ウォーク更家の散歩 (東海道、中山道、日光街道、奥州街道)

http://www7b.biglobe.ne.jp/~akamine/
中山道を歩く(完全踏破の一人旅)

東海道を歩く (45:庄野宿) 8km

2012-01-10 22:29:49 | Weblog

(写真は当時の高札の現物)

庄野宿は、安藤広重が描く「庄野の白雨(はくう)」
でよく知られています。

白雨とは、昼間の夕立のことで、雨宿りの場所を
探して走っている旅人が描かれた、激しい夕立を
見事に表現しています。
住所でいうと、鈴鹿市庄野町です。

車の通行もなく、写真の様に静かな通りで、散策には
快適です。

江戸時代は油屋であった旧小林家が庄野宿場資料館として
公開されています。

庄野町に残る膨大な宿場町関連の資料の活用を図り、併せて
旧小林家の保存を進めるため主屋の一部を創建当時の姿に
復元し、平成10年に開館したそうです。
館内には、庄野宿の本陣・脇本陣文書、宿駅の関係資料
をはじめ、地域の農具などを展示しています。

他に観光客も無く、上品なおばさまが、丁寧に説明して
くれましたので、ついつい長話をしてしまいました。

その説明によると、庄野宿は小さな宿場町でしたが、往時の
面影を残しています。
戦災を免れたため、江戸時代のままの町割りで、道幅が
少し広がった程度で、他は何も変わっていないそうです。

庄野町役場には、戦災を免れた千数百点もの膨大な庄野宿
に関する資料が保存されているそうです。
そして、この菜種油の商人だった小林家の周辺は、昔は、
菜の花の畑だったそうです。

庄野は、東海道でも遅くに出来た宿場町で、もともと貧しい
土地柄だったこともあり、江戸時代は、この宿場町を素通り
する旅人が多く、宿場町の経営は大変だったそうです。

"ウ~ ~ ~ ~ゥ!"
おばさまの説明中に、突如、町中に鳴り響く
サイレンの音が!!
緊急事態発生?津波??

”驚かないで! 
11時のサイレンなんですよ。”

え~っ!、 時報だったら、何か音楽のメロディでも
流したら?
何事が発生したのか!、心臓に悪いです。
都会に住んでいる人間は驚きますよ・・

冒頭の写真の高札は、撮影禁止なのですが、特別に、
フラッシュをたかないという条件で、おばさまの許可を
得て撮影したものです。

巨大な檜の一枚板の江戸時代の高札の現物です。
写真の様に、黒い文字が浮き上がって見えるので、字を
彫ってある様に思いました。

しかし、おばさまの説明によると、昔の高級な墨は、ニカワ
を混ぜてあるので、文字の部分だけが風化せずに、綺麗に
残っているのだそうです!

すごいですね!


資料館を出て、旧東海道沿いの本陣跡、脇本陣跡、問屋場跡、
会所跡、高札場跡などを見てから、庄野宿を抜けて亀山宿へ
向かいます。




写真の「従是東神戸領」(これよりひがしかんべりょう)
の碑、中富田一里塚、川俣神社を過ぎ、JR井田川駅に
着きました。




今日の目標は、亀山宿ですが、今晩中に横浜に帰りつく
には、そろそろ戻らないといけません・・・

JR関西線・井田川駅から、名古屋で東海道線に乗り換え、
豊橋、浜松、興津、沼津、熱海と乗り継いで横浜へ戻ります。


庄野宿から亀山宿まで約8キロです。
(但し、庄野宿から井田川駅までは約3キロです。)
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東海道を歩く (44:石薬師宿) 3km

2012-01-09 20:14:54 | Weblog

(写真は石薬師寺)
寒風と、すぐ横を走り抜けるトラックの風圧に耐えながら、
農家と田畑の中の国道1号をかなりの距離を歩きます。

やがて右手に、石薬師宿の入口となる小道がありました。



そして、すぐに、石薬師宿の休息所があり、そのベンチ
に腰掛けて、一休みします。
向いのベンチに、ウォーキングシューズの若いお兄さん
が座っていました。
てっきり、東海道53次のウォーキング仲間だと思って
話掛けると、
ウォーキングは嫌い、とのこと・・・
えっ?嫌い?
でも、ウォーキングシューズがよく似合ってカッコイイ
ですが?

えっ? ヒッチハイク?
そうですか、ヒッチハイクが趣趣味ですか?
えっ? ヒッチハイクは好きではない?

ど、どういうこと?

