東京・椋鳥通信

東京巣鴨の地より「むらまち」の見たり聞いたり調べたりことを情報発信

村木美貴先生のタウンマネジメント講話を拝聴

2011-01-26 | Weblog

地球大学にて、美人の千葉大村木美貴准教授の「タウンマネジメント」の話を伺った。
 インターネット上で、村木先生の研究報告をまとめた。地球大学にて紹介された渋谷サンター街でのTMOについては、千葉大村木研究室のHPで紹介されている。
○系年による街健康度調査
 ・個別の商店では、売り上げの前月比、前年比などによりその状況を把握。
 ・こうしたまち全体の状況を把握するデータを系年で分析。
 イギリスの中心市街地活性化はタウンセンター・マネージメント(TCM)により、行われている。TCM活動で最初に行われるのは、まちの状況把握を行うこと。それはヘルス・チェック、つまりまちの健康診断である。この調査は、採ることのできるデータを毎月、四半期、半年、1年ごとに確保し、そこからまちの状況を分析している。用いられるデータは、表に示した通りである。その内容は、大きくは、都市圏としての健康度(人口、雇用、産業構造)、中心市街地の健康度(空き店舗、小売りの売上高)、中心市街地の進展(来街人、駐車場、公共交通、犯罪、公共施設、道路清掃、施設、TCM活動)、その他の指標(観光、イブニング・エコノミー)といった指標による。これらはあくまでも指標例であり、都市により最も適したデータを用いることが、TCMの全国組織から指導されている。こうしたデータは、(1)活動資金を拠出する理事への報告、(2)一般市民への報告で使われている。それは、TCMの活動がいかに中心市街地の活性化に役立つかを示すには、こうしたデータの持つ意味が大きいからである。

 では、こうしたイギリスの指標が、我が国の中心市街地で利用可能なのだろうか。売り上げ等の個店情報といった入手困難な情報も存在するが、多くの指標は、国勢調査、商業統計調査等の既存データを用いて分析可能であり、我が国においても十分入手可能な指標であるといえる。反対に、我が国ではほとんど設置されていない防犯カメラの設置がイギリスでは必要性の高い指標になっている点は興味深い。
研究室では渋谷センター街調査を数年にわたって実施している。

○機能するTMOの条件 
■英国TCMの状況
①意思決定;第一段階で官民コア組織のが協議・決定⇒第二段階で全関係団体による部会・全体討議――により迅速化
②TCマネジャー;権限はなく「パートナーシップ構築能力」のある者を期間限定で常勤雇用
③街の健康度調査と評価;毎月・四半期・一年ごとに行うことで現状把握⇒戦略方針の見直し・評価
※TCの評価指標
 (1)人口;TCの総人口、商圏総人口、年齢別人口率
 (2)雇用;商圏/TC内従事人数、非従事人数、卸/小売/ホテル/レストラン従事人数、週全体所得の合計
 (3)仕事・産業;事業数、卸/小売/ホテル/レストラン数
 (4)空き店舗;年四回=空きユニット・空き床面積の数・全体シェア、年一回=空きユニット数・床面積空き率の年間平均
 (5)不動産動向;SC賃貸料、主要店舗の賃貸料
 (6)小売店売り上げ;合計、増減
 (7)中心市街地への訪問人数;場所ごと
 (8)駐車;有料・無料/時間制限有無、違法・合法路駐、駐車割合、公共交通
 (9)中心市街地への交通状況;自動車、バイク、徒歩、タクシー、公共交通、変化、パーク&ライド
 (10)防犯;全犯罪(万引き、車上荒らし、空き巣、薬物)、変化、損害、防犯システム数(カメラ)/カバー率
 (11)テナントの状況;最寄/買いまわり/総合、オフィス、コンビニ、個人商店/全国チェーン、レストラン/バー/パブ、住居、空き地/空き店舗

■わが国TMOの条件;
①必要性から生じた組織であること;重要なのは、組織体ではなく協力体制
②専門スタッフが存在すること;街を変えうる権限を持つ人・マネジメントをつかさどる人
③現況を客観的に観ること;「街の健康度調査と評価」の実施⇒戦略方針見直し、評価

○中心市街地活性化でもデータは重要な要素
通行量調査(場所別・通り別のカウンティング10〜17時まで30ポイントで集計)来街者(割合で提示)(バス、自家用車運転、徒歩、自転車、電車、他人の車利用、パーク&ライド、その他)車の通行量(平均交通量、12箇所)駐車場利用状況公共交通利用状況(7箇所午前, いちばん多い時間帯, 午後)ショップモビリティ(月別の利用状況)商圏安全性と環境小売り投資額住宅開発安全性犯罪数(年別)清掃(by grading:ゴミがない、小さなゴミがある・・等の表記)小売りランキング小売り床面積, 空き店舗率(月別)売り上げ状況小売り賃料(通り別の賃料)都市別ランキング平均住宅価格(戸建て、セミデタッチ、テラス、マンション)

○活性化に必要な事項 4つのA
①アクセシビリティ
②アメニティ
③アトラクションイベントの開催
④アクションビジネスプランの策定アクションプランの策定

○タウンセンターの状況を説明、「人が訪れる街」が重要
・交通規制・色彩統一・花を飾る・標識案内板

○英国の都市の再生から学ぶもの
・地域情報の充実
 都市再生に必要な地域、公的組織にとって役立つ情報、民間開発の種地等の情報が一元化。
・都市再生すべき地域の選定方法
 全国の地区別評価指標にもとづく補助金の配分方法の構築がなされている。データに基づく説明が可能。
・都市状況を明らかにしたデータの公開
 地域での情報を公開することで、他都市との比較、人が戻る都市づくりのための取り組みがさかん。

