村山伝兵衛の御殿

蝦夷の場所請負人の末裔による、読書、経済思想史、哲学、自然、蚊などについて

ふるさと(01)

2005年12月30日 12時09分24秒 | Music
10月の某日、ジャズバイオリニスト"maiko"さんの演奏を聴きに行った。一曲目は、僕の大好きな"It might as well be spring(春の如く)"で、二曲目は「ふるさと」から始まるメドレーだった。この歌には、ちょっとした想い出がある。7年ほど前、ブータン王国のフォブジカという谷にある農村に行く機会があった。米国のNGO・国際ツル財団のツアーに参加し、第一回「国際ツル・フェスティバル」を視察するためだ。この祭は、世界的にも稀少なソデグロヅルの保護のため、現地の人々を啓発する目的でブータンのNGOとツル財団が開催したものだった。フェスティバルということで、夜には宴会があった。その中で「日本人、お前も何か歌え」と言われて歌ったのが「ふるさと」だった。

When I was a boy, I used to chase the rabbits in the mountain.
I used to do fishing in the river near my home.
My dreams in these days are still in my mind.
Why I can forget my beautifull country !

などと怪しげな英訳で解説をした後、満天の星の下、日本語で歌った。
「忘れ難き」想い出だ。

国際ツル財団
http://www.savingcranes.org/

ブータンの自然保護団体:RSPN(王立自然保護協会)
http://www.rspn-bhutan.org/

ジャズバイオリンプレイヤーmaikoオフィシャルサイト「まっすぐ」
http://www.jvmaiko.com/

北方四島の歴史(その4)

2005年12月11日 21時36分58秒 | 北方四島
 「アイヌモシリ」の一部であった北方四島に対して、松前藩の和人たちが何時ころから入りはじめのかは、よく分かりません。この問題は、「北方領土は我が国固有の領土である」という政治的スローガンと深くかかわっているため、ともすると学問的な考察の対象というよりも、政治的な解釈の問題として扱われてきたようにも想われます。前回ご紹介した「正保御国絵図」に対する評価・解釈の中にも、そうした問題があると考えられます。我々は、出来る限り政治的・民族的なバイアスから離れたところで史実を見極めようと努力すべきでしょう。また、我々が多くのステークホルダーの間で可能な妥協点を探っていく際には、様々な立場が持つ様々なバイアスの存在そのものについても、理解を深めておかなければならないとも想います。

 改めて記すと、クナシリなどの北方四島について、「17世紀のはじめの頃から松前藩の領地だった」という認識は、それが地図上のフィクションである可能性が高く、歴史的な認識としては根拠がないというのが伝兵衛なりの理解です。今回以降の考察では、アイヌが生活していた北方四島に対して、和人が進出(侵入)してきたプロセスになります。また、それは北方四島からアイヌが消えて行くプロセスへと連なってゆきます。

 松前藩が北方四島に地歩を築いたのは、1754年の「クナシリ場所」の開設した頃からと考えられます。18世紀なかば頃のクナシリにおけるアイヌと松前藩との関係は、この「場所」に関する記録を調べるにより、推測することができます。しかし、この「場所」という制度を理解するためには、またしても一般的な日本史の常識から離れて、幕藩体制下の松前藩の特殊性について認識する必要があります。

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まず、本州における江戸時代の幕藩体制について簡単に復習しておきましょう。ご存知のとおり「幕藩体制」とは、徳川将軍を頂点とした政治体制でした。将軍は家臣に対して一定の領地を与えていましたが、その家臣のうち1万石以上の土地を与えられた者を「大名」と呼び、その大名の領地を支配する政治機構を「藩」と称しました。「石(こく)」というのは玄米の生産量の単位であり、その石高を基準とした石高制が幕藩体制の経済的基盤を形作っていました。
大名は、将軍から与えられた領地を更に自分の家臣に対して与えましたが、この土地のことを「知行地」「給地」「給知」などといいました。そして、年貢の徴収権、百姓の使役権、裁判権なども持たせて、領地と農民を支配させましたが、こうした制度を「地方知行制度」と呼ぶそうです。

ところで、江戸時代の北海道(蝦夷地)では、米が作れませんでした。ですから、蝦夷地の土地をどれだけ広く持っていても、「石高はゼロ」ということになります。本州と同じ体制を築くことは出来なかったわけです。この点については「アイヌ民族博物館」のHP
http://www.ainu-museum.or.jp/
の中の佐々木利和による以下の解説が参考となります。

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http://www.ainu-museum.or.jp/nyumon/nm05_rks03.html