ヒッチハイクが好きという訳ではなく、名古屋から大坂まで
帰るところなんだけど、電車賃がもったいないから、
ヒッチハイクをしながら帰る途中なんだとか・・・
今日は、大坂ナンバーのトラックが少ないので、苦戦して
いて、今、一休みしているところとのこと。

ふ~ん・・・
つい、自分の基準で世の中を見てしまいますが、人生いろいろ

石薬師宿は、もともとは、石薬師寺の門前町でした。
宿場町にへ、往時の面影を残す旧家が点在し、下の写真
の小沢本陣跡もその1軒です。



静かな雰囲気の町並を歩いてゆくと、国道1号をまたぐ橋
を渡るとすぐ右手に、冒頭の写真の石薬師寺がありました。
広重も描いた石薬師寺は、弘法大師が薬師如来像を彫り、
開眼供養したそうです。


旧東海道は、石薬師から古い町並みの坂を下って行きます。
すぐに、蒲川橋を渡り、一里塚を過ぎ、田んぼの中の小道
を歩いてゆくと、いったん国道1号に合流、庄野へと向かいます。




今回のウォーキングは、腰痛対策として、リュックを、
極力軽くしました。

下着の着替えは持たずに、ホテルに到着したら、先ず
下着を洗濯して、ホテルでは浴衣で過ごします。
下着は、朝までには、完全に乾いています!
その他にも、iPad2のカバーは重たいので外す、
ガイドブックも必要ページのみコピーする等、
荷物を最小限にする工夫をしました。
そのお陰で、リュックの重みの腰への負荷が減り、
手ぶらで歩くのに近い感触になりました!

国道1号とJR線をくぐって、JR加佐登駅を過ぎた
あたりで、国道1号から分岐して庄野宿に入る
旧東海道があります。

石薬師宿から庄野宿まで約3キロです。
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東海道を歩く(43:四日市宿)11km

2012-01-08 01:43:18 | Weblog

(写真は「なが餅」)
翌朝、昨日の続きのJR朝日駅をスタートします。

朝明橋を渡って、近鉄とJRのガードをくぐり、富田一里塚跡
の碑を過ぎて、住宅街の中を歩いて行きます。

寒風の中、住宅街なので、行けども行けども、
公衆トイレ、喫茶店、食堂などありません!
参ったな~! 我慢できない・・・
すると、東海道400周年記念の立派な公園がありました!
期待して広い公園に入りますが、トイレはありません・・・
うそ~っ!
東海道の記念公園をつくるなら、公園の隅にトイレくらい
作るべきだよな、とブツブツ言いながら歩いていると、
道の右側の光明寺というお寺の門の奥に立派なトイレが!
光明寺に光明が・・・?!

有難い! 素直に仏様に感謝します!
先日、京都でたくさんのお寺にお参りしたので、早速に、
ご利益があったみたいです・・・

いったん1号線と合流して、海蔵橋へ回って海蔵川を渡り、
また旧東海道へ戻ります。

暫く歩いて、三滝川に架かる三滝橋を渡ると、左手に土蔵
造りの次の写真の笹井屋本店がありました。



老舗「笹井屋」の四日市の名物「なが餅」を買います。
(7個入り630円)
冒頭の写真の様に、細長く薄いあんこを、軽く焼いた餅で、
香ばしい甘さです。

大宰府の梅ケ枝に似た味ですが、あっさりした甘さで、
いくらでも食べられます。

三滝橋を渡った辺りから、四日市宿が始まりますが、
空襲で、宿場町の面影は何も残っていません。
旧道沿いに、たまに古い商家があるくらいです。
この辺りが、四日市宿の中心だったそうです。

まもなく、四日市の繁華街に入り、繁華街の真ん中に
写真の諏訪神社がありました。

諏訪神社は、宿場町時代から続いている神社で、この辺りが、
四日市宿の終わりだったそうです。

旧東海道は、昨晩泊まったビジネスホテルの近くを通って、
近鉄・内部線と国道1号に沿う様に西へ進みます。
暫くの間は、ひたすら住宅地を歩きますが、近くに
公害病で有名な四日市の工場群が見え隠れします。
”工場萌え”の私は、工場見学の寄り道をしたい衝動に
かられますが、グッと我慢して歩き続けます。



更に3キロ程歩くと、上の写真の日永(ひなが)の追分が
ありました。

道が左右に別れる交差点の中央分離帯に鳥居が立っています。
写真の右の道が東海道で、写真の左の道が、伊勢神宮に向かう
伊勢街道です。

弥次さん喜多さんは、この日永の追分から、東海道を
進まずに、伊勢街道を伊勢神宮へ向かい、伊勢神宮から
奈良街道を経由して京へ向かいました。
従って、これ以降は「東海道中膝栗毛」のエピソードの
ご紹介はありませんので、悪しからず!

また、伊勢街道で、忘れてはならないのは、江戸時代の
”お伊勢参りブーム”です。
日本人の全人口の2割が参加したというから驚きです!
江戸から伊勢へ向かうお伊勢参りの大集団は、写真の
この日永の追分の左の道を伊勢神宮に向かった訳です!

