾詮国により築造されたといわれる。
天正18年(1590)12月大掾清幹が佐竹義宣に攻められて落城した。
落城後は、義宣の叔父佐竹義尚が城主となり、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田国替後は、六郷政乗がこれを領した。その後元禄13年(1700)松平頼隆が封じられ、この地に陣屋を置いた。
城の規模は東西約500メートル、南北約400メートル、本丸・二の丸・三の丸のほか、箱の内出丸・磯部出丸・宮部出丸を備え、また、堀・土塁をめぐらした堅固な城郭であった。
現在では、土塁や堀の一部が残されており、当時をしのぶことができる。
※現地看板より
攻城記録
石岡の陣屋門
この門は、江戸中期から幕末まで、およそ170年にわたってこの地を治めた府中(現在の石岡市の一部)松平家の陣屋の表門である。
府中松平家は、水戸徳川家の御連枝(分家)として定府(江戸定住)の大名だったため、領地には陣屋を置き、郡奉行以下総勢20余名に民政を担わせた。
やがて府中の町は、穀物・肥料の集散地、また、醸造が盛んな町として発展し、幕末期には常陸南部で最大規模の都市となった。
現存する門は1828年(文政11)の建築で、鏡柱と控柱との間に切妻屋根をのせる「高麗門」の形式である。
元来は土橋通り正面に建ち、明治維新後は石岡小学校の校門として用いられていたが、交通事情等によって昭和44年に石岡小学校敷地内へ移築され、さらに平成26年、市民の要望により現在地へ移された。
※現地看板より
旧町名 元真地
古くは常陸国府がのち府中石岡城が築かれ、
徳川時代には府中松平藩二万石の陣屋が置かれた地である。
町名の発生については定かではないが「もともとその地のおさえであった場所」をさすと解された古城と共に使われた字名が町名となった。
住居表示法施行により昭和53年7月1日総社1丁目となる。
※現地石柱より
歴史散策コース案内板
石岡小学校
正面奥が石岡小学校。
土塁
2024/8最終訪問
周辺地図
※ 当サイトの地図は、主郭等の城の中心部にロケーションを置いておりますのでご注意ください。
※ 城址等は、私有地になっている場合もありますので、有権者の確認を行うなどをし他の人の迷惑になるような行為はやめましょう。
※ 自分で出したゴミは、家に持ち帰り処理を行うようにしましょう。
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