江戸幕府や松前藩とアイヌ民族の関係

 江戸時代の北海道は蝦夷地と呼ばれ、そこに松前藩がおかれていたということはよくごぞんじのこととおもいます。当時の北海道は米がとれませんでしたから、松前藩はたとえば加賀百万石というように米の取れ高によって藩の大きさを表すことができません。松前藩が一万石格などとされるのはそのためなのです。家臣の給料も米で支払うことはできませんから、松前藩では、主だった家臣に蝦夷
地をいくつかに分割してその一部を与え、そこでアイヌの人々と交易することを認めました。これを場所といい、場所を与えられた家臣を知行主といいます。交易で得られた収入がその家臣たちの知行(給料)になるのです。
 はじめは、知行主が直接場所へ出かけ交易にあたっていましたが、後には商人が知行主に上納金(運上金=うんじょうきん=といいます)をおさめ、そこでの交易を請け負うようになります。これが場所請負制(ばしょうけおいせい)です。17世紀後半以降、アイヌの人々は、場所請負制の枠の中にはめられていき、商人の横暴による苦しい生活を余儀なくされます。
 ところで、松前藩は、アイヌの人々を交易の相手としてみていただけで、あまり彼らの生活に干渉しませんでした。ですから、よくいわれるような、松前藩がアイヌの人々に対して日本語を学ぶことを禁じたということはなく、場所請負の商人たちが、アイヌの人々を支配しやすくするためにとっていた手段なのです。(中略)
 場所請負制はアイヌの人々及びその文化や社会生活に大きな影響をあたえました。極端な言い方をすれば、請負商人はアイヌの人々に対して生殺与奪の権さえもっていました。生産性を上げるためにはアイヌの人々を人間としてではなく、牛馬のように扱っていたのです。松前藩はこれら請負人の非道に対して何の対策も講じませんでしたが、松浦武四郎は『近世蝦夷人物誌』の中で松前藩や請負人を強く批判しています。この本は、たいていの図書館にもありますので、ぜひ一度読んでいただきたいとおもいます。
 江戸幕府の政策は、あくまでも国防という観点からのもので、積極的にアイヌの人々やアイヌ文化を守ろうとの姿勢があったわけではありませんし、明治政府は以後もまた同様でした。

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佐々木氏の解説の中で1点だけ気になるのは、「松前藩では、主だった家臣に蝦夷地をいくつかに分割してその一部を与え」という部分です。この文面からは「場所」が面的な広がりをもったものとの印象を持ちますが、「場所」の実態は「交易するところ」、即ち「点」であったのではないかと伝兵衛は考えます。松前藩とその家臣、請負商人らが支配していたのは、蝦夷地における限られた「点と線」にしか過ぎず、広大なシマの大部分は、依然として「アイヌモシリ」であったと想われます。

この「場所請負制」のアイヌの生活に対する影響を理解するには、アイヌの生活における交易の位置づけについても考えておく必要があるかも知れません。

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http://www.alles.or.jp/~tariq/kampisosi/historyTopteeta.html
「アイヌモシリ年表」より

松前藩は幕府より公認された各地のアイヌとの交易権を、領
地(俸禄)の代わりとして家臣に分け与えた、これによりア
イヌの交易相手は、商場の支配者の松前藩の家臣に限定され
ることになる。かつて、カラフトやアムール川、津軽や南部
まで出向いていたアイヌの自由な交易活動は完全的に禁止さ
れ、競争相手もいない「交易」により、不利な交換レートを
強要される事が多くなった、これ以後、アイヌの生活は大き
な圧迫を受ける事となる

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アイヌに対して「先住民」「狩猟民族」というイメージを持っている方は少なくないでしょうが、「交易の民」というイメージは、あまり一般的ではないかも知れません。しかし、アイヌのカラフトを経由したユーラシア大陸との交易は、かなり盛んであったらしく、様々な文物が残されています。そうした環境の下、松前藩のとった政策は、アイヌの生活基盤を深く侵食するものであったとも考えられます。

北海道庁が運営している「北海道人」というHPの中で、札幌大学の桑原真人教授が、「松前という土地」と題して、以下のようなエッセイを載せています。

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http://www.hokkaido-jin.jp/heritage/15.html

松前という土地

 作家の司馬遼太郎は、知行石高を持たず、交易で栄えた松前藩が、「明治維新までついにこの、山がせまり、港湾の条件もさほどによくない土地から離れなかった。その理由はアイヌの襲撃がおそろしかったという以外に考えることができない」(『街道をゆく』15・北海道の諸道)と記している。
 松前藩の歴史は、始祖武田信広がアイヌの勇者コシャマインを七重浜で倒し(1457)、政権のきっかけを得たことに始まる。権力を確立してからは、藩経営の基盤を商場 (あきないば)知行制という一種の搾取機構に置いたことから、被搾取者であるアイヌ民族との絶え間ない緊張関係にあった。1669年に蝦夷地全域で一斉蜂起したシャクシャインの戦いはその最大のものであり、アイヌ民族の興亡をかけた松前藩との戦いであった。1789年のクナシリ・メナシの戦いによって、組織的なアイヌの抵抗は終息することになるが、それまで300年以上にわたって、和人に対するアイヌ民族の叛乱が断続的に続いていたのである。

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松前藩によるアイヌ「搾取」について認めた文章を、たとえ署名記事とはいえ載せている北海道庁は、少なくとも、総務省よりも公正と言えるかもしれません。