12/23の「31:新居宿」で書いた「古着屋総兵衛 影始末:
熱風」(佐伯泰英著)でも、集団での伊勢参りをあおる黒幕
を求めて、主人公の総兵衛は、”日永から分かれて、伊勢
街道を進みます。”

伊勢神宮への参拝に、数百万人が、東海道を行き交って、
宿場の茶屋、旅籠が大賑わいだったということですが、
女・子供からお年寄りまで大勢が歩いたお伊勢参りの東海道
のその賑わいぶりは想像がつきません。

当時は、歩きが基本でしたが、疲れたら駕籠に乗ったそう
です。
そうか~!やはりね・・・
お年寄りは全行程を歩くのは無理だったでしょうね。

そう考えると、駕籠に乗らずに、全行程を歩く私は偉い!

近鉄・内部線の終点の内部駅を過ぎて、内部川を渡ると、
間もなく、うつべ町かど博物館があり、杖衝坂(つえつき
ざか)が始まります。

杖衝坂の地名の由来は、重傷を負った日本武尊(やまと
たけるのみこと)が、杖をつきながら必死で登った坂
だからだそうです。

なお、三重県の名前は、この時の重傷で、日本武尊の足が
三重に曲がってしまったことに由来するそうです。
ひ~ぇっ! それで三重県! 知らなかったな~!



思ったより短い坂で、杖衝坂を登り切ると、やがて国道1号
に合流し、農家と田畑の中を、次の石薬師宿に向かいます。


四日市宿から石薬師宿まで約11キロです。
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東海道を歩く(42:桑名宿)13km

2012-01-07 01:02:07 | Weblog

(写真は桑名城の櫓)
今回は、新幹線で名古屋に行き、JR関西線に乗り換え
桑名駅で降ります。
いよいよ、愛知県から三重県に入りました!

江戸時代は、宮宿(名古屋港)から、海上の「七里の渡し」
で、桑名宿(三重県)に到着しました。
現在は海上の「七里の渡し」がないので、東海道を歩く人
の間では、名古屋の神宮前駅から三重の桑名駅までは、
電車に乗ることが慣行になっているそうです。

私もこの”現代の慣行”に従って、桑名宿の七里の渡し
に近いJR関西本線・桑名駅からスタートします。

桑名駅の周辺には、焼き蛤(やきはまぐり)のお店が
点在します。
”その手は くわなの 焼き蛤”で有名な桑名の焼き蛤
は、江戸時代は、茶店の店先で売られていたそうです。
今日は風が冷たく、日没前に四日市駅前の宿に着きたい
ので、お店を横目に見ながら先を急ぎます。

駅から七里の渡しへ向かう途中に、下の写真の海蔵寺が
ありました。

説明板によると、薩摩藩は、洪水が頻発する揖斐(いび)川
などの治水工事を命じられました。
ところが、工事が難航し、責任をとって、薩摩藩の工事
責任者51名が、ここで切腹した、とあります。
ヒェ~!厳しい!
東電の責任者も責任をとって欲しいけど・・・。

更に歩いてゆくと、揖斐(いび)川のほとりに、冒頭の
写真の桑名城の櫓(やぐら)が鉄筋コンクリートで復元
されていました。

広重も描いた蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)です。
桑名城には、この様な櫓が51もあったそうです。

櫓の中は、水管理事務所になっていて、管理係のオバサン
が、下の写真の様に櫓の窓から見える四方の山、橋、高速
などの風景について説明してくれました。

他に見学者も居なかったので、このオバサンと色々と
長話をしてしましました。
その話によると、
木曽川、長良川、揖斐(いび)川と、大きな川が3本
集まる宮宿と桑名宿の間は、江戸時代は、洪水の頻発
エリアであり、陸路を通行することは困難だったため、
海上の「七里の渡し」が定められたそうです。

宮宿の堀川から伊勢湾に出て、揖斐(いび)川の流れる
桑名までが、東海道中で唯一の海路でした。

櫓から揖斐川の巨大な水門が見えます。現在は、これらの
川の水門を開けるか閉じるかで、関係者の利害が対立し、
もめているので頭が痛いそうです。

桑名城の櫓の隣が、下の写真の七里の渡しの渡船場跡でした。

従って、桑名の七里の渡しで船を降りたつもりで、ここから
旧東海道を西へ進みます。

渡船場跡の脇にある上の写真の大鳥居は、ここから
伊勢街道に入ることから「伊勢国一の鳥居」と呼ばれた
そうです。
江戸時代には、この鳥居を拝んで、伊勢詣を済ませた気分
になって、京へ向かった不心得者も多かったそうです。