第19回FNSドキュメンタリー大賞「不可解な事実~黒部川ダム排砂問題~」を見て

2011-01-24 | Weblog

定置網に群がるヨコエビ

フジテレビ系列の28局が参加する「第19回FNSドキュメンタリー大賞」で大賞を受賞した、富山テレビ制作の「不可解な事実~黒部川ダム排砂問題~」が23日午後4時からフジテレビ系で放送された。
番組内容は、
 富山湾に流れ込む黒部川では、19年前から、ダムにたまった土砂を下流域へ流す「排砂」が行われている。番組は、年に1、2度、増水時に実施する排砂と、河口域で大量発生し、定置網にかかった魚を食い荒らして漁師たちに打撃を与えているヨコエビとの因果関係を追う。
制作者たちのインタビューと、地元大学の研究室の活動、地元ドライバーが海に潜って、定置網にかかり傷ついて生きいるヒラメに無数に群がるヨコエビは象徴的な映像となっている。大学教授の仮説によれば、ダム排砂と有機物のヘドロにより大量にヨコエビが繁殖し、本来草食系のヨコエビがなんらかな影響により動物食系となり、海底の死んだ動物では餌としてたらずに、地引網に引っ掛かった生きた魚を襲う結果になっているのではないかと仮説をたてている。イナゴが爆発的に発生して、イナゴが攻撃的な集団に変異して大地の牛馬を襲うように、ヘドロ化した富山湾海底で爆発的に増殖したヨコエビが傷ついたヒラメを襲っているのである。このヨコエビは、どうも人間どもの食用にはならず、1年の寿命で、その死骸は、富山湾海底に沈殿していくそうだ。このグロテスクな映像は、富山の海の幸にとっては、大きなダメージではあるが、これが現実である。ダム排砂によって、近未来には黒部川からは、アユが消え、富山湾からは、ワカメが消え、魚も消え、沈黙の死の海となり、えせの美しい群青の海が眼下に広がっている。
訴訟当事者の漁民が、亡き妻の仏前で、裁判結審によって、歴史記録に残すという語った言葉が印象深かった。
番組HPより
3,000m級の山々が連なる北アルプスから富山湾まで一気に流れる急流河川、黒部川。その裾野には険しい峡谷から崩れ出た土砂が堆積し、典型的な扇状地が広がる。河口海域は古くから砂地を好む底物と呼ばれる魚の良好な漁場となっていた。
その黒部川で19年前から続けられているのが、ダムに溜まった土砂を下流域へ押し流す「排砂」。ダムの宿命的な問題「堆砂」を解消する画期的な方法として注目を集めるも、ダム完成から6年経って初めて行われた際には、土砂に混じった有機物が変質し、硫化物特有の異臭を放つヘドロとなった土砂が吐き出された。関係者の期待と予想を覆す結果だった。以来、環境に配慮した「排砂」方法として、ダムに土砂を溜めずに、毎年、洪水時にあわせて土砂を流す方法が取り入れられている。
とは言え、黒部川に大量の土砂が流れるのは、1年に1、2回。そもそも自然の状態ではない人為的な作業が、下流域にどの程度、影響を与えているのかは、はっきり見えていないのが実際のところだ。そして、この事業に公然と異を唱えるのは、黒部川の河口海域で操業する漁師の、そのまた一部しかいない。8年前、「排砂」が原因で漁獲量が減少したと法廷に訴え出るも、裁判所は未だ判断しきれず、その間にも、漁獲量の減少が深刻化し、さらには、今まで無かった「ヨコエビ」の被害、海の掃除屋と呼ばれる甲殻類に網にかかった魚が食い荒らされ、漁場に網を仕掛ける場所がもはや無くなったという。
海底の様子を探った映像には、目を覆いたくなるような光景が映っていた。「ヨコエビ」の研究者も水槽実験と見紛うほどの現実だった。 「排砂」の周りで起きている不可解な事実に迫った。
『ウィキペディア』HPより
ヨコエビ(横蝦、-海老)は、甲殻亜門・軟甲綱・端脚目(ヨコエビ目)・ヨコエビ亜目(Gammaridea)に属する甲殻類の総称。
名称に「エビ」とあるが十脚目(エビ目)ではない。体長は数mmから10数cmまで種類によって差があるが、多くは数mm程度しかなく、1cmを超える種類は少ない。体は左右に平たく、横から見ると半円形をしている。脚や触角は短い。端脚類の中でも特に種分化が進んだグループで、幅広い環境にたくさんの種類が分布している。多くの種(4000種以上)は海洋に生息し、個体数が多いために食物連鎖において非常に重要な分類群である。淡水にも、温帯や冷帯を中心に800種以上が見つかっている。陸生のものはそれらに比べれば少ないが、それでも200種以上が海岸の草むらや森の落ち葉の下に生活している[1]。
自然界では分解者として、また他の動物の餌として重要である。たとえば河口域において、ヨコエビ類が堆積した落ち葉を食べ分解すると同時に、魚類の餌となっている事例が知られている[2]。人間にとっての利用価値はほとんど無いが、カメのカルシウム補給用の餌として販売される。
生態の多様性 [編集]
同じヨコエビ亜目でも、分布する環境がちがうと行動もちがう。多くの種は水生の底生生物だが、なかには遊泳するもの、さらには陸生のものもいる[3]。陸上生活をする種類はジャンプ力にすぐれているので、和名が「ハマトビムシ」とつけられた種類が多い(トビムシ目の動物も「トビムシ」と呼ばれるが、ヨコエビ亜目とは同じ節足動物門ではあるものの亜門レベルで異なる別物である)。ハマトビムシのジャンプは脚ではなく、腹部を下に曲げてバネにするのが特徴である。これらは体の数十倍から100倍の高さをジャンプでき、目で追うのもむずかしいほど跳びまわる。
新江ノ島水族館で展示されているカイコウオオソコエビ(マリアナ海溝の水深10900mで採集)水辺の石の下にすむものは体を横に倒して生活するので、和名が「ヨコエビ」とつけられている。石をひっくり返すと腹部を激しく振って泳ぎだすが、深い水中ではふつうに体を立てて泳ぎ、再び石などの下にもぐりこむ。海底にすむものの多くは和名が「ソコエビ」とつけられている。海藻や岩などにつかまるか、砂泥にもぐって生活し、泳ぎもうまい。深海産は複眼が退化しているが、大型化する種も多く、中には20数cmにも達する大型種もいる。世界でもっとも深い場所から見つかった動物の1つであるカイコウオオソコエビも、このグループに含まれる[4]。
おもな種類 [編集]
ヒメハマトビムシ Platorchestia platensis
体長は1 cmほどで、体色は青灰色や赤灰色をしている。海岸の満潮線付近に多数生息し、ふだんは砂の中や石の下にもぐっている。流れ着いた海藻や動物の死骸などを食べるので、それらを持ち上げるとたくさんの個体がピョンピョンと飛び跳ねる。跳ぶだけでなく、泳ぐのも砂にもぐるのもうまい。
ニッポンヨコエビ Gammarus nipponensis
体長は1 cmほどで、体色は黄褐色をしている。水のきれいな川の、落ち葉や石の下に生息する。
メクラヨコエビ Pseudocrangonyx spp.
この呼び名は特定の種類を指さず、地下水中に生息するヨコエビ類の総称として用いられる。体長は数mmほどで、体は半透明の白色をしていて、名のとおり目が退化している。各地の洞窟や井戸などで発見されている。
エウリセネス・グリルス Eurythenes gryllus
深海産の大型種で体長15cmほどにもなる。体色は赤で目は退化したが触角は発達している。カイコウオオソコエビと同様に体内に深海の水圧に対するように脂肪分を体内に多く貯え、この脂肪を海水よりも軽くして数千メートルの深海底よりもやや上方を泳いで、エサとなる生物の死体を捜す。
アリケラ・ギガンテア Alicella gigantea
前種よりも更に大型となるヨコエビの中でも最大級の種類で、体長30cm以上にもなる巨大種であり、同じく数千メートルの深海底を体内脂肪分を利用して浮力調節し、深海に落ちてきた生物の遺体を食べる。体色は褐色。


新文芸座にて「襤褸の旗」を観る

2011-01-24 | Weblog


三国連太郎特集が東京・新文芸座にて連日上映されている。1月24日は、大逆事件のでっち上げにより、100年前に権力により抹殺された幸徳秋水の命日。その日に、秋水に明治天皇への強訴状文を依頼した田中正造翁の激しく国家に抗議した生きざまを描いた「襤褸の旗」(1974年 吉村公三郎監督)が上映されたので、丸の内でのセミナーを途中切り上げて何とか上映時刻に滑り込んだ。出演者には、若き農民リーダーに西田敏行。秋水は中村敦夫、荒畑寒村に古谷一行。正造翁を支える地元青年に田村亮。この映画には、三里塚闘争を支える農民、学生等がエキストラで参加するばかりでなく、上映会への参画、カンパをして出来上がった映画である。当時の三里塚闘争と明治期の足尾銅山廃山闘争がダブルようなショットが随所にあらわれている。終盤の谷中村収用退去で、先祖代々の藁ぶき家屋が引き倒されるシーンが象徴的であった。

○三里塚闘争と襤褸の旗
 三里塚反対同盟の協力により制作され、ロケ地は三里塚の原野で、反対同盟の北原事務局長や故宮本行動隊長をはじめ反対同盟の農民や支援の労働者、学生がエキストラ出演した。そんな経緯により35ミリフィルムの原本(全9巻)を、北原事務局長(反対同盟)が所有している。
 北原事務局長は、谷中村農民の闘い、田中正三の「亡国に至るを知らざれば即ち亡国の儀」に象徴される壮絶な闘いの意義を絶賛し、「44年の三里塚の闘いの中で常に『なぜ谷中村は敗れたのか』を考え、勝利に向けて闘い抜いてきた」とインタビューに答えている。
○略歴 HPより引用
1841 (天保12年)  1歳 11月3日下野国安蘇郡小中村(現栃木県佐野市)に生まれる。名主富蔵の長男
1857 (安政 4年) 17歳 小中村六角家の名主に公選される
1863 (文久 3年) 23歳 大沢カツと結婚、六角家の改革のため活躍
1868 (明治 元年) 28歳 六角家改革事件により入獄11か月
1870 (明治 3年) 30歳 江刺県花輪支庁(現秋田県)の役人となる
1871 (明治 4年) 31歳 上役暗殺の疑いをうけ投獄される。獄中「西国立志編」や政治経済の本を読む。入獄2年9か月
1874 (明治 7年) 34歳 疑いがはれ小中村に帰り、商売と勉学に励む。この頃より、自由民権者として歩みだす
1878 (明治11年) 38歳 栃木県第4大区3小区区会議員に選ばれる。政治に一身を捧げることを誓う
1880 (明治13年) 40歳 栃木県会議員に当選、以後4回連続当選。有志とともに国会開設運動に尽くす
1882 (明治15年) 42歳 立憲改進党に入党
1884 (明治17年) 44歳 栃木県令三島道庸の圧政に反対、加波山事件に関係したとして入獄3か月
1886 (明治19年) 46歳 栃木県会議長となる
1890 (明治23年) 50歳 第1回衆議院議員選挙に当選、以後6回連続当選。この間改進党(のち進歩党、憲政党、憲政本党)議員として全国各地で演説
1891 (明治24年) 51歳 第2回帝国議会に初めて「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」を出す
1896 (明治29年) 56歳 渡良瀬川大洪水。鉱毒水が広がり被害民大会が開かれる。被害民とともに足尾銅山鉱業停止運動を開始。議会で鉱毒事件について、繰り返し政府に質問する
1899 (明治32年) 59歳 議員歳費値上げ案反対演説をし、歳費を辞退。
足尾鉱毒被害状況を基に鉱業停止の質問
1900 (明治33年) 60歳 被害民第4回大挙押出し(請願)の途中、川俣事件起きる。憲政本党を脱退
1901 (明治34年) 61歳 衆議院議員を辞職し、鉱毒事件を天皇に直訴
1902 (明治35年) 62歳 川俣事件裁判での官吏侮辱罪で入獄41日間。
獄中で聖書を読む。この頃渡良瀬川下流の川辺・利島村(埼玉県)や谷中村(栃木県)を遊水地にする計画が起きる。
1904 (明治37年) 64歳 谷中村に住む。遊水地化反対運動に励む
1905 (明治38年) 65歳 谷中村村民の第1回集団移住が始まる
1906 (明治39年) 66歳 新紀元社の例会、その他で谷中村事件を訴える。谷中村の名が消され、藤岡町の一部にされる
1907 (明治40年) 67歳 谷中村残留民家強制破壊。谷中村復活運動に活躍
1909 (明治42年) 69歳 渡良瀬川改修工事計画が出される
「被害破道に関する質問書」を書き、友人島田三郎議員らの名前で衆議院に出す
1910 (明治43年) 70歳 関東大洪水。政府の治水政策を正すため関東各地の河川を実地に調べる
1913 (大正 2年) 73歳 8月2日河川調査から谷中村への帰途、病に倒れ9月4日死去。遺骨は5か所に分骨し埋葬

