ウォーク更家の散歩 (東海道、中山道、日光街道、奥州街道)

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中山道を歩く(完全踏破の一人旅)

日光街道を歩く(15:石橋) 栃木県下野市 6km 2016.12.20

2017-01-31 21:38:51 | Weblog

(写真は、銃眼と矢狭間のある土塀(城郭様式)の「開雲寺」)

「石橋宿」に入ると、旧日光街道(国道4号)沿いの石橋の
信号の手前の辺りが、「石橋宿」の中心だったらしいですが、
現在はその痕跡すらありません・・・

「石橋宿」は、総軒数79軒で、うち本陣1、脇本陣1、
旅籠30でした。

石橋の信号を右折するとJR石橋駅です。

地元では有名だというJR石橋駅前の「からくり時計」を見る
ために、右折して商店街をJR石橋駅へ向かいます。


石橋は、グリム童話で名高いグリム兄弟の出身地であるドイツ
のシュタインブリュケンと姉妹都市なのだそうです。

江戸時代には、この辺りはカンピョウの産地でした。
商店街には、名産のカンピョウを扱う店もあります。


 
JR石橋駅前の「からくり時計」の頂上は「シンデレラと
王子」、その下は「狼と7匹の子ヤギ」でしょうか。
JR石橋駅から、旧日光街道(国道4号)に戻り、直進すると、
直ぐ右手に下の写真の「開雲寺」の山門が見えました。

本堂の垂れ幕には、「葵の紋」があります。



「開雲寺」は、徳川将軍の日光社参の際の休息所でしたが、
三代将軍家光の社参の時に、更に境内に御殿所が建てられ
ました。

そのため、開雲寺は、寺の回りを「鉄砲狭間(ざま)」や
「矢狭間」の付いた土塀で囲む「城郭様式」となっています。


写真の様に、寺をめぐる長~い塀には、丸い銃眼と、矢を射る
四角い穴が、交互に空けられています。お寺の塀に狭間がある
なんて驚き!

石橋宿を抜けて、真っ直ぐな国道4号を延々と歩いて行くと、
右手に「鞘堂(さやどう)地蔵尊」がありました。







この鞘堂地蔵尊の辺りで、1382年に、小山氏と宇都宮氏との
間で、壮絶な戦いが行われました。

この「小山・宇都宮合戦」では、宇都宮氏一族の300余人
が、ことごとく討ち死にしました。 可哀想・・・

この時の戦死者の刀の鞘(さや)を集めてここに埋め、その
上にこの「鞘堂地蔵尊」を建てたのだそうです。

ふ~ん、このお地蔵様には、そんな由来があったんだ!

鞘堂地蔵尊から暫く歩くと、左手に、下の写真のここ
「鞘堂新田」村の鎮守である「星宮神社」があります。



星宮神社を通り過ぎると、やがて前方の北関東自動車道の高架
をくぐります。

真っ直ぐな国道4号を、次の雀宮宿までひたすらに歩いて
行きます。


やがて、左手に、上の写真の陸上自衛隊の宇都宮駐屯地の
入り口がありました。

もう、この辺りから、「雀宮(すずめのみや)宿」らしい
です。

石橋宿から雀宮宿までは、約6キロです。
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日光街道を歩く(14:小金井) 栃木県下野市 3km 2016.11.29

2017-01-30 17:22:16 | Weblog

(写真は、慈眼寺の布袋様の石像)

小金井宿は、日光街道の”町名ルール”の通りに、日光に
近い方から順に、上町、中町、下町の順に並んでいます。
小金井宿は、もともとは、ここの北方の「金井村」でしたが、
1604年に、村が現在の場所に移動した際に、”小”を付けて
「小金井村」としました。
そして、小金井宿は、何と!、下総(千葉県)の佐倉藩領でした。
新田宿から、ほぼ真っ直ぐな旧日光街道(国道4号)を
ひたすら歩いて行き、右手の小金井駅前を過ぎると、日光
街道の左手に「小金井一里塚」の看板が見えて来ました。




看板の横に、二つ並んだ一里塚がありました。



一里塚を出て、旧日光街道を更に進んで行くと、左手に、
1198年創建の「慈眼寺(じげんじ)」の大きな看板が
見えました。

慈眼寺は、徳川将軍の日光社参の際の御昼休み所でした。

門前には、冒頭の写真の布袋様の石像があり、その横に、
庚申塔、二十三夜塔などが並んでいます。






境内には、江戸時代の建造物として、観音堂や鐘楼が現存して
います。

慈眼寺の住職は、年始には、将軍への拝謁が許されており、
その際は10万石の大名の待遇だったそうです。

なに?、この寺の和尚が10万石の大名?
驚き?!

ということは、ここ慈眼寺は凄く格式の高いお寺だったんだ!


慈眼寺を出てると、すぐ隣は、古くから小金井宿の鎮守だった
という「金井神社」でした。







この金井神社の少し先に、大越の表札が掛かる「大越本陣跡」
の門が残っており(上の写真)、この辺りが、小金井宿の中心
でした。


旧日光街道を更に進んで行くと、小金井北の信号の交差点の
右奥に、上の写真の「蓮行寺」が見えました。
徳川将軍の日光社参の際には、宇都宮城主がこの蓮行寺まで
来て、出迎えることになっていたそうです。

ん?
蓮行寺の本堂の左手前の枯山水の庭には、餌を食べている
たくさんの鶴が?


枯山水の庭のたくさんの鶴は、写真の様に置物でした・・・




蓮行寺を出て、国道4号に戻り、暫く歩いて行くと、左右に
畑が広がり始めました。



更に歩いて行くと、左手に、上の写真の大きな真新しい
ビルが見えて来ました。

新しく開店したスーパーかパチンコ店かな、と思い近づいて
みると、何と、「下野(しもつけ)市役所」でした。

オープンして間もない感じで、大勢の案内係の人達が待機して
いて、訪れる住民を誘導しています。
私は、案内窓口へ行って、この辺りのウォーキング地図を貰い
ました。
真新しいソファに腰掛けて、この辺りの名所や史跡をチェック
します。

下野市役所を出て、歩いて行くと、間もなく右手に、JR自治
医大駅へ100メートルの標識があり、それを過ぎると、右側
に巨木の松並木が続きます。



やがて、下石橋信号の左手角に、上の写真の丸大食品の工場が
あり、その入口に慈母観音像が建っていました。



更に国道4号を進むと、左手に、屋根付きの石造群があり
ました。



国道4号は、石造群の先で、国道352号の立体交差の下を
くぐります。

間もなく左手に、次頁の写真の旧家らしき立派な門構えの
家屋があります。

そのすぐ先の左手は、759年創建の下の写真の愛宕神社です。



この愛宕神社から先は、もう石橋宿で、この先の信号を右折
するとJR石橋駅です。
小金井宿から石橋宿までは、約3キロです。
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日光街道を歩く(13:新田) 栃木県小山市 3km 2016.11.29

2017-01-29 08:05:31 | Weblog

(写真は、青木本陣の門)
「新田(しんでん)宿」は、幕府の直轄領である天領で、
宿場町の人口244人と、日光街道では最も小さい宿場でした。

国道4号と並行していた旧日光街道は、JAの角で、国道4号
に合流します。

このJAの辺りから、国道4号沿いの700メートル余りが、
新田宿です。


国道4号沿いの家々の塀には、写真の様に、江戸時代の屋号が
表示してあります。









その中に、古くて立派な木の門がありますが、これが青木本陣
の門です。更に進むと、「幕府代官陣屋跡」の看板があり、
その先には「新田宿 羽川」の看板もありました。




江戸時代の新田宿は、明治になってから羽川宿と改称され、
現在は小山市羽川です。


少し歩くと、左へ入る道があり、ここが旧日光街道で、ここに
屋根の付いた石仏群がありました。



この石仏群が、新田宿の出口の道標で、ここまでが新田宿
でした。

現在は、この石仏群の先で旧日光街道が消滅しているため、
国道4号に戻ります。

    
新田宿を抜けると、国道4号は、小金井宿へ向けて、ほぼ
真っ直ぐに延びています。


新田宿から小金井宿までは、約3キロです。
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日光街道を歩く(12:小山)      栃木県小山市 5km 2016.11.17

2017-01-28 10:55:45 | Weblog

(写真は、小山市役所の前庭にある「小山評定跡の碑」)



旧日光街道の県道265号を進み、「小山(おやま)宿」に
入ると、左手に次頁の写真の「持宝寺」が見えて来ます。

写真の「梵鐘」は、1793年(寛政6年)に鋳造された梵鐘
で、鐘の銘文中に孝謙天皇の文字が刻まれていたために、
小山市内で、唯一、第2次大戦中の供出を免れたそうです。


徳川吉宗は日光社参の際、この「持宝寺」で休憩しました。

持宝寺を出て、街道を暫く歩くと、左手に「須賀神社」の鳥居
と参道が見えたので、入って行きます。

大きなケヤキの立派で長い参道で、厳かな雰囲気です。

「須賀神社」は、平将門の乱の際、藤原秀郷がこの神社で戦勝
祈願し、将門の首を取れたので、京都・八坂神社から分霊して
祀ったのが始まりだそうです。
 

大きな鳥居の右脇に、前頁の写真の「徳川家康公 小山評定
之碑」の石碑が建っていました。
(小山評定については、このあとの小山市役所で説明します。)
家康も会津討伐の折りに「須賀神社」で戦勝祈願しています。

小山評定の石碑の文を読み終えて、「須賀神社」の境内に
入ります。



下の写真は、境内の「七つ石(夜泣き石)」といわれる石
です。

説明板によると、この石はもともと小山城の庭石だったもの
ですが、小山城が廃城の時にこの石が泣いたので、ここ須賀
神社に移したところ泣き止んだそうです。

 
また、境内にある左上の写真の「昌木晴雄の碑」の昌木晴雄
は、この神社の神職の次男で、水戸の尊王攘夷派が起こした
「天狗党の乱」(1864年)に参加し、捕らえられ斬首され
ました。

そして、右上の写真は、小山市立博物館のパンフレットに
あった「昌木晴雄」の絵です。

天狗党は、筑波山で挙兵、小山を経由して、攘夷祈願のために
日光に参籠しました。

この天狗党が小山を通過する様子が「天狗党行列見聞記」に
書かれています。

(「天狗党行列見聞記」:小山市立博物館のパンフレットから)


(「天狗党行列」:小山市立博物館のパンフレットから)

須賀神社を出ると、隣に次頁の「妙建寺」があります。



境内の手水石と灯籠は、小山宿の遊女らが奉納したものだそうです。



妙建寺の前の評定通りを進むと、左手に小山市役所があります。

江戸時代には、小山市役所の場所には小山城がありました。

そして、市役所の前庭には、写真の「小山評定跡の碑」が建っています。


(注)小山評定とは、

  1600年、上杉景勝に謀反の恐れありとの徳川家康の号令
  で、会津討伐に参集する様、各武将に命が下りました。

  家康軍は、江戸から会津討伐へ向かう途中、 ここ小山で、
  石田三成が家康打倒のため挙兵した事を知ります。

  家康は、急遽、会津への進軍を中止して、ここ小山に、
  家康に従う諸将を集めて軍議を開きますが、この軍議を
  「小山評定」と言います。

  評定の際、諸将は、大阪に置いてきた妻子を、三成に人質
  に取られる恐れがあったので、家康と一緒に三成を討つか
  否か迷います。

  そんな雰囲気の中、先鞭を切って福島正則らが家康のため
  に命を投げ出すことを明言したため、軍議の流れが
  決まり、諸将の家康支持が固まりました。

  結果的に、この小山評定が、関ケ原合戦を前にした徳川
  家康の運命を決める重要な会議となりました。

この小山評定で、家康は、”石田三成につく者は大坂に帰れ”
と、豊臣恩顧の大名28名に決断を迫っています。

つまり、これからの戦いは、”徳川”対”豊臣恩顧の武将”の
戦いではなくて、同じ豊臣恩顧である”徳川”対”石田”
の戦いであることを強調して、小山評定を成功させたのです。



