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Toshiが行く

日記や趣味、エッセイなどで描く日々

母恋

2020年04月20日 06時31分49秒 | 思い出の記
          3月18日にアップした「眉を上げなさい」
          3月21日の「子から選ばれた親」はもともと
          1本のエッセイとして書いたものだった。
          これを2本に分けて別々にアップしたのだが、
          平成7年に89歳で亡くなった母を語るには
          やはり元に戻すべきだろうと思う。

         ◉ ◉ ◉ ◉ ◉ ◉ ◉ ◉ ◉ ◉

小学生になったばかりの頃ではなかったか。
真夏の昼下がり、遊び疲れ倒れるように畳に寝そべった僕の傍らに座った母は、
うちわで風を送りながらこう言った。
「子どもはね、親を選んで生まれてくるのだそうよ。
あなたは私を選んでくれたんだね。ありがとう」
うっすらと目を開けると、母のやさしげな顔がじっと見つめていた。すると、
「ほれ、ほれ。眉が下がっているよ。それじゃ、男前が台なしじゃない。
指に唾をつけ、それで上げなさい」
なんだか怒っているように続けた。                    
              
   亡くなってからもう25年経つ。
   どのような人だったか、容易には思い出せなくなってしまっているのに、
   なぜかこの場面だけは身に染みついたように消えることがなく、
   鮮明に覚えている。
   その母は今、マリア像(我が家は代々のクリスチャン)の横にいて、
   含み笑いしているような柔和で、やさし気な顔をして写っている。
   だから今でも母に会おうと思えば、いつでも会え、
   言葉を交わすことができるのだ。

軽い脳梗塞から始まり、最後の5年ほどは病院暮らしだった。
当初は体にさほどのダメージは受けていなかった。
だが、どうしたはずみだったのか院内で転倒し、
大腿骨を骨折してしまったのである。
年寄りが足腰を骨折すると、それが引き金となって
寝たきりになるとよく言われるが、その通りであった。
                                                      
   母を見舞ったある日。その日はちょうど昼食時だった。
   歩けないのでそのままベッド上で食事をしようとしている。
   母の側に寄り、ベッドの端に少しだけ尻を乗せた。
   おかゆみたいな流動食、それをスプーンで母の口に運んでやった。
   すると、看護師がそれを見とがめ「やめてください」と言うのである。
   「なぜ?」と語気を強めた。ささやかな孝行を邪魔された思いだった。
   「手助けすると、もう自分では食べようとしなくなりますよ」……
   母の手を取り、そっとスプーンを握らせた。

おそらく脳梗塞のせいだったと思うのだが、認知症みたいな症状も出てきた。
病室に入り顔を見合わせると「遠くからよく来たね」と言う。
僕が住む福岡から母のいる長崎まで、高速道路を利用しておよそ2時間の行程。
それを分かって「遠くから……」と言ってくれたのだと安心したら、
それもわずかの間。
その後は誰と話しているのか、話がまったく通じなくなった。
たまらず「ちょっとトイレへ」と言って病室を出た途端、
涙がすーっと頬を濡らした。
病室に戻ると、母の人差し指が額の方へすっと伸びてくる。
でも途中で力をなくし、指は届かぬままポトリと……。

「もう少しお母さんを見舞ってあげたらいいのに……」
妻はしばしばそう促す。
だが、「うん、そうだな」の生返事ばかりだった。
 
   「お袋の状況について、担当の先生が説明したいそうだ。
   お前もこっちへ来て、一緒に聞いてくれないか」
   長崎の長兄からの電話だった。
   着くのを待っていたように、説明が始まった。
   見せられた母の頭部のレントゲン写真。右半分が真っ黒だった。
   「そんな切ないものは見せてほしくない」心中そう叫んでみても、
   母がどういう状況にあるかそれだけで分かる。
   そして、医師は感情を殺したように、
   「1年後かもしれないし、明日かも……」と告げたのである。
   医師が冷淡だとは思わないが、その口調に心はすーっと冷えていった。
   悲しみは1週間後のことだった。