う~ん!
でも、確かに、伊勢にお参りに行くより、京都に遊びに
行った方が楽しそうですよね。
特に、2~3人連れの女性の旅人は、伊勢へは向かわずに、
一生に一度の刺激と解放感を求めて、京の都のショッピング
と食べ歩きを楽しんだそうです。

旧東海道の左側が、桑名城のお堀になっていて、全体が
城跡の九華(くわな)公園です。


お堀の石垣は、江戸時代のままだそうです。

下の写真は、徳川四天王の一人、桑名藩の初代藩主の
本多忠勝の像です。


公園の突き当たりを右折し、桑名市博物館で桑名宿の
パンフレットを入手します。


桑名宿の矢田立場跡や火の見櫓などを見物しながら、
桑名宿を抜けて四日市駅へ向かいます。




近鉄名古屋線・伊勢朝日駅の踏切を渡り、JR朝日駅まで
来たところで、恐れていた日没です!

四日市のビジネスホテルまで歩きたかったのですが、この
寒風では、日没後には歩く気がしません・・・
予定を変更して、JR朝日駅で電車に乗り、四日市駅に
向かい、翌朝、このJR朝日駅をスタートする事にします。

でも、今晩は、四日市駅から徒歩1分のビジネスホテル
を確保してあります!

風が身を切る様に冷たいので、早く宿に入ってバスタブ
で温まりた~い!
四日市駅で降りて、改札口を出ます。

駅の構内には売店もなく?、駅を出るとロータリーの前は、
真っ暗です?・・・
駅前には、食堂も、コンビニも、交番も無く、人も
歩いていません?!

大都市・四日市の駅前がなぜ?

そうか!降りる駅を間違えた?

慌てて駅に戻り、駅名を確認します。
”四日市駅”です・・・
駅名に間違いありません・・・

駅から徒歩1分のビジネスホテルはどこ?
何故、駅前が真っ暗?!

取り敢えず、駅前の道を、感で1分くらい歩いてみます。
・・・余計に、暗い道に入ってしまいました。
今、目の前で、何が起きているのか?理解出来ません・・・

「東海道中膝栗毛」の弥次さん・喜多さんの様に
キツネに化かさた?
それとも、急に、痴ほう症になった?

深呼吸をして、真っ白になった頭の中を整理しようと
しますが、夜風が身を切る様に冷たく整理できません・・・

目を凝らして、辺りを見回すと、遥か遠くに、
屋上ネオンの上半分が微かに見えます・・・
ひょっとして、あの辺りが、四日市の繁華街?

ワラを掴む様な気持ちで、そのネオンを目指して、
速足で歩きます。
あのネオンが場末のラブホテルのネオンとかで
ありません様に・・・

速足で歩くこと約10分・・・
徐々に人通りが・・・
そして繁華街のネオンが・・・
近鉄・四日市駅の看板が!!

良かった!

インターネットで予約をした時、四日市駅の周辺に
たくさんビジネスホテルがあったので、一番駅に
近いホテルを予約したのですが、その時、
”近鉄”四日市駅と、”JR”四日市駅がこんなに
離れているというのは、全く頭にありませんでした・・・

桑名宿から四日市宿まで約13キロです。
(但し、桑名宿から朝日駅までは約5キロです。)
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東海道を歩く (踏破の前祝 於:京都 )

2012-01-06 00:41:05 | Weblog
(写真は、東寺の五重塔)
東海道53次を踏破して、昨年末までに京都に着く
つもりで、1月4日~7日の京都のホテルを、「踏破祝い」
として、早々と予約していました。
しかし、当初の計画が甘く、急遽、踏破の”前祝い”
に変更して、1月4日に京都へ行って来ました。

・1/4(水)
 新幹線では、米原・京都間は、横なぐりの猛吹雪でした。
 
 夜は、彩りがよく、繊細で季節感のある京懐石を堪能
しました。(6,000円)

・1/5(木)
 高校・大学が一緒で、しかも同じ会社に就職した、
西宮に住む友人と、十数年振りに会いました。
 彼が、車で好きな所を案内してくれるというので、
平等院と東寺の案内をお願いしました。
 小雪の降る中、先ず、下記の写真の宇治の平等院を
案内してもらいました。

 平等院では、下の写真の53体もある「雲中 供養
 菩薩」を時間をかけて、じっくりと拝観しました。 

(上の写真は、お土産品の絵葉書です。)
加茂川に張り出した料亭の様に、宇治川に張り出した
食事処で、そば茶と「宇治名物・鰻いいむし」を
 食べました。
 「鰻いいむし」は、鰻とおこわを竹の皮に包んで
蒸したもので、山椒が香ばしく、もっちりして噛み
ごたえがあります。
 