「小山評定跡の碑」がある「小山市役所」の隣は、広々とした「小山御殿」広場です。





説明板によると、
「小山御殿」は、将軍の日光社参の際の休息所・宿泊所として
設けられました。

そのため、小山御殿は、かなり厳重な配置になっており、周囲
には堀が廻り、土塁が二重に築かれ、敷地内に16か所もの
番所があったそうです。


次に、「小山御殿」の道路向いにある「小山城」(城山公園)
へ向かいます。


「小山御殿」の道路向いの「小山城」の入口の横に、写真の
鰻屋「青柳」がありました。

丁度、お昼時になったので、お店に入ってうな重(2,200円)
と日本酒を注文します。

お昼時とあって、店内は、小山市役所のお役人とその出入り
業者らしき人々の幾つかのグループで満席です。

やはり、ランチにしては値段が高すぎるせいか、一人で昼食を
とるサラリーマンは見当たりません。



日光街道を歩いていて気付いたのですが、街道沿いの宿場町毎
に、老舗の鰻屋が散見されました。

日光街道の宿場町が、利根川沿いにあり、川と共に発展して
きたためでしょう。

注文した酒のつまみ(うな重の写真の右下)は、東京では
珍しい川魚でした。

ウナギと日本酒と川魚に満足して、店を出て隣の「小山城」の
入口へ向います。


「小山城」の入口の左手にある「観晃(かんこう)橋」からは、思川(おもいがわ)と遠くの山脈を眺めることができます。


観晃橋の近くには、下の写真の「小山政光 寒川尼」の像が建っていました。

説明板によると、小山氏の祖である小山政光は、源頼朝の家臣
として多くの合戦で活躍しました。

彼の妻・寒川尼は、もともとは源頼朝の乳母でしたが、頼朝の
信頼厚く、寒川郡の地頭に任命されました。


「観晃橋」の脇の「小山城」の入口の急な坂道を上ります。



前頁の写真の慰霊塔の辺りが「本丸」跡です。




上の写真は、「本丸」から「二郭(二の丸)」に渡る
「祇園橋」で、橋の上からは、かなり深い空濠(堀切)
と、その左右の立派な土塁が見えます。

「小山城」は、西に思川(おもいがわ)を控えた丘陵地に
建てられた要害です。

守護神として祇園社(小山市役所の隣りの須賀神社)を祀った
ことから「祇園城」とも呼ばれました。

藤原秀郷を祖とする下野国の最大の武士団である小山氏の
本拠地でした。

戦国時代になると、越後・上杉氏や小田原・北条氏などの
有力な戦国大名の攻撃を受けます。
そして、1575年、小田原北条氏の攻略によって、小山城は
陥落しました。

次頁の写真は、天然記念物のイチョウです。
説明板によると、小山城が落城した際に、井戸に身を投げて
亡くなった姫君の霊が、このイチョウに宿ったために
”実を結ぶことがなくなった”そうです。

そして、現在でも、このイチョウは実を結ぶことがなく、
”実なしイチョウ”と呼ばれています。



上の写真は、「本丸橋」で、「二郭(二の丸)」とその先の郭
(くるわ=曲輪)を結んでいます。

奥に進んで行くと、更に、数々の曲輪(くるわ)が連なっています。





やがて右手の小さな鉄の橋を渡ったところに、祇園城跡の
駐車場があり、ここが出口みたいです。

小山城から、JR小山駅に向かいます。
JR小山駅から、上野東京ラインで、乗換えなしで横浜へ帰り
ました。


翌日の早朝に、JR横浜駅から、上野東京ラインで、前回の
ゴールになったJR小山駅へ向かいます。

1868年、江戸を脱走した幕府軍は、宇都宮の占領を目指して
北上していました。
宇都宮藩・彦根藩・笠間藩等からなる新政府軍は、ここ
小山宿で迎撃態勢をとったため、両軍はここで激しい戦闘
になりました。
この戦闘は、鳥羽伏見の戦い以降では、最初に起きた正規戦
でした。
小山宿内では、激しい銃撃戦と白兵戦が展開されました。
銃撃戦は、ここから27キロも離れた真岡でも「大砲の音、
この辺に聞こゆ。」と記されたくらい凄まじいものでした。

そして、ここ小山の戦いでは、何と、敗走を続けていた
旧幕府軍が、新政府軍に勝利します!
これは、戊辰戦争を通して数少ない旧幕府軍の勝利でした。
下の絵は、そのときの小山の戦いを描いたものです。

(小山市立博物館のパンフレットから)
この戦いで大きな被害を出した新政府軍の彦根藩兵が手前に、
右奥の赤丸印に大鳥圭介率いる旧幕府軍が描かれています。
絵の中央左の赤丸印の幟旗は畑の中に潜む旧幕府軍の伏兵です。


早朝に、JR小山駅で下りて、国道4号を渡り、前回歩いた
旧日光街道に戻ります。

日光街道は、先ず、佐野・栃木へ向かう佐野道と交差します。
この交差点の角に、上の写真の「明治天皇小山行在所跡」
碑があり、その奥に「小山宿脇本陣」跡が見えます。

上の写真は、「小山宿脇本陣」跡を横から見たものですが、
この辺りが、「小山宿」の中心だった場所です。

「小山宿」は、1608年頃から、小山藩主・本多正純によって、
小山城の大改造や城下町の整備が行われました。

宿の大きさは、南北に約1.4キロで、人口1,392人、本陣1、
脇本陣2、軒旅籠74でした。


旧日光街道を更に少し進むと、右手奥に上の写真の「光照寺」があります。

ここ「光照寺」の境内には、小山の戦いで戦死した新政府軍
「笠間藩士・海老原篤教」の墓があります。(上の写真)
旧装備の笠間藩(新政府軍)は、大鳥圭介率いる洋式装備の
幕府軍の猛攻を受け、鎗(やり)隊で多くの死者が出た
そうです。
光照寺を出て、旧日光街道を歩いて行くと、左手に、下の
写真の「興法寺」がありました。

興法寺は徳川家光からから9石の寺領を与えられていました。
境内の左手に、小山の戦いで被弾したというお地蔵様が立っています。

写真では、ちょっと見づらいですが、左上腕部(上の赤丸印)
と袖の一部(下の赤丸印)のところに銃弾の跡があります。
幕府軍と新政府軍の小山宿の激戦では、この興法寺の辺り
でも、銃弾・砲弾が雨の様に降ったそうです!

興法寺を出て旧日光街道を進むと、左手に「天翁院」の看板が
ありました。

その参道を進んで行くと、4号線を超えたところに下の写真の
「天翁院」の門柱が見えました。




1155年に小山政光が創建した天翁院には、小山一族の墓が
あり、幕府からから10石の寺領を与えられていました。

境内には、上の写真の「親子地蔵」がありました。
写真の様に、足元に2人、腕に1人の乳飲み子を抱えた珍しい
お地蔵様です。

境内には、1813年建立の下の写真の「結界石」があります。

「結界石」とは、あの世とこの世を隔てる聖俗分離の
仕切り石のことです。

更に、境内には、上の写真の小山の戦いで戦死した「彦根藩・
新組頭(大砲隊の小隊長)の青木貞兵衛」の碑もあります。


上の写真は、「塩沢村名主日記」です。
これによると、小山宿の隣村の塩沢村では、小山の戦いの
砲声が聞こえて大騒ぎになり、続いて、小山宿から思川を
渡って人々が逃げてきたとあります。
(小山市立博物館のパンフレットから)

天翁院を出て、旧日光街道に戻りますが、この辺りまでが
「小山宿」でした。


小山宿を抜けて、旧日光街道(旧国道4号)をどんどん歩いて
行くと、やがて、旧喜沢村に入ります。

戊辰戦争の小山の戦いで、旧幕府軍に敗れた新政府軍は、ここ
旧喜沢村の民家に火を放って、小山宿を撤退しました。

旧喜沢村を歩いて行くと、間もなく、左手の道路より奥まった
ところに、写真のお堂がチラリと見えました。

金網のフェンス沿いの狭い道を入って行くと、正面に薬師堂
が、その右横に観音堂がありました。


真っ暗な観音堂の中を覗いてみると、下の写真の様に、
ちい~さな観音様が祀ってありました。




その観音堂の右脇に、「右へ奥州海道 左へ日光海道」(赤線
の印)と刻まれた「道標を兼ねた地蔵尊」があります。



お地蔵様の台石には「享保三戊三月吉日(享保3年・
1718年)」と刻まれています。

私の手元の案内本によると、幕府は1716年に「中仙道は
中山道、日光海道は日光道中」と表記する旨のお触書を
出しました。

にも拘わらず、お触書の2年後に建てられたここの「道標を
兼ねた地蔵尊」は「日光海道」としているので、当時の
お触書が徹底を欠いていたことを物語るとしています。
なるほどネ~!

江戸時代の法律(お触書)上は、”中仙道⇒中山道”、
”日光海道⇒日光道中”への統一表記が決められた
のだけど、当時のお触書の内容は、意外と浸透して
いなかったんだ!

地蔵尊を出て、旧日光街道を更に進むと、左手に「村社 日枝
神社」の石柱がありました。



巨大なケヤキが植えられた長い参道を歩いて行くと、国道4号
を超えたところに「日枝神社」がありました。

説明板によると、 社殿裏の土塁は、小山城の支城の役割を
果たしていたそうです。



この土塁の上には、上の写真の「男體山(なんたいさん)」
碑があります。

この「男體(体)山」碑の下部には、写真の様に「右奥州 
左日光」と刻まれていて、道標を兼ねた石碑だったことが
分かります。

説明板によると、下野国・鹿沼出身の力士・歌ヶ浜斧吉が、
二荒山神社(日光)に願掛けをして大願成就したので、
1835年に喜沢追分にこの「男體山」碑を建立しました。
そして、明治45年に、村人が喜沢追分から、ここ日枝神社に
この石碑を移転したそうです。

日枝神社から、旧日光街道に戻り、更に進むと、その
「男體山」碑があったという「喜沢追分」交差点に
出ました。
江戸時代の「喜沢追分」は、「旧日光街道」と「壬生(みぶ)
道」の分岐点で、鹿沼~壬生方面へ進めば日光例幣使街道と
合流します。

現在の「喜沢追分」は、四叉路になっていて、左端(上の赤
矢印)が壬生方面、中央が国道4号、右端の細い道(下の
赤矢印)が旧日光街道と、複雑な交差点になっています。




「喜沢追分」には、写真の様に3本の石碑が建っていますが、
左端の小さいのが「道標を兼ねた供養塔」、中央が「馬頭
観世音」、右端の大きいのが「日清日露出征馬碑」です。

喜沢追分から、右端の細い直線の道を進んで行きますが、道の
左側は雑木林、右側はラブホや新しい住宅です。




暫く歩くと、左手の林の中に写真の立派な「喜沢の一里塚」が
ありました。



一里塚から先は、右側が東北新幹線の高架で、住宅が点在
しますが、やがて、Y字の道を左手に進むと、JAの角で
国道4号に合流します。

このJAの辺りから「新田(しんでん)宿」が始まります。

小山宿から新田宿までは、約5キロです。
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日光街道を歩く(11:間々田) 栃木県小山市 6km 2016.11.17 

2017-01-27 09:15:56 | Weblog

(写真は、「乙女河岸」の千石船のモニュメント)

野木宿から約7キロ歩いて間々田(ままだ)宿に入りました。

国道4号の旧日光街道を進み、間々田駅入口の信号を左折
して、「乙女河岸」へ向かって歩いて行きます。

右手に乙女小学校を見ると直ぐに桜並木の土手に突き当ります。

土手を上ると、正面が「乙女大橋」で、その左手が「乙女
河岸」でした。







「乙女河岸」には休憩所があって、上の写真の石の千石船と、
下の写真の石の柱が展示されていました。

説明板によると、この石の柱は、かって、ここ思川(おもい
がわ)の乙女河岸付近の河道に埋まっていたもので、
昭和54年の河川改修の際に引き揚げられたものだそうです。

「小山評定」(注)で三成討伐に転じた家康は、ここ「乙女
河岸」から船で江戸に戻りました。

(注)「小山評定」とは、
  1600年、上杉景勝に謀反の恐れありとの徳川家康の号令
で、会津討伐に参集する様、各武将に命が下りました。

  家康軍は、江戸から会津討伐へ向かう途中、 ここ間々田
宿の先の小山宿で、石田三成が家康打倒のため挙兵した事
を知ります。

  家康は、急遽、会津への進軍を中止して、小山宿に、家康
に従う諸将を集めて軍議を開きますが、この軍議を「小山
評定」と言います。

  評定の際、諸将は、大阪に置いてきた妻子を、三成に人質
に取られる恐れがあったので、家康と一緒に三成を討つか
否か迷います。

  そんな雰囲気の中、先鞭を切って福島正則らが家康のため
に命を投げ出すことを明言したため、軍議の流れが
決まり、諸将の家康支持が固まりました。

  結果的に、この小山評定が、関ケ原合戦を前にした徳川
家康の運命を決める重要な会議となりました。

なるほどね!、小山評定のあとは、家康は、ここ乙女河岸
から、一気に川を下って、直接、江戸城まで船で戻ることが
出来たんだ。

また、日光東照宮の造営の際は、木材や荷物をここ「乙女
河岸」で荷揚げしました。


間々田駅入口の信号に戻り、国道4号を少し進むと、「小山
市立博物館」の案内板があったので、その矢印に従って博物館
に向かいます。

未だ開館前でしたが、この後、大勢の小学生の一団が見学に
やってきて、ゆっくり見られなくなるので、特別にという
ことで、開館前に入れて頂きました。(200円)
田舎の公務員の人は、機転が利いて優しいです!!