母の人差し指が伸びてきて、
「ほれ、眉が下がっているよ。ぎゅっと上げなさい」——子供の頃から始まった、
このおまじないみたいな母との掛け合いは、
独り立ちして家を出るまで、いや今でもなお続けている。
今日もそうだ。
髭を剃ろうと鏡を覗き込んだ途端、母がすーっと出てきて
「眉を上げなさい」と言い、人差し指を伸ばしてきた。

   鏡に映したわが顔をしげしげと見つめてみると、
   確かに長く伸びた眉が2、3本あり、それらがたらりと垂れている。
   シワ、シミに加えて目尻が下がり、おまけに眉が垂れてくると
   人相はやっぱり老人そのものである。
   小さい頃は、母に言われるまま指を湿らせ横に引くと、
   眉は一文字に近くはなった。
   だが今はもう喜寿、77歳なのだ。あの頃の垂れ方とは違う。
   同じようにやってみても、そうはいかない。
   それでも母はしつこい。「ほれ、ほれ」と人差し指を伸ばしてくるのだ。
   仕方なく指先を舌で湿らせ、眉を横にきっと引いた。


悲しい酒

2020年04月19日 06時00分55秒 | 思い出の記
1960年代には、曲名に『悲しき』と付けたものが、やたら多い。
特に洋楽。『悲しき足音』(60年)『悲しき街角』『悲しき片思い』(61年)
『悲しき雨音』(62年)『悲しき願い』(64年)『悲しき鉄道員』(70年)……
挙げればきりがないほどたくさんある。
                          
   ビートルズが登場する直前の、主にアメリカンポップスがそうだった。
   歌詞をつぶさに見れば、さまざまな悲しさがあるのは確かだが、
   原曲のタイトルには『悲しき』などという言葉は見当たらないし、
   おまけにメロディーは弾み、ポップでリズミカルなビートの曲がほとんどで、
   とても悲しい情感など伝わってはこない。
   どうやら、たまたま曲名に『悲しき』と付けたところ、ヒットしたものだから、
   味をしめた音楽業界が商魂をたくましくして戦略化してしまったらしい。
   何とも他愛のない話なのだ。

そんな理屈はともかく、青春真っ盛りということもあり、
ポップスをよく聞き、口ずさみしたものだ。
このアメリカンポップスに取って代わったのがビートルズで、
彼らはたちまち全世界を席巻し、僕なぞへろへろにされてしまった。
            
   そんなところへ『悲しき』ポップスを蹴散らし、
   ビートルズさえしばし忘れさせた日本の歌が登場した。
   美空ひばりの『悲しい酒』である。
   66年だから、僕は大学を卒業し、ほやほやの社会人一年生の時である。
   ジャンルもまるっきり違うし、細かくには『悲しき』と『悲しい』の違いもある。
   だが、ポップスのそれが一種の、まさに流行なのに対し、
   美空ひばりの、この歌はなんとも言えぬ本物の悲しさを感じさせた。
   「ひとり酒場で飲む酒は……」なんて涙ながら歌う
   情感が分かろうはずもない年ごろ。
   なのに、駆け出しの若造の胸にさえ哀歓が突き刺さり、
   「あー、俺は日本人なのだ」と思い知らされた。
   ビートルズをしばし忘れさせるほどに、『悲しい酒』には泣かされた。
   ほとほと参った。
                             

どんな巡り合わせなのか、美空ひばりの初のヒット曲は
何と『悲しき口笛』である。
初めて主演した同名映画の主題歌であり
終戦間もない混乱期にあった1949年のことだった。
映画だったのか、それともポスターを見てのことだったのか、
12歳だった美空ひばりがシルクハットに燕尾服で
歌う姿をかすかながら覚えている。
              
   悲しくも……美空ひばりが亡くなって、もう31年にもなる。


再・主人在宅ストレス症候群

2020年04月18日 06時29分58秒 | エッセイ
3月23日に「主人在宅ストレス症候群」とのブログをアップした。
これは定年退職した知人と会食した際の会話を少々笑い話的に書いたもので、
自身にはさして差し迫ったものではなかった。
だが、笑ってばかりはいられなくなった。
新型コロナウィルスのせいだ。
緊急事態宣言に伴い、外出を自粛し、
仕事も自宅でテレワークする人が多くなっている。
当然、終日家にこもることになる。