今回は、北方四島の話を脇において、松前藩の政治経済体制の特殊性とアイヌとの関わり合いについて調べてみました。次は、少し時間をいただいて「クナシリ場所」開設前後の状況と、「クナシリ・メナシの戦い」についてまとめてみたいと考えています。

北方四島の歴史(その3)

2005年12月11日 21時29分02秒 | 北方四島
前回、「正保御国絵図」の名前を出しました。これは、徳川幕府が作成した日本地図です。この地図から何を読み取るかは、「歴史的な評価」という問題を考えるうえで重要なことであると想うので、やや詳しく検討してみます。

「内閣府・北方対策本部」のHP
http://www8.cao.go.jp/hoppo/
の中に「北方領土の歴史的経緯」に関する政府の認識が書かれていますので、以下に引用します。また、ここには「正保御国絵図」の写真も掲載されていますので、是非ご覧ください。

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http://www8.cao.go.jp/hoppo/hoppo/hoppo4.html
「日本人による開拓の歴史」

 1635年(寛永12年)、北海道を支配していた松前藩は、北海道全島および千島、樺太を含む蝦夷(えぞ)地方の調査を行いました。1644年(正保元年)の幕命により諸藩から提出された国絵図に基づいて、幕府が作成した日本総図(いわゆる「正保御国絵図」)には、「くなしり、えとろほ、うるふ」などの島名がはっきり記載されています。
 ロシア人が初めて得撫(うるっぷ)島に来て、長期滞在して越年したのは、1766年(明和3年)ですが、住民の反抗にあって翌年帰国しています。
 その後、ロシア人は再々この方面に進出して、住民との間に衝突が絶えない状況でした。
 千島へのロシアの活発な進出を知った幕府は、みずから北方の島々の経営に本格的に取り組むこととし、1785年(天明5年)および1791年(寛政3年)に最上徳内らを調査に派遣しました。同人は、国後島から択捉島に渡ってロシアの南下の状況を克明に調査し、さらに得撫島に上陸して同島以北の諸島の情勢も察知しています。
 幕府は、国防上、千島、樺太を含む蝦夷地を直轄地として統治することとし、1798年(寛政10年)、大規模な巡察隊を同地方に派遣しました。このとき、近藤重蔵は最上徳内と共に国後島、択捉島を調査し、択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てています。 翌1799年から1800年にかけて、近藤重蔵は高田屋嘉兵衛らと共に、再び国後島、択捉島に渡り択捉島に本土の行政を移入、郷村制を施き、17か所の漁場を開くと共に幕吏を常駐させました。
 また、航路や港の整備などにより、色丹島、国後島、択捉島の本格的開発が始められました。

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ここでは、1635年に千島の「調査をおこなった」と書いています。
 しかし「行った」とは書いていません。
 逆にロシア人については「衝突」があったと書かれています。その相手側は「住民」と表記されており、「先住民」とも「アイヌ」とも書いていません。幕命により書かれた「国絵図(地図)」があり、そこに「地名」が記されていれば、そこは「領地(領土)」であったに違いないと考えがちです。しかし、そこには論理の飛躍があります。

日露外交史の権威でもある和田春樹教授は、著書の中でこの「正保御国絵図」上の地名表記や地形表記などを子細に検討したうえで、以下のように結論づけています。

おそらくこの地図は海上から陸地にそって進み、それぞれの地
のアイヌから聞いた地名を書き留めたものだが、むしろ西と北
は相当実地にみているのに、東の方はかなり手前までしか行っ
ていないようである。この地図つくりに協力したアイヌは北海
道の西に住むアイヌで、彼らの奥蝦夷から千島部分の知識はあ
やふやであったのだろう。この正保地図は、現代において、日
本がすでに17世紀半ばに千島方面を領有していたと主張する
材料に使われたことがあるが、実は当時まだその地に松前藩の
誰も足を踏み入れたことがなく、その地と往来している奥蝦夷
のアイヌからの聞き取りもきちんと行われていなかったことを
示す証拠である。
(和田春樹『北方領土問題-歴史と未来』朝日新聞社 1999
年刊 p.20~21)

つまり、和田教授によれば、この「正保御国絵図」こそ、北方四島を含む千島に対して松前藩の影響力が及んでいなかったことの証拠であるということになります。

北方領土に関する文献などをみていると、以下のような表記に出会います。

1635(寛永12)年 松前藩、蝦夷地(えぞち:現・北海道)を
探検し、国後・択捉を含む千島列島の地図を作成

こういう文章を読むと、我々は頭の中で勝手に「松前藩が国後に行った」ように理解してしまいます。しかし、そのような史実を示す証拠は何も無いということを、我々は正確に認識しておく必要があるでしょう。

17世紀の前半、北方四島にはアイヌしかいなかった。そして、その状況は、18世紀のなかばまで変わっていない。伝兵衛としては、そのように推察します。
「北海道は、アイヌモシリである(であった)」と言われることがあります。「アイヌモシリ」とは「我々の静かなる大地」という意味のアイヌ語です。「いつからか」という問いには明確には答えられませんが、北方四島が相当の長期間にわたって「アイヌモシリ」の一部であったことは間違いがないでしょう。