徳富蘆花「自然と人生」より 100年前の都市文明への警告

2011-01-23 | Weblog
只木先生の「森と人間の文化史」にて徳富蘆花の都市文明への警告について、紹介されていた。キリスト教徒であった徳富蘆花の「自然と人生」(岩波文庫)は、中学校時代に読んだ記憶がある。恐らく古文的な感覚で明治期の散文を読んだのだと思う。只木先生は、「明治の世の里山の景と、平成の世の農村・農林業を見透かしたような警句」として、「自然と人生」を一節を引用されている。

『余は煙を愛す。田家の煙を愛す。
高きにきよして、遠村近落の煙の、相呼び相応じつつ、
悠々として天に上り行くを見る毎に、心乃ち楽しむ。
然れども、市井の濁波今やとうとうとして村落に及び、
田家淳樸の風次第に地を掃はむとし、
賭博、淫風、奢侈、遊惰、争利のバチルルス
殆んど戸毎に侵入せんとするを思へば、
寧ろ一炬其家と其人と焚きつくすの優れるなきかを疑ふ。
否、寧ろ教へて而して之をくわせんのみ。
ああ若し吾力能くせば、
余は遍く此の三個の進物を全国の村落に贈らむものを。
三個とは、
良醤、良教師、而して良牧師。
良好なる小学校、良好なる食堂、良好なる診療所、
此三は健全なる村を造る三要素。
而して健全なる村は、健全なる国を造るの大基本。
あまり多く果実をつくるのは枝は折る。
富めるのみなる其の国はほろぶるなり。
国民をして天を仰がせしめよ。
田家の煙のいぶせき藁屋より出でで然も天に上るを見ずや。』

健全な農山村が崩壊すると国は滅びてしまうと、100年前に警告している。
同じような都市文明への警世は、20世紀を代表する都市の文明評論家であるL.マンフォードの『都市の文化』(1938)で論じている。
『都市の発生から崩壊にいたるまでの過程を、「原ポリス」「ポリス」「メトロポリス」「メガロポリス」「ティラノポリス」「ネクロポリス」の6段階に分け、都市は原始的なポリスにその源を発し、メトロポリス(巨大都市)として成長した後は衰退の一途をたどるという説であるが、とくにメトロポリスからメガロポリス(巨帯ないしは連続体都市)へと移行した後に待ち受けているのは、権力者による都市の私物化だという。闇取引や、猟官運動などによる不公平な政治・行政の運営により、都市はティラノポリス(専制都市)の状態となる。そして、最後にはネクロポリス(死滅都市)という形態を迎える注11 。都市は機能の集積によって肥大し、その肥大化が結局は都市自身を突き崩すことになる。』

宮本憲一先生の講演より引用
 『ゴットマン対マンフォード-現代都市論をめぐる対立-
この郊外開発はニュータウンのように中央政府の社会政策として計画的に作られるだけでな
く、自家用自動車の普及とともに民間資本が広域に都市区域を広げながら進んだ。とくにアメ
リカでは大都市の周辺に自生的に衛星都市がつくられた。フランスの地理学者Gottmanは有名
なMegalopolisの中でホワイトカラー革命の進行の中で大都市には管理機能や情報機能が集中す
るが、そこに働くホワイトカラーは郊外の環境を好み、自動車交通の発達とともに住宅区域が
点々と広がり、星雲状の都市が出現し、旧来のMetropolisが高速道路で串刺し状に連帯し、
Megalopolisが形成されるとした。そして、これによって都市と農村の対立が解消するとした。
これにたいしてアメリカの都市社会学者Mumfordはメガロポリス論を反都市論として、
Le.Corbusierの巨大高層都市論とともに激しく攻撃した。彼は都市の本質は人間の多くの活動
を一箇所に集中して、これを象徴的に拡大して、人間の条件と人間の展望とを目に見える形に
出来る力だとしている。つまり都市は限定された空間に機能を集積させ、その集積の利益を市
民が享受するもので、無限に広がれば都市ではない。都市が巨大化して、市民が遠距離から通
勤するようになれば社会運動をする暇も、コミュニテイ活動をすこともなくなり、官僚機構が
都市を支配することとなる。マンフォードは有名な『都市の文化』の中で都市輪廻説を立て、
都市は生物のように生成、発展、死滅、あるいは再生するが、都市の危機は市民が参加の意欲
を失い、テクノクラートに市政が独占されるためだといっている。彼は都市空間が自動車社会
に占有され、都心に高速道路がつくられ、駐車場の街になることに反対して、市民が対話を出
来る人間のコミュニティ、歴史の遺産を保全する街を提唱している。残念なことに日本の計画
家はゴットマンを読んでも、マンフォードの理論がわからないために次に述べるような失敗を
したのでないか。』
宮本先生がゼミで、農村が崩壊すれば、都市もいづれ崩壊すると警句していたのが、思いだされる。



巣鴨地蔵通り商店街にて

2010-12-04 | Weblog
11月28日(日)、巣鴨のとげぬき地蔵尊「高岩寺」にて、「次代を担う世代が目指す商店街づくり」をテーマにしたシンポジウムがあり、参加した。参加者全員に豊島区内共通商品券(500円)が配られた。
基調講演では、高岩寺住職(46歳)の來馬住職による『見えないものをみる 環境の大切さが見えてくる』。住職は循環器系の医者であり日本禁煙学会評議員との立場から、巣鴨地蔵通り商店街で実践してきた取り組みを紹介し、21世紀のあるべき商店街の姿を示唆した。また、箱モノ行政、過剰投資による老舗旅館の破たんについてもプロジェクターで詳しく紹介してもらったので商店街のまちづくりを考える上で大いに参考となった。第2部では、商店街でおかみさんの会、青年部などで要職にある5名の商店主より、それぞれの店のこだわり、取り組みが紹介された。キーワードとして「元気・非日常・会話がはずむ・来てよかった・笑顔」が印象に残った。
○巣鴨地蔵通り商店街(会員数190名) がんばる商店街HP
JR山手線巣鴨駅、都営地下鉄巣鴨駅、都電庚申塚停留所近くに位置し、全長約780メートルの商店街。商店街にはとげぬき地蔵尊のある高岩寺、江戸六地蔵尊の眞性寺と猿田彦大神庚申堂が存在し、「歴史と文化を大切にした、ふれあいのある、人にやさしい街」を商店街の基本コンセプトにしている。
「お年寄りの原宿」と呼ばれて久しいが、もともと宗教施設に囲まれた、いわゆる寺町であり、菊づくりのふるさとであり、地域の歴史と文化を感じさせる商店街である。
参詣客と買い物客で連日賑わいを見せるが、「4の日」のお縁日では数多くの露店が並び、観光バスで地方からも多くの来街者が訪れる。年間を通してとげぬき地蔵尊を中心に様々なイベントを開催し、「巣鴨に行ったら、いつも何かをやっている」という来街者の期待に応えている。過去より、お寺と地元との協力関係は良好で共に活動を行ってきており、境内をイベント広場として開放するなど、現在もその関係が続いている。また、ホームページを活用し、イベント情報の積極的な情報発信を行っている。
(1)4の日
年中行事が多い街であるが、4の日のお縁日は200軒近くの露店が出て、多くの来街者が訪れる。1、5、9月の24日の例大祭には15万人の人出となる大盛況である。
(2)どんがら市(春・秋)
昭和49年から続くイベント。日頃の顧客への感謝として各店頭にてその日限りの破格値で商品を提供することで多くの来街者が訪れる。
(3)菊まつり
平成4年から続くイベント。とげぬき地蔵尊境内・真性寺境内に丹念に作られた菊が展示される。2000本以上の花を持つ大輪や美しい形の懸崖、繊細な仕上げの盆栽まで多数の色鮮やかな菊が好評を博し、多くの来街者が訪れる。
(4)ミニみに縁日(8月29・30)
いつもはお年寄りで賑わう地蔵通り商店街で、毎年恒例で実施している夏休最後のお楽しみ縁日。とげぬき地蔵高岩寺境内で、焼きそばなどの食べ物だけでなく、射的や輪投げ、ボール釣などを行っている。この両日ばかりは、とげぬき地蔵も子供達であふれる。
(5)すがも商人まつり(4月下旬の土日)
一つの商店街だけではなく、地域の商店街が力を合わせ巣鴨地域全体で取り組むイベント。巣鴨地域の6商店街に七福神を設定し、地域を巡るスタンプラリーや豊島区との友好都市の観光物産展を開催している。

