ウォーク更家の散歩 (東海道、中山道、日光街道、奥州街道)

http://www7b.biglobe.ne.jp/~akamine/
中山道を歩く(完全踏破の一人旅)

バスで行く「奥の細道」(その12)     ( 「宮城野」 : 宮城県 )  2018.3.14

2018-11-24 08:17:55 | Weblog

(写真は、榴岡天満宮の牛の親子 )


図説 地図とあらすじでわかる!おくのほそ道 (青春新書INTELLIGENCE 399)
クリエーター情報なし
青春出版社


芭蕉と曽良は、伊達家のお膝元、仙台( 宮城野 )に入ります。

仙台は、当時、伊達正宗のひ孫の伊達綱村が藩主でした。

芭蕉は、仙台に4~5泊するつもりで、そのために2通の
紹介状を携えていました。
しかし、1通の宛先の仙台藩士は、折り悪く病気のため宿泊を
断られ、もう1通の宛先の俳人・三千風(みちかぜ)も留守で
会えませんでした。

途方にくれた芭蕉は、仕方なく、宮城野の旅籠に飛び込みで
宿泊します。

俳人・三千風(みちかぜ)には留守で会えませんでしたが、
三千風の弟子の「加右衛門」(俳号:加之(かし))と
出会います。

当時、仙台藩は、領内の歌枕の名所の整備に力を入れて
いましたが、「加右衛門」はこの作業に加わっていました
から、仙台に於ける芭蕉の”歌枕探訪”の案内人としては
最適でした。

加右衛門の案内で、芭蕉は、「陸奥国分寺跡・薬師堂」、
「榴岡天満宮」などの仙台市内の歌枕の地を見物して回ります。

加右衛門の案内で訪れた木下(きのした)の「薬師堂」は、
辺り一帯に、萩がうっそうと茂り、露が落ちていました。

”みさぶらひ 御笠と申せ 宮城野の 木の下露は 
 雨にまされり”

(お供の方よ、笠を被る様に、ご主人に申し上げてください。
 宮城野の木の下の露は、雨よりも激しいのですから。)
と、芭蕉は、その昔に詠まれた上記の歌の情景を想像
しながら、”これが宮城野の木の下露か!”と、感慨に
ふけりながら、薬師堂の辺りを散策します。

仙台での歌枕探訪を満喫した芭蕉は、いよいよ仙台を出立する
際に、加右衛門から心のこもった贈り物を受け取ります。

それは、これから向かう松島や塩釜などの名所絵図と、
紺に染めた緒の草鞋(わらじ)でした。

ちょうど今の端午の節句のあやめ草を連想させる、紺の麻の
緒の付いた風流な草鞋を喜んだ芭蕉は、加右衛門のことを
「心憎いほどの風流人」と褒めて1句詠みます。

”あやめ草 足に結ばん 草鞋(わらじ)の緒”

(あやめ草の様な紺の染緒の付いた草鞋を履いて陸奥の旅に
 出発するのだ。)


その翌朝、芭蕉は、仙台の城下町の町割りの基点とされた
「芭蕉の辻」から東方への道をとり、塩釜を目指して
旅立って行きました。

仙台藩は、その威光を街道を行く人々に見せるために、
「芭蕉の辻」の四つ角の全てに、城郭風の高楼を備えた建物
を建てていたそうです。

ん?、「芭蕉」は初めて仙台に来たのに、既に、城下町の
中心の地名が「芭蕉の辻」になっていたのは何故?

実は、ここ「芭蕉の辻」には、伊達政宗のスパイとして働き、
その恩賞として、この辻の四隅の城郭風の高楼を授かった
”芭蕉という名の虚無僧”が住んでいたそうです。

諸説あるものの、いずれにせよ、ここ「芭蕉の辻」と
「松尾芭蕉」とは無関係だそうです。

そうだったんだ~。


我々のパック旅行のバスも、名取川を渡って、仙台の市街地に
入りました。

「木の下(きのした)」地区の「陸奥国分寺・薬師堂」へ
向かいます。

(仁王門)



(鐘楼)