博物館へ入ると、「幕末維新期の点描」の特別展(9/17~
11/23)をやっていました。(館内撮影禁止)

特別展の内容は、この辺りで戦われた戊辰戦争の詳細など、
私の知らない面白い内容が多かったので、下の写真の
この特別展のカタログを買いました。(800円)


次頁の写真は、江戸時代に流行した成田山参詣になぞらえて、
戊辰戦争下の小山宿の状況を描いた風刺画「諸人成田山
参詣之図」です。(特別展のカタログから)

絵の左手が「浪速講中」(新政府軍)で、右手がこれを待ち
構える「江戸講中」(旧幕府軍)です。



(両軍の進路:特別展のカタログから)

新政府軍と旧幕府軍は、ここ間々田宿から次の小山宿の間で
4回も戦いましたが、何と!、4回とも幕府軍の圧勝に
終わっています。

(両軍の戦場:特別展のカタログから)


(乙女河岸の模型:特別展のカタログから)

特別展を見終わったころに、小学生の一団がドヤドヤと入って
きて、先生の説明が始まりました。

慌てて博物館を出ると、隣に「乙女不動 原瓦窯」(おとめ
ふどう はらかわらがま)跡 がありました。
説明板によると、下野(しもつけ)国分寺の再建の際にここで
焼かれた各種瓦が発掘されているそうです。

(窯跡群)


(工房)


(粘土採掘坑)


(平窯:ひらがま)

原瓦窯跡の前の道を少し北へ進むと、次頁の写真の「乙女
不動尊」がありました。


乙女不動尊の門前には、一目でそれと分かる赤いマフラーを
した「乙女の不動像」がありました。



乙女不動尊の境内の中に入ると、次頁の写真の鐘楼門があり、
その先に、不動池に架かる赤い太鼓橋があります。



そして太鼓橋の先に下の写真の不動堂がありました。


不動堂の脇には、よくよく注意しないと見落としそうな高さ
60センチくらいの卵型の自然石に刻まれた芭蕉句碑が
ありました。
 
 ”川上と この川しもや 月の友” 
 (私は川面に揺れる月を眺めているが、この同じ川上では、
私の友もこれと同じ月を眺めているだろう。)

不動堂の左には、上の写真の「泉龍寺」の本堂がありました。



泉龍寺から4号線(旧日光街道)に戻って少し進むと、右手に
下の写真の「逢乃榎」(あいのえのき)の石碑がありました。

この場所は、江戸から18里、日光へ18里と、旧日光街道の
ちょうど中間に位置していた榎だったので「間の榎」(あいの
えのき)と呼ばれました。

やった!、旧日光街道一人歩きも、ついに真ん中まで
来たゾ!

その「間の榎」が、いつしか「逢の榎」に変わり、”縁結びの
榎”となって、多くの男女がお参りしていたそうです。

上の写真の様に、逢乃榎の石碑の後ろには、今も榎が立って
います。

逢乃榎から、国道4号を進んで、間々田の信号を越えると、
左手の駐車場に、間々田宿の「問屋場跡」の案内板が
ありました。
以下、その案内板に書かれていた内容です。
 ・間々田宿は、日光街道の江戸から十一番目の宿場で、
江戸と日光のちょうど中間にあたります。

 ・家数175軒、旅籠50軒、本陣1軒・脇本陣1軒

 ・幕府の定めで、人足25人、馬25頭を常に備え、幕府の
公用に応じたり、一般の輸送も引き受けていました。

 ・日光社参・参勤交代などの場合は、助郷(すけごう)と
称して、近隣の村から人馬を臨時に集めました。

 ・それらの人馬継立業務の一切を行うのが宿役人で、「問屋
(とんや)」と呼ばれ、その詰所にあたる場所がここ
「問屋場(とんやば)」でした。

そして、問屋場跡の少し先の駐車場には、間々田宿の
「本陣跡」の案内板がありました。


間々田宿は、土手向町、上町、中町、下町の4つの町で
構成されていました。
東照宮のある日光方面を上としたため、日光側が上町、江戸側
が下町と町名が付けられました。
他の日光街道の宿場町でも、上町と下町については、同じ
ルールで町名が付けられたそうです。

また、芭蕉の奥の細道の2泊目は間々田宿でした。


更に、4号線(旧日光街道)を進むと、右手に行泉寺、左手に
浄光寺がありますが、この辺りまでが間々田宿です。


間々田(ままだ)宿を抜けて、次の小山宿へ向けて、国道4号
(旧日光街道)を進みます。


やがて、左手に大きな鳥居があり、その参道をどんどん歩いて
行くと、写真の「間々田(ままだ)八幡宮」がありました。





境内に入ると、右手に弁天池があり、池の赤い橋を渡った
ところに「芭蕉句碑」がありました。

 ”古池や 蛙飛び込む 水の音”

ん?、これは江戸深川の芭蕉庵で詠まれた句なのに、何故
ここにこの句碑が?

説明板によると、嘉永6年(1853年)、地元の田口久七が
旅先で病気になりましたが、この神社の霊験によって
治癒したので、そのお礼にこの句碑を建てたとあります。

な~んだ、御礼に何か句碑を建てたかっただけで、有名な句
なら何でも良かったんだ!

東海道、中山道、日光街道と、どの街道にも、江戸時代に
建てられた芭蕉句碑がたくさんありました。

江戸時代に建てられた芭蕉句碑は、全てがそこで読まれた句
という訳ではなくて、中には、この神社の様に、芭蕉ファンの
金持ちが御利益の御礼に建てたのもあるんですねえ。



弁天池の向いには、奉納相撲のためでしょうか、立派な土俵が
ありました。

正面の石段を上ると「間々田八幡宮」の拝殿です。



拝殿の隣の森には、上の写真の根元部分がつながる夫婦杉が
ありました。



上の写真の狛犬は、1813年の奉納で、台には願主として
半田音五郎と刻まれています。




境内には3つの池があり、その周辺は「間々田
八幡公園」として開放されていますが、その
広さに驚きます!





平将門を討伐した藤原秀郷が、その戦勝記念として、「間々田
八幡宮」に社領を寄進したので、八幡宮の敷地がこの様に
広いのだそうです。

この広い敷地は、現在、市民の憩いの場になっているそうです。


池の水鳥の写真を撮っていると、東北?訛りの強烈な
おじいさんに話しかけられました。

訛りが強すぎてよく聞き取れないのですが、要約すると、
”この神社の神主に頼まれて、この池に飛来するカワセミの
写真を撮ったのが神社の境内に展示されていた。”
という趣旨の様でした。
しかし、栃木県は、こんなに訛りがひどい土地でしたっけ?

私は見たことがありませんが、5月5日の「間々田八幡宮の
蛇祭り」は、全国的に有名らしいです。
長さ15メートルを越える竜頭蛇体の巨大な蛇を担いで町中を
練り歩くそうです。
各町内の蛇が勢揃いする間々田八幡宮の境内は、大勢の人で
身動き出来ないくらいの賑わいだそうです。

間々田八幡宮を出て国道4号に戻り、次の小山宿を目指して、
旧日光街道(国道4号)を更に進んで行きます。


道路脇に「村社 浅間神社」の石碑があったので、左折して
入って行きます。

突き当りが小高い丘になっていて、 上り口に、鳥居と
「史跡 千駄塚古墳」の石柱と説明板が立っていました。

その説明板によると、この小高い丘が「千駄塚古墳」で、
その頂上に「浅間神社」があるそうです。

上って行くと、確かに、てっぺんに浅間神社がありました。

浅間神社にお参りして、古墳を下り、周囲を歩いてみると、
明治34年に出土したという2つの「家形石棺」(県指定
考古資料)がありました。


この千駄塚古墳には、以下の民話が残っているそうです。

  昔、ここに”牧の長者”という金持ちがいて、「毎朝時を
告げる鶏」の掛け軸を自慢にしていました。

  この長者は、或る日、立ち寄った奥州商人と、翌朝に鶏が
鳴くか否か、賭けをしました。

  翌朝、掛け軸の鶏は、見事に鳴いて時を告げたので、
賭けに負けた奥州商人は、”千頭分の荷(千駄)”
を置いて立ち去りました。

  翌年、再びやって来た奥州商人は、また賭けをしました
が、今度は、掛け軸の鶏は鳴きませんでした。
  奥州商人は、昨年取られた荷を取り戻し、運んでいた荷を
預けて去って行きました。

  その後、いつになっても預けた荷を取りに来ないので、
不審に思った長者が荷を開けてみると、中は木くず等の
ガラクタばかりでした。

  長者が、掛け軸を調べてみると、絵の鶏のノドに針が
刺さっていました。

  長者は、”千頭分のガラクタの荷”(千駄)を積み上げ
て、ここに「千駄」の塚を築き「千駄塚」としました。

浅間神社を出て、更に、国道4号を進むと、やがて、左手に
「若盛(わかさかり)」の看板が見えました。


覗いてみると、歴史を感じさせる酒造会社の立派な建物
でした。

敷地内の建造物は、江戸末期の建設で国登録有形文化財です。

「若盛」を出て、更に進んで、粟宮(あわみや)交差点まで
来ると、「安房(あわ)神社」の参道入口の看板があった
ので、そこを左折して、薄暗い杉並木の参道を歩いて行き
ます。


939年、藤原秀郷が、平将門討伐の戦勝を祈願して、ここ
安房神社に社領を寄進したそうです。


「安房神社」の前には、水神を祀る池がありました。

案内板によると、安房国(”あわ”のくに:千葉県)の住人が
ここに移住して、”粟(あわ)”を栽培したとあります。


ん?、ダジャレ?


境内には、文政11年(1828年)に奉献されたという狛犬や
灯籠が残っています。

「安房神社」を出て、もとの国道4号(旧日光街道)の粟宮
交差点に戻ります。

逆Y字型の粟宮交差点は、 左手はそのまま国道4号で、
右手は県道265号ですが、旧日光街道はここで国道4号
から別れて、この県道265号の単調な直線の道を、
ひたすら歩いて行きます。




やがて、神鳥谷(ひととのや)という珍しい地名の信号で、
国道50号の高架をくぐります。


県道265号(旧日光街道)を更に進むと、第二中学入口の
バス停がありますが、この辺りから「小山(おやま)宿」
みたいです。


間々田宿から小山宿までは、約6キロです。
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日光街道を歩く(10:野木) 栃木県下都賀郡  7km 2016.11.8

2017-01-26 14:04:40 | Weblog

(写真は、野木神社の乳房の形をした奉納物)

古河宿を出て、旧日光街道を更に進んで行くと、左手に「野木
神社」の鳥居があったので、その参道をどんどん歩いて行きます。
  

かなり長い参道で、その先に、二の鳥居と三の鳥居がありました。




「野木神社」の社殿の説明板によると、この「野木神社」は、以下の①~④の様に由緒ある神社です。

①802年に、坂上田村麻呂が、蝦夷の反乱の際に、ここで
戦勝を祈願、無事平定し、そのお礼に社殿を新築しました。

②鎌倉時代には、源頼朝が社領を寄進しました。

③江戸時代の1819年、古河城主・土井利厚(としあつ)が、
現在の社殿を再建しました。

④また、明治35年には、乃木大将が姓が自分と同じという
ことで、愛用の軍刀を奉納しました。



上の写真は、坂上田村麻呂が植えたという境内の大イチョウ
(樹齢1,200年)で、祈ると母乳が出る様になると信じられて
いたそうです。

その横には、下の写真の様に、乳房の形をした物がたくさん
奉納されています。

説明板によると、母親の乳が出て、乳児が健康に育つように
と、米ぬかと白布で作った乳房を奉納して祈願するのだ
そうです。



また、境内には、前頁の写真の芭蕉句碑がありました。

”一疋(一匹)の はね馬もなし 河千鳥” 

(「千鳥足」と言うが、河原の石の上を滑らかに歩いてゆく
たくさんの千鳥を見ていると、この中には歩調を乱す
跳ね馬など一匹もいないではないか。)

野木神社を出て、再び国道4号に戻ります。


街道沿いのブロック塀の脇に、見落としそうな小さな「野木宿
入口」の看板(写真の赤丸印)が立っていました。


この小さな看板から先には、写真の様な屋号の表示のある家々
が点在します。







少し歩くと、写真の「野木宿」についての説明板がありました。
それによると、野木村は小さな村だったので、宿場町としての
負担に耐え切れず、「助郷」の制度の適用を受けて、近隣の
23か村から人馬の応援を得ていたそうです。


その説明板の道路の反対側に、上の写真の広くて立派な家が
ありましたが、表札を見ると「熊倉」とあるので、多分
「熊倉脇本陣」の子孫の方のお住まいなのでしょう。


更に進むと、「一里塚跡」(江戸から十七里)の看板が立っていました。


そして、一里塚跡の先には、上の写真のほとんど読めない古い
道標があり、説明板によると、日光への迂回路(裏街道)
である太平山道への分岐点であり、「是より太平山道」と
彫られているそうです。


古い道標のすぐ先の左手に、上の写真の「観音堂」があり、
その脇には、「馬頭観音」と「十九夜」塔とが並んでいました。
 
「十九夜」とは、十五夜、十九夜などの夜に、「講中」と
称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経を唱えて月を
拝み、悪霊を追い払う、という当時の民間宗教だそうです。



観音堂から先は、脇を走る多くのダンプの風圧に耐えながら、
国道4号を延々と歩いて行きます。





やがて、東北本線・JR野木駅入口の標識を通過します。

更に進んで行くと、信号の左の角に「法音寺」が見えます。



説明板によると、1780年に、秋元性李叟が建てたとあります。

「法音寺」の総門をくぐり次にある山門の前には、芭蕉の句碑
が立っています。


 ”道ばたの むくげ(木槿)は馬に 喰われけり”芭蕉翁 

(道端に木槿の花がひとつもないが、きっと馬子が引く馬に
食われてしまったのだろう。)

