ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

バスで行く東海道「第9回-2」 (関宿) 2012.12.8

ツァーの最終回の第9回の続き(-2)の関宿です。
”一人旅”で取り上げなかった場所を、ご紹介しますので
「47:関宿 2012.2.29」ブログと併せてご覧下さい。
(また、ホームページ「東海道五十三次を歩く」
(http://www.minedayo.com/)にもお立ち寄り下さい。

「47:関宿」
宿場の入口に、東海道と伊勢別街道の分岐点である「東の
追分」があり、写真の鳥居、常夜灯、道標が残っています。

ちなみに「西の追分」は、宿場の反対側の出口にあり、東海道
と奈良へ向かう大和街道の分岐点でした。
関宿は、東海道、大和街道、伊勢別街道の3街道の分岐点に
位置していたので、お伊勢参りの団体ツアーが盛んになった
江戸時代には1日の通行人が1万5千人もあったそうです!
東西文化圏の境目に”関”宿があったため、「”関”より西」
「”関”より東」という意味で、現在の「関西」「関東」の
語源になった、という説もあるそうです。



東海道沿いの旅籠名の大部分の看板については、京都側は、
上の写真の様に「長谷屋」と”漢字”で書かれ、江戸側は、
下の写真の様に「はせや」と”仮名”で書かれています。
これは、当時、京都の人は教養が高く漢字が読めたので
”漢字”表記、江戸の人は教養が低く漢字が読めなかった
ので”仮名”表記だった、という説があるそうです。
(驚き!)
こんな学説!、関東の人は怒った方がよいのでは!!
以下の写真は関宿の町並みです。







(山車の倉庫)

「関宿」と言えば、何と言っても「関の小万(少女)」です!
  ♪関の小万が亀山通ひ♪
  ♪月に雪駄が二十五足♪

以下は、鈴鹿馬子唄にも唄われた「関の小万」の物語です。

関の「小万」は、下の写真の会津屋(旧旅籠山田屋)に住んで
いました。

江戸時代には、小万は、女の身でありながら、父の仇討ちを
果たした烈女として有名だったそうです。

小万の父は、九州久留米・有馬氏の家来の剣道指南役でした
が、遺恨により同輩の小林軍太夫に殺されました。

身重の妻(小万の母)は夫の仇を討つため旅に出ましたが、
鈴鹿峠を越え、関宿についた頃には、旅の疲れが重なって、
行き倒れ同様の有様でした。

山田屋の主人は、この妻を手厚く看病します。

妻は、ここで小万を産みますが、小万の将来を宿の主人に託し
て死んでしまいます。

小万は、成長して養父から両親のことを聞かされ、女の身
ながら、亡き母の志を継いで、亡父の仇討ちをする決心を
します。

小万は、15才から風雪にもめげず、関宿から亀山の道場に
通って、修行につとめ、武道に励みます。

上の写真の「小万のもたれ松」 は、小万が、剣術の稽古に、
関宿から亀山宿まで通っていたときに、悪さをする若者を
避けるため、身を隠した松だそうです。

そして、1783年、ついに、運良く仇と巡り会うことが出来て
本懐を遂げました。
これにより、関の小万の名前は、一躍、全国に広まりますが、
その後も山田屋にとどまって養父母に仕え、1803年、三十六
歳の若さで亡くなりました。
 
小万の墓は、この山田屋(現在の会津屋)近くの福蔵寺に
あります。
福蔵寺は、もともとは、織田信孝の菩提寺ですが、下の二つの
写真の墓を比べてみると分かる様に、信孝の墓よりも小万の墓
の方が立派です!



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