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Toshiが行く

日記や趣味、エッセイなどで描く日々

しっかり3秒止まりなさい!

2020年06月10日 05時38分41秒 | 日記
            幽   玄


   福岡市に隣接する糸島市の飯原地区と雷山地区の境界に不動池という、
   小さな灌漑用ダムがある。周辺地域に農業用水を供給しているが、ここでは
   水の中から木々が伸びる幻想的な光景を見ることができる。
   あまり知られていない穴場スポットだ。    (2017年1月撮影)

     ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂

6月9日 火曜日 暑い。朝9時前、車に乗り温度計を見ると、すでに30度あった。
用を済ませた11時ちょっと過ぎには、35度まで上がっていた。
車載だから、外界より高く示すが、それでも確実に30度を超えているだろう。
夕方のテレビニュースでは、8日は久留米市が35.8度、9日は太宰府市が35.6度と
福岡県が2日続けて全国最高を記録したそうだ。
まだ6月というのにこれでは、この先の猛暑の予感に早くもうんざりする。
体調にはよほど気を付けなければ……。

   さて、その朝からの用というのは、運転免許更新に伴う高齢者講習の受講だ。
   75歳以上の人に課せられる認知機能検査は、すでに2月25日に済ませている。
   そのうえで、双方向型講義、適性検査、それに実車指導などの
   高齢者講習を受けなければならない。
   この高齢者講習には3時間コースと2時間コースがある。
   そのコース分けは、認知機能検査の点数により、
   それが76点~100点だったら2時間コース、49点~76点未満だと3時間コース、
   49点未満だと認知症専門医の診断を受けなければならず、
   場合によっては免許の取り消し・停止処分になる。

幸い認知機能検査が96点だったので、2時間コースとなった。
3時間コースとは言うまでもなく、受講時間が1時間短くて済む
ということのほかに、受講料の違いが大きい。
2時間コースだと5100円だが、これが3時間になると7950円にはね上がるのだ。
認知機能検査の際、76点にほんの数点届かなかった人がいて、
「何とか、もう一度受けさせてくれ」と検査官に泣きついていたのも、
76点取れれば講習は1時間短くて済み、加えて受講料が2850円も
安く済むからだったのかもしれない。

   この高齢者講習は、運転教習所でもやっている。
   それで、家から車で10分足らずの教習所に予約を入れていた。
   実は2月に認知機能検査を終えてすぐに、この教習所で4月15日受講の
   予約を取っていたのだが、コロナウィルスの感染拡大により教習所が休業、
   伴って6月9日に変更になっていたのだ。

この日、一緒に受講した人は9人。最高齢は80歳の女性で、78歳男性が続き、
あとひと月もすると78歳になる僕が3番目に高齢だった。
               
   順序は逆になるが、最後に行われた実車指導。教習所の教官が助手席に座り、
   S字カーブ、クランク、車庫入れなどを交え、コースを走るのだが、
   最後に教官の指導というか、運転評価がある。
   「運転技術はまあいいでしょう。ですが、法令はしっかり守りませんとね。
   特に一時停止。ほとんど停止していませんでしたよ。
   3秒はしっかり止まってください。運転技術の上手い下手より、
   こうしたことが事故につながりますからね」
   とやや厳しい口調で指摘された。実は前回も同じことを言われたから、
   これはよくよく心しなければいけない。
   加えて、速度、車間距離……等々。               
                           
それと、僕も含め皆さんたちの不安は、やはり視力だ。
特に動体視力と夜間視力。
僕の場合、動体視力は「やや優れている」との結果だったが、
これはあくまで「75歳以上の中で」ということであり、
30歳~59歳の人に比べると「やや劣っている」という結果になる。
夜間視力も同様で、「75歳以上の中で」は「やや優れている」のだが、
30歳~59歳の人に比べると、やはり「ふつう」になってしまう。
僕自身もこの夜間視力はかねてから気になっており、
できる限り夜間の、それも雨天での運転は控えることにしている。
                            