法音寺の斜め道路向いに「友沼八幡神社」の鳥居があります。

「友沼八幡神社」は、歴代の将軍の日光参詣の際の「御休所」
でした。

江戸を出発した歴代将軍は、2泊目の古河城を朝出発して、
最初に小休止したのが、ここ「友沼八幡神社」の境内でした。

上の写真は、友沼八幡神社の境内にある樹齢550年の
大ケヤキです。

友沼八幡神社を出て少し歩くと、小山市の間々田に入ります。

やがて左手に「大日如来坐像」で有名な「若宮八幡宮」があります。


案内板によると、1709年に、江戸・湯島の渡部九兵衛が、
父母の供養のため、生国であるこの地に、この「大日如来
坐像」を安置しました。



江戸時代には、現在の様な屋根が無く雨ざらしで「濡れ仏様」
と呼ばれていましたが、仏像の姿が美しいので、当時の人々の
厚い信仰を集めていたそうです。

大日如来坐像の台座には、「施主 武州江戸湯島 渡部九兵衛
法名 峯月道明居士」)と刻まれています。

野木宿から次の間々田宿までは、約7キロです。
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日光街道を歩く(09:古河) 茨城県古河市 3km 2016.11.8

2017-01-25 16:54:56 | Weblog
 
(写真は「鷹見泉石 記念館」)

旧日光街道沿いの「古河(こが)宿」と書かれた常夜灯の辺り
から、古河宿に入って行きます。

常夜灯の脇の「松並木のある風景 日光街道」と書かれた
説明板によると、
「江戸時代、ここには、約5キロにわたって松並木が整然と
続いていました。」とあります。
綺麗に整備された気持ちの良い歩道が続きます。

宿場町の案内文が書かれた立派な「常夜灯」が一定間隔で設置
されていて、古河市の古河宿への熱い思い入れが伝わって来ます。

解り易い案内文が続き、街道歩きの私もワクワクしてきます。



更に街道沿いに進むと、左手に、上の写真の「茶屋口」碑が
ありました。

将軍の日光社参の宿泊のための古河城入場の際は、ここ
「茶屋口」に休息所を設けて将軍を迎え、将軍はここから
御成門へ向かいました。

私も、ここで左折して、将軍が古河城へ向かったのと同じ
「鍵の手」の道を古河城跡へ向かいます。

鍵の手の道の両側には、次頁の写真のような雰囲気のある
建物が並んでいます。







更に進むと、城跡の敷地に建てられた上の写真の古河第一
小学校がありますが、まるで私立のミッションスクールの
様な雰囲気で、とても市立の小学校とは思えません!

小学校の先の古河城跡に建てられたという「古河歴史博物館」
(400円)に入ります。(館内撮影禁止)







博物館の入口に、上の写真の「史跡 古河城 出城 諏訪郭」」
の石碑がありました。

江戸時代には、この石碑の辺りに、「古河城の出城」が建て
られ、「古河歴史博物館」はこの出城の跡に建てられました。
館内のビデオ映像で、古河城の歴史について学びます。

「古河城」は、1663年に、初代大老の土井利勝が城主になり
ますが、その後次々と譜代大名が城主になり、1762年に
土井家が再び城主となって明治に及びました。
館内は、CGによる古河城の全容復元や、古河城と城下町の
復元模型などの充実した展示物で、なかなか見応えがあり
お薦めです。

これによると、古河城は、西は渡良瀬川、東は百軒堀に
囲まれた細長い敷地の中にあり、本丸の三階櫓が天守閣
の役割を果たしていたそうです。

「古河城」は、日光に詣でる将軍の宿泊所として利用され
ましたが、明治以降、渡良瀬川の河川改修によって大半が
取り壊され、堤防や河川敷になってしまい失われました。

展示物の中には、江戸から日光までの各宿間の距離が一目で
分かる様に工夫された「日光駅路数之表」や、鷹見泉石
(たかみせんせき)が書いた世界地図「新製興地全図」
なども展示されており充実しています。

館内の展示資料によると、滝沢馬琴「南総里見八犬伝」の
八犬士の犬塚信乃と犬飼現八が、ここ古河城の芳流閣(架空
の建物)の屋根の上で、一騎打ちをします。
そして二人は、屋根の上から渡良瀬川に飛び込み、利根川
を下って、行徳(千葉県)の入江まで流れ着いたそうです!

(歌舞伎「芳流閣屋根上」の場の錦絵:館山城のパンフレットから)


(歌川豊国の錦絵「行徳の入江」:館山城のパンフレットから)

博物館の前庭は、古河城のお堀の発掘調査をしたあとに、お堀
をかさ上げして写真の様な素敵な「親水公園」になっています。




博物館の道路向いには、古河藩・家老「鷹見泉石(たかみ
せんせき)」が晩年を送った武家屋敷を復元した
「鷹見泉石 記念館」(無料)がありました。











家老の鷹見泉石は、藩主・土井利位(としつら)が大阪城代
だったときに、大塩平八郎の乱の鎮圧を直接指揮しました。

泉石は、司馬江漢、渡辺崋山らとも交友があり、下の写真は、
崋山が描いた鷹見泉石の肖像画です。

泉石は、蘭学者で、天文、地理、軍事など広範囲にわたる研究
成果を残しています。
また、泉石は、広い視野をもって、早くから開国論を唱えて
いましたが、そのためにのちに幕府から咎められ、免職と
なって古河に隠居させられました。

鷹見泉石記念館の前の道を進むと、左手に次頁の写真の
1493年創建の「長谷寺」があります。

「長谷寺」は、古河城の鬼門除けとして、1493年に、鎌倉の
長谷寺から勧請したもので、奈良の長谷寺、鎌倉の長谷寺と
共に「日本三長谷の観音」と称されるそうです。



長谷寺の前の道を、博物館入口の信号まで進み、左折して少し
進むと、左手奥に、上の写真の「古河城の大手門」跡の石碑が
ありました。
大手門跡の石碑から、博物館入口の信号まで戻り、更に直進
してJR古河駅に向かいます。
JR古河駅から、上野東京ラインで、乗換えなしで横浜へ
帰りました。


翌朝、昨夕のゴールになったJR古河駅をスタートします。

JR古河駅の前には、写真の「万葉古河の歌碑」が建って
いました。

「古河」は、万葉の時代は「許我(こが)」と表記されて
いたそうです。

歌碑には、「古河(許我)」の地名を含む歌が刻まれて
います。
 ”逢わずして 行かば惜しけむ まくらがの 
許我(こが)漕ぐ船に 君も逢わぬかも”
  (会わないまま出かけるのは心残りです。古河を漕ぐ舟の
中でも会えないものでしょうか。)

古河駅の前の道を直進すると、昨日歩いた旧日光街道と交差
します。




その街道沿いの古河宿の各名所案内が書かれた常夜灯の中に
前頁の写真の「公方(くぼう)の城 古河城」の説明があり
ました。
それによると、古河は古くから拓け、利根川の河川交通の要所
として発展してきました。
鎌倉を追われた室町幕府将軍・足利尊氏の子孫が、「古河公方
(くぼう)」として、5代120年にわたり、古河を居城
(御座所)としていました。
そして、江戸時代に入ると、徳川譜代大名の城下町として、
大老の土井氏、堀田氏を筆頭に、閣老級の大名が次々と
城主となり、将軍の日光社参の際の御泊城となりました。

古河駅から来た道と旧日光街道との交差点の近くに、上の
写真の「高札場跡」の石碑があります。
そして、高札場跡の道路向い側に次頁の写真の「本陣跡」の
碑もあります。
その高札場跡と本陣跡の間の道を、古河駅とは反対の方向へ
向かって歩いて行きます。

すると、博物館入口の信号の右手に、「正定寺」(しょう
じょうじ)の通用門である「赤門」がありました。



「正定寺」は、家康・秀忠・家光に仕えた古河城主の土井利勝
が、1633年に創建した土井家の菩提寺で、境内には土井一族
の墓があります。

城主の土井利勝は、秀忠のときに老中に、家光のときに大老に
と、とんとん拍子の大出世をしました。




上の写真は、正定寺の正門である「黒門」で、案内板による
と、東京・本郷にあった土井家・下屋敷の表門を、昭和8年
に、ここに移築したのだそうです。

境内に入ると、本堂の前には、次頁の写真の「土井利勝公の
銅像」があり、本堂の裏手には、「古河城主 土井家墓所」
の案内板がありました。





案内板に従って、奥に進むと、写真の様に、土井家一族の墓が
ありました。

また境内には、下の写真の「お楽の方の供養塔」がありました。

説明板によると、「お楽の方」は、ここ古河の出身で、春日局
の目にとまって大奥に入り、4代将軍・徳川家綱を生みました。

前頁の写真の供養塔の左脇のお地蔵様は、江戸城内にあった
子育て祈願のお地蔵様を貰い受けたものだそうです。

正定寺を出て、旧日光街道に戻り、更に進むと、以下の写真の
様な雰囲気のある民家が点在します。










やがて、1861年に建てられたという下の写真の常夜燈を
備えた立派な「常夜燈の道しるべ」がありました。




道標には、「右 江戸衛(へ)」、「左 日光道」と彫られて
います。


その道標のある交差点に、写真の「左 日光道」の小さな道標
があったので、これに従い左折します。



小さな道標から、街道は鉤の手になっており、直ぐに右折する
と、「よこまち柳通り」になります。





この通りを進むと、直ぐに県道261号に合流しますが、
合流地点に古河宿の常夜灯があり、古河宿がここで終わる
ことを示しています。
間もなく、県道261号は、茨城県から栃木県に入って行きます。




古河宿から次の野木宿までは、約3キロです。/
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日光街道を歩く(08:中田) 茨城県古河市 6km 2016.10.16

2017-01-24 16:44:30 | Weblog
 
(写真は「中田の松原」)


利根川に架かる利根川大橋を渡って、堤防を下り切った角に、
「房川渡し(ぼうせんわたし)と中田関所跡」の説明板が
ありました。
しかし、文字の色があせてしまって読めません・・・

仕方なく、私の手元の案内書を見てみると、中田宿は、大正・
昭和期に、利根川の大河川改修が行れた際に、宿場町の位置
が、利根川橋の河川敷の辺りになってしまいました。
従って、江戸時代の中田宿は、現在の河原と土手の下に埋没
してしまっており、現在の旧日光街道沿いには、江戸時代の
宿場の痕跡は何も残っていません。


暫く歩くと、左手に写真の「鶴峯八幡神社」がありました。

その神社の隣りに、静御前ゆかりの「光了寺」があります。

門前に「祖師聖人 並 靜女舊」跡の石碑が建っていました。

境内の案内板によると、静御前は、源義経のあとを追って、
奥州平泉へ向かう途中で義経の死を知り、光了寺(高柳寺)
に入って菩提を弔います。

しかし、22才の若さで、ここ光了寺亡くなりました。
そのため、この寺には、静御前の遺品が現在も保存されているそうです。
その遺品の一つが、「蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣(ぶえ)」
で、 後鳥羽院に与えられて、静御前がその御衣で舞ったそう
です。
ただし、残念ながら、その舞衣は一般公開されておらず、
しかも800年も前の衣装なので、現在、どの様な状況で
保存されているのかは不明です。

また境内には、写真の芭蕉句碑が建っています。

 ”いかめしき 音やあられの ひのき笠”

 (ぱらぱらと大きな音をたてて檜木笠を打つ、この霰の音の
なんといかめしいことよ。)

光了寺を出て、古河市立第四小学校を右手に見ながら、更に
進んで、東北本線の踏切を渡ります。




やがて、旧日光街道の両側に松並木が始まり、案内板が立って
いました。

それによると、この松並木は、江戸時代には「中田の松原」
と呼ばれ、次の古河宿の入口まで約4キロも続いていた
そうです。

また、徳川秀忠が日光社参の際に、ここに御茶屋を設けた
ので、この辺りを「茶屋新田」といい、中田宿の高札場も
この辺りにあったそうです。



その茶屋新田を抜けると、やがて右からの道と合流する
ところに、第二高等学校の長い石垣が見えます。


その高校の運動場の白い柵の中に、ちょっと見辛いですが、
前頁の写真の「古河の一里塚」跡がありました。

第二高等学校の先を少し歩くと、旧日光街道は突き当り
右折します。




その右折する右側の角に「古河宿」と書かれた常夜灯がありました。

ここが古河宿の入口です。

中田宿から古河宿までは、約6キロです。

ps.
中田宿の痕跡は、文字の色があせてしまって読めない
「房川渡しと中田関所跡」の説明板だけしかなかったので、
今回は、宿場町についてのブログのネタがありません・・・

そう言う訳で、ブログのスペースが余ってしまったので、余談
ですが、この日光街道歩きの案内書について書いてみます。



私が使用しているのは、「日光街道を歩く」(大髙利一郎
:創英社/三省堂書店:1,800円)です。

名所旧跡の解説は、分かり易く、ボリュームも適量です。

ただ、出版された時から時間が経っているため、多少、記載
内容が変化していますが、これは仕方のないところでしょう。

また、地図が大まか過ぎて、地図上の距離感が実感と合わない
ので苦労していますが、そうは言っても、これが原因で道に
迷うところまではいきません。

全体としては、よくまとまっているので、必携のガイドブック
だと思っています。

   
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日光街道を歩く(07:栗橋) 埼玉県久喜市  2km 2016.10.16

2017-01-24 10:36:15 | Weblog

(写真は、「静御前の墓」の説明板に描かれた「静御前」の絵)

栗橋宿は、度重なる水害や利根川の改修工事により、
何度も宿場町の移転を余儀なくされたため、残念ながら
宿場町の雰囲気は何も残っていません。

取り敢えず、栗橋宿に残る唯一の遺構「静御前の墓」へ向かう
ため、街道を左折して、JR・東武の栗橋駅を目指します。
栗橋駅までは、かなり距離があったので、途中で、道を
間違えたのではないかと不安になりました。

ようやく栗橋駅が見えて来て、駅の左手に上の写真の小公園が
ありました。


その小公園に、「静女之墳(しずじょのはか)」と刻まれた
下の写真の静御前の墓碑が建っています。



その墓塔の左脇に、「義経招魂碑」、「静女所生御曹子
供養塔」と刻まれた大小2つの石塔がありました。
「静女所生御曹子供養塔」とは、誰の供養塔なのでしょうか?

