村山伝兵衛の御殿

蝦夷の場所請負人の末裔による、読書、経済思想史、哲学、自然、蚊などについて

村上春樹と「イパネマの娘」

2005年12月10日 00時06分58秒 | Books
 先日、新宿の「赤レンガ」というパブに行ったら、橋爪さんというピアニストが「イパネマの娘」を弾いていた。ボサノバというジャンルに詳しいわけではないけれど、それでも「イパネマの娘」だけは知っていたのは、村上春樹の『カンガルー日和』という掌集の中に「1963/1982年のイパネマ娘」という小編があったからです。
 村上春樹の小編のタイトルにもあるとおり、この歌がリリースされたのは1963年。これは僕が生まれる少し前で、42年前ですね。ひとつの歌が40年に亘って歌い続けられ、そして新たなファンを獲得してゆくことって、ちょっとスゴイと想いませんか。

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 『カンガルー日和』の中の「1963/1982年のイパネマ娘」というお話は、文庫本で8ページほどの掌篇です。ちょっと変わったお話です。と言うよりも村上春樹のお話は「変わったお話」ばかりかも知れませんが。
 彼によれば、イパネマ娘さんは「形而上学的な女の子」なんだそうです。なぜなら、1982年当時、歌われ始めてから約20年を経てもまったく歳をとらないから。
 村上春樹は(あるいはこのお話の主人公は)「イパネマの娘」を聞くと「高校の廊下」を想い出し、高校の廊下からは「コンビネーション・サラダ」を想い出し、コンビネーション・サラダからは「菜食主義者の『いちご白書』的女の子」を想い出すんだそうです。そういえば、先日の「赤レンガ」のカウンターでも、『いちご白書』の話が出ていましたね。

 あなたは、「イパネマの娘」から喚起される何かがありますか。
 それとも、ほかの歌では何か。

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 「イパネマの娘」を聴いて「形而上学的女の子」を想い浮かべる村上春樹って、やっぱり変だと思う。健康な男の子だったら、そして健康な男の子だったオジサンだったら、「イパネマの娘」を聴くと「フィジカルな女の子」が脳裏に浮かぶんじゃないだろうか。メタフィジィカル(形而上学的)じゃなくって。
 でもこれは、その人そのひとが「女の子」に対して抱くイメージの問題なのかも知れない。彼はきっと、目の前の女の子に対して、フィジカルな次元を超えたところで恋愛感情を抱いてしまったのかも知れない。普通ならば、抽象的な恋愛感情も、徐々に即物的な感情へと具体化してゆく。手を握りたい。キスをしたいというように。

 でも彼の恋愛は、彼の初恋は、より抽象的なものへと結晶化されてゆき、そして具象化される機会を逸したのかも知れない。だから、イパネマの娘の中に、永遠不変な「何か」が感じられるのかも知れない。
 でも、それは怖いことだ。昔、憧れた可憐な少女が、ただのオバさんになってしまったのを目の当たりにしたとき、人は一抹の寂しさとともに安堵を覚える。もし、時間がただ自分の中だけで過ぎ、自分だけが老い、それなのに彼女だけが昔のままだったとしたら。それは想像するも恐ろしいことだと想う。泥沼の寂涼感に襲われてしまうかも知れない。

 村上春樹が表現したかったことって、そういうことなのだろうか。

赤レンガのHP
http://homepage1.nifty.com/AKARENGA/