ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

中山道を歩く(08:熊谷) 埼玉県熊谷市  11km  2013.1.2


(写真は熊谷堤)
熊谷宿は、映画「のぼうの城」で有名な忍(おし)藩領で、絹
や綿織物を商う六斎市が立ち、交通の要所として栄えました。

・熊谷堤

 写真の熊谷堤は、荒川の洪水を防ぐために、城主の北条氏が
 築いたそうです。
 江戸時代は、この地は、忍藩領でしたが、荒川の氾濫で
 幾度も大きな被害を受けます。
 しかし、川筋の全面改修を行ったことで、舟の交通が発達
 し、物資の集積地として栄えたそうです。
 
 ダンプの風圧に耐えながら、狭い歩道の中山道を延々と
 歩いてきたので、この時期、風は冷たいものの、広大な
 熊谷堤のウォーキングは爽快です!

・権八延命地蔵堂と権八地蔵

(権八延命地蔵堂)

(権八地蔵)
 延命地蔵は、別名「物言い地蔵」とも言われています。
 歌舞伎にも登場し、後に鈴が森で処刑された白井権八が、
 この熊谷堤で絹商人を殺害して、この地蔵に、
 ”誰にも言うな”と口止めしたところ”私は言わぬが、
 おぬしも言うな”との言葉が返ったという伝説が今も語り
 継がれているそうです。
 権八延命地蔵堂と権八地蔵は、上記の同じ由来をもちます
 が、どちらが本物かは不明だそうです。
・みかり屋跡



 英泉の浮世絵「熊谷宿 八丁堤の景」は、久下(くげ)村
 から熊谷宿へ通じる道中の「みかり屋茶屋」で憩う旅人を
 描いています。
 前ページの浮世絵の左端が、「みかり屋茶屋」で、老婆が
 お茶を運んでいます。
 右上が、熊谷堤で、中山道は、この堤の土手を熊谷宿へ
 向かいます。
 右側の地蔵が、上記の白井権八と会話をした「権八地蔵」
 らしいです。
 駕籠の中の金持ちらしい客が、供の者から権八地蔵の由来を
 聞いています。
 また「みかり屋茶屋」は、忍藩・藩主の鷹狩の際の休息所
 でもありました。

・熊谷直実像
 直実は、源平の一の谷の合戦に登場します。
 一の谷で、平家勢は、源氏側の奇襲を受け、海上の船に
 逃げます。
 直実は、波際を逃げようとしていた平家の公達らしき
 騎乗の若武者を呼び止めて、一騎打ちを挑みます。
 この若武者が、笛の名手として知られた平敦盛で、敦盛は
 大事な笛を取りに戻ろうとして舟に乗り遅れてしまった
 のです。
 直実は、取っ組んで若武者を馬から落とし、首を取ろうと
 顔を見ると、化粧をした容姿端麗な14~5歳の若者でした。
 直実は、我が子と同じぐらいの齢の若武者を助けようと、
 名を尋ねますが、敦盛は「名乗らずとも、首を取って人に
 尋ねよ」と健気に答えます。
 背後には、源氏の武士たちが迫っており、直実は、泣く泣く
 敦盛の首を掻き切ります。
 そして、直実は、この様な若武者も殺さねばならない世の
 無常を感じ、出家してしまいます。(「平家物語」)
 その後、この話は、歌舞伎や謡曲にとりあげられ、人気演目
 となりました。

 織田信長が、”人間五十年 下天の内をくらぶれば 
 夢幻の如くなり”と、よく映画やドラマで舞っている、
 あの有名な場面の”謡曲「敦盛」”がこの話なのです。


 熊谷駅前のロータリーに、写真の熊谷直実の像があり
 ました。 

・高札場の碑

 繁華街の街道沿いに、幕府の法度、宿場の決まりなどを
 書いた高札場の碑がありました。
 ・高城(たかぎ)神社

 繁華街の街道沿いに大きな鳥居がありました。

 高城神社は、映画「のぼうの城」の石田三成の忍城攻め
 で類焼してしまいましたが、1639年に再建されています。
 私が訪れたのが正月の2日だったので、多くの人々が
 初詣に来ていました。
・本陣跡の碑

