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無門塾

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「古今伝授」とは?…その2

2010年11月04日 | Weblog
 「古今で伝授」 の始まりは、平安時代末期、歌学を生業とする家に於いて行われていた。が、武家政権の確立とともに、伝授階級と伝授内容の多様化の時代を経て、身分・才能・品格が備わった者だけに口伝のよって授けられる様になり、権威の象徴とも化した。
 
 そこで、細川幽斎が何故 「古今伝授」 の伝授者となり得たのかである。既に、幽斎の文化的素養は、時の天下人にとっても知れ渡り、重用もされていた。
 幽斎の場合は、宗祇から三条西実隆へと伝えられ、三条家に於いて親から子へと継承されていたものであるが、実隆の孫・実枝(サネキ)がその子公国(キンクニ)が未だ幼いため系図通りに伝授することが叶わず、公国の成長後に三条家に返すことを条件に、弟子の一人であった幽際を選んで 「古今伝授」 を預けたのである。

 ところで有斎は、約4年の歳月をかけて実枝より古今伝授を受け、43歳で相伝証状を手にした。その後、24歳になった公国に 「返し伝授」 を果たしたのである。また、幽斎は、宗祇から枝分かれした他流の資料を集め、古今伝授を集大成している。
 武士でありながら、歌学界の第一人者となった幽斎であるが、公国が32歳で世を去ると、古今伝授の奥義は、幽斎の手により後陽成天皇の弟である八条宮智仁皇子へと継承されることになった。

ところが、智仁親王への古今伝授の途中、問題が起きてきた。 即ち、[関ヶ原の戦い」 である。
 戦いの始まりとともに、幽際は領地である丹後の 「田辺城」 への籠城を余儀なくされた。城を取り囲む石田勢1万5千人に対し、籠城の幽斎側は5千人。 そこで、死を覚悟した幽斉は、古今伝授の内容に関する一切の資料と、古今伝授修了の証明書を、智仁親王に送り届けた。
 その中には、次の有名な歌を認めた短冊が添えられていた。 「古へも 今もかはらぬ世の中に 心のたねを のこす言の葉」。 親王は、この事を後陽成天皇へ報告した。

 幽斎の決死の覚悟を見てとった天皇は、幽斎の死と、古今伝授の断絶を恐れ、勅命を発して田辺城の囲みを解かせた。                     合掌