ねずみの談話🐭| muris confabulate

近況・雑感をめも。

信じるって...何だろう...

2022-10-04 19:25:11 | 近況・雑記・生活雑感

先日、個人的に「なんか気持ち悪っ」と思う体験があった。それは”歎異抄を学ぶ”という仏教の講座だった。
ちょうどここのところ新聞の広告欄に、とてもしつこく"歎異抄を学ぶ!!"みたいなのが多くその出所が気になる(怪しい😒)のと、最近あまり人と会わないような生活をしているという後ろめたさがあったのとで、「たまには外に出てみるか」という半ばひやかし・半ば適当ななげやりで、参加した。

講義中に違和感を感じ、ちょっと調べてみると、どうやら新興宗教のような団体に行き着いた。私が講師や主催団体を事前に調べなかったのもあるが、「ああ...なんか時間無駄にしちゃったな」と思った。まず歎異抄 本文についての解説が全く無かったし、仏教のメッセージが「諦めずに頑張る!」「(人間として)生まれてきて、ヨカッタ~!!」と講師が謳っているのに甚だ疑問が残った。仏教って...特に大乗仏教って...他力で、しかも解脱を目指すのでは無かったかな?って思った。また、こういう無料で開かれるライトな講座に学問的な要素を求める私がお門違いだとも思うが、資料や概念に対する出典や系譜が示されていなかった。また、講師は「親鸞が何を言いたかったのかを知るには、読みやすい歎異抄がよいです」と言っていたが、親鸞の言いたかったことを知るには『教行信証』とかの方が直接的な著書なのでいいんじゃないかな...難しいけど....とか。愚痴はこの辺に留めておきます。

新興宗教について、それを信じる人について特にどうこう思うことはないが...
・新興宗教の勧誘のオバチャンに、機構を仕掛け反応を楽しみ、面白がるYouTuber、
 そしてその様子を見てせせら笑う動画視聴者
・昨今話題の統一教会と政治家との癒着、の
 もろもろに関連してくっついてくる陰謀論者、を見下したり論破したりする人々...
少々二極化させた見方かもしれないけど、「宗教は素晴らしい」と入れ込む人(宗教信奉)と、「宗教はまがいモン」「宗教勧誘のオバチャンをYoutubeのネタにする」という立場の人(宗教非信奉)の人は、なんか目を細めて遠くから眺めると、なんだか同じように思えてくる。「宗教」というワードを出すと、こういうのが表面に出てきてしまったりして、傍で見ていると気分があまりよくない。

宗教、その教義というのは、「正しい」「真実に値する」と感じる地帯と、「怪しい」「まがいモン」と感じる地帯との線引きが非常に曖昧ゆゑに、議論がウニャウニャになったり、妙なビジネスが生じたりするのだろうか。
宗教と聞くと、どの種類のものもそうだと思うけど、かなりそこに入れ込まないと、信心って持てないんじゃないかな。どこに正しさがあるかという根拠とか、突き詰めていってもあまり分からない気がする...それはどの宗教でも...

いや、何も「宗教」が、というのではなくて、
広義の「宗教活動」、信心というのは多かれ少なかれ皆持っている気がする。
というのも、金の価値を「信じて」みんな経済活動をやっているのだし、一定の社会通念、規範、暗黙裡に共有された規定を「信じて」、人々は社会活動及びコミュニケーションを行っているわけで、もっと言うと自分の存在でさえも、ここに存在し、それを他社から認知されていると「信じて」いるから...社会が見えているわけである。
つまりこの「信じる」という行為によって”この世界”は成り立っていると思われる。信頼とか、信用とか、あてにする、とか...そういう。

そして、何を信じて/信じないか、というのはとても曖昧で、幻のようにも見える。何を根拠にこの世界を信じるのか。
そういう「信じる」という人間のメカニズムを探るというのは、(「メタ認知のメカニズムについての認知」ともいえるかもしれない)、
自分の経験や行動、考えを振り返る上でいい機会になるだろうし、人間社会を見る一端・一側面になるのではないかとも思った次第。