案内板によると、京の白拍子(舞女)だった静御前は、源義経
の寵愛を受けて、義経の妾(しょう)になります。

義経が頼朝によって京を追われた時、静御前は捕らえられて
鎌倉へ送られました。

静御前は、頼朝の前で舞を舞う様に命ぜられますが、義経を
恋い慕った歌を唄い舞います。

 ”静やしづ しづのおだまき くり返し 昔をいまに 
なすよしもがな”

 (「おだまき」は、布を織る糸を巻く器具ですが、
「おだまき」の様に、昔を今に戻すことができたら
いいのに、と義経への慕情を詠んだもの。)

これに激怒した頼朝が、刀に手をかけますが、奥方の北条政子
が、静の心情を哀れんでとりなしたそうです。


静御前は、頼朝に捕われた時義経の子を身ごもっていました。

頼朝は「産まれた子が女なら助けるが、男児なら殺す」と
決めていたそうです。

誕生したのは男の子だったので、その子は、頼朝の命により、
鎌倉の由比ガ浜に流されて殺されました。

そうか!、静御前の左にあった前頁の写真の「静女所生
御曹子 供養塔」の石碑は、その男の子の供養塔なんだ!

その後、義経追討令が出て、義経が奥州平泉へ落ち延びると、
静御前も後を追って平泉へ向います。

しかし途中で、義経の死を知り、ここ栗橋の高柳寺に入って
義経の菩提を弔い、高柳寺で22歳の生涯を閉じたそうです。

その後、江戸時代になってから、関東郡代・中川飛騨守忠英
が、静御前を哀れんで、1803年、この「静女之墳」を建て
ました。


また、境内にある上の写真の「舞う蝶の 果てや夢みる 
塚の蔭」とある歌碑は、江戸の歌人・坐泉が、墓の前で
詠ったのを、村人が1806年に歌碑にして建てたそうです。

なお、静御前が亡くなった高柳寺は、その後衰え、後に、次の
中田宿に「光了寺」として再興されたそうです。

静御前の墓を出て、旧日光街道まで、来た道を戻ります。

旧日光街道は、これといった栗橋宿の遺構もなく、やがて
利根川の土手に突き当たります。



その左手に上の写真の八坂神社がありますが、その手前を右折
して草道を土手へ向かうと、下の写真の「栗橋関所跡」の碑と
説明板が建っています。




その説明板によると、この土手の下から、利根川を渡って対岸
の中田宿へ向かう「乗船場」が関所になっていたそうです。

そして、将軍の日光参詣のときには、70艘の船を並べて、
その上に板を渡した「船橋」を3ヶ月かけて造りましたが、
日光参詣が終わるとすぐに取り壊されたそうです。

勿体ない!、続けて使用すれば、一般庶民は大助かりだった
でしょうにね・・・


そして、この栗橋関所跡辺り一帯は、現在、発掘調査の
真っ最中で、いたるところで地面が掘られています。

説明板によると、この発掘調査の対象は、「栗橋関所・番士
屋敷」跡で、1624年から明治2年までの240年間、栗橋関所
に勤務していた番士4人の住居跡だそうです。

この地域は利根川に面しており、何度も洪水の被害を受けた
ので、番士屋敷も、洪水のたびに盛土を高くして建て直した
跡があるそうです。
江戸時代には、利根川を「房川渡し」(ぼうせんわたし)の
舟で渡って、栗橋宿から次の中田宿に入りました。


現在は、利根川に架かる写真の「利根川大橋」の歩道を快適に
歩いて渡ります。

それにしても、長~い橋です!



橋の中央が、埼玉県と茨城県の県境です。
ん?、日光は内陸の栃木県にあるから、埼玉県の次は、海沿い
の茨城県ではなくて栃木県では?

慌てて、手元の地図を見てみると、確かに、大きな地図では、
日光街道は埼玉県から栃木県に入ります。

しかし、細かな地図では、日光街道は、埼玉県から茨城県の
西南の端をかすってから、栃木県に入っています。
なるほど、そういうことか!

ともかく、単調で長かった埼玉県をようやく抜けたゾ!
やった~!



橋を渡り終わると、旧日光街道は直ぐに左折して、堤防を
下りながら右側にカーブして行きます。





栗橋宿から中田宿までは、約2キロしかありません。
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日光街道を歩く(06:幸手) 埼玉県幸手市 8km    2016.10.11

2017-01-23 07:02:20 | Weblog
 
(写真は、無縁仏の供養塔を積み上げてある正福寺の境内)
  
「幸手(さって)宿」は、「日光街道」と「日光御成り道」の合流点の宿場町として栄えました。

また、権現堂川を利用した江戸との間の船便の交通の要所
だったので、河岸には廻船問屋が軒を連ねていました。


「日光御成り道」と合流した旧日光街道は、倉松川に架かる
志手橋を渡り、幸手宿に入ります。

志手橋を渡ると、すぐ右手に写真の「神明(しんめい)神社」があります。



鳥居の脇に「螺(たにし)不動」と彫られた石碑があり
ました。
境内の狛犬は?えっ!、田螺(たにし)を抱えている?
と早とちりしてしまいました!

帰宅してから、インターネットで調べてみると、狛犬が抱えて
いるのは田螺ではなくて牡丹の花でした・・・
そりゃそうですよね、田螺はこんなに大きくないですものね。

境内の左側にあるのが、「たにし不動」と呼ばれる「菅谷
(すがたに)不動尊」です。
説明板によると、「たにし」を描いた絵馬を奉納して祈願
すれば、眼の病にご利益があると言われたそうで、江戸時代
には、多くの参詣人を集めたそうです。

う~ん、「たにし」の絵馬ねえ?、聞いたことがないなあ~。
また、同じ説明板によると、ここに高札場があり、ここから
先が幸手宿だったそうです。

神明神社を出て進むと、左手に、上の写真の様に「明治天皇
幸手行在所」石碑があり、その奥に屋根で覆われた説明板が
あり、そこに明治天皇の行幸の様子が書かれていました。


その明治天皇行在所の前に、上の写真の真新しい雰囲気のある
大きな民家がありました。

その大きな民家の横に、上の写真の国有形文化財の標柱が
ありました。
その説明板によれば、この大きな民家は、国有形文化財の
「岸本家住宅母屋」で、醤油醸造業の「上埜屋」(うえのや)
だったそうです。
この民家は、現在、改装されてカフェになっているみたい
なので、入って一休みします。

店の奥の重厚な黒い扉の付いた和室は、貸し切りの部屋に
なっているみたいです。

店のおにいさんの話しだと、この黒い扉の奥の和室は、大正
時代に醤油蔵だったものを、そのままカフェの客室として
使用しているそうです。

店のおねえさんに、この先の「たにし不動」について質問して
みますが、ここのおねえさんは「たにし不動」の存在自体を
知りませんでした。
う~ん・・・、たにしの絵馬も置いてなかったし、地元の人も
知らないということは、「たにし」信仰は廃れてしまった
のかなぁ~?・・・


わらび餅、ぜんざい、ホット抹茶ラテで、身体か暖まった
ところで、このカフェを出て、幸手宿のメインストリート
を進んで行きます。

次頁の写真は、新しく建替えられていますが、江戸時代から
続いている老舗旅館の「あさよろず(朝萬)」です。


メインストリートの「幸手駅入り口」の交叉点の辺りから、
旧日光街道の両側には、歴史を感じる民家が予想以上に
多く点在します!

以下、点在する雰囲気のある民家の数々です。













更に進むと、右手に、上の写真の小さな公園があり、園内に
問屋場跡の説明板がありました。

説明板の奥の幸手福祉会館にトイレがありました。
最近、だいぶ寒くなって来たので、街道沿いの公衆トイレは
有難いです。


上の写真は、幸手宿の中心となる本陣家だった知久家跡です。

更に進んで行くと、正面の左端に大きな石灯籠が見え、
旧日光街道は右に大きくカーブします。

そのカーブの右角に、上の写真の「一里塚跡」の説明板が
ありました。


そして、その一里塚跡の道路向こうが上の写真の「正福寺」(しょうふくじ)です。



境内には、大きな日光街道の道標があり、この道標を
3方向から撮った3枚の写真の、前頁左上から順に、
「(道標の左側面に)日光道中」、「(右側面に)
ごんげんどうがし(権現堂河岸)」、そして下の写真の
「(中央面に)馬頭観世音供養 寛成12年」と刻まれて
います。




また、日光街道の道標の奥には、前頁の写真の「義賑窮餓
(ぎしんきゅうが)の碑」があります。

その説明板によると、1783年の浅間山の大噴火の際、関東
一円には灰が降り、冷害も重なって大飢饉なりました。
この時、幸手町の有志が金品を出し合って、難民の救援に当りました。

この善行を知った関東郡代の伊那忠尊が、この顕彰碑を建て
させたのだそうです。

また境内には、下の写真の様に、無縁仏となった供養塔が積み上げてありました。


正福寺(しょうふくじ)を出ると、その左横が、隣り同士で
ややこしいですが、次頁の同じ読み方の「聖福寺」(しょう
ふくじ)です。



その「聖福寺」の参道に入ってみると、直ぐの右手に、次頁の
写真の真新しい「芭蕉句碑」がありました。

 ”幸手を行ば 栗橋の関” (芭蕉)     

 ”松杉を はさみ揃(そろ)ゆる 寺の門” (曽良)

芭蕉の句に上の句が無いのは謎らしいですが、下の曽良の句
との連歌になっているという説もあるそうです。

また、曽良の句の中の”門”は、この聖福寺の勅使門を指す
そうです。




参道を進むと写真の立派な「勅使門」がありました。
  
説明板によると、徳川家光が日光社参の際に休憩所として使用
した他、例弊使や歴代の将軍が18回にわたりここで休憩した
そうです。

勅使門には、写真の様に、菊のご紋の入った扉が付いています。


聖福寺を出て、Y字路の信号を左折、更に進んで行くと、
やがて国道4号に合流します。




国道4号を少し歩くと、右手前方に、桜名所で有名な権現堂
桜堤が見えて来ました。


花見で有名な幸手(さって)の「権現堂堤」は、埼玉県随一の
桜の名所です。
春には、菜の花と桜が同時に咲き乱れ、県外からも大勢の
見物客が訪れ大賑わいする超有名なスポットです。
その権現堂堤を歩いてみます。



今は花も葉も散ってしまっていますが、桜の花の季節はきっと
見事なんでしょうね。
少し歩くと、写真のお休み処があったので、飲み物を飲んで
一休みします。

お休み処の前に、菜の花と桜が一面に咲き乱れる春の権現堂堤
の写真が貼ってあります。

空の青に菜の花の黄色と桜のピンクが映えて絶景です!

春の桜の時期に、再び訪れてみたいです。
桜堤の下に、写真の「巡礼の碑」がありました。

その説明板によると、昔、この一帯は、何度も水害に
見舞われ、農民は塗炭の苦しみを味わっていました。

そこで、この水害を無くすために、権現堂堤の土木工事が
行われましたが、困難の連続で失敗続きでした。
そこへ、通りかかった巡礼の母子が、人柱になることを
申し出、止める暇もなく身を投じました!
えぇ~!、ホント?
通りかかっただけで身を投じたの?

この人身御供により、川の水は穏やかになり、難工事が
完成したそうです。

でも、その説明板には続きがあり、”工事は無駄”と言った
巡礼母子に腹を立てた人夫らによって、巡礼母子が川に
投げ込まれた!、という説もあるそうです・・・
えぇ~!、怖っ~!
どちらの説が史実なのでしょうか?、気になって夜も
眠られません・・・

上記の「巡礼の碑」の近くに、下の写真の巨大な「巡礼
供養塔」もありました。



国道4号に戻り、中川に架かる行幸橋(みゆきばし)を
渡ります。





橋を渡ると、旧日光街道は、直ぐに左の小道に入り、
暫くの間、この小道を歩いて行きます。








やがて、街道の正面に、1775年の建立の上の写真の
「外国府間(そとごうま)」の道標が建っています。
正面には仏像が彫られ、その下に「右 津くば(つくば)道」
「左 日光道」と彫られています。
その道標に従い、左手の田畑の中の道を進んで行くと、小高い
塚の上に、下の写真の弁財天堂が建てられていました。

その説明板によると、ここが「小右衛門の一里塚跡」だそう
です。

    
一里塚跡を過ぎて、国道4号の脇の下の旧日光街道を進むと、
前方に工業団地入口の交差点が見えて来るので、この交差点
の下の地下道をくぐって反対側に出ます。
反対側に出ると、権現堂川沿いの見晴らしのよい遊歩道がありました。

その遊歩道の脇にトイレがありました。
最近、だいぶ寒くなって来たので、街道沿いの公衆トイレは
有難いです。

ここから先の旧日光街道は、左手の国道4号と右手の権現堂川
との間の、快適な桜並木の遊歩道が延々と続きます。













狂い咲きでしょうか?、この寒さの中、所々に、写真の様に
桜が咲いています・・・
春の桜満開の時期は素晴らしい風景でしょうね!
秋晴れの空のもと、気分もウキウキと、快適なウォーキング
です!
    