 繁華街の街道沿いに竹井本陣跡の碑がありました。
 明治17年の火災と昭和20年の戦火で焼失したそうです。
・熊谷寺(ゆうこくじ)
 熊谷直実の菩提寺で、直実が、ここに草庵を結び、念仏修業
 に励んだのが始まりだそうです。

・秩父への道標
 石原北の交差点に、写真の大きな看板が出ていました。

 見ると、「秩父祭りが、いつでも見られる!」と、
 あります。

 え~! こんな所に、秩父の夜祭りの常設館が!
 懐かしいな! ちょっと寄って見て行こう、
 と思い、看板に近づいてみると・・・
 ここから、46キロとあります!

 えっ! ウソ~!
 46キロも手前の看板って、どういう事!?
 辺りを見回すと、写真の秩父への道標がありました。

 1766年造立の「秩父34ケ所観音所一番札四万部寺」と
 記されています。

 そうか! ここは、中山道と秩父道の追分なんだ!
 う~ん・・・ なるほど、そういう事か!
 この看板のお陰で、秩父道の道標を見落とさなかったし、
 この看板は、江戸時代の追分の道標の現代版と考えれば、
 由緒ある看板とも言えるかも・・・
 秩父道は、ここを起点に寄居を経て秩父へ向かうそうです。

・植木の一里塚

 樹齢300年、周囲3.6メートル、高さ12メートルの大
 ケヤキの一里塚です。

・忍(おし)領石標

 他藩との境界争いを避けるために、1780年に、忍城の
 城主が建てた石碑だそうです。

熊谷宿から深谷宿までは、約11キロです。

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コメント一覧

更家
○ちやんさんへ
いつも愛読、ありがとうございます。

碓氷峠越えのアドバイス、ありがとうございます。

和宮の降嫁の際に、碓氷峠の大工事が行われ、
少し平易なルートが開拓されたという話は初めて
知りました。

という事は、和宮さんのお陰で、私も少し楽が出来る
ということですね。
有難い!

この寒波の中での碓氷峠越えは厳しいので、
冬の間は坂本宿までで止めて、春になり、少し
暖かくなってから碓氷峠越えに挑戦しようと
思っています。

引き続きご愛読の程、宜しくお願いします。
Unknown
○ちやんです(^u^)
いつも愛読させて頂いております
さて、碓氷峠は約10kmの間に標高差が500m以上に達する急峻な片勾配の峠となっていて、群馬県側の麓・横川の標高は387m、長野県側の軽井沢は標高939mです。坂本宿から刎石山までの水平距離700mの間に標高差が300mもあります。山脈をトンネルで抜けることで峠越えの高低差を解消できる一般的な峠と異なり、通行には近代に至るまで数多くの困難を抱えたとのこと。戦国時代、碓氷峠は信州からの侵攻を防ぐ要衝となっていた程。
碓氷峠は中山道有数の難所であったため、幕末、和宮が徳川家茂に嫁ぐために中山道を通るとき大工事が行われ、和宮道と呼ばれる多少平易な別ルートが開拓された程です。碓氷峠は難所です。十分にお気をつけて無理しないでください!(^o^)丿
更家
四万部寺
身を切る寒さの中、細々と中山道歩きを続けています。

それにしても、秩父道道標の文字の中の「四万部寺」
にピンと来て、「秩父34カ所」巡りを思い出すあたり、
さすが原人さんですね。

確かに、インターネット地図で調べてみると、
秩父と熊谷は42キロも離れていますね。

アドバイス頂いた通り、碓氷峠から先の山道は、
春になって温かくなってから、ということにして、
碓氷峠の手前まで来たら、暫く、中山道歩きを
お休みにしようと思います。
船橋原人
熊谷まで行きましたか?
今回は余裕?を持って歩いているので、詳しい情報が沢山ありますね。
秩父と熊谷方面は40キロ以上も離れているのですか?
去年秋、「秩父34カ所」巡りで最初に訪れたのは「四万部寺」でした。
これから寒さも厳しくなってきます。高崎辺りまでは平坦な道でしょうが、その先は気をつけて歩いて下さい。
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