○健康の「とげ」抜く禁煙寺 ~医師の住職が取り組み、街に浸透~  朝日新聞より
「おばあちゃんの原宿」と呼ばれる東京・巣鴨の地蔵通り商店街で、禁煙の動きが広がっている。 仕掛け人は、医師でもある「とげぬき地蔵尊・高岩寺」の来馬明規住職(46)だ。たばこと、仏教と、医学はどうつながるのか。
高岩寺の入り口には「境内全域禁煙」と書いた縦3メートル横80センチほどの垂れ幕が下がっている。境内には同じ垂れ幕が11枚、至る所に禁煙を呼びかけるシールもはられる。
来馬住職が父の跡を継いだ05年末、禁煙区域は本堂のみで、広場には灰皿が置かれていた。 しかし、「延命地蔵を本尊とする寺で、たばこを禁じて長生きを願うのは究極の菩薩行だ」と、住職は07年1月、境内を全面禁煙にした。
当初は「住職の個人的な趣味じゃないか」という批判もあったが、寺に勤務する僧侶や従業員のうち喫煙者だった10人の禁煙を全員成功させ、現在は縁日の露天商にも禁煙 を徹底してもらっている。
こうした寺の方針は次第に商店街にも浸透。店内禁煙の店や、軒先から灰皿を撤去する店が徐々に増えている。 巣鴨地蔵通り商店街振興組合の木崎茂雄理事長(65)は「お客様からは『灰皿がなくて困る』という声も聞くが、高岩寺あっての地蔵通り。 喫煙者にも救いの手を差し伸べつつ、時間をかけてお寺のやり方についていかないと」。
来馬住職は内科・循環器の医師。現在も都内の診療所などで診療を続けている。臨床医としての経験から、「たばこが脳卒中や心臓病につながるのは明らか」という。
仏教には元来、具体的に喫煙を禁じた教えはないが、来馬住職は「最勝の善身を徒らにして露命を無常の風に任することなかれ」という曹洞宗の経典『修証義(しゅしょうぎ)』の一節を挙げる。
かけがえのない命を粗末にしてはならないという意味だ。 素直に受け取れば、たばこを吸うなということになるはずという。
「年間800万人とも言われる参拝者の0.1%でもたばこをやめてくれれば、8千人になる。禁煙外来でも大した業績です」と力を込める。(朝日新聞2009年4月21日夕刊)
○山形・銀山温泉の旅館「藤屋」破たん ZAKZAK HP
「金髪の女将さん」で知られる山形・銀山温泉の旅館「藤屋」(藤敦社長)が、経営難から民事再生法の適用を申請していたことが分かった。負債額は約5億円とみられる。金髪の女将は2年以上前に米国に帰国しており、女将は不在のまま。一時は全国区の知名度だった老舗旅館に何があったのか。
 藤屋が一躍有名になったのは、2003年に放送された公共広告機構のテレビCM。藤社長の妻で藤屋の女将、藤ジニーさん(44)が和服を着こなして登場したCMだ。
ジニーさんは女将業と子育てに加え、華道、茶道など日本の伝統文化を身につけた“大和撫子”として登場。「ニッポン人には、日本が足りない」というCMコピーとともに、日本人以上に日本文化や習慣を理解する米国人として有名になった。
ジニーさんは、米オレゴン州の名門・リンフィールド大を卒業後の1988年、英語指導助手として山形を訪れ、91年、藤屋7代目の藤敦氏と結婚した。CM出演後はテレビ出演や講演、執筆などで多忙を極めた。
ところが08年3月、地元の旅館組合にも一切理由を明かさないまま、2人の子供を連れて故郷のサンフランシスコに帰国。関係者は「以前から人間関係に悩んでおり、親族の不幸を機に帰国してしまった。ご主人が米国に迎えに行ったが、一緒には帰ってこなかった」という。
当時、藤屋側は本紙の取材に「女将は所用で不在が多く(館内には)いたりいなかったり。いつ会えるかはお約束できませんが、現在も女将業は続けています」と話していた。だが実際は、現在までの約2年半、「一度も銀山温泉には戻っていない」(別の関係者)。それでも藤屋の従業員は「ジニーは当館の女将です」と言い続けている。
先の関係者によると、ジニーさんが悩むきっかけとなったのは、06年6月に藤屋が実施した近代風デザインへの大改装だったという。
 「古き良き日本を愛するジニーさんは『山深い銀山温泉の風景とマッチしていない』と最初から難色を示していましたが、社長は有名デザイナー(隅研吾)に多額の資金を投じて改装を断行しました。しかしジニーさんの懸念通り、客は年々減少してしまった。ジニーさんは帰国したのに、旅館が宿泊客に女将不在の事情をきちんと説明しないことも不評で、それらが今回の民事再生の遠因になったのです」






ゴジラ第1作主演の宝田明トークイベント

2010-12-03 | Weblog
12月1日(水)映画の日、東京・池袋「新文芸座」にて「ゴジラ」(1954)、「ゴジラの逆襲」(1955)を見た。「ゴジラ」上映後に、主演の宝田明のトークショ-があった。主演した当時の思い出、アメリカでのゴジラファンとの交流、そして2011年8月にはアメリカのゴジラファンが来日して宝田明との再会をする約束している話など興味深いものがあった。とくに、第1作「ゴジラ」のメッセージとして、核戦争廃絶の訴えと人類への警告が映像のいたるところにちりばめられており、そのリアルティ-が多くのゴジラファンを魅了しているものと思われる。
インターネットで集めた宝田明とゴジラに関するデータ
○宝田明のメッセージ
「私が東宝に入社したのが昭和28年4月、第6期ニューフェースとして今は亡き、藤木悠、河内桃子、岡田真澄の三氏、そして今も渋い役どころを演じている佐原健二君と私。
1年間の養成期間を待たずして3カ月を過ぎた頃、面接によって私にとって最初の作品になった『かくて自由の鐘は鳴る』、これは福沢諭吉の伝記映画で私は増田宗太郎という大分中津藩の下級武士。その後すぐに『水着の花嫁』に出演し、昭和29年春ついに私は運命の出会いとなった作品『ゴジラ』の主役を演じる事になったのである。
長編空想科学映画と副題がついていた。つまり今でいうサイエンスフィクションである。
真紅の表紙に太く黒い字で『ゴジラ』と書かれていた。ここで更にその後十数年のお付き合いをすることになる心優しき物静かな映画監督、本多猪四郎先生との出会いだ。
撮影初日、ステージに入り「主役をさせて頂きます宝田明と申します、よろしく」と丁寧に挨拶した筈だが返ってきた答えは「お前が主役じゃない、主役はゴジラだ!!」とスタッフの誰かの声。思わずへたりそうになる私も廻りのスタッフの笑い声に救われた。
撮影に入る前の段階で本多監督とは何度もお目に掛かりその上、幸運なことに相手役は同期の河内桃子、そして研究所2年先輩の秀才、平田昭彦氏との共演で精神的には楽であったが。。。
初日の撮影の第1カットのテストに入る前、監督が近づいて来て「宝田君、緊張せずに自由に動いてごらん。判らないことがあったら全てボクに聞いてくれ」。私はこの言葉が未だに忘れられない。東宝としては社運をかけたこの作品、20歳になったばかりの私を抜擢して大きな賭けにでた訳で、私にもそれが痛いほどよく判っていただけにプレッシャーが大きかったのだ。私はお蔭様でその後も順調に多くの作品に出演してきたが、監督からこんなにも優しく慈愛に満ちた言葉をかけられたことはなかった。実はこの人間的な優しさが本多監督の全てを物語るのである。
さて、ゴジラの各ディテールは判っているのだが、実際に撮影に入ると特に特撮との関係で対象物であるゴジラの動き、大きさに対する我々演技者の目線の決め方があった。
目線にバラつきがあってはいけない。そこで当然の如く質問を投げかける。本多監督は共に考え乍ら「それはこうだと思います」。演技に関しても「うん、それでいいと思います」と実に誠実に答えてくれた。
それでも監督自身も質問に答える事が出来ず困られている事が度々あった。そこで特撮の円谷監督より送られて来る絵コンテを一同むさぼるように見ながら撮影を連続して行ったものだった。
炎天下の伊勢志摩巡視船上での撮影中、私が重装備の潜水服をつけ、暑さにふらふら言っているときも本多さんは「大丈夫か?もう少しだ。頑張れ」と気を遣ってくれた。

ロケ先の宿に田中友幸プロデューサー、本多監督、名優志村喬さん、河内君、平田君等で浴衣姿で食事を共にし、和気あいあいのうちにやはり話は当時の時代背景、特に原水爆の実験による被害、第五福竜丸の悲惨な現実に話が及び被爆地である日本は特に声を大にして世界に警告を与えるべきであり、急速な科学の進歩に先んじて我々は映像上に於いて強くそれを表現していくべきだと話は弾んだ。確かに科学文明の全てが人類の夢と希望とロマンを起点としたもので殺傷のための科学兵器は感心しないがそれ以外のものは必死になって人間の夢の実現のため後を追いながら進歩し続けている。
ゴジラを溶かし海の藻屑としてしまう発想のもとに考え出された「オキシジェント・デストロイヤー」なる科学兵器用語の誕生もあながち荒唐無稽な話ではない。
時として手探りの状況の中で試行錯誤しながら長い撮影は終了した。「初号」といって完成した作品を撮影所内の小さな試写室で関係者、スタッフ、キャストが見守る中で上映された。芝居の部分と特殊撮影の見事な合体、ゴジラの迫力には唯々唖然とするのみ。
やがてゴジラは科兵器によって白骨と化し、海底に沈みゆくその様は伊福部昭氏の荘厳な音楽と相まって実に感動的であり神々しくさえ思えてくる。私は止めどなく流れる涙をおさえ切れなかった。試写が終わり灯りがついた中で私はしばらく立ち上がれなかった。
泣きはらした私に向かって本多さんは「宝田君、泣いてたね。良くやってくれた」とやさしく声をかけてくれた。
1954年(昭和29年)11月3日、多くの期待と不安の中で全東宝直営館の総力をあげて封切られた。映画館で見ようとしても廊下まで客が溢れている。ドアを開けて背伸びしてスクリーンを見ている。結果は何と961万人、空前の大ヒットである。
当時の日本人口の約1割が見た事になる。私と河内、平田の3人は全国の封切館での舞台挨拶に明け暮れた。東宝の大きな賭けは当たったのだ。
翌、1955年東宝は小田基義監督で第2作『ゴジラの逆襲』を製作、834万動員、同年8月、私は本多監督と2本目の作品、『獣人雪男』を撮った。
1957年(昭和32年)、更に本多監督と『我が胸に消えず』第1部、第2部、をご一緒した。本多さんにしてみれば念願のストレートドラマであり大いに腕を発揮なさった。
1962年(昭和37年)ゴジラ映画第3作、『キングコング対ゴジラ』に取り組んだ本多監督は、ついに不滅の金字塔を樹立したのだ。観客1,256万人、空前絶後の記録である。2年後の1964年(昭和39年)、私にとって最初のゴジラ映画から10年後の第2作目の作品、『モスラ対ゴジラ』で本多監督と共に仕事をしたのである。722万人の観客動員だ。そして本多監督と最後の作品となった『怪獣大戦争』(1965年、昭和40年)である。その後私は1992年に懐かしの『ゴジラVSモスラ』の再映画に出演。そして遂にゴジラの最終作、『ゴジラ・ファイナルウォーズ』に佐原健二君、水野久美さんらと出演したのである。正に半世紀にわたって28本の作品を世に送り出したのである。その間、本多監督は第1作から15本目の作品までに何と8本の作品の監督をつとめられた。