やがて、この見晴らしの良い桜並木道は、東北新幹線の高架を
くぐり、小右衛門北の交差点で、国道4号の下をくぐって
反対側に出て、国道4号の左側を歩いて行きます。
    


国道4号を少し歩くと、左脇に「栗橋大一劇場」という
ちょっと怪しげな?劇場がありますが、街道は、
この劇場の前の左の脇道に入って行きます。

街道は、間もなく、国道4号に合流しますが、その手前に、
下の写真の「会津見送り稲荷」がありました。

その説明板によると、会津藩の武士が、江戸へ重要な書面を
届けるため、ここまで来たとき、道に迷って大変困っている
と、突然、白髪の老人が現れて道案内をしてくれました。
お蔭で、武士は無事に役目を果たすことが出来ました。
のちになって、この老人が狐の化身であることが判り、ここに
お稲荷様として祀ったそうです。

街道は、再び国道4号に合流し、4号沿いの左下の脇道に
なりますが、間もなく、左から来た国道125号の高架の土手
に突き当たってしまいます。
そこで、街道は、この国道125号を回避して、その向こう側
に行くために、国道4号の反対側に渡って、脇道の坂を下り、
国道4号の下をくって、国道125号の向こう側の、国道4号
沿いの脇道へ再び出ます。
    

    
暫く国道4号に沿った下の細い道を歩いて行きますが、この
細い道が広くなった辺りから先が栗橋宿の様です。

幸手宿から栗橋宿までは、約8キロです。
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日光街道を歩く(05:杉戸) 埼玉県北葛飾郡  7km 2016.10.7

2017-01-22 17:15:53 | Weblog

(写真は、杉戸宿の「時代行列」で、「日光例幣使」役の
「虻川美穂子」)

旧日光街道は、単調な直線の国道4号を延々と歩いたのちに、
国道4号から左へ分かれて杉戸宿へ入って行きます。



すぐ右手に小さな公園があり、杉戸宿の案内板がありました。



杉戸宿の町中を歩いて行きますが、宿場町の痕跡らしきものが
何もありません・・・




やがて右手に、杉戸町役場があり、「日光街道 杉戸宿開設
400年」の横断幕が下がっていました。


町役場の先の信号を超えると、文政5年(1822年)創業の
次頁の写真の「関口酒造」の建物があり、「杉戸宿」という
銘柄の酒を売っていました。


関口酒造の先の右手に、杉戸町の鎮守「近津神社」が
ありました。


更に進むと、「本陣跡地前」の信号があり、左折すると「東武
動物公園駅」です。

帰りは東武動物公園駅から、中央林間行きの急行で、横浜まで
乗り換えなしで帰ります。

電車に乗る前に、駅前で遅いお昼を食べようとお店を探します
が・・・

東武動物公園駅は、日光線と伊勢崎線の重要な分岐駅にも
拘わらず、駅前には、ドトールコーヒーと改装中の魚民の
2軒しかありません。

しまった!、街道沿いの美味そうなうどん屋の「ふるさと」で
食べておけばよかった!

今月の30日(日)に、「杉戸宿400年」の祭りがある
様なので、祭りの時間帯は街道歩きを中断して、電車で
東武動物公園駅まで引き返し、祭りを見物するつもりです。



翌日、早朝に新横浜を出て、東急・あざみ野駅から乗り換え
なしの急行に乗り、前日のゴールの「東武動物公園駅」で
下車します。

「杉戸」が駅名ではなくて、「東武動物公園」が駅名になって
いるので、街道歩きでは戸惑います。

歴史ある「杉戸」を駅名にして欲しいです。

東武動物公園駅の前の道を進むと、本陣跡地前の信号があります。


その信号の角に、次頁の写真の「明治天皇御小休所跡」の碑が
あります。


その小休所跡碑の道路向いにある下の写真の「とらや薬局」
は、江戸時代から「五疳之薬」(ごかんのくすり)を売って
いたそうです。
。、
屋号「虎屋」の虎屋善蔵(内山周文)は、江戸時代の杉戸宿の
漢方医で、小児の疳(かん)を治す名医だったそうです。

現在の「とらや薬局」の店主は15代目だそうです。


「とらや薬局」の道路向いに、上の写真の大きな松の木が
ある敷地がありますが、案内板によると、江戸時代には、この
敷地に店舗があり、ここで「五疳之薬」を売っていたそうです。


街道を少し進むと、右手の空き地の奥に、古い門構えと松の木
のある前頁の写真の家がありますが、ここが「本陣」であった
長瀬家です。


本陣跡の先の「枡形」の道の角に、母屋と蔵が並ぶ写真の
「小島定右衛門邸跡」がありました。

小島定右衛門邸は、米穀問屋で、枡形の道の角にあったので、
屋号が「角穀(かどこく)」だったそうです。

杉戸宿には、上記の様な江戸時代の建物が数軒点在している
以外には、宿場町の遺構は何も残っていません。


少し歩くと、街道の左手に「宝性院」の看板が見えたので
入ってみます。


立派な山門の前には、写真の大小3本の石碑がありました。



左の小さな石碑には「庚申塔」の文字が、中央と右の石碑には
「青面金剛」と金剛に踏みつけられる「邪鬼」が彫られています。
 

境内の説明板によると、江戸時代には、「宝性院」には、杉戸
の寺子屋が設けられていましたが、明治5年に学制が布かれ、
そのまま小学校になったそうです。



境内には、日光街道で一番大きいという上の写真の
「馬頭観音」(1810年)があります。

宝性院を出て、旧日光街道を歩いて行くと、右手に雰囲気の
ある次頁の写真の「渡辺勘左衛門邸」があり、直ぐに
国道4号に合流します。






    
国道4号の両側は、外食産業のチェーン店、パチンコ店、
自動車販売店などが並びます。

国道4号を更に歩くと、やがて幸手市に入り、その先の左手に東武線「杉戸高野台駅」の標識があります。



旧日光街道は、その先のホンダ幸手店から、国道4号から
分かれて左に入って行きます。
  


やがて、東武日光線の踏み切りを渡り、公民館を右手に見て、
高速道路をくぐって進むと、T字路にぶつかります。
左手から来て、このT字路にぶつかる道が「日光御成り道」です。

「日光御成り道」は、江戸城をスタートして、このT字路で、
旧日光街道に合流し、あとはゴールの日光東照宮まで同じ道
です。

「日光御成り道」は、将軍が日光東照宮へ参拝するための、
江戸城から杉戸宿までの脇街道で、もともとあった鎌倉街道
を整備した道です。

この御成り道が合流するT字路の追分を右折すると、左手に
下の写真の「神宮寺」がありました。

説明板によると、神宮寺は、源頼朝が奥州征伐の際に、
この地で鷹狩をし、戦勝を祈って開基した寺だそうです。
中世の頃は、ここ神宮寺村の全体が神宮寺の寺領だったそうです。

上の写真は、神宮寺の前の六地蔵尊です。


神宮寺から少し進むと、東武線の踏切を越えて、まもなく、
倉松川に架かる志手橋を渡ります。
志手橋を渡ったところから幸手宿です。



10/30(日)は、「杉戸宿400年・宿場まつり」でした。

私は、幸手宿での日光街道歩きを一旦中断して、2:20
からの「時代行列」に間に合う様に、幸手駅から東武動物
公園駅に引き返しました。

東武動物公園駅で降りて、祭りのメインステージへ向かう途中
に、下の写真の「杉戸宿400年・宿場まつり」の臨時案内所
が設けられていました。

臨時案内所の中には、杉戸宿の模型が作られていて、
ボランティアのおじさんが、宿場町の説明をしていました。

そのボランティアのおじさんの話だと、江戸時代には、
旧日光街道は、杉戸宿の外れの宝性院から先は、古利根川
に沿った道だったそうです。



時代行列まで、未だ時間があったので、そのボランティアの
おじさんに聞いた古利根川沿いの旧日光街道を歩いてみます。


川沿いの旧日光街道の脇に、写真の富士塚があり、その岩山の
一角の自然石に、芭蕉の句が刻まれていました。
(写真の赤丸印)

”八九間(はちくけん) 空で雨ふる 柳哉(かな)” 
はせ越(芭蕉)

(柳の大木の下の8~9間は、雨上がりの後も、空から雨が
降るかの様に、しずくが垂れている。)


川沿いの旧日光街道から、宿場まつりのメインストリートに
行きます。



ステージが設けられ、地元グルメ等を販売する出店も並んで
いて、地元の人達を中心にした見物客で賑わっています。







「旧渡辺金物店」では、本日限りの古民家特別公開が
行われていたので入ってみました。


2:20の時代行列開始時間になったので、スタート地点の
宝性院へ向かいます。
町民400人が参加する「時代行列」は、日光東照宮への勅使
「日光例幣使」や武者行列、武士、町人などが杉戸宿の1キロ
を練り歩きます。







「日光例幣使」役は、お笑いタレントで杉戸町宣伝大使の
「虻川(あぶかわ)美穂子」でした。



う~ん、日光例幣使とはちょっとイメージが違うけどなぁ~・・・

でも、周りの見物客からは、”あら、虻ちゃん、意外と美人
なのね。”といった囁きが聞こえ、どよめきが起きます。

しかし、時代行列は意外と短く、私が期待した程の規模では
ありませんでした。

時代行列のあとには、神輿や山車が続きます。


私は、時代行列だけをざっと見終えて、東武動物公園駅から
幸手駅まで戻り、日光街道の続きの幸手宿を歩きます。

杉戸宿から幸手宿までは、約7キロです。
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日光街道を歩く (04:粕壁) 埼玉県春日部市 6km 2016.9.21

2017-01-21 22:17:32 | Weblog
  
(写真は、春日部宿の名物和菓子「あんびん」)

「春日部(かすかべ)」宿は、江戸時代には「粕壁(かす
かべ)」宿と書きました。

今でも、地名や小学校名には「粕壁」が残っています。


春日部宿は、江戸時代には、古利根川で江戸とを結ぶ船の
交易路として賑わい、米麦の集散地として栄えました。

本日は、前回のゴールだった東武伊勢崎線・春日部駅から
スタートします。



駅前の広い道路の右角にある観光案内所「ぷらっと 
かすかべ」に入って、おじさんに春日部宿の見どころを
聞きます。


春日部宿の街歩きのパンフレットをもらい、このパンフレット
に従って、昨日歩いた春日部宿の入口の変形十字路まで
引き返します。





変形十字路の向こう側に、松尾芭蕉が最初に宿泊したと
言われる「東陽寺」の屋根が見えます。

信号を渡って、東陽寺の境内に入ると、本堂の階段横に下の
写真の石碑がありました。

「廿七日の夜、カスカベニ泊マル。江戸ヨリ九里余」の文字と、
左下に芭蕉と弟子の河合曾良の旅姿が彫られています。

上の文章は、芭蕉に同行した曾良の旅日記の一部だそうです。

東陽寺を出て、パンフレットに従って、粕壁小学校の隣りの
下の写真の「春日部市郷土資料館」(無料:月曜休館)に
向かいます。

資料館には、春日部宿の縮小模型や高札、石柱などが展示
されています。


資料館を出て、歩道幅の広い旧日光街道に戻って歩いて行く
と、江戸時代からの製法を引き継ぐという和菓子の「江戸助」
がありました。





昔から変わらぬ名物だという次頁の写真の「甘あんびん」餅
(160円)を買います。

この「あんびん餅」は、埼玉県で古くから食べられている
和菓子だそうで、餅が粒々で柔らかいけど、しっかりした
歯応えです。


お洒落な旧日光街道の右手には、今、親子で骨肉の争いを
演じている「大塚家具」の大きなビルがありました。


更に進むと、上の写真の老舗「田村屋」の前に、下の写真の
石の道標がありました。

 
道標の4面には、「北 日光」、「東 江戸」、「西南 
いはつき(岩槻)」、「天保五年(1834年)」と刻まれて
います。

この田村屋の前で写真を撮っていると、春日部市の建物保存会
の役員だというオジサンから声を掛けられました。

そして、話しが弾んで、このオジサンに、現在修復している
江戸時代の蔵の現場を案内して頂けることになりました。



蔵の持ち主の了解を得て、敷地内に入り、東北大地震で痛んだ
という修復中の江戸時代の蔵の説明を受けます。



現在、お城の復元・修理を専門にしている大工さんを呼んで
修復工事をしているそうです。



上の写真の白い装飾の窓枠は、冠木門(かぶきもん)の形を
しているので「冠木」と呼ぶそうです。

そして、窓枠の両脇を覆う2つの黒い四角の箱は、直接
吹き付ける雨水から、冠木の漆喰(しっくい)を守るため
のものだそうです。

上の写真の黒い木は、江戸時代の雨樋を留めるためのもの
だそうです。

修復中の蔵の現場を出て、パンフレットに従って、お洒落な
旧日光街道の歩道沿いの遺構跡を見ながら進みます。

 
(左上が「本陣跡」、右上が「脇本陣跡」)


(問屋場跡)

街道の右手には、宿場町を思わせる土蔵や旧家が点在します。





上の写真は、江戸初期から米屋をやっているという「永嶋
商店」です。


上の写真の様に、街道歩きの人の為のトイレもお洒落です。


(古利根川に架かる”光と風をテーマにした橋上公園”)

