前回、「正保御国絵図」の名前を出しました。これは、徳川幕府が作成した日本地図です。この地図から何を読み取るかは、「歴史的な評価」という問題を考えるうえで重要なことであると想うので、やや詳しく検討してみます。
「内閣府・北方対策本部」のHP
http://www8.cao.go.jp/hoppo/
の中に「北方領土の歴史的経緯」に関する政府の認識が書かれていますので、以下に引用します。また、ここには「正保御国絵図」の写真も掲載されていますので、是非ご覧ください。
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http://www8.cao.go.jp/hoppo/hoppo/hoppo4.html
「日本人による開拓の歴史」
1635年(寛永12年)、北海道を支配していた松前藩は、北海道全島および千島、樺太を含む蝦夷(えぞ)地方の調査を行いました。1644年(正保元年)の幕命により諸藩から提出された国絵図に基づいて、幕府が作成した日本総図(いわゆる「正保御国絵図」)には、「くなしり、えとろほ、うるふ」などの島名がはっきり記載されています。
ロシア人が初めて得撫(うるっぷ)島に来て、長期滞在して越年したのは、1766年(明和3年)ですが、住民の反抗にあって翌年帰国しています。
その後、ロシア人は再々この方面に進出して、住民との間に衝突が絶えない状況でした。
千島へのロシアの活発な進出を知った幕府は、みずから北方の島々の経営に本格的に取り組むこととし、1785年(天明5年)および1791年(寛政3年)に最上徳内らを調査に派遣しました。同人は、国後島から択捉島に渡ってロシアの南下の状況を克明に調査し、さらに得撫島に上陸して同島以北の諸島の情勢も察知しています。
幕府は、国防上、千島、樺太を含む蝦夷地を直轄地として統治することとし、1798年(寛政10年)、大規模な巡察隊を同地方に派遣しました。このとき、近藤重蔵は最上徳内と共に国後島、択捉島を調査し、択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てています。 翌1799年から1800年にかけて、近藤重蔵は高田屋嘉兵衛らと共に、再び国後島、択捉島に渡り択捉島に本土の行政を移入、郷村制を施き、17か所の漁場を開くと共に幕吏を常駐させました。
また、航路や港の整備などにより、色丹島、国後島、択捉島の本格的開発が始められました。
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ここでは、1635年に千島の「調査をおこなった」と書いています。
しかし「行った」とは書いていません。
逆にロシア人については「衝突」があったと書かれています。その相手側は「住民」と表記されており、「先住民」とも「アイヌ」とも書いていません。幕命により書かれた「国絵図(地図)」があり、そこに「地名」が記されていれば、そこは「領地(領土)」であったに違いないと考えがちです。しかし、そこには論理の飛躍があります。
日露外交史の権威でもある和田春樹教授は、著書の中でこの「正保御国絵図」上の地名表記や地形表記などを子細に検討したうえで、以下のように結論づけています。
おそらくこの地図は海上から陸地にそって進み、それぞれの地
のアイヌから聞いた地名を書き留めたものだが、むしろ西と北
は相当実地にみているのに、東の方はかなり手前までしか行っ
ていないようである。この地図つくりに協力したアイヌは北海
道の西に住むアイヌで、彼らの奥蝦夷から千島部分の知識はあ
やふやであったのだろう。この正保地図は、現代において、日
本がすでに17世紀半ばに千島方面を領有していたと主張する
材料に使われたことがあるが、実は当時まだその地に松前藩の
誰も足を踏み入れたことがなく、その地と往来している奥蝦夷
のアイヌからの聞き取りもきちんと行われていなかったことを
示す証拠である。
(和田春樹『北方領土問題-歴史と未来』朝日新聞社 1999
年刊 p.20~21)
つまり、和田教授によれば、この「正保御国絵図」こそ、北方四島を含む千島に対して松前藩の影響力が及んでいなかったことの証拠であるということになります。
北方領土に関する文献などをみていると、以下のような表記に出会います。
1635(寛永12)年 松前藩、蝦夷地(えぞち:現・北海道)を
探検し、国後・択捉を含む千島列島の地図を作成
こういう文章を読むと、我々は頭の中で勝手に「松前藩が国後に行った」ように理解してしまいます。しかし、そのような史実を示す証拠は何も無いということを、我々は正確に認識しておく必要があるでしょう。
17世紀の前半、北方四島にはアイヌしかいなかった。そして、その状況は、18世紀のなかばまで変わっていない。伝兵衛としては、そのように推察します。
「北海道は、アイヌモシリである(であった)」と言われることがあります。「アイヌモシリ」とは「我々の静かなる大地」という意味のアイヌ語です。「いつからか」という問いには明確には答えられませんが、北方四島が相当の長期間にわたって「アイヌモシリ」の一部であったことは間違いがないでしょう。
以下に、同時代に関する北方領土問題対策協会の認識を引用します。「アイヌ」という表記があるだけでも内閣府のHPよりはマシかも知れません。しかし、「国絵図」に関する評価については、問題があると思われます。
是非、和田教授の前掲書をご覧いただき、どちらの歴史認識の方が妥当であるか、みなさん自身で考えてみていただきたいと想います。
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「独立法人 北方領土問題対策協会」のHPから
http://www.hoppou.go.jp/gakusyu/mondai/frameset.html
北海道や千島が人に知られるようになった頃の同地方には、アイヌと呼ばれる人々が住んでいました。
国後島や択捉島には根室地方に住んでいたアイヌと同じ人たちが、また、占守島などの北の島にはクリル人といわれる人たちが住んでおり、1615年から1621年ごろ、松前藩と千島との間に交易が行われていたことが明らかにされています。
1644年(正保元年)江戸幕府は「正保日本国図」を編さんするため、諸藩に「国絵図」の提出を命じましたが、このとき松前藩が幕府に提出した自藩領地の地図には「くなしり」、「えとろふ」など39の島々が書かれています。
ロシア人が初めて千島を探検したのが1711年(正徳元年)のことですから、その100年も前から日本は北方の島々とかかわりをもっていたのです。また、1721年(享保6年)ロシアの探検隊が作成した地図には、北方の島々が、「オストロワ・アポンスキヤ」(日本の島々)と明記されています。
http://www.hoppou.go.jp/gakusyu/seisyounen/seisyounen2/2_1.html 1635年に松前藩の村上広儀(むらかみ ひろよし)がえぞ地を探検し、さらに千島列島の北端にある占守島までの地図を作りました。
この頃、すでに松前藩では千島を「くるみせ」と呼び、藩の土地として扱っていました。
1644年江戸幕府は、諸藩に命じて『正保御国絵図』(しょうほおくにえず)を作りましたが、それには「クナシリ」、「エトロホ」、「ウルフ」などの島名がつけられています。
これは、ロシアのシュパンベルグたちが、千島列島を調査して地図を作った、1739年からみるとはるか以前のことになります。
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最後に、北方領土復帰期成同盟による「北方領土の歴史」のアドレスをご紹介しておきます。比較的中立的な内容となっています。
http://www.hokuhoku.ne.jp/hoppou-d/rekishi/rekishi-top.html