20年の歳月を要していた。本多監督の手による8本のゴジラ作品の総観客動員数は3,900万人、1本平均約500万人。この数字如何に驚異的な数字であるかお判り頂けるものと思う。さて私にとって“ゴジラ”とは正に同期の桜といって過言ではない。然も常に記録的な営業成績を上げ、その知名度は地球の裏側にまで知れわたり、他の追随を許さない。本多監督はゴジラを時として人類の敵、破壊者として見なし、他方、地上における人類の無謀な軍拡競争による罪なき不幸な被害者としてゴジラを凝視し画面に描いてきたのである。最終回もまたゴジラに我々に背を向けてその姿を海中に没して行った。その行先は過去に静かに眠っていた海底の寝床なのか、或いは又、己を20世紀最大のヒーローに育ててくれた今は亡き恩人、製作者の田中友幸、脚本関沢新一、特撮の円谷英二、音楽伊福部昭、そして最大の理解者本多猪四郎監督の元へ辿り着き懐古に耽っているのかも知れない。先人達の冥福を心より祈るばかりである。」  宝田明
○アメリカでのゴジラファンとの交流
久枝総領事は、7月10日、俳優の宝田明氏と共に、シカゴ郊外のピックウィック・シアターで行われた日本映画「ゴジラ」の上映会に出席し、舞台挨拶しました。

この映画は、1954年に制作された日本初の怪獣映画で、日本人の11人に1人が映画館に足を運ぶという大ヒットとなりました。その後、全米で公開され、米国の怪獣映画に大きな影響を与えるとともに、多くのゴジラファンを生んできました。
本日の上映会は、そうしたファンの祭典である「ゴジラ祭」の目玉のひとつです。記念すべき第一作が大スクリーンで見られるとあって、深夜にもかかわらず、400人を超えるファンが参集し、スクリーンに宝田さんやゴジラが登場するたびに、大歓声を挙げました。
総領事は、「ゴジラがシカゴに来ると聞いて、エンジェルスの松井秀喜選手のことかと思ったら、本物のゴジラでした。この映画は、私が人生で初めて見た映画として鮮やかに記憶しており、大スターの宝田さんや多くのゴジラファンと一緒にこの映画に再会できて嬉しい。」と述べました。また、宝田氏は、「この映画は、自分にとって初主演の特別な映画です。アメリカでゴジラがこれほど愛されていることは、日本ではあまり知られていませんが、知ってもらえるよう努力したい。」と述べました。
久枝総領事は、7月10日、俳優の宝田明氏を公邸にお迎えし、シカゴ日本商工会議所の幹部を交えて、日米の映画事情などについて意見交換しました。

宝田氏は、1954年のデビュー以来、東宝を代表する二枚目スターとして、映画や舞台で活躍してきましたが、特に、同年「ゴジラ」(第一作)に主演して大成功を収めたことから、怪獣映画でも欠くことのできない存在となりました。

7月8日~10日、全米から約1500人のゴジラファンがシカゴに参集し、恒例の「ゴジラ祭」が開催されましたが、宝田氏は、特別ゲストとしてそれに出席するため当地を訪問しているものです。

宇宙戦艦ヤマト2010を見る

2010-12-02 | Weblog
2010年12月1日(水)、木村拓哉主演「宇宙戦艦ヤマト」の初日、映画料金1000円で観た。ロケ地の一つが岐阜であり、岐阜フイルムコミッションが支援した。エンディングのクレジットで、ダイワロイヤルネット岐阜があった。黒木メイサが大和ハウス工業のCMに起用されているので、その関係で岐阜でのロケ班スタッフの宿泊先となっとかもしれない。
あるブログによると、岐阜でのロケ地は
放射能で汚染された地球のシーン(岩石の大地)は岐阜県の多治見市の採石場。

地球防衛軍の基地は岐阜県揖斐川町の横山ダムの内部で山崎努さん、橋爪功さんが参加している。
ダムは国内でも珍しい中空重力構造で、堤体内にあるコンクリートで囲まれた巨大な空間(幅約10メートル、高さ最大約60メートル、奥行き最大約60メートル)が10室あり、地下工場として幻想的なムードで銀幕に映し出される。

岐阜未来工業も映画を支援しているようだが、どのようなところで支援しているのか気にかかるところだ。岐阜県HPで岐阜フイルムコミッションを観たが、HPの更新がされていないのか、「宇宙戦艦ヤマト」の支援をしていないことになっている。この映画は恐らくヒットするので、ヤマト映画ファンのために物語の序盤、地球防衛軍の宇宙戦艦ヤマトを建造する地下秘密工場として登場するのが、揖斐川町東横山の横山ダム。昨年11月5日、山崎努さん(沖田十三艦長役)と橋爪功さん(藤堂平九郎司令長官役)、山崎貴監督らスタッフ計約50人が訪れて撮影した。

 岐阜フイルムコミッションは大至急「映画ロケ地マップ」を作成すべきだと思う。

他のロケ地
・東洋熱工業吉井工場
・伊良湖岬フェリー





吉野・弥助ずしを訪ねる

2010-05-05 |  日記
GWに父母、妹夫婦、新婚の甥夫婦7人で、牡丹の長谷寺詣の後、昼食で吉野・下市の『弥助寿司』を訪ねた。81歳になる父は、弥助寿司は冥途の土産になるという。ベンガラ壁の木造三階建の三階の大広間に案内してもらう。この広間からは、崖をうまく庭園に配し、素晴らしい山水図風の庭を見ることができる。かつては、岩間から湧き水が流れ、滝をまたぐように随所に石橋が配置されている。残念ながら水脈が変わり、今では湧き水は枯れてしまっているとのこと。50代目となる若い次期当主から、店の由来を聞く。先祖は、平氏の家来で、平家滅亡後に、吉野に逃れて、寿司屋を開業し、800年以上になるという。大峰山詣が盛んな頃は、旅館と寿司屋を営んでいた。なんでも客人は、旅館の宿を予約するも、実際は周辺の六田などの宿で精進落しをして、土産に『弥助すし』を持ち帰ったという。昭和12年5月の下市大火(140戸が焼失)により、弥助すしは焼失するも、再建して現在の姿になったという。当時の当主と料理長とで、火災により黒ずんだ石垣を撤去すると、その下から大きな岩盤が表れたという。岩盤の山肌をうまく活かして現在の庭園を造営したとのこと。

○「谷崎潤一郎の『吉野葛』を歩く (上)」より
「…「弥助」は有名な料理旅館だから御存知の方も多いと思う。ちょっと季節外れではあったけれど、僕は鮎料理が大好きだから、全品鮎料理なんていうお膳を見ると実に感動してしまう。鮎子も美味い。…」。

○弥助 「鮨の日」(11月1日)の由来

竹田出雲の歌舞伎・人形浄瑠璃の「義経千本桜」(1776)の『釣瓶鮨弥左衛門』は、奈良県・吉野郡下市町の「弥助寿司」がモデル。芝居では平維盛が名を「弥助」と偽って平家再興を期す筋立てになっているが、此処の熟鮨(ナレズシ)が京都・仙洞御所に献上されたことは史実であるらしく、店内に献上の看板が飾ってある。当時の鮨は吉野川で獲れた鮎を塩で漬けた発酵鮨だが、これを羊歯(シダ)の葉で包んだのが始まり。
江戸中期になって食酢が出回るようになると、熟鮨は酢を使った「早鮨」に取って代わられ、やがてそれが気短な江戸っ子の手で、より簡便な「握り寿司」へと変化して行く。

江戸落語で寿司の符牒として「弥助」を使うようになったのは以上の理由に拠るが、平維盛が「弥助」と名を変えた十一月一日を「寿司の日」と定めたという。
○いがみの権太
壇ノ浦で大敗した平家の一族は、ばらばらになって落ち延び、平惟盛(これもり)の妻・若葉の内侍(わかばのないし)は息子の六代君(ろくだいぎみ)と家来の主馬小金吾(しゅめのこきんご)をともなって、夫の行方を捜し歩く。
大和国(今の奈良県)下市村のはずれ、大きな椎の木のある茶屋の前。その茶屋のおかみに切らしてしまった薬を買いに行ってもらっている間に、三人は椎の実を拾っている。

そこへ現れたのは札付きの悪、いがみの権太(弥助の息子)。親切ごかしに、椎の実を石をぶつけて落としてやり、その隙に小金吾の荷物と自分の荷物をすり替えて行ってしまう。

小金吾が荷物が違うことに気がついてあわてていると、権太が戻ってきて荷物を取り替えるが、今度は「自分の荷物には二十両入っていたのにそれがなくなっている」と難癖をつける。
騙りとは分かっていても人目をしのぶ身の一行にはどうしようも無く、二十両を権太に渡し旅立つ。

