*竹鼻別院! (大谷派別院)
住所=岐阜県羽島市竹鼻町2802
(大谷派別院・竹鼻別院)碑!
*お城地蔵大菩薩縁起!
*この竹鼻には今から凡そ5百年前、応仁年間に竹鼻城が築かれ町の発展の基が開かれた。
しかしその反面、幾多の戦禍をうけて多くの尊い人命が失われてきた。
殊に慶長5年(1600)の天下分目の「関ヶ原戦」では、
徳川方の猛将「福島正則」らの大軍が押し寄せ、城主=杉浦以下の将士は奮戦もむなしく、
玉砕し城は炎上して一片の灰と化したのである。
以来、春風秋雨三百幾十年戦没者らの菩提を弔う人もなく、全く忘れ去られてきた。
ところが昭和になって町内の某氏が供養塔を建立しようと発起し、
独力で石材を集め準備を進められたが、残念なことに戦時下の状勢が悪化し、遂に中断されてしまった。
戦後町民の有志らはこの某氏の遺志を継ぎ、塔に変わって「お城地蔵」を建立した。
すると不思議な霊験が現われ城跡辺の「蓮田」から一茎双蓮の花が咲いたのである。
この霊験の有難さが四方に伝わり、「お城地蔵」は一躍有名になった。
(昭和25年6月創建)(説明板より)
*竹鼻別院! (山門)
天保4年(1833)2百50両で建立された山門は「御坊大門」と、
親しまれていたが、濃尾大震災(明治24年・1891)で倒壊した。
現在の山門は、大正14年(1925)再建された。
倒壊した山門と同様「唐破風造」で、桃山式の風趣を伝える極めて華麗な山門である。
棟梁は、本堂と同じ「伊藤平左衛門」である。(説明板より)
*別院!
*別院本堂!
*戦国時代、本願寺と織田信長との一向一揆(石山合戦)に、
当時の住職忍語が出陣し戦死した。
慶長9年(1604)教如上人は功に報い、寺を「御坊」とし、
新加納村から竹ヶ鼻村に移し、54ヶ寺を支配した。
*明和8年(1771)39ヶ村の人々が協力し、50年の歳月を要し
完成した本堂は、縦、横ともに14間3尺5寸の御堂あったが、
明治24年(1891)の濃尾震災で倒壊した。
現在の本堂は、大正4年(1915)から大正11年(1922)にかけ、
門信徒の懇念によって再建された。
総欅による繊細な彫刻・優美な内陣の荘厳など、
日本建築の伝統を凝集した立派な本堂である。
棟梁は東本願寺の御影堂を建立さた、伊藤平左衛門である。
(説明板より)
*竹鼻別院のフジ!(県指定天然記念物)
*竹鼻別院のフジ!・(説明板)
目通り周囲=2,80m
根廻り周囲=2,30m
樹 高=2,40m
枝張り東西=33,00m
枝張り南北=15,00m
樹 齢=300年以上
(説明板より)
*別院のフジ!
*別院のフジ!(4月下旬~5月上旬)
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