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無門塾

旅や山、人生を語り合いましょう。

休筆予告

2011年09月11日 | Weblog
休筆予告?  いえ イエ 筆を置いて彼岸の地へ…と、旅立つ予定ではありません。

その話の前に、無料ラーメンの話を記しておきたい。
 今時、無料のラーメンなどあるの? それとも被災地での慈善行為の話し?  これまた、イエ いえ である。 熊本市でも繁華街の真ん中 「酒場通り」 での出来事である。

 とある ラーメン店。 固有名詞を記すのは本意でないが、無料で食べさせて頂いたお礼と言う訳ではではないものの、敢えて…。
 店名は 「いっぷくラーメン」 で、開業30周年を記念し 通常550円のところを、店主の心意気で 300杯を無料にて提供すると言う企画での話である。

 無料とは言え、本格的な仕様であり非常に美味しかった。 常に進化を心掛ける店主が編み出した一杯だそうで、基本は豚骨であるが天草大王を用い、コクがあって且つ滑らかなスープを生み出し、其処へ自家製卵麺を絡ませての逸品だそうである。 だそうであるでは無くて、スープも普段以上に食したが 嫌味が後に残る事も無く非常に美味しかった。

 暑い中の行列ともあって タダ で物を口にするには、食欲のみに留まらず 体力・気力 も要する。 中で面白かったのは、行列の方々の人間模様であった。 留まることなく団扇で涼を求める人 座り込む人 尽きない世間話しを交わす人 知人が居た故か割り込む人 それを許せないと言って小言を繰り返す人、その受け答えに窮する人 行列を不思議そうに眺める人、など等あっで、人間ウオッチングで行列も苦にならず、結構楽しかった。 割り込みの件であるが、普段なら許せない行為として必ずクレームをつける小生であるが、何故かこの日は一向気にならず、愚かな人間だナーと、極めて客観的に眺めていたが、暑さのせいであったのだろうか? はたまた、食欲の方へ神経が集中していたのだろうか? 人間的に成長したのだろうか?  自分でも判断しかねる。

 肝心の、「休筆予告」 についてである。 この所、本来任務以外の務め事が多く且つ私的にも結構為す事が連続していて パソコンを開く時間がない。 加えて、9月末から10月の終わりにかけ 家出 をしたいと思っている。 それやこれやで、家出から帰る予定の 10月末まで グログ も暫しお休みにしたいと言った次第である。

 長期にわたって、何処へ出かけるのか?  今 「熊日」 で五木寛之が 小説 「親鸞」 を連載しているが、その親鸞の旧蹟地を訪ねてみたいのである。
この事、以前からの夢であり 何時かはと考えていたが、今回の新聞発表が後押しをしたともいえる。   
 
 多くの場合 夢は夢で終わる。 小生の場合も何時かは マッターホルンの頂に…と思っていたが 今となっては実現不可能であろう。 日本一周は 先島諸島を除き ほぼ達成している。 百名山登山 あと12座を残しているが 今の任務の方に魅せられ、元々が目指した事でもなく 結果がそうなっただけであって、心残りはすれど、どうでも良いか…とも思っている。
 
 今一つが 「インド」 である。 今や辺境の地域と言った方が良いのか、 「釈迦の旧蹟地」 を巡りたいのである。 願わくば、この巡礼中に命終われば…が本望と思う次第で、今しばらくは夢の儘に置きたい。

 さて、今回の 「家出」 逆にすれば 「出家」 ともなるが、其処まで高尚なことではない。 「親鸞」 と言う人は、宗教家で 「浄土真宗」 の宗祖でもある。 所が、宗教者とか宗祖らしくなくて、常に人間とは如何なる存在であるのか…を 悶々と問い詰めていく人である。 真にもって、人間そのもの存在であり 「思想家」 「哲学者」 と言った方が適切ではないのだろうか。

 親鸞論 を述べる知識など 残念ながら小生には備わっていない。 が、最も尊敬できる人物であり 彼の旧蹟地を訪ねてみれば、何かが得られるのでは…との思いが今回であり、今でないと夢に終わってしまいそうな感を強くし、諸々の方々に迷惑をかける事にはなるが、決断した次第である。