以下に、同時代に関する北方領土問題対策協会の認識を引用します。「アイヌ」という表記があるだけでも内閣府のHPよりはマシかも知れません。しかし、「国絵図」に関する評価については、問題があると思われます。

是非、和田教授の前掲書をご覧いただき、どちらの歴史認識の方が妥当であるか、みなさん自身で考えてみていただきたいと想います。

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「独立法人 北方領土問題対策協会」のHPから
http://www.hoppou.go.jp/gakusyu/mondai/frameset.html
 北海道や千島が人に知られるようになった頃の同地方には、アイヌと呼ばれる人々が住んでいました。
 国後島や択捉島には根室地方に住んでいたアイヌと同じ人たちが、また、占守島などの北の島にはクリル人といわれる人たちが住んでおり、1615年から1621年ごろ、松前藩と千島との間に交易が行われていたことが明らかにされています。
 1644年(正保元年)江戸幕府は「正保日本国図」を編さんするため、諸藩に「国絵図」の提出を命じましたが、このとき松前藩が幕府に提出した自藩領地の地図には「くなしり」、「えとろふ」など39の島々が書かれています。
 ロシア人が初めて千島を探検したのが1711年(正徳元年)のことですから、その100年も前から日本は北方の島々とかかわりをもっていたのです。また、1721年(享保6年)ロシアの探検隊が作成した地図には、北方の島々が、「オストロワ・アポンスキヤ」(日本の島々)と明記されています。

http://www.hoppou.go.jp/gakusyu/seisyounen/seisyounen2/2_1.html 1635年に松前藩の村上広儀(むらかみ ひろよし)がえぞ地を探検し、さらに千島列島の北端にある占守島までの地図を作りました。
 この頃、すでに松前藩では千島を「くるみせ」と呼び、藩の土地として扱っていました。
 1644年江戸幕府は、諸藩に命じて『正保御国絵図』(しょうほおくにえず)を作りましたが、それには「クナシリ」、「エトロホ」、「ウルフ」などの島名がつけられています。
 これは、ロシアのシュパンベルグたちが、千島列島を調査して地図を作った、1739年からみるとはるか以前のことになります。
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最後に、北方領土復帰期成同盟による「北方領土の歴史」のアドレスをご紹介しておきます。比較的中立的な内容となっています。
http://www.hokuhoku.ne.jp/hoppou-d/rekishi/rekishi-top.html

北方四島の歴史(その2)

2005年12月11日 21時21分35秒 | 北方四島
前回、ご紹介したオホーツク文化とアイヌ文化の関係については、あまり具体的なことは分かっていません。何らかの接触・交流はあったと想われますが、いずれにしても、オホーツク文化という固有の文化は忽然と消えてゆき、擦文文化・アイヌ文化へと移り変わってゆきます。やがて、北方四島・千島を含めた北海道においては、アイヌ民族が優勢となります。

クナシリ、エトロフにおいて、いつ頃、オホーツク文化の担い手からアイヌ民族の先祖への交代が行われたのか。その時期を明確に示している文献は見当たりませんでした。大和側の文献で、鎌倉・室町時代の「蝦夷」に関する記録もありますが、それがアイヌのことを指しているのか、他の北方民族のことを指しているのかは分かりません。また、その地理的な場所が、北方四島を含むのかどうかも、推測の域を出ません。

クナシリに関する信頼性のある記録としては、以下にご紹介するオランダ人の記録が挙げられます。

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「根室市役所」のホーム・ページの中の「学芸員日誌」から
「最初の千島探検」 (平成15年2月号)

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 千島に先史時代から人が住んでいたことは、遺跡から確認されているところですが、最初に千島を探検したのは、1643年のオランダのフリースでした。当時はロシアもまだ千島を知らず、松前藩も未調査状態でした。
 フリースは、マルコポーロの『東方見聞録』以来、日本東方の北緯37度付近にあると信じられていた「金銀島」を見つけるため、太平洋岸を北上しウルップ島に上陸、十字架を立て「コンパニースラント」(東インド会社の土地)と命名、領土宣言しました。エトロフ島は「スターテンライト」(オランダ国の島)と名付け、クナシリ島に上陸しました。
 日誌には、例えばクナシリ島のアイヌ家屋の中を「たくさんの鰈や鮭が、火から立ち昇る煙りの中に、横木の上に掛けてあったが、しかし彼らの傍には魚以外に食べるものは見あたらなかった」(北溝保男著『1643年アイヌ社会探訪記』)など、興味深い様子がたくさん記されています。
 しかし、フリースは海霧のため海峡を発見できず、ウルップ島がアメリカ大陸、クナシリ島やカラフトは蝦夷地の一部と見誤って地図に記したので、その後100年以上もヨーロッパの地図は、間違ったままでした。
 フリースの千島探検とその記録は、世界の地理学に大きな影響を与えたばかりか、謎の17世紀千島を、かいま見せてくれる貴重な史料だと言えるでしょう。
      (主任学芸員  川上 淳)
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大和側の記録としては、1644年の「正保御国絵図」などがあり、1754年の「クナシリ場所」の開設以降は、色々な記録が残っているのですが、その話は次回といたします。