 また、冒頭の写真の日本一の高さの五重塔で有名な
東寺でも、金堂や講堂の仏像をじっくりと拝観し、
 仏像三昧の一日を過ごしました。 

・1/6(金)
数十年ぶりに、「哲学の道」沿いのお寺を、懐かしく
観て回りました。
銀閣寺 ⇒法然院 ⇒若王子神社 ⇒大豊神社 
⇒永観堂⇒ 金地院 ⇒ 南禅院 ⇒南禅寺山門
 大豊神社には、写真の狛犬ならぬ狛(こま)ネズミ
があります!
 これは、大国主命(おおくにぬしのみこと)をネズミ
が救ったという神話に基づくものだそうです。

 また、永観堂の「みかえり阿弥陀如来」は、浮世絵の
見返り美人図の様なポーズをした珍しい阿弥陀です!
 お昼は、南禅寺脇の老舗の「順正」で写真の湯豆腐
懐石を食べます。(5,000円)
 風情ある順正の庭を眺めながら、滑らかに仕上げられた
木綿豆腐の湯豆腐と、京懐石を一緒に味わえるコースです。
 


・1/7(土)
 朝から、お昼まで、じっくりと、三十三間堂の仏像
を拝観しました。
 昔来た時は余り感動しませんでしたが、今回は年を
とったせいか、合計1,001体もの本尊に圧倒されて
 感動しました!

(写真はお土産品のクリアファイルです。)

早めに、新幹線で横浜に戻ります。
これにて、東海道53次・走破の前祝いを終了した以上、
残りの行程を、何としてでも完走しなければなりません!
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東海道を歩く (41:宮宿)---

2012-01-05 19:39:40 | Weblog

(写真は七里の渡し跡)
鳴海宿から、足を引きずりながら約7キロ、ようやく名古屋
の市街地に入った感じで、東海道の両側には中小のビルが
続きます。
JRの踏切を渡り、名鉄のガードをくぐると、宮宿(みや
しゅく)の入口である伝馬町商店街に着きました。



でも、裁断橋跡などの史跡の立て札が点在するだけで、宿場町
の面影は残っていません。

宮宿は、江戸時代には、「七里の渡し」として、次の桑名宿
への海上航路の玄関口であると共に、熱田神宮の門前町
として、旅籠248軒と、桁違いの規模の宿場町だった
そうです。

「七里の渡し」跡がある「宮の渡し公園」に向かいます。
しかし、いくら注意して歩いても、「七里の渡し」や
「宮の渡し公園」の表示が全くありません・・・

右腰の筋肉の痛みと腰痛の再発で、間違った道を戻る
元気はありません!
祈る様な気持で、表示を探しましすが、見当たりません!
参ったな~! 道を間違えたかな・・・

高い場所から見回してみよう、と陸橋に登ってみます。
何と!その陸橋を向こう側に降りたところが宮の渡し公園
でした!
「宮の渡し公園」には、船の出入りの目印となった、冒頭の
写真右の「常夜灯」や、写真左の「時の鐘」などが復元され、
往時が偲ばれます。

時の鐘は、出航時刻を告げ、常夜灯は、灯を灯すことで、
逆に渡船禁止の時間帶を示したそうです。



「東海道中膝栗毛」では、弥次さん喜多さんは、宮宿
の鍵屋という旅籠に泊まります。

弥次さんが、宿の主に、”船で桑名に渡るのはいいが、
船から小便するのが怖くてな。”
と相談すると、
主が、”そういう方には、切った竹の筒を差し上げ
ています。”と答えます。

翌朝、桑名に渡る船の中で尿意をもよおした弥次さんは、
早速、周りの人に気付かれない様に、こっそりと
竹筒を取り出します。
本来、この竹筒の使用法は、船べりから竹筒を海に
突き出して、火吹き竹の様に、先に開けてある小さな
穴から海へ流すためのものです。

ところが、この竹筒を携帯トイレと勘違いした弥次さんは、
竹筒の先の小さな穴に気がつかず、座ったまま用を足して
しまいます。
(でも、1/12のNHK「ぶらタモリ」では、 江戸の隅田川
では、竹筒を携帯トイレとして使用していたそうです
から、弥次さんが間違えたのも仕方なかったのかも?)

たちまち、船床は水?びたしになり、船の中は、大騒ぎ
になります。
竹筒を持ったまま、まごまごしている弥次さんは、船頭に、
”誰だ!小便をしたのは!
船の神様が汚れる! 早く小便を拭いて!”