   どうにか免許更新できる手続きは、これで終えた。
   あとは運転試験場で実際に更新すればよい。
   次の更新は81歳か。
   あるいは、これが最後の免許更新になるかもしれない。

心身整えるべし

2020年06月09日 05時41分22秒 | 日記
           土谷棚田の火祭り


     長崎県松浦市福島町に、玄海灘を臨んで日本の棚田百選に
     選ばれている土谷棚田がある。
     田植え時期、玄海灘に沈む夕陽が
     棚田をオレンジ色に彩るさまは、まさに絶景。
     また毎年秋には火祭りが行われる。
     棚田の畦道に設置された約3000本もの灯篭が夕暮れとともに灯され、
     棚田はたちまち光の帯に彩られた幻想的な風景に変わっていく。
                            (2015年10月撮影)

     ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂

6月8日 月曜日 快晴。午前8時久々のマイカー出勤。
車の多さはコロナ以前に戻ってしまった感があるし、
会社のある天神地区の人出も同様。
これで大丈夫かな、と少々心配になる。

    ともかく、今日から職場復帰だ。
    専用のPCを開き、メールをチェックした。「未読」がずらっと並んでいる。
    いちばん古い着信は4月8日だから、
    まるまる3カ月間このPCを開いていないわけだ。
    「未読」がわんさか溜まるのも当然のことだろう。
    ほとんどが広告まがいのものだ。次々、消去していく。

これだけ長期間、仕事から離れていたのは初めてのことだ。
言うまでもなく、コロナ禍が招いた災厄。
当初は、高齢者は出来るだけ外出を控えようみたいなことで、出社を自粛していた。
それが、瞬く間に感染が拡大し、ついには非常事態宣言に。
それで会社も半月ほど休業を余儀なくされ、そのまま自宅待機を続けてきたら、
それが3カ月にもなってしまったのだ。
ようやく非常事態宣言が解除され、会社も6月1日から業務を再開したのだが……
さあ、と勇んだところでがん再発。
手術のため、6月1日からの復帰はかなわず1週間遅れとなってしまった。
             
    3カ月間も放置したままだったPCをやおら開き、仕事開始だ。
    とは言っても、即座に取り掛かれるはずもない。
    これほど長く仕事から離れ、仕事のことは
    すっぽり抜け落ちてしまった頭では、そう簡単なことではない。
    まずは“仕事頭”に引き戻さなければならない。
    じーっとPCのディスクトップをにらみつける。
    そこに、そのための手法が書き出されているわけではないが、
    とにかくそこに気持ちを集中する。
    すると、キーボードがかたかたと鳴ったような……。
    すぐさまディスクトップを見る。
    「少し時間をかけ、心身の状態を整えるべし。急ぐべからず」
    画面に、そう書いてあるように見えた。
    なるほど、なるほど。
    まずは、自分はどんな商品を作りたいのか。そこをしっかり見つめてみよう。
    それから、それにはどんなことが必要なのか。
    場合によっては人の意見やアイデアも聞かなければならない。
    そんなことを一つ一つ組み立てていき、構築を終え次第、着手すればよい。
    その過程で“仕事頭”は戻ってくるはずだ。

もう一つ。やはり体調を整えないといけない。
手術から10日ほど経つが、術後の障害、それに疲労感、
これらは随分軽くなりはしたが、まだまだ若干倦怠感が残っている。

    よく言われるように、心身が整っていないと万事うまく運ばない。
    仕事復帰の初日は、そんなことを改めて思い知らされた1日だった。

意地悪な血管

2020年06月08日 05時14分56秒 | エッセイ
          名も知らぬ小さな池


    広島県庄原市に神話と野の花に彩られた標高1238㍍の吾妻山がある。
    比婆連山の入り口になっており、比婆道後帝釈国定公園内に建つ
    休暇村吾妻山ロッジからは中国山地の山並みを一望し、
    登山、ハイキングの基地ともなっている。
    そのロッジの裏手には、小さな池が点在しており、
    さまざまな姿を見せる。         (2017年11月撮影)

      ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂  ⁂


血管がなぜか細い。
それで、採血だとか、点滴だとかしなければならない時、
看護師さんたちは決まって困った顔をする。
腕のあちこちをパンパンと叩き、「血管よ、浮き出てこい」とやるのだが、
針を刺せる適当な場所がなかなか見つからない。
「もう、意地悪なんだから」色っぽく言われたりして、
思わずニヤッとすることもしばしばだ。
また、ついには手の甲の血管に針を刺し誤り、大慌てした看護師さんが、
先輩看護師さんを呼びに走ったりと、ひと騒ぎさせることもある。
まあ、何とか収まりはしたが、しばらくすると、
手の甲がグロテスクにどす黒く腫れ上がっていき、
つい「下手くそ」と心中罵ってしまったり……。
            
    何度も採血や点滴はやっているから、ここの血管なら
    大丈夫だということは分かっている。
    それで、こちらから「いつも、ここからだけどね」と言ってあげる。
    そして、一滴も漏らすことなくできた看護師さんには、
    「さすが、うまい!」と添えることにしている。
    「意地悪な血管」に対する多少の詫びの印しだ。

先日、入院した際、手術前の点滴の時もやはり、
「さてと、どこがいいかな」看護師さんが、腕のあちこちを探った。
「血管が細いそうだからね。すまんね」と詫びると、
「人それぞれですからね。でも、それをクリアするのがプロです」
頼もしい根性を見せながら、
「ちょっと右手をぐーっと握り締めてくれませんか」と続けた。
言われるまま、右手に力を入れると、
「おおっ、すごい」一瞬何に驚いたのか分からなかったが、
「前腕部の筋肉がむきっと盛り上がる。おまけに堅いですね」と言うのだ。
「ええっ」と今度はこちらが驚いてしまった。
「何か、スポーツされていたんですか」
「ああ、中学から大学まで10年ぐらい器械体操やってたよ」
「あのクルクル回るやつ?」
「そうそう、鉄棒や床運動ね」
「テレビで見ると選手は皆筋肉モリモリですよね。それでなのか。○○さんも。
ついでに腕をぐいと曲げてみせてください」
図に乗って右腕に力を入れ曲げると
「おー、見事な力こぶ。立派、立派」と言ってくれた。
               
    悲しいほどげっそりと落ちてしまった筋肉を嘆く日々であったが、
    この若い看護師さんは、しょぼくれた爺さんをおだてる術を心得ておられる。
    気分が悪かろうはずはなく、勇気をもらったような気さえした。
    「それでは、少しチカっとしますよ」言いながら、
    右手首付近の浮き出た血管に針を刺した。
    「うまい」と言えば、ニコリと笑顔を返してきた。


待ちわび雛

2020年06月07日 06時14分34秒 | エッセイ
                                         

滋賀県日野町に「近江日野商人館」というものがある。
ここには、横田めぐみさんが北朝鮮から帰ってくるのを
じっと待ちわびる6体のひな人形が飾られている。
もともとは、めぐみさんの母・早紀江さんの京都の実家にあったものだという。
仕舞われていた納屋を解体した際見つかったそうで、
作業に携わった男性が、早紀江さんからもらい受け、
さらにそれを同館に寄贈したのだという。
それを早紀江さんの了解を得て、同館が「待ちわび雛」と名付けたそうだ。
毎年、ひな祭りの季節になると一般に公開する。
京都新聞がこんな話を紹介していた。

     父・滋さんは43年も待ちわびた。
    だが、再び我が娘を抱くことはなかった。抱きしめることも出来ぬまま
    6月5日、亡くなってしまった。
    87歳。心よりご冥福をお祈りしたい。
    滋さんは妻・早紀江さんと共に、家族を非道にも北朝鮮に拉致され、
    帰国を願い続ける人たちを代表する存在だった。
    そんな願いを背に負い、胸に秘め全国各地を飛び回り、
    その講演は1400回を超えた。
    また、誠実な人柄、実直な言動。
    これが共感を呼び、多くの人が滋さんのとつとつとした語り口に耳を傾けた。 
                
