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-厳正なる父に鍛えられた藤田東湖の三度 死を決する人生-(GHQ焚書図書開封 第147回)

2021-07-12 00:17:48 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第147回

-厳正なる父に鍛えられた藤田東湖の三度 死を決する人生-

1回目の決死

 「近年外国人が我国に向かって屡々渡来するけれど、間隙を狙って我国を奪わんとする野望なしとは言われない、彼らは時には大砲を鳴らして、我が国民を驚かし、その傲慢ぶりは言語に絶するものがある。しかるに、世をあげて姑息無事を喜んでいる状態である。今回大津海岸に上陸せる夷狄 に対しても、彼らを怖れて、そのまま、これを放還する如きがあったならば、我が神州日本は一日の安きを喜んで外夷のあなどりをうけることになる」と我が子東湖にイギリス人の鏖(皆殺し)を命じた藤田幽谷。しかし、薪、水、糧食補給のため来航した漂流船であったことから 放還され、出鼻をくじかれた藤田親子。

2回目の決死

 八代藩主斉脩(哀公)亡き後、世子(敬三郎)をめぐって翠軒派(佐幕派)と藤田派(直隷派)の争いが勃発。東湖は、後に九代藩主斉昭(烈公)となる敬三郎を立てるため、行動を起こす前にうらなったところ凶とでた。しかし、「不吉を見て、止まるは尋常の場であって、非常時に遭遇しては、固より吉凶をもって大節を変更すべきではない。自分は、既に死を決しているのであるから、今や不吉を気にしてべきときではない」と行動を開始。哀公の遺書も見つかり敬三郎が跡を継ぐことになった。

3回目の決死

 九代藩主斉昭(烈公)は、水戸家の天皇崇拝の伝統を引き継ぎ、仏教否定、神道復古に尽力したが、これを良しとしない幕府側の反感を買い、幽閉されることになる。これを知った東湖は病床の身でありながら、「既に死を決している以上、何時命を失うともこれを顧慮する場合ではない」と近親、医師の慰留にも屈せず、主君を守るため江戸に上ることになるが、無念にも東湖自身も囚われの身となる。

 「柳に風折れはなく 大木は常に風当りが甚だしい」と告白した東湖

 

 小石川藩邸の一室に閉じ込められて歌った句

 明らけき君にたぐへて徒に

世を思ひ来し身ぞおほけなき

思ひこし、そのあらましは空しくて

君をかきはに祈るぞうき

藤田東湖は人生において、3回命をかけて事に臨んだが、死にきれなかったのである。

 

 小石川から墨田の小梅獄舎に移されて歌った句

 三たび決して而も死せず

三十五回刀水を渡る

五たび閑地を乞ふて閑を得ず

三十九年七処徒る

邦家の隆替偶然にあらず

人生の得失豈徒爾ならんや

自ら驚く塵垢皮膚に盈つるを

猶餘す忠義骨髄に填むるを

嫖姚定遠期すべからず

兵明馬遷空しく自ら企つ

志賀も苟も大義を明らかにして人心を正さば

皇道奚ぞ興起せざるを患へん

期の心奮発して神明に誓ふ

古人言ふあり斃れて後已むと

 

弘化三年暮東湖も漸く解放され、翌年正月、水戸に帰り謹慎の身となり歌った句

 打ちいでて誰に語らん青柳の

 いとのどかなる春の心を

 

後に、水戸藩では攘夷派と保守派の争いが続き

1864年、東湖の息子(藤田小四郎)によって天狗党の乱が勃発、関東各地に波及したが、やがて幕府の力に押され、追討軍と戦いながら、下野、上野(こうずけ)、信濃(しなの)、飛騨(ひだ)を通り、京都の一橋慶喜を頼って転戦の途中、越前の国(福井)新保(しんぼ)で力尽き加賀藩に降伏することになった。翌年、降伏した約350名が斬罪となった。

 

 参考文献:「藤田東湖の生涯と思想」大野愼

2017/9/13公開



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