ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

甲州街道を歩く( 23:初狩)(山梨県大月市) 4km 2021.4.12

(写真は、主君の武田勝頼を裏切って織田信長に付いたものの

 斬首されてしまった小山田信茂の首塚)


前回の花咲宿を出たのちに、国道20号(甲州街道)から

分れてJR中央本線沿いに歩いて行き、再び国道20号に

合流する辺りが次の「下初狩宿」です。

 

下初狩宿は、本陣2、脇本陣2、問屋1、旅籠12軒でした。

 

この下初狩宿と次の中初狩宿とは、半月交代で問屋業務を

勤める「合宿(あいじゅく)」でした。

国道20号(甲州街道)沿いの右手の道路から一段低くなった

場所に写真の「奥脇家本陣」跡があります。

慶応年間(1865~68)の建築で、立派な門も残っています。

(この建物は、普通のお住まいになっているので、敷地内に

立ち入ることは出来ません。)

この本陣前には、上の写真の「山本周五郎 生誕之地碑」が

あります?

説明版によると、「山本周五郎」は、明治36年に、

この近くの寒場沢にあった奥脇家の屋敷の長屋で

生れました。

しかし、明治40年に、寒場沢の長屋は土石流では流失し、

この災害で周五郎は家族を失ったそうです!

そうなんだ!、山本周五郎はここで生まれて、この地の

土石流に被災して家族を失ったんだ!

可愛そう・・・

(山本周五郎の代表作については、「樅ノ木は残った」を

見てね。) 

 

  

奥脇本陣跡の向いには、上の写真の「大野脇本陣」跡が

あります。

 

奥脇本陣の先には、次頁の写真の「廿三夜塔」があり、

その脇には、修復された明治40年建立の「常夜燈」が

あります。

この廿三夜塔の直ぐ先の宮川を「宮川橋」で渡ると

「中初狩宿」です。

江戸時代の「宮川橋」は土橋でしたが、宮川橋の橋の

上から、山の間に富士山の頂が望める「宮川橋の一目富士」

と呼ばれる名所だったそうです。

残念ながら、今日は、富士山の辺りにちょうど雲がかかり

(上の写真の赤丸印の辺り)見えません・・・

ここ「中初狩宿」は、本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠25軒

でした。

中初狩宿の中程に、元は医院だったという上の写真の

「今池家」(登録有形文化財)があります。

初狩小学校の東交差点を過ぎると、中初狩歩道橋の右手に、

明治29年建立の次頁の写真の「芭蕉句碑」があります。

 ”山賊(やまがつ)の おとがいとずる 

 葎(むぐら)かな”

(句意:葎(むぐら:夏草)が茂る中を、山賊(猟師)が、

自分のおとがい(下顎)をしっかり閉じて、葎(むぐら)の

穂先が自分の口の中に入らない様にしながら歩いてる。)

1685年、芭蕉43歳の時の「野ざらし紀行」の帰途に、甲州

谷村(現在の山梨県都留市付近)へ向かう途中の句です。

説明版によると、芭蕉は、1682年、「八百屋お七」の振袖

大火で焼け出され、初狩に住む実姉を頼り、ここで半年間も

暮らしたそうです。

芭蕉が、こんな山梨の田舎に住んでいたなんて、知らなかった

な~!                         

街道沿いに更に歩いて行くと、中初狩宿の「小林本陣」が

あります。

本陣の門の前には、上の写真の「明治天皇 御小休遺跡碑」

が建っています。

明治天皇は、明治13年の行幸の際に、ここ小林家で休息

しました。

 

小林本陣の向かい辺りには、小林脇本陣もあったらしいのです

が、今は何も残っていません。

 

1836年、脇本陣の小林伝兵衛は、米価の高騰に憤慨し、

甲州騒動の打ちこわしを指導しました。

しかし、翌年、捕らわれて獄死しました。

 

街道を進んで行くと、唐沢橋の手前の左手に、上の写真の

「首塚」の標識がありました。

 

「首塚」の標識に従い、次頁の写真の様に、川の跡の様な

小道でJR中央本線の架道橋をくぐり先へ進みます。 

少し歩くと、「首塚」の標識の先に「小山田信茂」の「首塚」

がありました。

 

駒橋宿で既に説明しましたた様に、信茂は、主君の武田勝頼を

裏切って、信長に寝返りましたが、信長から褒美をもらえる

どころか、逆に、主君に弓を引いたとして信長の命により

斬首になりました!