 この始末記、生きて帰えれればの話であるが、 何れは当ブログに記してみたい。 最後に、今回の旅先である。 小生の旅は基本的に 「全てに風任せ」 であるが、大まかに考えると 先ずは京都、 北陸路、 新潟・上越市、 信濃路・善光寺、 群馬・佐貫、 茨城・下妻市坂井(小島) 笠間市稲田 水戸市可和田 鹿島郡 辺りが中心地域で、東海道筋から最後は京都へ…に なるであろう。           合掌             

「加藤忠広」 考…その2

2011年09月07日 | Weblog
 「牛方馬方騒動」 の結果、忠広が江戸出府を命じられたことは前項に記した。 所が、参府途上で 品川の宿に於いて入府を止められ、池上本門寺にて上使 稲葉正勝 により改易の沙汰を受けた。 結果、出羽・庄内藩主 酒井忠勝 に、お預けの身となるのである。

 出羽丸岡に 54万石から僅か1万石 然も一代限りの所領を与えられ、母・正應院や側室 乳母 女官 と家臣20名余で丸岡に赴いた。
 丸岡に於ける1万石は 堪忍料 であり、年貢の取り立てその他は庄内藩の代官が行うので、同行した家臣達は 専ら忠広の身辺に仕えるのみであった。
 一方、忠広は文学や音曲 更には書や和歌にも親しんで、かなり自由な生活を送ったとも言われる。 その証か、配流途次に始めた歌日記を 「塵躰和歌集」 に編でいる。

 庄内丸岡での生活は、傷心の日々であったろう。 が、大藩肥後の国時代に比べれば 酒井家預かりの身分であって、精神的には自由闊達に過ごせ ある意味楽しいものでもあったろうと推察する。
 斯様な生活も、既に20年余を経過。 母親が 1651(慶安4)年に没し、その僅か2年後の承応2年に忠広も亡くなった。 享年53歳で、忠広の遺言をもって 母正應院と共に鶴岡市の 本住寺 に並んで祀られている。

 今でも丸岡の方々の手によって、旧居域の発掘調査や保存活動。 更に、忠正 並びに加藤家を偲んでの催し事が厚く執り行われている。 その点、我々熊本人は父親清正を熱狂的に思う反面、嫡子の忠広に関しては余りにも知らなさ過ぎる点が多いのでは…。

加藤家のその後を今少し記しておきたい。
 
 改易の本義であるが、諸説あって真の理由は図りかねる。 先ずは、嫡男の光広が諸大名の名前と花押を記した謀反の連判状を作り、振れ回し遊んだ…と。 また、徳川3代将軍・家光は弟・忠長と本来折り合いが悪かった。その忠長と忠広が連座していた…とも。 更には、忠広に法度違反があった…と。

 詰る所は、忠広が統率力に欠けていた事と、加藤家が本来豊臣恩顧の有力大名であったが故に、幕府にとっては警戒すべき存在に見られ、何らかの理由を付けて取り潰したいとの思惑が、第一義ではないのだろうか…。 

その他の方々の処遇も記してみたい。
 
 先ずは、忠広正室の崇法院であるが、何故か? 忠広に同行しなかったそうである。 崇法院とは、蒲生秀行(父・氏郷)の娘であるが、将軍秀忠の養女となって忠広へ嫁していた。 故あってか、横手町の安国寺に 秀行の供養塔 があるが、御存知であろうか…。              

 嫡男・光広は、飛騨高山藩主金森重頼にお預けとなり、堪忍料として月俸百口を給され 天性寺にて蟄居状態にあったが、1年後の1633(寛永10)年に病死したそうである。 これまた、自刃説や毒殺説などあり定かでない。
 
 次男・正良は、母の法乗院と共に真田氏へ預けられていたが、これま自刃したとか。 娘の献珠院は、忠広の死から6年後に許され、叔母の瑤林院(忠広の妹で徳川頼宣正室)のはからいで旗本の阿部家に嫁したが、3年後に亡くなったとか。

 忠広は鶴岡・丸岡にて二子を儲けているが、公にはされなかったそうである。 が、娘の方は大庄屋へ嫁して存続し、後 明治天皇の行幸を受ける栄誉に浴したとも…。 此の家系であろうか? 先に 鶴岡を訪ねた折に、造り酒屋に立ち寄ったが、そうであると言う話を伺った。

