無門塾

旅や山、人生を語り合いましょう。

久々の登山

2010年12月16日 | Weblog
 当ブログ表記の一つ 「山を語ろう…」 はすっかり色あせていて、看板をはずさなければならない状態下にあるが、実に久々山へ登った。

 と言うのは、山好きの会員G氏の病気回復再挑戦を兼ねての登山で、G会員要望の 「八方ヶ岳」 であった。

 何れのコースを辿るか? G会員の希望でダムサイトコースを選択し車を進めていたが、諸々調べ直してのことか 「矢谷コース」 にしようとの変更提案で、急遽ハンドルを切り変えた。

※ この一週間ほど、諸々身辺事情があってパソコンに向かう暇もなく、山登り編で言えば 「途中休憩」 状態がこの所であった。

 道の駅 「メロンドーム」 で昼食などを求め、登山口の矢谷集落を目指した。この間の道路、昔に比べ道幅が広がるなどですっかり変わってしまった。それでも、番所に至ると昔の儘であり、一気に昔日の思い出が甦ってくる。

 キャン場に車を置き、歩き開始。この山は、主に冬山対象にして登り、頂上にてすき焼きをして飲み・食べたり等思い出が尽きない。
 登山コース自体に大きな変化はなく、小川のせせらぎや豊富な植生群を楽しみながらで、お気に入りのコースである。
 G会員の復帰登山であったが、確かな足どりで頂上へ到達した。眺望も、四方が見渡せ気分爽快。ただ、急な冷え込み(頂上で2℃位)にあったにもかかわらず、簡易な冬山装備に止まっていたので、この点反省事項である。と言う次第で、昼食もそこそこに頂上を後にした。

 急な登山コース変更、冬山装備の不十分な点などと、諸々反省事項もあったが、G会員もすっかり自信を取り戻した様子で楽しい終日であった。
 やはり、山は素晴らしく 「人生そのもの」 である!          合掌

 

  

四国漫遊⑧…道後で朝湯

2010年12月13日 | Weblog
 そろそろ家に帰ろうかとも思ったが、風向きはさにあらず。 所で、当てのない旅と言えども、帰る住み家があればこそ楽しいのであって、否ともなれば如何なものであろうか…。

 高知を後にし、目指したのが 「四国カルスト」(県立自然公園) であった。四国は何回も訪ね彼方此方と彷徨っているが、当域は未だ訪ねていなかった。

 「仁淀川」 沿いに国道33号を走るが、中津渓谷であろうか紅葉を添え見事な景観であった。とっくに陽も沈み、道の駅 「みかわ」 なる処に車を止め、昼が遅かったので夕食を抜きにして寝袋に潜り込んだ。

 目覚めたら、濃霧で視界も儘ならぬ。走っている中に、何とか見通しもきく様になり、それなりの景観美が楽しめた。が、何となく不完全燃焼気味、今一度訪ねてみたい。 松山市を目指して走り、途中のコンビニで軽食の朝餉を摂った。                     
 先ずは、朝ッパチから温泉と洒落こみ、道後温泉へ。かの有名な銭湯は、木造三階楼の瀟洒な建物で、1894(明治27)年築造で、重要文化財にも指定されている。
 5つの浴槽があるそうで、「神の湯」 の東浴室を選んだ。と言うより、そこが一番先に目に入っただけのことであった。後で調べてみたら、地元の常連さんが利用する浴槽とか。石鹸とか一切ないので、隣で洗っていた肩に見事なタットウのある方に拝借を申し出たら、快く貸してくれたが…。何はともあれ、すっきりした。さて、後は朝酒であろうが、下戸のこととてそれは無しであった。

 さて、どうするか?  やはり拝観せねばならぬと、久々になる 「松山城」を見学することにした。標高132mの城山(勝山)に天守部があって、途中の櫓や門を細かく見ながら登城した。
 なお、松山城の見所については、諸々の解説書があるので省略するが、何と言っても 「現存12天守」 の一つに挙げられるところが小生の訪ねたき理由の一つである。

※現存12天守
  弘前城  松本城  丸岡城  犬山城  彦根城  姫路城  備中松山城
  松江城  丸亀城  高知城  松山城  宇和島城                                                  合掌
     
  
 