まくしたてられた弥次さんは、ふんどしを脱いで、床を
拭き始めます。

現在は、海上の「七里の渡し」がないので、東海道を歩く人
の間では、神宮前駅から桑名駅までは、電車に乗ることが
”慣例”になっているそうです。
私もこの慣例に従うことにします。

七里の渡しから歩いて10分位の熱田神宮へ、足を引きずり
ながら寄り道をします。


熱田神宮の前の名鉄・神宮前駅から電車に乗り、岡崎を
経由して豊橋へ向います。
そして、豊橋でJRに乗り換えて、何とか横浜に戻りました。



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東海道を歩く (40-2:鳴海宿・瑞泉寺) 7km

2012-01-04 09:45:32 | Weblog

(写真は瑞泉寺)

鳴海宿に入ると、すぐ右手に、冒頭の写真の瑞泉
(ずいせん)寺があります。



瑞泉寺を過ぎて、暫く歩いていると、突然、右腰の筋肉に
痛みが走りました!

思わぬタイミングで、筋肉痛の発生です・・・
右腰をかばう様に、ゆっくりゆっくりと歩きます。
しかし、歩く毎に、全身に軽い痛みが走ります。

ウォーミングアップ不足か?、疲労の蓄積か?

何とか、一番近い小さな公園のベンチにたどり着き、
座り込みます。
水分を補給して、おにぎりを食べて、30分位休息して、
回復を待ちます。

この時期、晴れていても、風が身を切る様に冷たく、
30分もじっとしていると、身体が冷え込んで、
手がかじかんできました・・・

座ったままだと凍えそうなので、頑張って立ちあがります。
イテテ・・・
ベンチから立ち上がるのも辛いです・・・
痛みが走らない様に、工夫しながら、ゆっくりと歩きます。

足裏の内側に重心を移して歩いてみたり・・・
小股で歩いてみたり・・・
大股で歩いてみたり・・・
痛みが走らない歩き方を模索します。

変な歩き方をしたからか、今度は、軽い腰痛が・・
腰痛の再発か?!
弱り目に祟り目です・・・
昔やった腰痛の再発なら、このブログの”東海道を歩く”
シリーズもここで打ち切り?
トホホ・・・

もう一度、次の公園のベンチで、水分を補給して、更に
30分位休息して回復を狙います。
合計で1時間くらい休息したら、少し身体が楽になった
様な気がしてきました。
再び、立ちあがって歩き始めます。

リュックを背中ではなく、腹の方に付けて歩いたら、
後ろに引っ張られることがないので、腰痛が和らぐ
かな、と思い、リュックを前にして歩きます。
ちょっと格好が悪いですが、そんな事を言っては
いられません。
意外にこれが成功で、腰痛が少しづつ和らいで
ゆきます。

そして、やはり1時間の休息の効果か、右腰の筋肉
の痛みも少し和らいできました。
足を引きづりながら、鳴海宿から宮宿へ向かいます。

名鉄鳴海駅を過ぎると、旧東海道は北上し始めます。
そして、旧東海道は天白川の手前で北上を止め西へ
向かいます。

天白川の天白橋を渡り、立派な木の笠寺の一里塚で一休み
してから、雰囲気のある笠寺観音を左折し、笠寺観音
商店街を抜けます。

(天白川)

(笠寺の一里塚)

(笠寺観音)
やがて、名鉄呼続(よびつぎ)駅の近くを過ぎ、山崎川の
山崎橋を渡ると、名古屋市街地のビル群が見えはじめ
ました。
鳴海宿から宮宿まで約7キロです。

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東海道を歩く (40-1:鳴海宿:有松) ---

2012-01-03 09:09:09 | Weblog

(写真は、有松宿の井桁屋)
有松宿は、岡崎宿と鳴海宿の中間に位置する間宿です。
広重も描いた”有松絞り”の問屋の風格のある町並み
が続きます。

江戸時代には、絞りの問屋が集まり、有松絞りは、有松宿
の名産だったそうで、今でも、有松絞りを売る店が点在して
います。
色鮮やかな有松絞りは、持ち運びに便利な東海道のお土産
として、旅人の間で大評判となり、有松・鳴海を訪れる女性
たちは、こぞってショッピングを楽しんだそうです。


(有松絞り:土山宿伝馬館展示品)



かって「有松・鳴海絞り」の店が並んでいた道筋には、今も、
往時をしのばせる町家が軒を連ねています。
当時の風情を色濃く残す宿場町で、まるでタイムスリップ
したかの様な錯覚に陥ります。
冒頭の写真の井桁屋を始めとして、連子格子、なまこ壁、
うだつ等、当時の様式を残す十数軒の建物が軒を連ねます。




また、有松のもう一つの名物である「からくり人形」を
格納する蔵もありました。




今、「敵討(かたきうち)」(吉村昭:新潮文庫400円)を
読んでいます。
主人公は、惨殺された父母の敵を討つため、明治8年の
8月下旬に、佐賀の秋月藩を出立します。
小倉から船で大坂に着き、そこから東海道を歩いて、10月
初旬に東京に着きます。