ええと、ここまでの話を図式化すると、以下のようになります。


畢竟するに、私は何を信じているのか、何をアテにしているのか、ハッキリした形で明示するのは難しい。メカニズム云々言うてるけど、恐らく飽きて放棄しそうだし、わからないと思う。...そして、仮にそのメカニズムが自分なりに判明したとして、私が「信じよう」と思う思想や社会的規定は生まれてくるのだろうか?...多分出てこないと思う。それに、私としては固定的・いち局面にこだわった、制約を受けた見方をあまりしないように...しているのもあって、「絶対的」を目指すことに躍起にならないと思われる(だからといって「相対的」にとどまり続けるのもどうなのかな...)と思う。そういう意味で、ままならない・移りゆく世界を行ったり来たり、ああでもないこうでもない、と浮遊するのが私の常なのかな。私だけじゃないな、多分皆そうなんだろうなぁ。

あ、なんか書いていたらよく分からない話になってしまった...また進展したら、続き書きます🐭


こんにちは。

2022-09-16 14:24:12 | 近況・雑記・生活雑感

こんにちは。ふいに、ブログをはじめてみました。今までメモ帳やノートに、日記や自分の思ったことを綴っているのですが、書いたら終わり、で自己完結してしまうものだし、違うアウトプットの形をとってみようかなと思い、開設した次第です。

🐭さて、近況について。🐭
 働き始めてから実感したのですが、どうやらあまり”普通”らしく生活するのが難しいようでした。そのため、会社員を、今はいったんお休みして無職になってしまいました。この後の行動を、今は思案中です。どこかしかの大学に社会人入学を果たして 何らかの資格や専門性を身に着けるのか?それとも、なんとかできそうな仕事はないか?まだ、はっきりとは決まっていません。
 が、しかし、私は希望を捨ててはいません。もちろん自分の力で道を切り開くという努力は大切だけれども、時にはどうしようもできない困難が現れる時もあると思います。そんな時は、自分の”自然(じねん)治癒力”を信じようと、思っています。「おのずから」と「みずから」を、塩梅良いバランスで、が大切だと思います。

🐭このブログの"ねずみ"について。🐭
 このブログ自体、"ねずみ"推しなのですが、それはなぜか?についてです。なぜか?自分で書いておいて、自分でもよくわからないのですが...
 ねずみって、私の中では、よくいぢめられている可哀想なイメージがあります。例えば、人間に実験道具にされたり、病原菌の運び屋と言われて忌避されたり、猫や鳥類などに追い掛け回されたり、蛇のエサになったり...。特に最近、残虐なネズミトラップにはまってもがき苦しむねずみや、生きたまま蛇に吞み込まれるねずみを目にしたことがあって、私の中でこの生き物を、「贄(人間の暴力性を閉じ込めるための対象)」のシンボルとして見るようになりました。(これらは私の主観的感覚に過ぎません...同じような意味合いで、キリスト教では子羊が挙げられるか?)
 しかし一方でねずみは、他の動物と同等に、生態系や食物連鎖の中で欠かせない役割を果たしています。生態系というのは双方向の網目状のネットワークです。対して私たちの周りの事物・事象も、網目状に複雑に絡まっている因果のネットワークではないかと、ちょと思ったりしています。
 これをアナロジー的にみると、人間も「ねずみ」なんじゃないか、と思えてきます。...というのはつまり、人間(というか私)から見たねずみは弱っちくていぢめられがちだが、生態系のいち部分としての役割を持っている。一方 人間一人ひとり(というか私)は、この世界の中で弱っちくて少しの困難・生老病死であっても思い悩むが、社会的・事象的な網目状のいち部分としてみると、これもまた一つの結び目としての機能を有している。
この意味で、わたしも「ねずみ」なのではないか、と思うのです。メタファーとしての「ねずみ」です。
というわけで、もがき苦しむねずみに共感を覚えてしまって、ふいにブログのプロフィール画像にもブログ名にも「ねずみ」ちゃんを入れてしまった次第です。



ということで、ぼちぼち更新予定です。