ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

奥州街道を歩く (23:鍋掛) 栃木県黒磯市  1km 2018.11.19


(写真は、道標を兼ねた永代常夜燈)
長らく悩まされていた股関節炎の痛みも、徐々に治まってきた
ので、恐る恐る”奥州街道の踏破”を再開しました。

前回、危うく野宿になりかけた、”悪夢の練貫十文字・
バス停”から歩き始めます。

 栃木県では、「交差点」のことを「十文字」と呼ぶみたい
です。

街道を進んで行くと、左手に、1756年に建てられたという
道標を兼ねた「永代常夜燈」がありました。

上の写真の様に、正面に「永代常夜燈」、左側面に「左
原方那須湯道」、そして、次頁の写真の様に、右側面に
「右 奥州海道」と刻まれています。


永代常夜燈の後ろには、2つの念仏碑と十九夜塔が建って
いました。



更に進んで行くと、やがて、大田原市から那須塩原市へ
入ります。

那須塩原市の樋沢(ひざわ)地区に入ると、街道の左手の
上の方に「鍋掛の一里塚」の表示が見えました。
矢印に従って石段を上って行くと、「鍋掛神社」への参道が
続いており、参道の途中に次頁の写真の「鍋掛の一里塚」が
ありました。





街道に戻り、上の写真の鍋掛十文字のバス停を過ぎると、
もう「鍋掛宿」です。
鍋掛宿は、奥州街道の難所とされた那珂川を控え、対岸の
「越堀宿」と2つで1宿の務めを果たしていました。
鍋掛宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠11でした。
また、那珂川は、幕府にとって天然の防御ラインだったので、
鍋掛は天領でした。
那珂川には、船橋や土橋があったそうですが、増水すると
川留めになり、宿場町は大いに賑わいました。
那珂川の増水で川留めとなったとき、溢れた旅人達に、住民が
総出で鍋を出して炊き出しをしたのが「鍋掛」の地名の由来
だそうです。

鍋掛宿に入ると、歩道と車道の境界に、ガードレールの代わり
に、石碑風の石が写真の様に並んでいますが、明治に大火が
あり、宿場町の面影は何も残っていません。



少し歩くと、右手に上の写真の小さな神社があり、その境内に
「芭蕉句碑」が建ってました。
 ”野をよこに 馬ひきむけよ ほととぎす”  
 (何処かで ほととぎすが鳴いている。さあ、聞こえる方に
馬を差し向けて、一緒に聞こうではないか。)
この句碑は、1808年に、鍋掛宿の俳人達によって建てられた
そうです。

その先の「正観寺」(しょうかんじ)の境内には、蔵造り
を模した鍋掛宿消防小屋がありました。




鍋掛宿は、直ぐに那珂川に突き当たり、左にカーブして
「昭明橋」を渡ります。





昭明橋の手前に、左に入る小道があり、入って行くと、右手に
写真の大きな馬頭観世音碑がありました。

那珂川に架かる「昭明橋」を渡って左折すると、もう次の
「越堀宿」に入って行きます。


鍋掛宿から越堀宿までは、僅か約1キロです。


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コメント一覧

ウォーク更家
間もなく奥州街道も踏破
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
1年間も自重したので自然回復したのでしょうか、奥州街道の残りは、股関節炎の痛みも発症せずに、順調に歩いています。

ええ、多くの街道で、どこに行っても芭蕉句碑が多いことには驚きます。

芭蕉が旅に生きて、広範囲を歩いているので、行先に句碑が多いこともありますが、江戸時代の芭蕉ファンが、関係ない場所に建てた句碑も多い気がしています。
こもよみこもち
おはようございます。
https://blogs.yahoo.co.jp/ya3249
足の調子もよくなってきたということで、よかったですね。

街道を歩いていて思うのは、どこに行っても芭蕉句碑が多いこと。
芭蕉も旅に生きた人ですね。
ウォーク更家
常夜燈や石像などに慰められながら街道をあるく
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そうですね、奥州街道は、常夜燈、石碑、句碑、石像などが、無造作に、街道沿いの至る所にあり、慰めてくれます。

ええ、道中を味わいながら、気持ちは、今晩の芦野宿の芦野温泉のお風呂とご馳走に・・・
もののはじめのiina
街道をあるく 
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/1bb942846b60600bb2b465eceb2e71dd
奥州街道に沿って常夜燈はありがたく、石碑、句碑、石像がはげましてくれます。
    道中をあじわいながら、気持ちは次の宿にとんでいるでしょうか・・・。

> 栃木県では、「交差点」のことを「十文字」と呼ぶみたいです。
「人間交差点」というマンガがありますが、交差点はそんな交わりのイメージがつきます。
       山形に「十文字」というラーメン屋さんがおいしかったです。^^蛇足でした。


> 葛飾北斎の海・・・どのようなテクニックで加工(合成?)したのか、加工の工程が、私には全く想像がつきません・・・
いえ、説明不足でした。
写真は、iinaが撮った実物ですが、1枚の画像にまとめたインスタグラムです。写真をクリックください。




ウォーク更家
馬子に贈った俳句の句碑
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
ありがとうございます。

手綱をもった馬子が、俳句の短冊をください、と言ったということは、田舎の馬子といえども、俳句に興味があるのだと思って、芭蕉は嬉しかったのでしょうね。

この馬子も偉いですが、馬子だからとバカにせずに、キチンと相手にして、俳句にして贈った芭蕉も偉いですね。
hide-san
芭蕉句碑
https://blog.goo.ne.jp/hidebach/
芭蕉が那須に向かう時、手綱をもった馬子に、
「短冊得させよ」(=俳句の短冊ください)といわれて、
馬子にこのような希望があることに感じ入って、
作った俳句のようです。

ホトトギスが鳴く方に、馬を遣ってくれ、
風流を愛するお前と共に聞こう、

と芭蕉は俳句にして贈ったと言います。
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