四国漫遊⑦…龍馬追っかけ

2010年12月12日 | Weblog
 四国漫遊記も、そろそろ終わりにしたいところだが、あと1~2話認めてみたい。
今回漫遊の第一目的は、「龍馬の脱藩ルートを辿る」 であったが、当然の事とは言え、車での踏査では実感出来ない。何時の日にか、歩行による再挑戦である。

 龍馬に関しては終了したく、最後に 「桂浜」 と 「生誕の地」 を訪ねた。桂浜は何回か訪ねているが、「龍馬伝」 ブームもあってか、朝早かったにも関わらず中々の賑わいであった。先ずは、雄大な太平洋の彼方を見つめ、竜頭岬に建つ龍馬像を訪ねた。
 1928(昭和3)年、青年有志の募金によって建立されたと云う 「龍馬像」 の脇に、龍馬を等身大で実感しようと設置の矢倉に登ってみた。なる程、像高5,3mで、台座を含めると13,5mの高みから太平洋を眺めると、気宇壮大な発想が浮かんで来ないでもない。
 その後に、民謡で歌われる有名な、白砂青松の桂浜を 「竜王岬」 へと歩いた。更に、浜一帯を彼方此方と散策し、桂浜を後にした。

 街中に引き返し、民謡に歌われ 「坊さんかんざし…」 で有名な 「はりまや橋」 を車上見学し、誕生地の近くに建てられた 「龍馬の生まれたまち記念館」 を訪ねた。龍馬が脱藩するまでの少年時代、青年時代のエピソードを映像や音声で紹介。CGを使っての龍馬体験のコーナーなど、アイディアを凝らした展示物であった。

 当所で、高知市にお別れをする事にした。さて何処へ行こうか?      合掌                                                                               

 
 

清和文楽の特徴

2010年12月09日 | Weblog
 この所、偶然にも夜の外出が続き、ブログまでエネルギーが回らない。世に言う、年を経て一定のリズムを壊すと、その修復が難しい事なるを実感している次第である。

 斯様な中、県立美術館に出かけ 「清和文楽人形と今西コレクションの衣装人形」 展を観覧した。

 睡眠 否 エネルギー不足の折、パンフレット掲載の解説文に注目・拝借して、今回展示の骨子を認めてみたい。 清和文楽は、何回か鑑賞しているものの人形についての知識に乏しかったので、大変参考になった。

 清和文楽人形芝居は、江戸時代嘉永年間(1850年代前期)に浄瑠璃好きの人達が旅回りの一座から人形を買い受けたことに始まると…。以来、約160年間、山都町清和地区に伝承され、春と秋の豊作祈願の祭りで奉納芝居として村人に披露され、親から子へ、子から孫へと受け継がれ今日に至っている由。昭和54(1979)年には、清和文楽人形芝居保存会が熊本県無形文化財の指定を受けている。

「清和文楽人形の特徴」について

 清和文楽は、淡路系といわれています。淡路の人形座は日本各地を巡業し、「野掛け」 と呼ばれる仮設舞台で上演していました。そのため人形は、舞台から離れた所にいる観客にも見えるよう、目や口等が大きくなり、身振り手振りも大きくなりました。
 また、人形は 「三人遣い」 といい、一体の人形を三人で操ります。頭と右手を操る 「主遣い」(オモヅカ)、左手を操る 「左遣い」 、足を操る 「足遣い」 の三人が、心を一つにして操ることで、命のない人形に息を吹き込みます。人形の素材や重さは次の通りです。頭、手、足は桧または桐でつくられています。頭の中は空洞になっており、頭のみの重さは約500gです。胴体は竹と布でつくられており、軽くなるように工夫されています。衣装を着た状態での男性の人形の重さは4~5㎏、女性の人形は3~4㎏、子どもの人形は2~3㎏となっています。
                 出典『清和文楽の沿革』(清和村/1998)

 目や口が異常?に大きく見え、且つ所作も大振りに見受けられたのはそのせいであったのか、良く飲み込めた。人形を操る人が三人であることは舞台を見れば直ぐ分かることであるが、その存在が邪魔に見えることもある。 ナンチュウことをノタマウかで、「黒子」 は存在していないと受け取るのが、舞台鑑賞の常識である。非常識極まりない、小生故の寝言でありました…。                    合掌                                     
 