ホクホク顔の権太に、戻ってきた茶屋のおかみ実は権太の女房小せんは「子供の為に悪い事はやめて」と意見する。女房には悪態をついても子供は可愛い権太は、親子そろって家へと帰っていく。
小金吾討死
若葉の内侍一行はとうとう捕り手に追いつかれ、小金吾は大勢に取り囲まれて深手を負う。そして若葉の内侍と六代君に自分をおいて先に行くように頼んで、息絶える。
その小金吾の遺骸を、通りかかったこの村のすし屋で権太の父親、弥左衛門がみつけて、何を思ったか首を取る。
すし屋
下市村の釣瓶鮓屋。この店の娘、お里は下男弥助と親の許しをえて深い仲になっている。弥助は、すし桶をかつぐのもやっとの有様の優男。実はこの弥助、平家の落人平維盛なのだが、それを知っているのはこの屋の主、弥左衛門だけなのだ。そこへこの家の勘当中の倅・権太が、今日も息子に甘い母親から金を引き出そうとやってくる。そしてまんまと金をせしめて帰ろうとするが、父親の弥左衛門が帰って来るのを見つけ、あわててそばにあったすし桶に金を隠し、自分は奥に隠れる。帰ってきた弥左衛門も又、持ち帰った小金吾の首をすし桶の中に隠す。そして弥助、実は維盛に「源氏方の追っ手にあなたをかくまっている事が発覚したので上市村の隠居所のほうへお逃げなさい」と忠告する。そんなこととは知らないお里は、弥助と夫婦になれる事がうれしくてたまらない。なのに弥助が煮え切らないので一人で先に寝る。ところが偶然若葉の内侍と六代君がこの家へやってきたために、ようやく事情を知ったお里は、悲しみながらも三人を父親の隠居所へと逃がす。それを奥で聞いていた権太は「役人へ訴えて褒美をもらうのだ」と、行きがけにさっき金を隠したはずのすし桶をもって後を追っていく。そうする内に、源氏の追手梶原の一行が詮議にやってくる。弥左衛門は「これが維盛の首だ」といって、先程すし桶に入れておいた小金吾の首を出そうとする。するとそこへ権太が片手にすし桶を持ち、若葉の内侍と六代君を縄で縛って連れてくる。そしてすし桶に入っている首を「維盛の首だ」と言って差し出す。

それを維盛の首だと認めた梶原は、「褒美の証」といって頼朝の陣羽織を置いていく。去っていく梶原一行を見送っている時、弥左衛門が「この不忠者」と権太のわき腹に刀をつきたて深手を負わせる。

死に瀕した権太は「実はあの首は親父様がすし桶に入れておいた首。若葉の内侍と六代君に見えたのは、自分の女房と倅。善心に立ち戻り親不孝を詫びたかった」と述懐し、息子の善太郎の笛をふいて維盛たち三人を呼びよせる。

維盛が頼朝の陣羽織を恨みを込めてずたずたに裂こうとすると、中から出てきたのは数珠と袈裟。維盛の父重盛が昔頼朝の命を助けてやったお返しに、維盛を出家させて命を助けようという頼朝のはからいだった。

維盛は出家を決意し、権太は息絶え、弥左衛門一家は別れの悲しみにくれる。


奈良桜井市長谷寺観音を見る

2010-05-04 | Weblog
牡丹が見頃の長谷寺(奈良県桜井市)を訪ねた。沿道には、参詣客相手の土産店と屋台が並んでいる。参詣道手前の駐車場にて車(駐車代1千円)を預ける。長谷寺最寄りの駐車場には、ナビ頼りの遠方ナンバーの車が多く入っている。伝統的な日本家屋が建ち並び、この町でも修景と古民家再生によるまちづくり(NPO泊瀬門前町再興フォーラム)が進んでいるという。空家を拠点にして、まちづくりの歩みをパネル紹介している。パネルによれば、早稲田大学(佐藤滋教授)とのコラボで、修景の試みがされているとのこと。山門の受付で500円
お布施する。長くて少し急な階段のある登廊をくぐって本堂に鎮座する十一面観音像に対面。なんでも、特別開帳期間なので見ることができるという。お布施を割り増しすれば、観音像の足に触れて願い事ができるとのこと。本堂側まで救急車が出動し、急な階段を登って体調を崩したご老人をタンカーで運ぶ救急現場に遭遇したが、途中ではぐれた母でないと判り一安心。帰路は、門前町の店先で3年物のおいしい奈良漬を試食した。
以下は、種々のブログから抜粋して長谷寺関連情報をまとめた。
○泊瀬地区
 桜井市東部の山間部を流れる初瀬川右岸の谷間に位置し、「初瀬参詣道」の終点にあたる長谷寺を中心とした門前町として発達。また「伊勢街道」に続く分岐点にあたり、伊勢詣による宿場町としても栄え、伝統的家屋が点在する門前町である。
 嘉永3年(1850)の記録に、ねずみ屋・扇子屋・吉野屋・檜皮屋・堺屋・紀の国屋など多くの宿があり、参詣客で賑わっていたことがうかがえる。なお、山田酒店「茶房長谷路」は登録文化財になっている。長谷寺に沿道には、吉野葛を原料とした和菓子やよもぎの草餅、柿の葉寿司、三輪素麺、奈良漬などを商う土産店がある。屋台では、旬のタケノコ串(100円)
が人気。この街道筋は大和盆地南部にあった高取藩主の参勤交代の通過路ともなり本陣や脇本陣も置かれた。大火や洪水などの災害に度々見舞われ現在残る家々は「初瀬流れ」と呼ばれた文化8年(1811)6月の災害以降に復興されたという。
明治末から昭和の初めまでは桜井方面からの鉄道(初瀬鉄道)の終点でもあったという。
かつては長谷・始瀬・波都瀬・播都制・波都勢・簸都細・泊瀬などとも書かれ地名は統一されていなかったようだ。
○跡見学園女子大学マネジメント学部紀要 (Journal of Atomi University Faculty of Management). Vol.8, (2009. 09) ,p.1- 18
平成22年4月本学マネジメント学部に観光マネジメント学科が新設されるのを機に,「観光マネジメント」という学科の領域全体での検討すべき新たな課題・問題意識を取り上げてみたい。地域の観光にかかわる個別企業や人物が各々どのような役割を果すことで,著名な観光資源がいかにして一流の観光地へと形成されていったのか,その際に地域全体で「観光マネジメント」がいかに推進されていったのかを,明治末期から大正前期にかけて観光資源として売り出すことに成功した奈良県・長谷寺の牡丹を素材に第一段階の試論として検討したい。同寺は一見遠く離れた寺院のようであるが,信者の分布状態を反映し東国の末寺住職が本山役僧に累進する例が多く,同寺を総本山とする豊山派本部は文京区の名刹・護国寺境内に位置し,本学文京キャンパスとも至近距離にあるという浅からぬ地縁もあり,興味深いことに旧初瀬町(現桜井市)には跡見なる由緒ある地名もあることからここに取り上げた。本稿は門前町の関係者が協議して長谷寺参詣客を飛躍的に増大させるべく,夜間点灯など一連の観光振興策を門前町が一丸となって打ち出した“観光まちづくり”の諸活動に直接・間接に関わったと思われる初瀬鉄道,鉄道院,初瀬水力電気などの関係法人と,地元旅館主をはじめとする門前町・初瀬の地域社会の指導者達という長谷寺の牡丹に貢献した人物群を順次取り上げ,かれら相互の関係を管見の限りの文献から可能な限り解明しようと試みたものである。とりわけ鉄道院旅客係に勤務していた異才の鉄道員・森永規六(後の運輸公論社主幹,多くの観光案内書や旅行趣味鼓吹雑誌を刊行)が外部から観光客誘致に尽力したという今日の「観光カリスマ」にも相当する先駆的な功績にも注目した。
○NPO泊瀬門前町再興フォーラムと早稲田大学とのコラボ
初瀬地区の景観まちづくり支援を目的に、早稲田大学佐藤滋教授他が地元NPO泊瀬門前町再興フォーラムと協働で調査を実施中。
○早稲田大学と奈良県との連携事業
本事業は、早稲田大学と奈良県が締結した連携協定を契機として実施中の「早稲田大学と奈良県との連携事業」の5つのテーマのうちの1つ「初瀬門前町における景観まちづくりの推進」として実施しています。
○源氏物語と長谷寺
源氏物語に、初瀬詣の盛行が描写されている。参詣の様子が描かれる巻こそ玉鬘巻のみですが、この場面では各地からの参拝者でごった返す長谷寺の賑わいが活写されており、また宇治十帖では初瀬詣を背景とした物語が展開されている。椎本巻冒頭には匂宮が初瀬詣の帰路に宇治で中宿りをする場面があり、ここから中の君と匂宮との交渉が始まりますし、宿木巻では浮舟が僅か3ヶ月ほどの間に2度も参詣したことが語られ、この2度目の初瀬詣の中宿りで宇治の山荘に立ち寄った折に、薫にその姿を見られることになる。更に、進退窮まって山荘を抜け出した浮舟が横川の僧都に助けられる手習巻冒頭の場面も、僧都が山を下りて宇治へやってきた理由は初瀬詣から戻る途中の母大尼君の急病で、小野に引き取られた浮舟が出家を果たすのも、小野の妹尼が亡き娘の代わりに浮舟を得たお礼参りにと再度初瀬へ赴いた留守中のこと。また
「仏の御なかには、初瀬なむ、日の本のうちには、あらたなる験現したまふと、唐土にだに聞こえあむなり」(玉鬘巻:豊後介)
「さりとも、初瀬の観音おはしませば、あはれと思ひきこえたまふらむ」(東屋巻:浮舟の乳母)
といった登場人物達の発言からも、当時の長谷観音の霊験に対する信仰と期待の深さが見て取れる。
○長谷寺参詣の日程
都から長谷寺までの道のりは、片道3~4日もかかる長旅。
『蜻蛉日記』安和元[968]年九月の参詣を例に取ると、暁に都を出立して宇治川・木津川を渡り、3日目に椿市(現在の奈良県桜井市金屋)着、その日は椿市に宿泊し、4日目に寺に入っている。
『更級日記』永承元[1046]年十月の参詣も同様に暁に都を発ち、宇治川を渡り栗駒山を越え、途中東大寺・石上神宮にも参拝しながら3日目の夜に寺に到着。牛車での旅であることを考えると、玉鬘一行が徒歩で「四日といふ巳の時ばかり」即ち4日目のお昼前に椿市に辿り着くという、かなりの強行軍。椿市から長谷寺までは4kmほどですから、日頃は自分の足で歩き回ることなどほとんどない平安時代の姫君が3.5日で山越えを含む68kmもの行程を歩いた計算になり、「生ける心地もせで」(玉鬘巻)の表現どおりかなりハードな旅であった。長谷寺は初瀬川の北岸、初瀬山の山腹にあり、川沿いの参道から石段を上って仁王門をくぐり、更に399段もある登廊(のぼりろう)を上って本堂に至る。長旅の末に山を登っての参詣は、外出する機会の少ない女性にとっては心身共に相当に堪えたようで、
「雨や風、猶やまず。火ともしたれど、吹き消ちて、いみじく暗ければ、夢の道の心ちして、いとゆゝしく、いかなるにかとまで思ひまどふ。(中略)御堂に物する程に、心ちわりなし。おぼろけに思ふこと多かれど、かくわりなきに物おぼえずなりにたるべし」(『蜻蛉日記』天禄二[971]年七月)
「いみじき心おこしてまゐりしに、川の音などの恐ろしう、呉階をのぼるほどなど、おぼろけならず極じて」(『枕草子』一本二十七「初瀬に詣でて」)
といった記述が見られる。
清少納言の書いた「呉階」はこの登廊のことと思われますが、登廊が初めて建てられたのは長暦三[1039]年のこと。登廊建立以前はというと、「古い参道は、東の谷の二本(ふたもと)の杉辺りから椙坂の急坂を登ったもの」(『奈良県の地名』)で、現在も東参道の途中に二本の杉が植わっている。この杉については、参籠を終えた右近が玉鬘に詠みかけた歌
「二本の杉のたちどを尋ねずは古川野辺に君を見ましや」(玉鬘巻)の中に詠み込まれている。長谷寺は度々火災に見舞われているため、現在ある建物の大半は江戸~昭和に再建されれ、ご本尊も室町時代の再造です。長い登廊を上りきって本堂に入り、高さ10mを越す大きなご本尊の立ち姿を見上げると、平安時代の女性達の苦労とは比べ物にならないながらも、仏様の前に辿り着いた安堵感に包まれる。ご本尊の霊験に与ろうと山を登った京の貴婦人の思いを偲ばせる、山と川に抱かれたお寺です。