奈良時代に創建された「陸奥国分寺」は、1189年、源頼朝が
奥州・藤原氏を追討した際の兵火によって焼失してしまい
ました。

1607年、伊達政宗は、「陸奥国分寺」跡を整備し、同時に
「仁王門」や「鐘楼」などを再建すると共に、新たに「薬師堂」
を建立しました。

焼失した陸奥国分寺の中心部の跡は、次頁の写真の桃山様式の
「薬師堂」の境内として残りました。







バス旅行は、陸奥国分寺を出て、「榴岡(躑躅岡)天満宮」
(つゝじが岡天満宮)へ向かいます。

榴岡(つゝじが岡)は、奥州合戦の際に、奥州藤原氏・四代の
藤原泰衡が、源頼朝軍を迎え撃つために本陣を築いた地だ
そうです。

歌枕にもなっている榴岡天満宮は、昔は、その名の通り、
ツツジの名所でしたが、仙台藩四代藩主・伊達綱村が、
枝垂れ桜を植えて以来、桜の名所として知られています。





境内には、たくさんの句碑、歌碑が並んでいますが、
下の写真は芭蕉句碑です。



句碑の右側の下に、小さな字で、
”あかあかと 日はつれなくも 秋の風 ”と、
芭蕉の句が刻まれていますが、この碑の側面に、寛保三年
(1743年)建立とあります。


榴岡天満宮を出て、仙台市の中心の「芭蕉の辻」へ
向かいます。


コメント (8)   この記事についてブログを書く
« バスで行く「奥の細道」(そ... | トップ | バスで行く「奥の細道」(そ... »
最近の画像もっと見る

8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
木の下 (hide-san)
2018-06-19 10:35:56
薬師堂に向かって左手にうっそうとした林がありました、
松の木はあまり見えませんでしたが、
「まさぶらいみかさ」の歌を彷彿とさせる林でした。

その中に準胝観音堂や句碑がありましたが、
ツアーでは行かれなかったでしょうか?
木の下の薬師堂 (ウォーク更家)
2018-06-19 10:54:18
そうですね、薬師堂の左手のうっそうとした林は、”みさぶらひ 御笠と申せ 宮城野の 木の下露は 雨にまされり”の歌を彷彿とさせますね。

ええ、準胝観音堂や句碑へはツアーでは行きませんでした。
奥の太道 (もののはじめのiina)
2018-06-19 11:48:54
(ウォーク更家)さんの進む「奥の細道」も、説明とともに太くたくましくなっていきます。^^

”芭蕉という名の虚無僧”が住んでいて「芭蕉の辻」の地名が既にあったとは、スパイなのに名を遺すなんておもしろいですね。
あるいは、水芭蕉が咲くからだったりするかも・・・。

山寺を構想した洞が、垂水遺跡にあります。後で知ったのですが、寄りたい地です。
登山口・根本中堂から、東に約1kmほど歩いたところに千手院があり、ここから境内右手の山道を15分ほど登った所だそうです。
https://ukkari-nihontabi.net/archive/travel/tarumizu-iseki/

仙台の思い出 (船橋原人)
2018-06-19 14:54:43
高校生と社会人生活で約7年間過ごした仙台の「薬師堂」や「芭蕉の辻」いずれも学校・会社の近くにありました。
iinaさんへ (ウォーク更家)
2018-06-19 19:47:04
そうですよね、普通は、隠密は歴史的には無名のハズなのに、名を遺すのは面白いですね。

半蔵門の服部半蔵みたいな例かもしれませんね。

そう、虚無僧・芭蕉説が最有力とのことですが、諸説ありとのことなので、「水芭蕉が咲くから」説もありだと思います。

千手院は凄い場所ですね、とてもバスツアーでは行けそうにありません・・・
船橋原人さんへ (ウォーク更家)
2018-06-19 19:52:16
そうでしたか、薬師堂や芭蕉の辻の周辺は、船橋原人さんが、高校生活と社会人生活を過ごした仙台の思い出の地でしたか。

私のブログの写真で、若かりし頃の思い出が蘇えってきましたでしょうか。
芭蕉の辻 (コスモタイガー)
2018-06-22 10:12:12
そうですか!
松尾芭蕉と芭蕉が辻、無関係なんですか!
それはむしろ驚きです。

仙台ですね。
遠くになりましたね…。
芭蕉と無関係の芭蕉が辻 (ウォーク更家)
2018-06-22 14:33:15
そう、私も、芭蕉の旅のバス旅行で最初に芭蕉が辻に行った時は、当然、松尾芭蕉の芭蕉が辻だと思い込んでいました。
現地で説明を受けて驚きです。

そうですね、いよいよ仙台、そして、我々のバス旅行も、来月には、平泉を経て、日本海側に出る予定です。

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事