更に進むと、正面に、徳川家光の遺骨を一時安置していた
という「最勝院」が見えます。


最勝院の前の旧日光街道を少し戻ると、古利根川に架かる
「新町橋」があります。



「新町橋」の付近の古利根川が合流するこの辺りには、江戸
時代には、船荷の積み下ろしのための「上喜蔵(かみきぞう)
河岸」があり、川に面した側には蔵が立ち並んでいたそうです。





春日部宿の外れのこの「新町橋」を渡ります。


英国の旅行家であるイザベラ・バードは、「日本奥地紀行1」の中で、「粕壁宿」について、以下の様に書いています。
完訳 日本奥地紀行1―横浜―日光―会津―越後 (東洋文庫)
イザベラ・バード
平凡社

 どこまでも水田が続く中を抜ける人通りの多い街道をその
 まま走り続けた私達の人力車は、夕方、粕壁に着いた。

 かなり大きな町ではあるが、みすぼらしい感じのする町
 だった。

 私達は、ここの大きな宿屋で一夜を過ごした。

 私達が入って行くと、宿の主人が両手をつき、額が床に
 つかんばかりのお辞儀を3度もして挨拶した。

 大きな開けっ放しの炊事場では、30人以上の女中が忙しく
 立ち働いていた。

 私の部屋は2階の通りに面した細長い大部屋だったが、部屋
 の中の敷居の襖(ふすま)が引かれ、その大部屋はたちまち
 4つの小部屋に分かれた。

 その小部屋は、畳が敷いてあるだけで、物を置く棚などは
 何も無かった。

 部屋の外側には、同じ様な多くの部屋とつながる開けっ
 放しの縁側があり、どの部屋にも人が入っていた。

 目の粗い緑の麻布で出来た蚊帳はかび臭く、蚤と蚊に
 悩まされた。

 その上、襖がしょっちゅう音も無く開けられ、その度に、
 数人が僅かな隙間から、細長い黒い目で私をしげしげと
 見つめた。

 表の道には、大声が溢れ、盲人のあんまが笛を吹く音や、
 火事の警戒のための夜回りの拍子木の音が鳴り響いていた。

 その後、日本全国を旅したのちに、世界中で日本ほど女性が
 安全に旅の出来る国は無いと確信した。


春日部宿の外れの「新町橋」を渡って、直ぐにY字路を左折します。
  


少し進むと、右手に「小渕の一里塚」跡の石碑と、庚申塔
(1832年)が並んで建っていました。



更に進むと、道はY字路になっており、右手は白壁の塀で、
中央の分岐点には、大小2本の石碑が建っています。



この石碑が、「日光街道」と「関宿(せきやど)往還道」との追分です。

関宿往還道とは、千葉県野田市の城下町・関宿へ向かう脇街道です。

大きい方の石碑には、宝暦4年(1754年)「左 日光道」
「青面金剛」と彫られています。

小さい方の石碑には、宝永6年(1709年)「右方 せきやど
(関宿)道  左方 あふしふ(奥州)道」と彫られています。

旧日光街道は、この追分の石碑の先で国道4号に合流し、国道
16号を横断します。





国道4号を暫く進むと、左手にかなり古い感じの仁王門がある
前頁の写真の「小渕観音院」がありました。

近づいてみると、仁王門は元禄年間(1688~1704年)の
創建で、今にも崩れそうなくらいに痛んでいます。

  

仁王門の左右には、写真の様に、迫力のある木造の仁王像が建っていました。

説明板によると、昔、洪水があり、ここの本尊である正観音像
がこの地に流れ着いたので、村人は、この正観音像を元の寺に
返しました。

ところが、その後、再び洪水があり、何と!、この正観音像
が、再度この地に漂着しました!

そこで、村人は、ここにお堂を建てて、この正観音像を安置
したそうです。

この「小渕観音院」は、別名「こぶとり観音」とも呼ばれ、
イボ、コブ、アザの取り除きにご利益があるそうです。


小渕観音院を出て、左手に東武線「北春日部駅」の標識を
見ながら、何も無い単調な直線の国道4号を延々と歩いて
行きます・・・


国道4号を更に進むと、大きな杉戸町の看板があり、その先の
歩道には、「すきすき すぎーと36」の表示があり、歩道幅
が少し広くなりました。
 
その「すきすき すぎーと36」を歩いて行くと、歩道上に、
写真の球形のモニュメントが置いてあります?

 
その説明版によると、 球形のモニュメントは地球儀であり、
その地球儀の北緯36度線上に杉戸町が記されています。

どうも北緯36度線上に杉戸町がある、という意味の
モニュメントらしいです。



更に、国道4号を進むと、左へ国道4号から分かれる道が
あり、これが旧日光街道です。

左手に、次頁の写真の九品寺(くほんじ)を見ながら、
旧日光街道を暫く進むと、再び国道4号に合流しました。





国道4号を少し歩くと、またまた、旧日光街道は、堤根の信号
から左へ分かれ、杉戸宿の中心部へ入って行きます。


春日部宿(粕壁宿)から杉戸宿までは、約6キロです。
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日光街道を歩く (03:越谷) 埼玉県越谷市 11km 2016.9.15

2017-01-20 17:55:38 | Weblog

(写真は「塗師屋」)

越谷宿の端の元荒川の辺りには、蔵が家の横にある立派な
うだつの付いた上の写真の「塗師屋」(ぬしや)の建物が
残っています。

しかし、越谷宿は、明治の大火で町のほとんどを焼失して
しまったため、残念ながら、昔の面影は全く残っていません。
「塗師屋」(小泉右衛門宅)は、江戸時代の”太物屋”
(ふとものや:綿織物や麻織物を扱う呉服屋)で、先祖は
漆(うるし)も扱っていたそうです。
現在の当主も、江戸時代と同じ名前の小泉右衛門さん
だそうです。

また、塗師屋の隣の同じ様な造りの「鍛冶忠」(現在は会田
荒物店:下の写真)も残っており、この辺りだけが越谷宿の
雰囲気を残しています。


この先の元荒川の先に架かる大橋で、あっけなく越谷宿は
終わりです・・・


旧日光街道から少し外れて、この元荒川橋の手前の細い道を、
元荒川沿いに歩いて行きます。

その何もなさそうな小道の右手に、写真の「越ケ谷御殿跡」の
碑がありました。

ここは、徳川家康が、越ヶ谷宿に御茶屋御殿を造り、 鷹狩の
拠点としていた所だそうです。

明暦の大火(1657年)で江戸城が被災した際に、ここに
あった屋敷を江戸に運んで、江戸城の再建のために使用
されそうです。
えぇっ~、ここから江戸まで屋敷を運んだの?、驚き!

その後、家康と秀忠が別荘を建てて「御殿」としたそうです。

この御殿跡先に、次頁の写真の「建長元年の板碑」(板石の
塔婆)がありました。


この板碑の先を更に進んで小さな橋を渡ると、「久伊豆(ひさ
いず)神社」の長~い参道がありました。






久伊豆神社は平安末期の創建で、室町時代(1467年)に、
宇佐見氏がこの地を領したときに社殿を再建しました。

江戸時代には、代々の徳川将軍家の保護が厚かったそうです。

また、「足止め」といって、ここの狛犬の足に縄を巻き付け
て、願掛けすると、家出をした家族の者が必ず帰って来ると
信じられていたそうです。
最近では、「久伊豆」が「くいず」と読めることから、クイズ
番組に出場する人が参拝するようになったそうです・・・


久伊豆神社の隣りには、「天嶽寺(てんがくじ)」があり
ました。





家康・秀忠・家光も狩猟のたびに訪れていたそうです。



天嶽寺を出て、元の道に戻り、元荒川に架かる大沢橋を渡り、
旧日光街道を進みます。


やがて、東武線の高架をくぐると、左手が桜堤という名の
元荒川の土手です。




ここから国道4号と合流するまでの約3キロの間、歩道の無い
非常に歩きづらい道が延々と続きます。



東武線の踏切を渡って、東武線「大袋駅」を左手に見ながら、
歩道の無い道をトボトボと歩いて行きます・・・











ようやく国道4号と合流すると、今度は、歩道はあるものの
何も無い単調な直線の道です。

東武線「せんげん台駅」を左手に見ながら更に進みます。

上の写真の「歓喜天(かんきてん)」を左手に見て、新方川に
架かる戸井橋を渡ると、ここから春日部市です。












更に、単調な国道4号を延々と歩いて行くと、備後北の信号の
脇に、下の写真の「備後の一里塚」碑がありあました。





左手に「一ノ割駅」の看板を見て、更に、単調な国道4号の
直線の道を延々と歩いて行き、東武野田線のガードをくぐります。

その先の先の変形十字路は、直進は四号線、左折すると
旧日光街道で、もう粕壁(春日部)宿です。

本日は、取り敢えず、東武伊勢崎線の春日部駅から横浜へ
帰ります。

東武伊勢崎線は、地下鉄半蔵門線を経由して、横浜の中央林間
まで、相互乗り入れ・直通運転しているので、横浜まで
乗り換えなしで帰れます!
しかも、この直通運転は、何と!10分毎に急行があります!
東武伊勢崎線は、ずっと日光街道と並行して走っているので、横浜発で日光街道を歩くのは超便利なのです!

越谷宿から粕壁宿までは、約11キロです。
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日光街道を歩く(02:草加) 埼玉県草加市 7km 2016.9.15

2017-01-19 12:09:43 | Weblog
 
(写真は、草加名物「草加せんべい」) 

1606年、幕府の命を受けた大川図書(ずしょ)が、それまで
大きく東に迂回していた日光街道の「千住宿」~「越谷宿」の
間を一直線で結ぶ草加新道を造りました。

なるほど、そうか~!(草加!)、それで、日光街道は、
歩いても歩いても、北へ北へと一直線なんだ!、納得!

”草”を”刈”って、草加新道を開いたのが、「草加」の地名
の由来だそうです。

その後、1630年に、千住宿~越谷宿の「間の宿(あいの
しゅく)」として、「草加宿」が設けられました。

草加宿に入って行きます。

草加宿の入口の分岐点のY字路の真ん中に、下の写真の木の
標識と、「今様 草加宿」と彫られた赤い石碑がありました。



この標識の左手の道を入って行くと、左側に草加市役所が
あり、前頁の写真の「浅古家の地蔵堂」がその敷地内に
ありました。
この地蔵堂は、江戸時代の豪商・浅古氏が、用水を流れていた
地蔵を拾い上げ、子育て地蔵として祀ったのだそうです。




両側に、前頁の写真の様な煎餅屋を見ながら、宿場町を
北上して行きます。

草加市内には、53軒もの煎餅屋があるそうです。

草加宿は、古い家屋が数軒点在するくらいで、残念ながら、
当時の雰囲気は残っていません。


上の写真は、明治期の町屋建築「藤城家」で、国有形文化財
です。


(大川本陣跡)


上の写真の「道路元標」の辺りは、問屋場があったところで、
石の元標には「千住町へ2里17町53間3尺、越谷へ
1里33町30間3尺」と彫られています。


更に進むと、草加小学校の前に、歴史資料館の標識があった
ので、標識に従って、小学校の裏に回ってみると、古い校舎
の一部が、上の写真の「歴史民俗資料館」(無料)になって
いました。

中には、草加の歴史資料や民俗資料、それに宿場町の歴史
説明、草加せんべいの作り方等、想像以上に豊富な展示物
がありました。









貼紙には「ご自由に写真撮影をお楽しみ下さい」とあります。

嬉しい心遣いです!

草加小学校裏の資料館を出て、表通りに戻り、その先の左手の
細い道を下の写真の「東福寺」へ向かいます。

東福寺は、草加宿の開宿に尽力した大川図書(ずしょ)が
1606年に創建した寺で、本堂、山門、鐘楼ともに江戸後期
の建造物です。



表通りに戻ると、右手に上の写真の「おせん茶屋公園」が
ありました。

その説明板によると、日光街道の草加松原の茶店の”おせん
婆さん”が、団子が腐り易いと客に嘆いたところ、客の武士
が、「団子を薄くのばし、天日で乾かし、火で焼いて
みたら。」と教えたのが始まりだそうです。

それが、いつしか草加宿の名物「草加せんべい」として世間に
広まり全国区となりました。




(1袋10枚:900円)
おせん茶屋公園の前の写真の「元祖 源兵衛せんべい」で、
草加せんべいを買います。

店の女将さんの話だと、この店の煎餅は、江戸時代と同じ製法
の店頭での手焼きで、種類も昔からの1種類だけしか売って
いないとのこと。

これから行く草加松原について、女将さんから色々と情報を
仕入れます。


「源兵衛せんべい」を出て信号を渡ると、左手に、上の写真の
無料観光案内所「草加宿 神明庵」がありました。

中へ入ってみると、郷土愛にあふれる2人のボランティアの
おばさんが、草加宿について色々と面白い話をしてくれました。

ここは草加宿に現存する一番古い建物で、これを改装して
平成23年にオープン、40人のボランティアで、交代でお茶
の接待をしているそうです。


ここでは、近隣の煎餅屋さんの食べ比べが出来る「味くらべ
せんべい」を売っていました。

8店舗の8枚が入って600円とお得だったので、「元祖 
源兵衛せんべい」で買ったばかりでしたけど、また買って
しまいました・・・

上の写真の神明庵の2階はギャラリーになっていて、草加宿の
歴史や観光案内を展示しています。



ここで、草加宿散策の地図を貰い、見物している宿場町と、
これから行く草加松原のポイントをチェックします。


神明庵を出ると、日光街道は、直ぐに、写真の神明神社で
突当り右折します。

この神明神社が、草加宿の外れです。



日光街道は、草加宿の外れの神明神社の前の道を進むと、
直ぐに、大きな道路に突き当たり、右手に、次頁の写真
の松尾芭蕉の弟子の曽良の像がありました。


この道路に合流した先が、日光街道屈指の景勝地である草加
松原の「松並木公園」です。

江戸時代から、「草加松原」として親しまれており、「おくの
細道」にも登場し、松尾芭蕉も歩きました。

平成26年には、国の名勝地に指定されたと、観光案内所の
おばさんが得意げに自慢していました。

このおばさんの自慢話も尤もで、江戸時代から残る古木が
ほとんど枯れてしまっていたこの松並木に、新たに松を
植えていったのは、お役所ではなくて、何と!この地元の
人達だったそうです!