 
 

四国漫遊⑥…雄大「室戸岬」

2010年12月04日 | Weblog
 「奈半利」 如何なる由来を秘めているのか、味わい深い町名である。 所で、山間部の慎太郎生家を後にし、再び太平洋岸沿いを走る国道55号へ引き返した。
 高知市へ引き返すか、室戸岬へ向かうべきか一瞬迷ったが、背中の風向きは岬方向であり当然の事ながらハンドルを向けた。

 数年前のこと、偉容に高い堤防の直下にテントを張った。 その折、堤防に 「ドーンー」 と腹に響く様な波涛を、子守歌代わりに耳にし、一夜を過ごした事を思い出しながら、片目には雄大な太平洋を眺めつつ走った。

 程なくして、岬の最先端部へ到達。 早速に飛び込んできたのが、大きな 「中岡慎太郎」 の銅像である。 この像、昭和10年に安芸郡の青年団が中心となって建立した由。
 彼の目線は、何処に向かっているの…か? 恐らく、果てしなく続く雄大な大平洋の彼方に目をやり、大志を抱いている事であろう…。

 奇岩立ち並ぶ 「乱礁遊歩道」 を歩きながら、ダイナミックな大海原に教えられること多くして、人間も斯く 「海」 の如くあるべき也 との思いを強くしながら、小人の我を省みた。                             合掌

四国放浪⑤…中岡慎太郎

2010年12月04日 | Weblog
 龍馬の存在以上に興味を抱いている人物 「中岡慎太郎」 その出生地は、如何なる処であろうか? 放浪旅の中で、是非に訪ねたい地であった。

 国道55号を室戸岬方向に、水平線が窺える太平洋(土佐湾)を横目に走ると、安芸市から程なくして田野町へ。 そこから国道493号にハンドルを切り替え、奈半利川を遡ると山間部の一角・北川郷に、慎太郎の生家跡があった。
 第一印象は、斯様な田舎からよくぞ、命を賭して維新回天に尽力した大人物が生まれたものだわい…であった。

 復元された生家横に、「中岡慎太郎館」 なる資料館が設けられていた。それによると、庄屋の家に生(1838・天保9)まれながら、武士より武士らしく生きた慎太郎の幼年期は、全ての時間を勉学に情熱を注いだ由。やがて運命的とも言える、武市半平太に出会い、大道に目覚め一層文武両道に励んだ…と。

 その後、武市を盟主とする 「土佐勤皇党」 に参加し、尊攘派の志士として国事に奔放する様になった。ついには 「脱藩」 石川清之助などと変名し、禁門の変の戦いなどに於いて活躍をする。
 
 やがて、龍馬に出会って、犬猿の仲となっている薩摩藩と長州藩の 「連合の可能性」 を見出すべく東奔西走した。 この結果が、世に言う 「薩長同盟」 である。
 注目すべきは、龍馬の 「海援隊」 組織は馴染み深いが、慎太郎も 「陸援隊」 を組織し、倒幕への準備を進める。 なお、「倒幕」 と記したが、慎太郎の場合は 同志達に 「時勢論」(著述) を説きながら倒幕では無く 「討幕」 を主張する点である。

 最後は、京都河原町の 「近江屋」 於いて龍馬と共に、刺客に踏み込まれて一命を賭するのである。
 この時、1867(慶応3)年11月15日で、同月17日に絶命した由。 同年10月に 「大政奉還」 が行われて 12月に 「王政復古の号令」 が下り、翌1868(明治元)年 明治と改元された。 即ち 「明治維新」 を迎えるのである。

 慎太郎の遺言と言われるのが、 「刀をおいていなかったことこそ不覚」 と言ったそうである。 何を意味しているのか?                  合掌

 

 
 

 

四国放浪④…岩崎弥太郎

2010年12月03日 | Weblog
 岩崎弥太郎については、大河ドラマ 「龍馬伝」 にても準主役的に描かれ、且つ世界的企業・三菱の創業者ともあって、余りにもその存在が知れ渡った人物であり、改めて当稿で論ずる積りは無い。 ただ、放浪旅の途次で彼の出生地を訪ねて見たくなったのである。