 また、アイヌの立場からのこの年代以降の年表としては、以下のものがあります。
http://www.alles.or.jp/~tariq/kampisosi/historymain.html

北方四島の歴史(その1)

2005年12月11日 21時18分07秒 | 北方四島
「北方四島に関して、アイヌはステーク・ポルダーと言えるのか」という問題があります。ある元島民の方は、「私たちが住んでいた当時、北方領土にアイヌはいなかった」とおっしゃいました。言外に、「北方領土問題にアイヌは関係ない」と言っているようにも聞こえました。この問題について考えるための材料として、北方四島を中心とした地域の歴史について概観してみたいと想います。伝兵衛の個人的なメモのような形のものなので、いき届かないところもあるかも知れませんがご容赦ください。

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この地域の歴史について考える際に必要なことは、まず、「日本史の常識」を忘れることだと想います。特に、中学や高校の歴史の時間に習ったことは、場合によっては理解の妨げになるでしょう。

学校で習う時代区分と言えば、

・旧石器時代
・縄文時代
・弥生時代
・古墳時代(大和時代)
・奈良・平安時代
・鎌倉・室町時代
・江戸時代
・明治時代

というのが大きな流れだと思います。(南北朝時代・戦国時代などは省きました。)

この中で、縄文時代以前と明治時代以降は、本州・北海道ともに概ね共通です。しかし、弥生時代(弥生文化)というものは北海道には存在していません。また、江戸幕府(松前藩)の支配力は、北海道の大半の地域には及んでいませんでした。

では、どのような歴史があったのか。

北海道の最初の居住者は、約2万年前、北方の大陸方面から渡
来してきた旧石器時代人といわれている。その後、本州に若干
遅れ8000年前に縄文時代が始まり、本州が弥生時代に入ったこ
ろ、稲作の伝播がみられなかった北海道では、2000年ほど前に
独自の続縄文時代がはじまる。そして、本州が古墳から平安、
鎌倉時代へと移り変わる1400年前から600年ほど前に擦文時代
をむかえ、その後のアイヌ文化の時代へとつづいていくという
のが、北海道における古代文化の基本的な流れである。
(米村 衛『北辺の海の民・モヨロ貝塚』新泉社 2004年)

ところが、北方四島の周辺を含む、サハリン、千島、北海道のオホーツク海沿岸には、この「基本的な流れ」とは別の系統の文化がありました。それが「オホーツク文化」です。この流れを図にまとめると、以下のHPのような図になります。

◆本州と北海道の歴史年代区分の違い
http://www5.hokkaido-np.co.jp/motto/20021109/hyou.html

オホーツク文化の担い手については、その骨格上の特徴と、特異な埋葬方法から、後のアイヌとは別種の人々であると考えられています。かつては「エスキモーの一分派であるアリュート人に近い」と言われたそうです。しかし、最近では、オホーツク人とアリョート人はともに「北太平洋沿岸文化の一環」であり、「人種的に同一の根幹から別れた民族であろう」と考えられるようになり、「サハリンアイヌ、ニブヒ、ウルチというアムール・サハリン地方の諸集団」との「近い特徴」が指摘されています。

最近では、アムール河流域の各文化との比較から「オホーツク文化の形成は(中略)沿アムール地域に祖型を有する大陸的要素と続縄文的伝統に由来する海獣狩猟文化との接触融合がなされ、その舞台は、南樺太と道北が選ばれた」という説が有力となりつつあるようです。

いかがですか。アイヌ時代以前の北方四島の住人たちについて、なんとなくイメージできたでしょうか?

以下に、オホーツク文化に関連するHPをいくつかご紹介しておきます。

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「市立函館博物館」のHP
の中の「謎のオホーツク文化」から
http://www.museum.hakodate.hokkaido.jp/collection/minzoku/06.html

 およそ6世紀から13世紀頃にかけて、樺太・北海道オホーツク海沿岸・千島列島を中心に陸獣・海獣狩猟、漁撈、採集活動を生業とする民族集団が居住していました。彼等の形成した北方の文化形態こそ、謎を秘めた「オホーツク文化」です。
 一般にオホーツク文化は、鉄器や青銅器を有する沿海州靺鞨文化(4~10世紀)、女真文化(10~12世紀)の系統をひいて誕生し、やがて本州の土師器文化(7~11世紀)の影響を受けて発生した擦文文化(8~13世紀)と融合し、吸収されていったと考えられています。代表的な遺跡として網走のモヨロ貝塚が知られています。また、オホーツク文化と中国大陸を含む他文化との接触・交流は、アイヌ文化の発生に大きく関わり、北回りの文化系統は、後に山丹交易ルートとなっていきます。
 果たしてオホーツク文化の担い手は、だれなのか。オホーツク文化のルーツは、どうなのか。オホーツク文化とアイヌ文化の関係はどうなのか。等々その真相は、多くの謎に包まれています