 

案内板によると、小山田信茂の家来が、密かに信茂の首を

持ち帰ったのを、当時ここに建っていた瑞竜庵の住職が

葬ったのだそうです。

 

しかし、瑞竜庵は、明治40年の土石流で流失してしまい、

現在はその痕跡すらありません。

 

   

 

街道に戻り、唐沢橋を渡って先に進みます。   

左手の段上に、馬頭観音や1778年建立の秋葉山毎夜燈などが

並んでいます。

 

更に進んで、切通を抜け、笹子川を船石橋で渡ります。

船石橋を渡ると、左手に上の写真の右側の「船石碑銘」が

ありました。

「親鸞聖人」は、船の形をした「船石」の石に座って説法を

したそうです。

残念ながら、この「船石」は、明治40年の水害で流失して

しまい、今は無いそうです・・・

船石碑銘の脇には、上の写真の「御舩石所在地ハ 従是

東三拾間余」と刻まれた、船石の所在を示す石の道標が

あります。

明治40年の水害は、この地に甚大な被害をもたらし、山本

周五郎の生家、小山田信茂の首塚のあった瑞竜庵、

親鸞聖人の船石など、全てを流失させてしまったん

ですね・・・

 

暫く国道20号(甲州街道)を歩いて行きますが、

この辺りは歩道がありません・・・ 

やがて、次頁の写真の様に、中央本線のガードを

くぐり抜けます。

左にカーブしながらこの天神山を回り込むと、右手に分かれる

旧道がありますが、ここが次の「白野宿」の入口です。

初狩宿から白野宿までは約4キロです。


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コメント一覧

ウォーク更家
歴史探訪歩き
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
私は、山本周五郎の生まれが、甲州街道沿いの甲州生まれだというのは知りませでした。

武田勝頼を裏切ったと信長から斬られてしまう不運な武将の首塚との出会い等、ホントに歴史探訪歩き、という感じになってきました。

これから猛暑の季節に入るというのに、最大の難関の笹子峠を控えて、持病の股関節炎を抱える私にとっては、「山なし」なのに山越えがきつい甲州街道は厳しいです・・・
もののはじめのiina
(ウォーク更家) さん へ
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/ae04e029e5ed615027ce6baf08a10353
甲州街道を歩けば棒にあたるのように、山本周五郎は甲州生まれでしたね。
そればかりか、武田勝頼を裏切ったと信長から斬られてしまうとは不運な武将まで登場する歴史探訪です。
 
更家さんは、ことしもよくウォークしています。^^

「山なし」なのに山越えがきつそうな甲州街道でした。


> 画像アップロード⇒ファイル一覧⇒見出し画像、という機能があるのは知りませんでした。
必要な場合は、更家さんブログ内を「ワード」検索して該当記事をヒットさせ、日付を浮かび上げて活用ください。

ウォーク更家
芭蕉と八百屋お七のエピソード
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
ありがとうございます。
これからは、梅雨前線に注意しながら、甲州街道最大の難関の笹子峠越えを目指します。

歩いてみると、甲州街道も、知らなかった面白いエピソードが満載です。

そうですね、八百屋お七については、史実と芝居のストーリーがごっちゃになってしまっていて、真実はよく分からないみたいですね。

山本周五郎の話は、ここで説明板を読むまで全く知らなかったので、こんな気の毒な境遇だったんだと驚きました。

ホントに、最近の集中豪雨だけではなく、時代ごとに至るところで自然災害に遭ってきた、日本は昔からの災害列島なんだと実感します。
tadaox
芭蕉と八百屋お七
https://blog.goo.ne.jp/s1504
エピソードが面白いですね。
芭蕉が焼け出されたという江戸大火は、本当に八百屋お七の付け火が原因なんですかね。
吉三郎に会いたい一心で自宅に火をつけたものの、ボヤで消し止められたという戯作もあり、真実は何処に¿ですね。
山本周五郎の話は、土石流の凄まじい被害で身内を失ったとあり、気の毒な境遇だったと同情しました。
日本は災害列島ですから、時代ごとに至るところで自然災害に遭ってきたんですね。
これから梅雨前線が暴れると、どこで被害が出るか予想もできません。
とにかく気を付けて、楽しい街道歩きをお続けください。
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