僕も週3日の出勤を取りやめた。
その結果、妻と二人、家にこもった生活が続いている。
すると、「なるほど」と自らのブログに得心するものがある。
聞けば、コロナ離婚やコロナDVが増えているそうな。
「どうしてなのか」分かるような気がする。
3月23日のブログを再掲してみることにした。

        ◉ ◉ ◉ ◉ ◉ ◉ ◉ ◉ ◉ ◉ ◉ ◉ ◉

     普段家にいない夫が1日中在宅するようになると
     妻は大きなストレスを抱えるようになり、それが原因で
     胃潰瘍や高血圧をはじめとする身体的症状
     それにうつ・パニック障害など心理的症状を引き起こす

『主人在宅ストレス症候群』なるものを初めて耳にし、
すぐにネットで検索してみたら、こんなことだった。
そうであれば、長年仕事一筋だった夫が定年を迎えた
その時も要注意ということなのだろう。
実際、このケースが多いのだそうだ。
                      
    長年経済界の第一線で活躍されたAさん。
    間もなく80歳を迎えるとあって、後進に道を譲るべく退かれたのだが
    たまにランチをご一緒したりしている。
    そんな昼時の話である。
    「ご無沙汰しています。お変わりありませんか」
    型通りに始まった会話は、その後ほろ苦い笑いの連続となった。
    まず、Aさんの返事である。
    「ええ、ええ、〝妻の部下〟となって元気でやっておりますよ」
    「何なのです。その〝妻の部下〟というのは?」
    笑いながらも、我が身を省みればおおよそ見当がつく
    何とも切ない話なのである。
    
    「僕にはこれといった趣味もないし、ゴルフも腰を悪くして
    ドクターストップ中です。たまに昔の仲間と食事する程度で
    どうしても家に居る時間が長くなる。すると妻が『掃除機をかけろ』
    『家の外回りを掃除しろ』などと、あれこれ命令するわけです。
    まさに妻の部下ですよ。しかも、なぜか日が経つにつれ
    妻の機嫌が悪くなりましてね…」                      「なるほど。そう言えばある本に書いていましたね。
家というのは、仕事一筋で家庭を顧みなかった僕ら男に代わり
妻がコツコツと築き上げてきた、まさに城なのだそうです。
そこへ定年退職した亭主が、3食付きで転がり込んでくるわけでしょう。
それで3食用意しなければならなくなるし
また妻には女性同士の楽しい世界もあるようで、その時間も削り取られる。
機嫌が悪くなるのも分からないではありません」
「ついに『昼か夜、どちらか1食はご自分でお願いします』との
宣告ですよ。弱りました。料理なんかやったことがありませんからね。
せいぜいソーメンを茹でるくらいです。それで友人に尋ねてみたんです。
『お前のところはどうか』とね。彼も『似たようなものだ』と言い
その彼が『主人在宅ストレス症候群』というものがあるらしい
と教えてくれたんです。いやはやです。何のため懸命に働いてきたのか…」
「『オレの稼ぎで…』なんて言おうものなら、
『あなたが何の心配もなく仕事に打ち込めたのは、子育てはもちろん
何から何まで私がこうして家庭を守ってきたからでしょう』
と切り返されるに違いありませんしね」
「そう言われると反論もできないし、さてどうしたものやら。
ご覧なさい、このレストラン、男は僕らだけですよ」
顔を見合せ、小さな切なさを共にしたのだった。

       ◉ ◉ ◉ ◉ ◉ ◉ ◉ ◉ ◉ ◉ ◉ ◉

    Aさんとそんな話をしたのはいつのことだったか。
    今、家に閉じこもっていると毎日3食を用意する妻の大変さが分かり、
    「主人在宅ストレス症候群」の実際を覗き見たような気がする。

母と息子

2020年04月17日 06時10分01秒 | エッセイ
長崎に住む姪からはがきが届いた。
その表情を映し出すことが出来れば、
スクリーンいっぱいの弾けるような笑顔が見られたことだろう。
そのはがきは、一人息子の成長と、彼が示してくれる親への心遣いを嬉しく思う、
隠しきれない母の情で溢れていた。
この姪と母親、つまり僕の2番目の姉が歩んだ道は、よく似ている。
決して平坦ではなかったと思う。
2人とも苦労を重ね、最後には自ら懸命に働きながら、
女手一つでただ1人の子を育て上げたのも同じである。