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ゴマスケさんが運営している「あざらしのお部屋」の中の「オホーツク文化とは?」から。
http://homepage2.nifty.com/gomasuke/ningen/5-ohotuku.htm

みなさんは、オホーツク文化というのをご存じですか?オホーツク文化は、北海道の北部と東部に7世紀から13世紀にかけて、オホーツク海沿岸を中心にさかえた文化です。そしてこの文化は、アザラシと関係があるのです。このころの日本は、飛鳥時代から鎌倉時代のはじめにあたります。
この文化をつくりだした人びとは、ロシアと中国の国境近くのアムール川(黒竜江)の海域や、ロシアのサハリンから南下したと考えられています。彼らはまず北海道の北部で生活し、しだいに東へ北へとすむ範囲をひろげてゆきました。やがて彼らは姿をけし、オホーツク文化はアイヌ文化にとりいれられました。
人びとは、秋から春までアザラシなどの海獣や魚といった海からのめぐみをとって一年の生活をたてていました。彼らがすんでいたあとから、たくさん釣針やモリ先、アザラシやトドや魚などの骨がでています。アザラシなどは、この文化の人びとにとってとても大事なめぐみであったわけですね。

遺跡の場所
オホーツク文化の遺跡は、北海道の北部や東部、サハリン南部、南千島にひろがっています。これらの場所は、冬の1月から3月に流氷が流れつくところです。流氷はたくさんの海獣や魚をもたらしてくれます。ですから、海のめぐみをとるオホーツクの人びとにとって、こうした場所がすむのによいところだったわけです。
オホーツク文化の遺跡の場所は、海岸の砂丘の上や海をみおろすところにあります。これはサハリンや南千島でも同じです。北海道でしたら、利尻、稚内、紋別、網走、そして羅臼や根室といったところに遺跡がみられます。有名な遺跡としては網走市のモヨロ貝塚などがあります。

『北海道立北方民族博物館展示解説』
(北海道立北方民族博物館編、1993年)より転載

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北海道新聞の連載
http://www5.hokkaido-np.co.jp/motto/20021109/

オホーツク文化を発信し合う会
http://okhotsk.vis.ne.jp/

東京大学のHPの中から
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2002Okhotsk/index.html

村上春樹と「イパネマの娘」

2005年12月10日 00時06分58秒 | Books
 先日、新宿の「赤レンガ」というパブに行ったら、橋爪さんというピアニストが「イパネマの娘」を弾いていた。ボサノバというジャンルに詳しいわけではないけれど、それでも「イパネマの娘」だけは知っていたのは、村上春樹の『カンガルー日和』という掌集の中に「1963/1982年のイパネマ娘」という小編があったからです。
 村上春樹の小編のタイトルにもあるとおり、この歌がリリースされたのは1963年。これは僕が生まれる少し前で、42年前ですね。ひとつの歌が40年に亘って歌い続けられ、そして新たなファンを獲得してゆくことって、ちょっとスゴイと想いませんか。

 .:*:'゜☆。.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・'゜☆。'・.:*:・.:*:・

 『カンガルー日和』の中の「1963/1982年のイパネマ娘」というお話は、文庫本で8ページほどの掌篇です。ちょっと変わったお話です。と言うよりも村上春樹のお話は「変わったお話」ばかりかも知れませんが。
 彼によれば、イパネマ娘さんは「形而上学的な女の子」なんだそうです。なぜなら、1982年当時、歌われ始めてから約20年を経てもまったく歳をとらないから。
 村上春樹は(あるいはこのお話の主人公は)「イパネマの娘」を聞くと「高校の廊下」を想い出し、高校の廊下からは「コンビネーション・サラダ」を想い出し、コンビネーション・サラダからは「菜食主義者の『いちご白書』的女の子」を想い出すんだそうです。そういえば、先日の「赤レンガ」のカウンターでも、『いちご白書』の話が出ていましたね。

 あなたは、「イパネマの娘」から喚起される何かがありますか。
 それとも、ほかの歌では何か。

 .:*:'゜☆。.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・'゜☆。'・.:*:・.:*:・

 「イパネマの娘」を聴いて「形而上学的女の子」を想い浮かべる村上春樹って、やっぱり変だと思う。健康な男の子だったら、そして健康な男の子だったオジサンだったら、「イパネマの娘」を聴くと「フィジカルな女の子」が脳裏に浮かぶんじゃないだろうか。メタフィジィカル(形而上学的)じゃなくって。
 でもこれは、その人そのひとが「女の子」に対して抱くイメージの問題なのかも知れない。彼はきっと、目の前の女の子に対して、フィジカルな次元を超えたところで恋愛感情を抱いてしまったのかも知れない。普通ならば、抽象的な恋愛感情も、徐々に即物的な感情へと具体化してゆく。手を握りたい。キスをしたいというように。