どれほど待ちわびたことであろう。
制服姿のめぐみさんの写真を見るたびに、我が娘たちに思いがいく。
当時13歳だっためぐみさんは、今はもう55歳だ。
私の2人の娘たちと大して違わない年代だ。だから余計に、
「もし、自分の娘がそうであったらどうであろう」という思いにさせられる。
切なくて、切なくて……他人であっても胸張り裂ける思いになる。

    同じ拉致被害者の蓮池薫・裕木子さん夫妻は、
    「悲しみと悔しさを抑えることができません。
    あまりに当然な親子の再会を最後まで阻んできた北朝鮮当局への憤りを
    静めることができません」とのコメントを寄せている。
    “あまりに当然な親子の再会” を阻んだ国・人たちを許せるはずもない。
             
政府が認定する拉致被害者は全部で17人。
このうち帰国できたのは蓮池夫妻をはじめ、わずか5人だ。
なお、めぐみさんはじめ12人の人たちが手の届かない所にいる。
「待ちわび雛」は、いつまで遠い、かの国を見つめていなければならないのか。
「横田滋さんの死を無駄にしてはならない」
──すべての国民の切なる願いに違いない。


母は子を思いて泣き……

2020年06月06日 05時26分27秒 | 思い出の記
        このブログを始めて今日が、ちょうど100日になる。
        書いた作品もこれまた、ちょうど100本だ。
        アッ違った。今書いているのは101本目になる。
        まあ、1日1本のペースで書き続けたわけだ。
        この中に実の母と、義理の母について書いたものがある。
        「母恋」と「昭和からのはがき」が、それである。
        100日を記念して、この2本を合体させてみた。
        母に寄せる思いはやはり強い。
                     

    結婚すると、たいていの人は2人の母を持つことになる。
    その2人の母は今、マリア像(我が家は代々のクリスチャンだ)の横で、
    写真となって仲良く並んでいる。
    どちらも含み笑いしているような柔和で、やさし気な顔だ。
    実母が亡くなったのは平成7年、義母はそれより4年早かった。
    どのような人であったか、もう容易には思い出せなくなってしまっている。
    写真に、その面影をしのぶばかりだが、もちろん幾ばくかの記憶は残している。

実母の話から始めると、最後の5年ほどは病院暮らしだった。
軽い脳梗塞がきっかけだったが、当初はまだ元気だった。
だが、どうしたはずみだったのか院内で転倒し、大腿骨を骨折してしまったのである。
年寄りが足腰を骨折すると、それが引き金となって
寝たきりになるとよく言われるが、その通りであった。

    母を見舞ったある日。その日はちょうど昼食時だった。
    歩けないのでそのままベッド上で食事をしようとしている。
    母の側に寄り、ベッドの端に少しだけ尻を乗せた。
    おかゆみたいな流動食、それをスプーンで母の口に運んでやった。
    すると、看護師がそれを見とがめ「やめてください」と言うのである。
    「なぜ?」と語気を強めた。ささやかな孝行を邪魔された思いだった。
    「手助けすると、もう自分では食べようとしなくなりますよ」
    母の手を取り、そっとスプーンを握らせた。

やがて、認知症みたいな症状も出てきた。
病室に入り顔を見合わせると「遠くからよく来たね」と言う。
僕が住む福岡から母のいる長崎まで、高速道路を利用しておよそ2時間の行程。
それを分かって「遠くから……」と言ってくれたのだと安心したら、
それもわずかの間。
その後は誰と話しているのか、話がまったく通じなくなった。
たまらず「ちょっとトイレへ」と言って病室を出た途端、頬が濡れた。
母は子を思いて泣き、子は母を憐れみて泣く。
 