九州と関西の間は、瀬戸内海で海が穏やかだから、昔から、
やはり船旅だったんでしょうね。
でも、明治になっても、大坂から東京までは、東海道五十三次
を、江戸時代と同じ様に歩いていたんですね!
そう、未だ、鉄道も無かった訳ですからね・・・
明治13年、主人公は、東京で仇を討ち、めでたく本懐を
遂げ、帰藩を許され、故郷の皆から祝福を受けるハズ
だったのですが・・・

しかし、この時点では、藩は廃止され県となっており、
「仇討ち禁止令」が出ていて、主人公は、殺人罪として
死刑を求刑されます!
(もっとも、この仇討ち禁止令は、一般には知られて
おらず、法律関係者のみが承知していたのだそうです。)

この小説は、裁判記録の写しとして残っていた「最後の
仇打ち」の実話に基づくもので、藤原竜也主演のテレ朝・
ドラマ「遺恨あり」でもやっていました。
明治になっても、東海道の旅行が、江戸時代と何も変わら
なかったというのが、私にとって新鮮な驚きでした!

東海道五十三次や宿場町が、更に、身近かに感じられます!

有松宿を抜けて、約2キロ西の鳴海宿へ向かいます。



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東海道を歩く(39:知立宿) 11km

2012-01-02 22:48:56 | Weblog

(写真は、知立の松並木)
知立(ちりゅう)は、昔、池鯉鮒(ちりゅう)と書いた
そうです。
江戸時代に、東海道三社のひとつであった知立神社の池を
泳ぐコイやフナから「池鯉鮒(ちりゅう)」宿の名前が
ついたそうです。

う~ん! 難しい! 読めません!

そう言えば、年末のテレビの”何これ珍百景”で、
池鯉鮒さんの読み方クイズをやっていました。
知立宿は、約500mの見事な「知立の松並木」から
始まります。

”並木八丁”と呼ばれる松並木の中ほどに、馬の像が
あります。

江戸時代には、松並木で馬市が行われたそうです。
これは、広重も描いた馬市の開催地として有名だったから
だそうです。
知立の松並木は、写真の様に、並木の外側に更に道があります。
これは、馬市の時に馬をつなぐためのスペースだったらしい
です。
松並木を抜けると、旧東海道は、国道一号の地下道をくぐり、
国道の北側から南側に移ります。
名鉄本線の支線である名鉄三河線の踏切を渡ると、知立宿
の商店街が始まります。

ここで、知立名物焼き立ての白あんと黒あんの「あんまき」
を買います。
上品なアンコで、甘さも程良く美味しいです。

旧東海道から少し南へ入った所に名鉄知立駅があり、本日は
ここで宿をとり、翌朝、8時前に知立をスタートし、間宿
である有松宿を経由して鳴海宿へ向かいます。


翌朝、知立宿を抜けて、逢妻(あいづま)川を渡ると、国道
1号と合流し、自動車や電子部品などの工場が点在します。

トラックの排気ガスに悩まされながら歩いていると、大きな音
が工場のスピーカーから!  ”ラジオ体操第一”です!
工員さん達の始業前の体操なのでしょうけど、懐かしい~!
更に、西へ歩いてゆくと、尾張の国と三河の国の国境である
「境橋」がありました。



川の土手で一休みして、水分を補給します。
川の土手に自転車を止めて、朝ご飯でしょうか、オジサンが、
オニギリを頬張っています。
オジサンと目が合ったので挨拶をすると、これから得意先
回りを始めるところ、とのこと。
世間話をしたあとで、オジサンは、”今年は、ヒドイ年
だったけど、来年は、あなたにとって、良い年であります
様に!”と言って、自転車を漕いで行きました。
オジサン、ありがとう!

国道一号との合流と分離を繰り返しながら、更に4キロ程
進むと、急にトイレへ行きたくなりました・・・

この時期、昼間で晴れてはいても、風が身を切る様に冷たく、
水分補給した水が汗で出ることはありません・・・
ちょうど、名鉄の前後駅の前後だったので(ダジャレ?)、
駅のトイレを使おうかと思いましたが、切符を買わないと
中に入れません・・・
駅の周りをウロウロしていると、駅の駐車場にトイレが・・・

助かった!
この時期は、水分補給よりもトイレの確保が優先です。

前後駅から、更に、1キロ余り歩いて、名鉄本線のガード
をくぐると、すぐ左手が、桶狭間古戦場跡です。

この周辺は、「桶狭間」の古戦場だったところで、整備
された小さいけれども綺麗な公園になっていました。
歴史上、最も華麗な逆転劇と言われる「桶狭間の戦い」の
場所です。
1560年、今川義元が率いる大軍2万5千に対し、約十分の一
の軍勢で挑んだ織田信長が、天候の急変を機に、この桶狭間
で休息していた今川軍に奇襲をかけました。