それも、この松並木の真ん中の歩道部分が、当時は国道4号
で、国道沿いの勝手な植樹は禁止されていたため、役所の
見回りのない日曜日に、こっそりと植えていったそうです。

この地元の人達が植えた苗木は、現在、1.5キロにわたって、
写真の様な立派な松並木になりました。

松並木は、武蔵(ムサシ)国にちなみ、634(ムサシ)本
あるそうです。

このうち、幹回りが2メートル以上ある松が約60本あり、
これが江戸時代から残る古木だそうです。


園内には、高さ11メートルの五角形の「望楼」があり、
上ると、綾瀬川と草加松原が一望出来ます。

松並木の街道に入ると、直ぐに、次頁右の写真の「松尾
芭蕉像」がありました。

芭蕉像の前の綾瀬川沿いには、上の写真の「札場河岸」跡公園
があります。

江戸時代、江戸との主な物流は、綾瀬川の水運でした。

舟の荷は、この「札場河岸」で積み下ろしされました。

観光案内所のおばさんに聞いた話だと、この辺りは、海抜
4メートルしかなく、綾瀬川は、満潮時には、この辺り
まで逆流してくるそうです。

当時、江戸から草加へ上ってくる舟は、この逆流に乗って、
この札場河岸まで来たそうです。

驚き!

「綾瀬川」の名前は、江戸時代、頻繁な川の氾濫で、川筋が
綾の様に定まらなかったことに由来するそうです。

絶景の松並木の遊歩道は、気持ちの良い快適な散歩道です!














平日ですが、観光客らしき人々以外にも、地元のらしき人々も
大勢歩いています。

(芭蕉文学碑)

写真の丸い輪の彫像が、草加松原の終わりを示しているみたいです。


外環道の下を潜って、綾瀬川沿いの桜並木の道を歩いて行き
ます。



やがて、右手に「蒲生(がもう)大橋」があり、この橋を渡る
と、右手に、下の写真の「蒲生の一里塚」がありました。

埼玉県内の日光街道では、唯一残る一里塚だそうです。
蒲生一里塚の斜め前の綾瀬川沿いに、舟荷の積み下ろしを
していたという下の写真の「藤助河岸」がありました。

旧日光街道は、蒲生一里塚の前の道を進んで行きます。

静かな住宅街の中を歩いて行くと、右手に上の写真の「馬頭
観音」と「不動尊」があり、その先に次頁の写真の「ぎょう
だいさまの祠」がありました。



更に進むと、右手に黒い冠木門が見えてきますが、これが
「清蔵院」です。

山門の竜は、左甚五郎の作といわれ、夜な夜な逃げ出して畑を
荒らしたことから、逃げ出せない様に、下の写真の様に金網で
覆ってあるそうです。

驚き!


清蔵院を出ると、旧日光街道は国道に合流します。


JR武蔵野線のガードをくぐり、更に進んで行くと、右手に
「照蓮院」が見えて来ます。



境内には、上の写真の「千徳丸供養塔」と、その案内板がありました。

それによると、甲斐・武田氏の家臣・秋山長慶は、武田氏滅亡
の際、武田勝頼の遺児の千徳丸を伴って、この地に潜伏しました。

しかし、千徳丸が早世してしまったので、それを悲しんだ長慶
は、照蓮院の住職となって菩提を弔ったそうです。


照連院を出ると、正面の道路は、Y字路になり、旧日光街道
は、このY字路を左へ進みます。

このY字路を入ったところが越谷宿です。

草加宿から越谷宿までは、約7キロです。
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日光街道を歩く(01千住) 東京都足立区 9km     2016.9.2

2017-01-18 22:05:19 | Weblog
 
(写真は、江戸時代から続く接骨院「名倉医院」)  

千住大橋を渡り、日光街道の一番最初の宿場だった千住宿に
入って行きます。


千住宿に入ると、旧日光街道は、「中央卸売市場・足立市場」
のところで、国道4号(日光街道)と分かれ、右手の細い道を
直進して行きます。

千住宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠55の他に、遊女屋が
36軒もあり、品川・新宿・板橋と共に、江戸4宿の一つの
歓楽街として大変賑わっていました。

旧日光街道の入口右手には、 芭蕉翁の旅姿像があり、その前
には、「日光道中 千住宿」の石碑が建っています。



「中央卸売市場・足立市場」の前の道は、「ヤッチャ場通り」
で、ヤッチャバ場の屋号を示す”伊勢屋”、”谷塚屋”などの
表示が続きます。







更に進むと、左手に「千住宿歴史プチテラス」(貸し出し
ギャラリー)があり、その門の左脇に芭蕉句碑がありました。

”鮎の子の しら魚送る 別れ哉 (芭蕉)”

白魚は2月頃に産卵のために隅田川を遡り、若鮎も3月頃に
それを追いかける様に隅田川を遡ります。

千住まで見送りに来た門弟達を”鮎の子”に、送られる自分
を”白魚”に見立てています。

千住宿は、下の写真の様な馬頭観音、八百屋の他、割烹など
もあり、雰囲気のある町です。






更に進むと、次頁の写真の様に、信号の手前の右手に
「一里塚跡」碑、左手に「高札場跡」碑が建っていますが、
どちらも小さな石碑で、うっかり見落としそうです。
 

この信号の先は、「千住本町」商店街の大きなアーケードが
あり繁華街が続きます。


この繁華街の裏道の足立都税事務所の植え込みに、次頁の
写真の貼紙がありました。

それによると、ここにあった「森鴎外旧居橘井堂跡碑」と
「千住の鴎外碑」は、再開発に伴い撤去したとあります・・・
足立都税事務所の直ぐ近くに、下の写真の「金蔵寺」が
あります。

お寺の門を入ると、左手に次頁の写真の「南無阿弥陀仏」
と刻まれた写真の供養塔があります。

これは、千住宿の飯盛女を供養したもので、下の石台には、
店の名前と遊女の戒名が刻まれています。
その横の「無縁塔」と刻まれた下の写真の供養塔は、1837年の大飢饉の犠牲者を供養したものです。


北千住の町は、遊女屋が36軒もあった名残りでしょうか、
表通りの繁華街の人通りも多く、裏通りに入っても、
食堂、居酒屋、バー等がひしめいています。





表通りの商店街の電柱には、写真の様に、”千住宿を通った
大名とその家紋”の説明が続き、シャッターには日光街道の
宿場毎の浮世絵が描かれています。
 



旧日光街道を少し進むと、左手に入る細い道の奥の突き当たりに朱塗りの門の寺が見えます。

”赤門寺”として親しまれた「勝専寺」(しょうせんじ)で、
朱塗り門の扁額には「三宮神山」と書かれています。

説明板によれば、勝専寺は、歴代将軍の鷹狩りの際の休息所
だったそうで、本堂の本尊の「千手」観音像が、”千住”の
地名の由来らしいです。

勝専寺から商店街に戻り、先に進むと、100円ショップの
前に止められたたくさんの自転車の中に、写真の小さな
「本陣跡」碑がありました・・・




商店街を進むと、右手に「千住ほんちょう公園」という小さな
公園があり、この公園の入り口に、高札場が復元されています。


この公園の先の左手に、下の写真の「絵馬屋(吉田屋)」が
あります。

吉田屋は、江戸時代からの絵馬屋で、現在、手書きの泥絵具で
絵馬を作っているのは、東京でここ1軒だけだそうです。

吉田屋の向かいは、千住宿の雰囲気を残す次頁の写真の
「横山家住宅」で、紙問屋として栄えた旧家です。




吉田屋の斜め向かいは、次頁の写真の「槍かけだんご」で
有名な「かどや」です。

お腹が空いたので、名物の「槍かけだんご」を買って、少し
戻って、「千住ほんちょう公園」のベンチで食べます。

味がしっかりしていて凄く美味しいので、1本90円は安くて
お得です。
「かどや」の先にある「名倉医院」は、江戸時代から続く
名高い接骨院で、幕末に建てられた次頁の写真の長屋門が
残っています。

地元では、子供の躾けに「言うことを聞かないと名倉に連れて
行くよ」と言ったとか。
この名倉医院が、千住宿の外れです。

千住宿の外れの名倉医院の前の道は、荒川の土手にぶつかります。

土手に沿って左手に進み、国道4号のガードをくぐって、
螺旋階段を登り、土手の上に出て、「千住新橋」で
「荒川」を渡ります。






驚くことに、江戸時代には、この「荒川」はありませんでした?
この「荒川」は、大正になってから、洪水対策として造られた人工の川なのです!
その証拠に、正式名称は「荒”川”」ではなくて、「荒川
”放水路”」です。

しかし、この広大な荒川が、大正時代に、手掘りで造られた
人工の川だとは、俄かには信じられません・・・

放水路が完成してから、本来の荒川は隅田川、放水路は荒川と呼ばれる様になりました。

従って、荒川放水路がなかった江戸時代には、 旧日光街道は、
上の写真の様に、赤線の真っ直ぐな道でした。



「荒川」の対岸の土手を下り、首都高・中央環状を左上に
見ながら、土手の脇の道を左手に歩いて行きます。

少し歩くと、上の写真の「善立寺」があり、旧日光街道は、
その角を右折、北上して行きます。


すると、左手に、上の写真の「地蔵堂」があり、その前の石柱
には、「八彦尊道 是より二丁」と彫ってあります。
この「地蔵堂」を左に直進する道が「八彦尊道」で、その先に
明王院があり、その境内に「八彦尊」があるということらしいです。

更に進むと、三叉路があり旧日光街道の道標が建っています。



道標に従って旧日光街道を直進すると、東武伊勢崎線・梅島駅
のガードを潜り抜けます。

暫く歩くと、右手に「ベルモント公園」という、足立区には
不似合いの?(失礼)、お洒落で上品な雰囲気の洋風公園
がありました。

案内板によると、足立区とオーストラリアのベルモント市との
友好親善のシンボルとして作られた公園だそうです。
美しい花壇と噴水の前のベンチで一休みして、水分を補給
します。

写真のヒツジのモニュメントなどが、異国的な雰囲気をつくり
出しています。
ヒツジの背後の赤レンガの建物には、オーストラリアの工芸品
等が展示されています。


ベルモント公園を出て暫く歩くと、左手の道の入口の両側に
2本の石碑がありました。
「南無妙法蓮華経」の前頁の石碑と「将軍家 御成橋 御成り
道松並木跡」の下の石碑です。

その2本の石碑の間の細い道の先に「国土安穏寺」(こくど
あんのんじ)がありました。

立派な仁王門があり、扁額には「天下長久山」とあります。
歴代将軍が、鷹狩や日光参詣の際によく立ち寄ったために、
「御成門」が造られたそうです。
説明板によると、この寺は元々は、1410年、日蓮ゆかりの
日通聖人が開いた古刹だそうです。

仁王門の裏側には、写真の大きな草鞋がかかっており、門扉は
金色の徳川家の葵の紋です。

墓地には、上の写真の可愛らしい「掃除小僧」と「居眠り
小僧」の石像がありました。
国土安穏寺を出て、真っ直ぐな旧日光街道をどんどん歩いて
行くと、左手に、足立清掃工場の高い煙突が見えました。


旧日光街道は、その先で右にカーブして、国道4号を
突き切って進みます。その突当りを左折すると、「毛長川」
(けなげがわ)に出ました。


道路標識によると、この川が東京都と埼玉県の境で、ここから
草加市に入ります。

えぇっ~、とっくに埼玉県を歩いていると思っていたけど、
未だ東京都だったんだ!足立区は広いんだなあ~・・・
やがて、右手に「浅間神社」があり、ここでは、冨士請が
開かれていたそうで、境内には写真の富士塚があります。



浅間神社の先には上の写真の「火あぶり地蔵」がありました。

病身の母を家に残し奉公に出た娘が、母の病が重くなったと
いう知らせを聞き、一目会いたいと思いました。

しかし、奉公の身であるために暇が貰えず、思い余った娘は、
家が焼けてしまえば母の許に帰ることが出来ると、主人の家に
火をつけました。

娘は捕らえられ火あぶりの刑に処せられました。

村人は娘を哀れに思い「火あぶり地蔵」を建てたそうです。

草加宿が近いのでしょうか、煎餅屋が目立ち始めます。

やがて、草加宿の入口の分岐点が見えて来ました。

千住宿から草加宿までは、約9キロです。
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