    「もう少しお母さんを見舞ってあげたらいいのに……」
    妻はしばしばそう促した。
    だが、「うん、そうだな」の生返事ばかりだった。
    母が亡くなったのは、それから間もなくのことである。

髭を剃ろうと鏡を覗き込んだ途端、母がすーっと出てきて
「ほれ、眉が下がっているよ。ぎゅっと上げなさい」と言う。子供の頃から始まった、
このおまじないみたいな母との掛け合いは、
独り立ちして家を出るまで、いや今でもなお続いている。
小さい頃は、母に言われるまま指を湿らせ横に引くと、眉は一文字に近くはなった。
だが今はもう喜寿、77歳なのだ。あの頃の垂れ方とは違う。
同じようにやってみても、そうはいかない。
それでも母はしつこい。「ほれ、ほれ」と人差し指を伸ばしてくるのだ。
仕方なく指先を舌で湿らせ、眉を横にきっと引いた。
              
    
    義母の記憶は、もう少しはっきりした形で残っている。
    薄茶色にくすんでしまった、『昭和63年9月15日』消印の
    はがきが大切に残されているからである。
    記憶をより強くしているのは、宛名が書かれていない
    奇妙なはがきだったせいでもある。
    もっとも、差出人はすぐに分かった。本来は宛名が書かれるべきところに
    義母の名が宛名と見まがうほど大きな字で書かれていたのだ。

この年の敬老の日、私たちの2人の娘、言うまでもなく義母にとっては孫娘が、
77歳のおばあちゃんに何か贈り物をしたらしい。
娘たちは、「何だったか、よく覚えていない」と言うのだが、
文面には「これを着れば、ばあちゃんも5歳くらい若くなります。
それで、これを病院に着て行ったら、先生がハイカラですねって……。
おまけに、おばあちゃんもハイカラですものねとか言われたので、
大笑いしてしまいました」と書かれているから、
何かシャツみたいなものだったのだろう。娘たちは当時まだ中・高校生で、
そんな孫からのプレゼントとあれば、それほどのものではなかったはずだが、
「ありがとう、ありがとう」と、何度も繰り返している。
また、「お正月には帰っておいで。お年玉貯めておくからね。待っているよ」と添え、
さらに「お父さん、お母さん元気にして居ますか。2人ともしごとから帰ると、
つかれて居るので、出来るだけお手つだいして上なさい。
お母さん、少しはらくになるように」とも言い、
「べんきょうも、がんばってね。元気でね。気を付けてね」と、
孫に対する祖母の思いのたけを書き連ねているのである。
                                                          
    通信手段は大きく変わった。
    今はメールやLINEで時を置かず自分の意を伝えることができる。
    だが、わずか100×148ミリのスペースの中にぎっしりと並べた
    大小の字、蛇行する行、とつとつとした言い方等、
    これらが義母の思いの強さを切々と伝えるのである。
    同じ文面をスマホの画面に打ち込んでみても、
    義母のこれほどの情感を果たして伝えることができるであろうか。

宛名がないのに、よく届いたものだ。
文面を読まれたのかどうか知りようもないが、
郵便局の方が義母のこれほどの喜びように「この便りはぜひ届けてあげよう」と
思われたのかもしれない。

    義母はがんに倒れ、私たちが住む福岡の病院に入院した。
    妻は看病のため毎日のように通った。
    そして、孫にあれほどの情を見せた義母は、あのはがきが届いた
    2年後に他界したのである。
    妻はこのはがきを31年間も書棚の中に大事にしまっていた。
    そこには孫への思いとは別に、義母の自分の末娘=妻に対する
    いたわりがこめられているようにも思え、
    妻はそれを感じ取って大事にしまっていたのであろう。
    今もなお書棚の中に静かに置かれている。
               
母二人、それぞれどのような人生を送ったのだろうか。
幸せであったのなら、子は何を言うことがあろうか。何もない。
ただ、ありがとう、とだけ。