 梼原を6時30分にスタートし、高知市に着いたのが8時30分であった。引き続いて国道55号=土佐浜街道を、安芸市に向けハンドルを切った。
 
 途中に道の駅・夜須(ヤス)があって、寝ぼけ眼に水を注ぐ等してサッパリ、更には近隣のコンビニで求めた 「オデン主体食」 で朝餉を摂り、スタミナも補給した。何故にオデン食であったか?  当地でしか見かけないネーミングの 「スリーエス」 なる店に立ち寄ったら、何とオデン3種類を求めると小ペットボトルのお茶類を一個サービスします…と。これに目が眩(クラ)んだ次第である。

 国道に併行するように 「土佐くろしお鉄道」 も走っている。1時間弱で 「安芸市」 に到着した。安芸市と言えば 「タイガータウン」 と称して、プロ野球・阪神タイガースのキャンプ地として良く知られている。

 市の一角・江ノ川公園なる処に岩崎弥太郎の功績を称えて、大きな銅像があった。片手を横に広げ、威風堂々とした姿は 「東洋の海上王」 と称されていた弥太郎の雰囲気を編まなく伝えていた。 更に、そこから安芸川を遡(サカノボ)る様にして、生家に向かった。

 程なくして、農地の広がるのどかな一角に彼の生家があった。 「龍馬伝」 の効果であろうか、急増と思しき駐車場や売店などが見受けられ、大勢の人達で賑わっていた。
 生垣を巡らした屋敷内に、茅葺の母屋がなどがあり、土蔵の鬼瓦には、「三菱マーク」 の原型とも言われる家紋が見受けられた。 印象に残ったのは、庭の一隅に幼き頃の弥太郎が、日本列島の形を模して並べたと言われる石組みがあったが、幼き頃から日本のあり様を、見据えていたのであろうか?              合掌
 

櫨(ハゼ)って?

2010年12月01日 | Weblog
 熊本城入城で、「備前掘」 側から入る時 「櫨方門」 なる門構えがある。さて、何故に 「櫨方門」 であるのか?

 櫨(ハゼ)とは、ハゼノキ(ロウノキ)と言いウルシ科で、関東以西で年平均気温15度~17度C以上の温暖な地域に見られる落葉高木である。
 昔は、種からロウを採るために数多く栽培された。また、紅葉が美しいので、庭園に植えたり、盆栽にも用いられる。但し、触れるとカブレル事もあり注意を要する。
 ハゼの木は江戸時代から全国各地で品種改良がなされ、結果100種近くの品種があるそうである。

 熊本県は、櫨の生産量が全国一(約30%)であり、中でも1万5千本を数える水俣が主産地である由。特に、侍地区が盛んで、最も古いものとして 樹齢240年の 「宝暦ハゼ」 と呼ばれる物もある。

 熊本でハゼの植栽・製蝋事業が盛んになったのは、江戸時代に遡(サカノボ)る。江戸前期の放漫経済が災いしバブルが弾けた中期、藩経済は行き詰まっていた。それを立て直したのが、「紀州の麒麟・肥後の鳳凰」 と称された熊本藩第六代藩主 「細川重賢」 である。彼は、堀平太左衛門を重用して改革=「宝暦の改革」 を行ったが、財政立て直しの一環として取り入れたのが、植蝋・製蝋事業であった。

 彼は、各地にハゼ栽培を奨励し、高橋に藩直営の製蝋所、城内に櫨方役所(今の加藤神社)を設置して統制(専売制)し、藩の収入増加を図った。なお、前述の、竹之丸にある櫨方門は、本来当役所域にあったものを移築しているのである。

 その後の櫨の変遷であるが、明治に入りへヤァースタイル(髪型)の変化により鬢付け油の使用量が激減、大正時代になると電灯の普及により和ロウソクの使用が減少、昭和20年代になると石油化学製品の影響で価格が低迷、昭和40年代になってミカンの栽培が盛んととなって、ハゼの木その物が伐採されるなど等で、櫨は見失われた状態になった。

 然しながら、お相撲さんは今でも 「鬢付け油」 は必需品であり、「和ロウソク」 も寺院や神社、重要文化財関係や美術・工芸品分野に於いては化学ロウソクでは代用出来ない所も数多い。また、医薬品・化粧品・文房具・OA機器などにも欠かせないものだそうで、結構生産されているのである。     合掌