 でも彼の恋愛は、彼の初恋は、より抽象的なものへと結晶化されてゆき、そして具象化される機会を逸したのかも知れない。だから、イパネマの娘の中に、永遠不変な「何か」が感じられるのかも知れない。
 でも、それは怖いことだ。昔、憧れた可憐な少女が、ただのオバさんになってしまったのを目の当たりにしたとき、人は一抹の寂しさとともに安堵を覚える。もし、時間がただ自分の中だけで過ぎ、自分だけが老い、それなのに彼女だけが昔のままだったとしたら。それは想像するも恐ろしいことだと想う。泥沼の寂涼感に襲われてしまうかも知れない。

 村上春樹が表現したかったことって、そういうことなのだろうか。

赤レンガのHP
http://homepage1.nifty.com/AKARENGA/

いそしぎ(その2)

2005年12月09日 23時44分04秒 | Music
「いそしぎ」(The shadow of your smile)は、
邦題「いそしぎ」という映画の主題歌らしい。

映画の「あらすじ」の中は、次のように紹介されている。

  カリフォルニア海岸に建てられた一軒家に、
  無名の画家ローラ(エリザベス・テイラー)と、9歳になる息子ダニーが、
  世間に煩わされることなく、自由な生活を送っていた。
  宗教家の校長エドワードと、彼の妻クレアーはダニーばかりでなく、
  自然児のような母親ローラをも教育する必要があると感じた。
  ありあまる自由を持ちながらも、やはり孤独だったローラは、
  訪ねてきたエドワードに身をまかせた。
  罪の意識を失くした彼は、妻を偽り、
  傷いえた「いそしぎ」が、大空をはばたくように、ローラと旅に出た。
  2人の関係がそれとなくクレアーの知るところとなった。
  思いあまったエドワードは真実を告白した。
  むろん彼女は許すことができない。
  一方、ローラにとっても自分たち2人だけのことを、
  たとえ妻といえども人に話したということは許せなかった。
  学校を辞めたエドワードは、ひとり、旅に出た。
  「いそしぎ」の飛び交う海岸では、ローラが絵筆をとっていた。

やはり実際に映画のシーンを見てみないと、
あの曲と「イソシギ」のつながりが分からないかも知れない。
この映画の原題は"The Sandpiper"。
野鳥であるイソシギの英名のままである。
砂浜で「笛」のように鳴くところから付いた名だろうか。
映画の初映は、僕が1歳のとき(1965年)。
DVDはもとより、レンタル・ビデオ屋でも見当たらない。

僕にとって「いそしぎ」は、「幻の名画」となるのだろうか。

ボサノバの「いそしぎ」を聴きたい方は、「赤レンガ」に火曜日に行って、リクエストしてみてください。

いそしぎ(その1)

2005年12月09日 22時59分36秒 | Music
「The shadow of your smile」で始まるボサノバがある。
ずっと名を知らず、ただ「いい曲だなぁ」と想っていた。
「いそしぎ」と聞くと、「そうそう、そういう曲名だった」
と思い出すのだけれど、どうも、あの曲の雰囲気と、
「チドリ目シギ科イソシギ(学名:Tringa hypoleucos)」
という鳥のイメージが結びつかなくて覚えられなかった。

「あなたの微笑みの中の翳り」
なんとも意味深なタイトルだと想っていた。

.:*:'゜☆。.:*・'゜★゜'・:*:.。.:*:・'゜☆。'・.:*:

しかし、歌詞を調べてみて気が付いた。
「The Shadow Of Your Smile」は、
「あなたの微笑みの中の翳(かげ)り」ではなく、
「あなたの微笑みの面影(おもかげ)」だったのだ。

「微笑みの中の翳り(Shadow)」という言葉を想い浮かべたとき、
目の前の「彼」の心の中にある「他の女の影」とか、
「離れゆく彼の心」みたいなことをイメージしていたのだが、
どうも考え違いだったようだ。

「面影(Shadow)」というのは、既に彼が立ち去った後に、
彼女が心の中に描いているイマージュ(幻影)のようなもの。
残念ながら、女性に対して「面影」を残すような恋愛を
した経験がないので(笑)、そういうシュチュエーションを
イメージできなかった(笑)。

古本屋のワルツ by 黒船レディと銀星楽団

2005年12月04日 19時33分23秒 | Music
本というものは、本当に不思議なものであると思っています。
古本屋で、岩波文庫のカントの
『純粋理性批判』が3巻揃って九百円で売っていたりする。
決して出会うことの叶わぬ偉人の、生涯をかけた知的努力の結晶が一時間程度の労働の対価で手に入ってしまうわけです。
「こんな素敵な不平等(=不等価交換)が、許されてよいのだろうか」と思ってしまいます。