 先に、鶴岡に於いては 忠広を始めとして 「加藤家」 を厚く追慕していると記した。 忠広と母・正応院は、鶴岡市の 「本住寺」 に祀られ、線香が絶えないと言う。  更には、折々に 「加藤家」 を讃えたイベントが執り行われているとも聞いた。

 最後に、当地を訪ねた折に アポなしであったにも拘らず、終日丁寧に案内をして下さった M氏 には、多大のお世話を頂き、加藤家を偲ぶ鶴岡の方々のあり様を思い知った次第であった。          合掌

  
  
 
               

「加藤忠広」 考…その1

2011年09月02日 | Weblog
 「加藤忠広」 と言っても、 それだーあれ? ではないのだろうか。  加藤清正の嫡子で、清正亡き後の 熊本藩を率いた人物である。 熊本では余りにも親父さんの名がまかり通っていて、影の薄い存在である。

その人物 「加藤忠広」 について 少々記してみたいのである。

 忠広は、清正の三男として 母・正應院(玉目氏)のもとに、清正39歳の時 1601(慶長6)年 生をうけ 「虎藤」 と命名されている。
 因(ちな)みに、一子は 母・山崎氏で 「虎熊」 であり、 二子は 母・本覚院(菊池氏)で 「忠正」 である。 所が、二子共に 幼少期に於いて亡くなっている。

 偉大なる父・清正が、1611(慶長16)年に亡くなり、忠広藩政を引き継ぐのであるが、 その時11歳の若年であった。 その為、重臣による 「合議制」 となって、 「藤堂高虎」 が後見人を務めることとなった。

 忠広は、父清正と違って 統率力に欠けた。 従って、家臣団の不和が生じがちとなり、 藩政は混乱して 「牛方馬方騒動」 が起こり、それを契機に 改易を命じられて、山形の鶴岡 「酒井家」 の監視の下に 54万石から 堪忍分(生活費?)として 僅かの1万石を受け、一種の島流しとなるのである。

 その経緯を進める前に、 先の 「正應院(玉目氏)」 及び 「牛方馬方騒動」 について 今少し分析しておきたい。

 正應院(玉目氏)は、生年は不詳であるが、肥後国阿蘇大宮司家臣で、南郷・高畑城主・玉目丹波守の娘として生をうけ、清正の側室となって 虎藤 を生んでいる。 南郷・高畑(山都町)は、小生が子供の頃過ごした集落の近くで 高畑神社の祭りの折に足を運んだ所で、懐かしい。
 
 高畑城主・玉目秀左衛門は、阿蘇家衰退後に清正に仕え、娘が側室となり 虎藤 を生んだので外祖父として権力を得、二代目の時に 「牛方馬方騒動」 に関連して、合津に配流され当地で没したという。 初代の墓は、阿蘇外輪山の一角で高畑の隣り集落 「玉目」 にある。 が、西南戦争の折 薩軍によって壊されたと言われ、宝篋印塔の残欠が樹齢500年を超えるタブの木の根方に並べてある。

 所で、肝心の 「牛方馬方騒動」 であるが、1618(元和4)年 忠広襲封後の7年目に、幕命であった 「合議制」 が破綻すのである。 即ち、藩政を受け継いだ 忠広 が若年であり、幕府は 藤堂高虎 を後見人とし、五家老による 「合議制」 を命じた。 所が、父と違って統率力に欠けるので、上位下達式の清正政治に馴染んだ家老達の意見は中々まとまらずに、藩政の主導権争いが生じた。 即ち、内牧城主から一国一城令によって八代城主となった 「加藤右馬允正方」派 と 一城令により南関城主の地位を失った 「加藤美作守正次」派 とが主導権争いを始めたのである。                                     
 そこで、正方派の 下津宗秀(祖・棒庵) が 政次や玉目丹波守らに謀反ありと幕府に訴え出。、一方の正次派も訴え出て、訴訟合戦となったのである。 幕府は藩主忠広 や 関係者を江戸に呼び寄せ吟味した結果、将軍 秀忠 自ら採決を下して、忠広は不問取扱いとし 正方派に勝訴を下した。結果、敗れた 正次 を越後に、玉目丹波守は蒲生忠郷(合津)に預け身とした。
 
 この一連の騒動を、正方の官職 右馬允 をとって 「馬方」 とし、 正次の方を 「牛方」 と 捩(もじ)っての命名である。                        合掌