串カツの街・大阪新世界にて

2010-05-03 | Weblog

GWの5月3日、大阪新世界を歩いた。ここ数年定点観測で訪れているが、今回は連休でもあり若いカップル、小学生の子どもを連れ立ったファミリーが多い。駐車場に入っている車のプレートをみると、中部、首都圏と東海以東から高速を飛ばして大阪の観光名所に来ているのがうかがえる。
串カツの店はどれも長蛇の行列、とくに『だるま』、『八重勝』は超人気。通天閣あるいは、串カツ店の入口に鎮座する黄金色の『ピリケン』像をバックに記念撮影しているのを見ると、新世界は大阪で2番目の入場料タダの観光名所(1番目は道頓堀)になったと思えてくる。
新世界で埋もれた名所は、公設市場の入口角にあるジャズ企画の澤野工房(表看板は履物屋)である。店内では、若い女性スタッフがパソコンに向かって情報入力している。彼女の足元には、ネット受注の商品の宛名伝票添付済みの配送品が積まれてあった。懐かしきスマートボール場、将棋道場、囲碁道場いづれも満員であった。かつてあった射的場は、廃業となっていた。

日本一長い商店街・天神橋商店街を歩く

2010-05-03 | Weblog
大阪市営地下鉄堺筋線南森町駅で下車して、天神橋商店街に出た。GWの午後ということもあり、結構人通りがある。蕎麦屋の看板につられて店に入る。店内は結構込んでいて、隣のご婦人連れの話言葉から関東から来ているようだ。蕎麦を註文していると、またカップルの客が入ってきた。今度は韓国人であった。食べ終わって店を出てぶらぶら歩きながらすれ違う歩行者を観察すると、広域から観光目的で天神橋商店街に来ているのがわかった。
馴染みの古書店の店先の掘り出し物ワゴンで、『新編風の又三郎』(新潮文庫1993年)を50円にて購入。レジ台のところに絵葉書コーナーがあり、いろいろ物色すると宮澤賢治関係絵葉書(1枚50円)を6枚発見、また北斎富嶽36景で2枚購入した。賢治が描く『ふくろう』(二十六夜の主人公)は掘り出し物。
天神橋商店街の寿司屋、お好み焼き屋、コロッケ屋、お菓子屋は人気が高く、客入りは良いようだ。

三輪神社にて

2010-05-01 | Weblog
5月1日は、桜井市・三輪神社の月次祭で父母の車で、開通したばかりの中和幹線を利用して、三輪山詣となった。GWなのか他県の車ナンバーが目立った。例祭には沿道に屋台の市が立ち、衣食とストーンアクセサリーの店が軒を並べている。クリーニングタグ付きリサイクル服店で父の作業着2着を1千円で買い求める。うりの奈良漬が6百円なので安いと思わず衝動買い。母は泉州タオル10枚を1千円で買う。店番曰く泉州タオルは普通のより丈が長いとのこと。続けて母は、大判焼き、コロッケ、みたらし団子と三軒梯子して両手に一杯の買い物となった。帰路の境内でささゆりを栽培している一画がある。イノシシの食害防止に頑丈な鉄網の柵囲いが続いている。ささゆりの見頃は、5月下旬から6月中旬とのこと。
6月1日の月次祭には、見事に咲き誇るささゆり目当てで多くの参拝客が訪れるという。
神社HPより
○ささゆり
『古事記』によると、ささゆり(山ゆり草)は本来、「佐韋(さゐ)」といい、三輪山の麓にはたくさんの「ささゆり」(山ゆり草)が美しく咲き誇っていた。また率川神社で6月17日に行われる三枝祭(さいくさまつり)にはささゆりの花をたくさん用いられています。このように当神社とささゆりは非常に縁の深い花。
しかしそんな「ささゆり」も自然環境の変化からか、最近では見ることの少ない貴重な花になりつつある。そこで当神社では15年前から「ささゆり」復活のため、専門家の協力を得ながら大切に栽培してきました。その努力の結果、境内の各所に植栽された「ささゆり」がようやく美しい花を咲かせるようになった。
例年、境内の「ささゆり」は5月下旬から6月中旬頃にかけて可憐な花を咲かせる。
「ささゆり周遊路」では可憐に咲き薫る「ささゆり」の花が、回遊式となった周遊路に沿って咲き、また本社正面階段付近、狭井神社付近にも植栽されている。
○巳の神杉(みのかみすぎ)
江戸時代には、「雨降杉」とあり、雨乞いの時に里の人々が集まり、この杉にお詣りをしました。いつの時代からか、杉の根本に、巳(み)さん(=蛇)が棲んでいるところから、「巳の神杉」と称せられるようになり、巳さんの好物とされる卵が、酒とともにお供えされています。
蛇は、古来より三輪の神の化身として意識されており、『日本書紀』の崇神天皇10年9月条に、「小蛇(こおろち)」と記され、『同紀』雄略天皇7年7月条には、三輪山に登って捉えて来たのが「大蛇(おろち)」であったと伝えています。いずれも、三輪の神がその原初的形態として、蛇神であると信じられていたことを示していると考えられます。
これは、古代の人たちが、三輪山は千古鉞(おの)を入れず鬱蒼たる森林として、何がひそんでいるかわからない不気味さを覚え、そのお山から流れ出る水により、種々の農作物を作り、日々の暮らしをたて、山に立ち昇る霧や雲に神意を感得して、山内に棲む蛇を直感したものであったのでしょう。
三輪の神の原初の形とされる蛇は、水神であり、雷神ともなり、農業神、五穀豊穣の神となり、やがては国の成立とともに、国家神的な神に至ったと考えることができます。
○狭井神社の鎮花祭と薬井 磯城郡大三輪町(旧磯城郡三輪町)
 四月十八日(昔は旧三月十八日)に狭井神社で鎮花祭が行われる。
花の咲く頃疫病が流行するので、それを鎮めるためだといわれている。それで、この神社を花鎮《けちん》社、または「しずめ宮」ともよばれ、土地の人は「しじめさん」ともいっている。
 この神社の境内に「薬井」があり、万病にきくというので、この霊水をいただく人が多い。昔は三輪素麺もこの薬井の水を使って製造したものだとも伝える。
  (荻原愛孝)
 また、三輪山から出て、狭井神社をめぐり、箸中に流れる巻向川にそそぐ間を狭井川といい、俗に薬川ともいう。この水を飲むと病がなおるともいう。(乾健治)