   姪を喜ばせる一人息子、その彼は母の苦労に背くことなく、
   有名国立大学から大手広告代理店に入社し、世界各地を飛び回るなど、
   さまざまに活躍している。
   35歳で独身の彼は、東京で暮らしており住居とする渋谷のビルは、
   小さいながらも自分が建てたものだというから、なかなかのやり手だ。

その一人息子が、自分が生まれ育ち、母が暮らす郷里で
小さなビルを買い取り、起業したのだという。
はがきには、「息子は、東京、あるいは世界各地での仕事が多いので
そのまま東京暮らしですから、私が長崎の責任者として忙しく働いています」
と書いてあり、はがきには会社のビルの写真を添えてあった。

   ビルの1階はカフェがある。
   姉は10年ほど前に交通事故で亡くなったが、
   姉もまた小さなカフェを営んでいた。
   姪はこのビルの総支配人として、母と同じようにカフェも経営するのである。
                            
還暦を過ぎた年になって、苦労して育て上げた一人息子からの
胸詰まるような贈り物に違いなく、感涙と震えはいかばかりであろうか。
容易に察せられる。
さらに、それは祖母である僕の姉に対しての気遣いなのかもしれない。
情の香りをこめた姪の一人息子の才覚に、僕の目にはもらい涙がにじみ出て、
その一滴が亡き姉のもとへと向かってゆく。

ぼくたちの失敗

2020年04月16日 06時25分20秒 | 思い出の記
「あっ、この歌知っている」──高校3年生の孫娘がそう言った。
車で小さく流し聞いていたのは森田童子で、ちょうどその時流れていたのは
『ぼくたちの失敗』だった。
驚いた。
この曲は1976年に発表されたものだから、孫娘が知るはずもない歌だ。
その後、1993年にテレビドラマ『高校教師』の挿入歌となってはいるが、
それとて孫娘はまだ生まれてもいない。
どうやら友人との間で『高校教師』が話題となり、
それでこの曲に行き着いたのかもしれない。
          
   シンガーソングライターの彼女の曲は、もの悲しく沈鬱でさえある。
   メロディーもそうだし、声質もそう。
   彼女が書いた詞には『死』『血』『薬』などが幾度も出てきて、
   自死を誘うかのようでもある。
   髪はチリチリにしたカーリーヘア、それにサングラスという独特の風貌。
   加えて決してテレビにもマスコミにも出ない神秘性。

森田童子が登場したのは全共闘運動が挫折して少し経った頃。
彼女は決してメジャーな存在ではなかったが、その歌は全共闘世代の
心情、挫折感に寄り添うものとして一部ではカリスマ的な人気だった。
日本の学生運動と青春と恋をテーマにした
ミニシアター映画『グッドバイ』にも楽曲が使われている。
そうとあって学生活動家に熱烈なファンが多かった。
実際、彼女は彼らと盛んに交流していたと言われる。

   全国の大学で学生運動が燃え盛り始めたのは、
   僕が4年生だったので1960年代中頃ではなかったか。
   僕が通った大学も学生会館の運営を巡って学生自治会と大学側が対立、
   遂に僕らは半年間に及ぶストライキに入り、街頭デモに繰り出しては
   機動隊の固い盾にバシッと挟み込まれたりもした。
   この頃はまだ学生活動家の象徴ともいうべき
   『ヘルメット・角材』はなかったのだが、
   やがて火炎瓶が登場し、さらに爆弾、銃器などまで使った
   武力闘争へと突き進んでいった。
   活動家のセクト間の対立も激化し、凄惨な内ゲバを繰り返した。
   それは連合赤軍による『総括』と称する仲間内のリンチ殺人、
   あさま山荘事件へと連なり、自滅するかの如く終焉したのだった。
   活動家たちは、それほど世に絶望し、はかなんでいたのか。
   ノンポリの僕には分からない。
 
森田童子を聞くと、否応なしに
何の理屈もなくいきり立った学生時代を思い出す。
彼女は2年前の4月24日、65歳で亡くなっている。