今川義元は、あっけなく戦死し、織田軍が圧勝します。
今川義元が、上の写真の木に、馬をつないで休息して
いるところを急襲され、討たれたそうです。
へ~!  その木が今も残っているんだ!
この古戦場跡公園に、今川義元の墓がありました。

更に、1キロ程歩くと、岡崎宿と鳴海宿の中間に
位置する有松宿に着きました。

知立宿から有松宿までは約9キロです。
(知立宿から鳴海宿まで約11キロです。)
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東海道を歩く(38:岡崎宿)15km

2012-01-01 16:31:13 | Weblog

(写真は、八丁味噌蔵)
徳川家康の生誕地岡崎は戦災を受け、本陣跡や問屋場跡に
標柱がある程度で、遺構らしきものは何も残っていません。

岡崎宿の入口には、防衛のため形成された道の”二十七曲り”
と呼ばれる枡形(ますがた)についての表示柱がありました。
表示柱は、曲がりくねった地図の表示ではなくて、次の
曲がり角までのメートル数が次々に書かれていて、これを
たどれば良いようになっています。

枡形(ますがた)は、城下町や宿場町の出入口にあり、敵が
真っ直ぐに進めない様にわざと道を左右にずらしたものです。
(下の写真は岡崎信用金庫です。)


繁華街の中心にある岡崎公園の中の岡崎城へ向かいます。
家康が生まれ育った岡崎城は、天守閣が再現されて
います。

岡崎城内に、八丁味噌蔵への案内板が出ていたので、これに
従い、岡崎城の綺麗な石垣のお堀端を抜けて、八丁味噌の里
の味噌蔵へ向かいます。

冒頭の写真の様な八丁味噌の蔵が並んでいました。
岡崎城から八丁(870m)の距離なのでこの名前が付いた
そうです。 江戸時代から続く「カクキュー八丁味噌」の
蔵と工場を見に行きます。

ここの味噌蔵を舞台にしたNHK朝の連続ドラマの「純情
きらり」の宮崎あおい等の手形の碑が点在していました。





八丁味噌は、丸大豆と塩のみを使い、3年間じっくりと
熟成させて造るので、長期間保存が利き、寒暖にも変質せず
携帯にも便利なことから重宝されたそうです。
徳川家康もこの八丁味噌を焼いて食べるのを好んだそうです。

お昼は、味噌カツ丼(900円)を食べます。
東京のカツ丼を食べ慣れていると、タレが少ししつこく
感じます。文化の違いでしょうか。


岡崎宿を抜けると、矢作川橋跡がありました。
岡崎城の西を流れる矢作(やはぎ)川は、当時、水路による
物資輸送で、重要な役割を果たし、これにより、岡崎は、
城下町、宿場町、湊町として発展しました。
旧矢作川橋は、長さ374メートルと、東海道で一番長い
橋だったそうです。
広重も”岡崎城と矢作川”を描いています。
矢作川橋は、日吉丸(豊臣秀吉)が蜂須賀小六に出会った
橋として有名です。

豊臣秀吉は、蜂須賀小六のお陰で、一夜城を築け、とんとん
拍子の出世をします。
そう言えば、土産に買った八丁味噌にも、橋の上での
二人の出会いの図が描かれていました。

(京の五条大橋の上の牛若丸と弁慶ではありませんよ
・・・念のため)
写真の八丁味噌は、田楽みそとして最適ですが、野菜
スティクに付けて食べたらとても美味しかったですよ。

次の知立宿を目指します。
旧東海道は、やがて国道一号と合流、トラックの排気ガスを
我慢しながら、約3キロをひたすら歩くと、名鉄宇頭駅の先で
国道一号から離れ、再び松並木が点在する旧東海道へ入ります。

2キロほど進むと、旧東海道の右手に「雲竜の松」で有名な
永安寺がありました。

境内の雲竜の松の幹が、地を這う様に四方に伸びてます。

うねる様にしてして横へと伸びた枝は、まるで複数の竜が天に
昇るという感じで、力強い屏風絵を見る様な迫力があります。
う~ん! まるで生き物の様な見事な松です!


永安寺を出ると、直ぐに、衣浦豊田道路の陸橋があり、これを
超えると、道の所々に松並木が点在する様になります。

ここから数キロ行くと、道の左右両側に一里塚が残っている
来迎寺一里塚ががあります。

更に、1キロ程進むと、もう次の知立宿の入口である知立の
松並木が見えます。

岡崎宿から知立宿までは、約15キロと、かなりの長丁場です。
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