宮澤賢治と月

2010-04-28 |  日記

久しぶりに「月の会」例会に参加する。回を重なるごとに新しいメンバーが増えている。テーマは『宮澤賢治と月』で会場で30枚余はあるコピー資料が配られた。メンバーの谷崎さんが進行役で朗読会が始まった。急に指名された某女史の朗読は素晴らしく、会メンバーの素養には敬服することしきりである。
月にかかわる記述がある個所の上段余白に二十六夜の月マークが付されている。谷崎さんの労に感謝感謝。『月夜のでんしんばしら』、『雪わたり』、『二十六夜』、『銀河鉄道の夜』で表現される月についての解説に続き、参加者の感想と賢治への思いについての話し合いが夜遅くまで続いた。

主宰者である志賀さんの話で印象的だったのは、
○釈迦は満月に生まれ、満月に出家し、満月に死んだ。釈迦の死を悼む涅槃図には満月が描かれている。
○二十六夜の祭は、東北や信州に残っている。月暦と深くかかわった祭り。
○賢治の造語に『イーハトーブ』がある。ある研究者は岩手東部が語源という。カタカナ造語を探求すると面白い発見がある。

○東北はやませがある。稲作には向いていないのに稲作が推奨されて、果ては冷害に農民は苦しめられた。

日本の山林を外資が買収

2010-04-05 |  コラム
2010年4月号『選択』で安田先生が巻頭言にて日本の山林が外資に買収されており国難が迫ってきている。なんらかな大きな山林を守るという市民運動が起きないと、この国難を回避することができないと警告している。子どもの頃、親が故郷の吉野山に戦後の混乱期に旧財閥が旧円の札束を持って、山を買収しに来たという話を思い出した。選択記事の抜粋するとつぎのような編集者との問答である。
安田: 各地で買収の動きは次々に報告がある。特に水事情が厳しい近隣の中国の動きが活発であり、紀伊半島など日本列島の各地を調査した中国人視察団の動きもある。三重県や長野県での買収話は以前紹介された。首都圏近郊でも、埼玉県の山林地域に一山全部の買収話が海外からきたり、山梨県でも立木ではなく山そのものを目的とした買収案件があったと聞く。このほか北海道の道東地区や青森県の三八上北地区、九州の阿蘇など外資による山林売買の噂は後を絶たない。まさに市場原理主義の中で、グローバル資本が投機の対象として日本の水源林を買い占めに来ている状況だ。

 ---かけがえのない国土が侵食されていることへの危機感が全くない。

 安田: 果たして自分の国土を大事だという意識がどこまであるのか疑問だ。日本の森林売買の危機を語るとき、日本国内でも「ニューヨークの摩天楼を買っているのと同じではないか、何が悪いんだ」という意見まで出ている。水源林を売るということは日本に暮らす者の生命の基本を売っているのと同じということを全く理解していない。私は今の時代は、明治維新、第二次大戦敗戦に続く、日本の漂流「第三の危機」だと指摘している。市場原理主義の中で浮き彫りになった第三の危機は、生命の根源たる森林が侵食されている点において、過去の危機よりも深刻だ。森は神話時代からずっと日本人が守ってきたもので、それなくして森の環境国家たる日本の存続はない。外資による森林売買も、文明史の中で位置付けて初めてその深刻さが理解できる。日本の有識者でさえ森林買収の事実を知らない。それが今の日本の漂流の姿だ。

 ---これに対し、国や行政は何をしていたのでしょうか。

 安田: 戦後間もなくは森林資源が非常に高値で売れ、金が儲かったことから、国は林野庁を独立採算にしてしまった。森林を何平米いくら、というように経済価値のみで捉えるようになってから、林野行政がおかしくなった。行政の罪深さは、戦後一貫してコメも農地も守ってきたのに、林野は全く守らなかったことだ。本当に農地を守るなら、水源である林野こそ守らなければならない。

 ---水源林保護のために喫緊の課題は何ですか。

 安田 林野をしっかり守る「林野法」のような法制度をまず整備して水源林は外国人には売れないと堂々と宣言し、むやみに外国人が林野を買えない法律を作る以外にない。また水源林を守るということが日本の国家百年の大計だという認識から、水源林の公有化などへ国民の税金を使うべきだ。

 ---そのためには広く国民への啓蒙活動が必要ですね。

 安田: 国民の合意がなければ林野に特別の保護を与えるなど無理だ。また自由に林野を売れない法律ができたならば森林所有者も不満だろう。また逆に林野だけを保護すれば、他の土地所有者の反発もあろう。その意味でも生命や文化、伝統の源である森の重要性を周知させる国民運動が必要だ。今は資源争奪戦争の時代だ。水はタダだと思っている平和ボケの日本人が多いが、日本の水資源も間違いなく各国の標的となりうる。今すぐ行動を起こさなければ、手遅れになってしまう。

安田 喜憲(国際日本文化研究センター教授)
1946年三重県生まれ。72年東北大学大学院理学研究科修士課程修了。
77年広島大学総合科学部助手、88年国際日本文化研究センター助教授を経て、
94年から現職。2007年紫綬褒章受章。専門は環境考古学。





奪われる日本の森―外資が水資源を狙っている―

2010-04-05 |  コラム
安田喜憲先生が『奪われる日本の森―外資が水資源を狙っている―』(平野秀樹/著 安田喜憲/著 )を出版。本の帯は

『このままでは、日本の国土全体が中国人や欧米人のものになってしまう!?

価格が暴落した山林の売買取引が活発化している背後には、今後の世界的な水資源争奪戦を見越しての水源林獲得という狙いが見え隠れする。ルール整備のなされていない今のままでは国土は簡単にグローバル資本によって買い占められる。生命の源の危機が日本人の喉元にまで及んでいるこの現実に、私たちはどう対処すべきなのか。』
目次をみれば、近未来日本の山林の惨状の予言書といえる。
I 日本を買え……平野秀樹
序章 外資に買収されていく日本
離島・港湾/空港・発電所/牧場・リゾート
第一章 狙われる日本の森
森が動きはじめた
バーナムの森/新旧交替する山林王/山林ブローカー/急増する大規模森林取引/外資が森を買収していないか――国会議員の問いかけ/買い方は誰だ
どこの森が狙われているか
山ころがし――ルポ・北海道から九州へ/木材流通プロの目線
なぜ森を買う?
森はいま底値/伐採放棄の荒技――全山植林放棄の惨状
山林相場は宝の山か
「水」狙い?――おいしい水を世界へ/CO2削減とバイオパイラシー/銀座のビルより森――夢を買う
[column]世界の天然資源が囲い込まれる
第二章 日本の水が危ない
ウォーター・ウォーズ
グローバル化する水道事業/黒船来襲――水メジャーのスマートエリート/外資化のその先
地下水が危ない
安曇野の名水が涸れるとき/大口ユーザーの秘策――フリーライダーを許すな
地下水はだれのものか
「共有地の悲劇」とならないために
[column]豪州の小さなまちから――ミネラル・ウォーター販売禁止
第三章 森が買われることの何が問題なのか
日本の私的土地所有権は特別
世界一の私権――土地収用ができない国/地租改正という負の遺産/政府公権にも対抗できる私権
土地制度で自滅する日本
林地の権利移転はフリー/フランスとの比較/英米との比較
喉元まで及んでいる危機
[column]驚愕したドイツ人――日本は担保価値のない国土が過半!
第四章 日本には国家資産を衛るためのルールがない
森と投資ファンド
外資だから問題なのか
外資の定義/ボーダーレスになるものとならないもの
米国はどのようにブロックしているか
エクソン・フロリオ条項/バード修正条項/外国投資国家安全保障法
狙われたときの定石――EUのケース
外国人土地法
外国人土地法とは/外国人は土地をもてない――それはアジアの常識/日本の無頓着
[column]要塞地帯法
第五章 日本の森と水を衛るのはだれだ
国家の重要資産は銀行と大企業だけか――国家の基本インフラとは何か
インフラファンド
なぜ今、重要なインフラを衛るのか
売り圧力がとまらない/山でも水は抜ける/一国の国益/外資が射程に収めたもの
森を衛る政策
地籍の確定――第二の入会林をつくらない/林地市場の公開化――オープンな林地売買へ/売買規制と公有林化/林業再生・辺境再生――林地を手放さなくて済む生産・生活環境を創る
水を衛る政策
地下水保全域のゾーニング/私水から公水へ
国土喪失
[column]森林と地下水
第六章 外資が国土を占有する日
辺境資源をどう評価するか
しのびよる外資が国土を占領する
II ニッポンの漂流を回避する……安田喜憲
【一】縄文が一万年以上持続した理由
地政学の欠如/美しい日本列島こそが日本民族の起源/北海道の縄文遺跡/縄文が一万年以上持続した理由/森を破壊する文明/北海道の森
【二】稲作漁撈文明の持続性に学ぶ
畑作牧畜民の侵略から日本を守る/森里海の水の循環を守った稲作漁撈民/島国の思想
【三】欧米文明による日本人の心の破壊
山の霊力に満ち溢れる徳一/なぜ日本人は山を崇拝するのか/近代化の中で失われた日本人の心
【四】グローバル市場原理主義による破壊が始まった
欲望の文明の限界/中国の森林荒廃/日本の領土の危機/市場原理主義が日本民族を消滅させる/市場原理主義は日本の山河も荒廃させる/森の環境国家ニッポンの構築
あとがき……平野秀樹