『アデン アラビア』の中には青春の苦悩の軌跡があり、
『存在と無』は、虚無の淵に佇む人間を鼓舞しようとする。

『資本論草稿集』の原稿は、ナチスの手から護るためにドイツ社会民主党のシンパたちが「命」をかけたものであるし、
『資本蓄積論』は、そこに結実した思想故に、
ローザという名の美しい女性の命が政治の手によって奪われることとなった。

あるパイロットは、祖国と妻への切ない想いを込めて
『星の王子さま』を描き、
あるパイロットは、世に馴染まぬ己の姿をカモメに託して
『かもめのジョナサン』を著した。

プラトンの
『国家』を読むと、
「人類にとって、この二千年は一体何だったのだろうか」という感慨に襲われる。

古本屋に居並ぶ古書たちの中に立つとき、その一冊一冊の書物の中に綴じ込められた「想い」「思い」「運命」「観念」「希望」「絶望」「意志」「情念」などに想いが至り、背筋に戦慄のようなものを感じることがあります。

そして、気になるタイトルの本を手に取り、ページを捲るときの「期待」と「不安」。
「よしっ」と思って、お値段を確認したときの「歓喜」や「落胆」(笑)。
しかし、そこに込められた著者の「思い」のことを考えれば、相対的にはともかく、「値段が絶対的に高すぎる本」というものは存在しないのだと思っています。
後は、自分の財布の中身(と置き場所)とのご相談だけです(笑)。

黒船レディと銀星楽団の奏でる「古本屋のワルツ」という歌を聴いたとき、
昔考えた、そのようなことが想い出され、涙が出てきました。

黒船レディのHP
http://kurofunelady.net/

ALWAYS or "Smoke Gets In Your Eyes"

2005年12月03日 20時06分35秒 | Music
先日、ツタヤで映画を探していたら、「オールウェイズ(Always)」のDVDがあった。昔観て感動した記憶があったので、さっそく借りてみた。またまた感動した。

最初の5分で、止まらない程に涙が出てきた。どのシーンにと言って、主人公が載った消防飛行機が着陸したシーンなんですが(笑)。普通の人にとっては大したシーンには想われないかもしれないけれど、僕にとっては体が打ち震えるほどに感動的なシーンだった。映画「メンフィス・ベル」の感動のラスト・シーンに匹敵する場面を最初の5分で使ってしまうのだから、贅沢な話である。

以前、2度ほど観たときには気が付かなかったことがいくつかあった。
死んだ主人公(リチャード・ドレイファス)が、天使(オードリー・ヘプバーン)と語り合うシーンで、飛行機の操縦訓練をピアノの練習にたとえるシーンがあった。いずれにおいても、上達するには、一種の「ひらめき、霊感、インスピレーション」が必要だと言うのだ。そして、若いパイロットやピアニストが才能を開花させるのに必要なインスピレーションを得るのは、決して彼/彼女の実力によってではなく、死んだパイロットやピアニストのゴーストが授けてくれるからなんだ、という。
それを真実として信じるわけではないけれど、ひとつの寓話として、示唆的だとは想いませんか? もっとも飛行機の場合は、事実としても、死んだ先人たちの教訓の上に、今日の安全が築かれているのだけれど。
(--屍の上に築かれた技術と安全--)
ドイツのグライダー発祥の地の丘には石碑があって、そこには以下のような碑文が彫られていると聞いたことがある。(もちろん、原文はドイツ語。)

我ら死せる鳥人、試みたるをもって勝利者たり。
人々よ、また飛べ!
そして、試みたるをもって勝利者たれ!

死んだ先輩たちから「飛べ!飛べ!もっと飛べ!」と急き立てられるのだから、グライダーや消防飛行機のパイロットたちは大変である(笑)。

ところで、主題歌になっている甘いメロディの曲。あれは「煙が目にしみる」だったんですね。消防士という煙い仕事の物語で「SMOKE GETS IN YOUR EYES」というのは、一種の洒落だったんでしょうかね。いずれにしても、よい曲です。

この映画、カタログ的な言い方をすると、スピルバーグ監督がラブ・ストーリーを手がけたということと、ヘプバーンの遺作となったことが話題となっているようです。僕は十分に楽しめたのだけれど、
http://jtnews.pobox.ne.jp/movie/database/treview/re683.html
などをみると、あまり評判がよろしくない。いわれてみれば、飛行機が出てくる恋愛映画って、だいたい恋愛部分がアリキタリ・オザナリに見えるのかも知れない。まあ、人それぞれです。シニカルなタイプの人にとっては、バカバカしくて見ていられない映画かも知れません。

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http://www.universalpictures.jp/always/catalog_item_sell.html
"Always"
1989年/アメリカ
キャスト:
リチャード・ドレイファス
ホリー・ハンター
ジョン・グッドマン
ブラット・ジョンソン
オードリー・ヘプバーン
スタッフ:
製作:フランク・マーシャル/キャスリーン・ケネディ
監督:スティーブン・スピルバーグ
脚本:ジェリー・ベルソン
撮影:ミカエル・サロモン