*中嶋氏発祥の地! 碑!(富田)
住所=一宮市富田立石710付近
*尾張中嶋氏発祥の地・碑!
*尾張中嶋氏発祥地の碑1
*尾張中嶋氏発祥地の碑!
*尾張中嶋氏発祥地の碑!
*尾張中嶋氏発祥地の碑!(富田立石地区内)
*尾張中嶋氏発祥地の碑!
*承久の乱で幕府軍(北条義時)対 朝廷側(上皇軍)後鳥羽上皇は敗北しました。
後鳥羽上皇に味方した御家人が京都周辺や西国にいたように、鎌倉幕府の支配は主に、
東国であり、三河より西には幕府の支配権はそれほど及んでいませんでした。
尾張国は守護の「小野盛綱」が朝廷に味方したため、国内に所領を持つ御家人の多くが、朝廷側となりました。
そのため、承久の乱後に多くの御家人が所領を没収されました。
以後、鎌倉幕府の支配は西国にも及びました。
尾張国内の荘園も東国の御家人に与えられました。
その中で、所領を取り戻したのが、尾張西部の在地領主「中嶋氏」でした。
萩原の中島地区には「中嶋城」や「長隆寺」など、中嶋一族に関わる史跡が多く残ります。
中嶋氏は平安時代から中島付近に移住し、「中嶋城址」付近に屋敷があり、周辺を治めていたと思われます。
承久の乱当時(1221)の主は「中島宣長」という人物です。
「宣長」も朝廷側として参陣し、所領をを没収され、「富田」に移り住みました。
その後、幕府に願い出て延応元年(1239)旧領を回復しました。
中嶋氏の旧領回復は、「吾妻鏡」にも記された、れっきとした史実です。
回復できた背景には、所領を没収されても、実際の土地の管理は引き続き「中嶋氏」行って、
いた可能性が得あり、それが旧領回復につながったとされます。
その後、中嶋氏は幕府の御家人として活動しています。
(一宮市尾西歴史民俗資料館 学芸員・宮川充史氏(資料より)
*中嶋宮!(長隆寺)
*長隆寺! 碑!
*長隆寺! 碑!
*長隆寺! 碑!
*長隆寺!(説明板)
*長隆寺!(山門)
*長隆寺!(山門)
*長隆寺! (境内)
*長隆寺! 阿弥陀本堂!
*長隆寺!(説明板)
*長隆寺! 境内碑!(中嶋蔵人光敏親王・供養塔)
*長隆寺! 境内碑!(中嶋蔵人光敏親王・供養塔)
*中嶋氏をめぐる研究! (書)
*中嶋家系譜綜覧!
*中嶋一族史!
*中嶋一族史!
*中嶋氏史!
*中嶋氏史!
*中嶋氏史より!
*中島氏をめぐる研究! 著者・発行者=中嶋芳(かおる)氏
(稲沢市図書館資料室)あり!
*中嶋蔵人とその後裔! 著者・発行=中嶋芳(かおる)氏
(稲沢市図書館資料室)あり!
*長隆寺! 境内!
*長隆寺! (説明板)
*長隆寺! (付近絵図) 寛政期(1789~1800)
*長隆寺! (付近案内板)
*長隆寺! 本尊(阿弥陀如来・両脇侍像)(鎌倉時代)
*平成元年~平成2年(1989~1990・本尊修理)
*平成3年(1991)両脇侍の修理の際・両脇侍から元享3年(1323)の制作銘が発見された。
長隆寺所蔵の文化財は、いずれも「一宮市博物館」(妙興寺境内)」に委託され、収蔵展示されている。
(一宮市教育委員会)(説明板より)
*追記*「長嶋山妙興報恩禅寺」は、貞和4年(1348)「滅宗宗興(めっしゅうそうこう)」
を開山とする「臨済宗妙心寺派」の寺院です。
滅宗宗興は国人「中島蔵人源宗の第二子」の子として延慶3年(1310)に生まれ
18歳にして中島郡矢合村(現・稲沢市)の円興寺(後の国分寺)「柏庵宗意」の門に入り剃髪した。
39歳の時に故郷に帰り、父母への報恩のために創建したのが、寺名の由来とされています。
*長隆寺! 本尊(木造阿弥陀如来座像)(高さ=150cm)
*長隆寺! 本尊(阿弥陀如来像)
*長隆寺! 脇侍像(左側)(木造勢至菩薩立像)(高さ=178cm)
*長隆寺! 脇侍像(右側)(木造観音菩薩立像)(高さ=178cm)
*中島廃寺跡! 碑!
*中島廃寺跡! 碑!
昭和39年~40年の発掘調査で、奈良・平安時代の軒瓦・鬼瓦等多数出土した。
石碑前の細長い石は、この時検出した一堂跡より発見された物である。
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