ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

バスで行く東海道・第1回 (日本橋~神奈川宿) 2012.3.31

「東海道五十三次(完全踏破の一人旅)」の補足シリーズ
「バスで行く東海道」です。

東海道五十三次・一人旅は、独断で歩いたため、見落とした
宿場町の遺構も多々あり、また、完全踏破の想い出を噛み
しめたい、という思いもあり、「バスで巡る東海道五十三次」
ツァーに参加することにしました。
歴史講師の先生が、広重の版画「東海道五十三次」と、現在の
風景を対比して説明してくれる楽しいバスの旅です。
今回は、この第一回のバス旅行で日本橋から神奈川宿です。
東海道五十三次の一人旅で取り上げなかった箇所を、ご紹介
しますので、「東海道五十三次(完全踏破の一人旅)」の
下記と併せてご覧下さい。
「0:日本橋 2011.9.13」「1:品川宿 2011.9.14)」
「2:川崎宿 20119.15)」「3:神奈川宿 2011.9.16)」

「0:日本橋」
江戸時代、魚河岸は、未だ築地ではなく日本橋にありました。
下の写真が、日本橋の脇にある魚河岸発祥の地の碑です。


浮世絵には天秤棒を担いで魚を売り歩く魚屋が描かれています。

浮世絵の橋の上は大名行列です。
以下は、私が小学校で教わったこの大名行列の童謡です。
♪お江戸日本橋 七つ立ち~♪
♪初上り~ 行列揃えて あれわいさのさ♪
♪こちゃ 高輪 夜明けて~提灯消す~ 
こちゃえ こちゃえ♪

九つ→0時 八つ→2時 七つ→4時
六つ→6時 五つ→8時 四つ→10時
(三つから一つは無く九つに戻る)

大名行列は、日本橋を七つ(朝4時)に提灯を点けて出発
しますが、高輪まで来たところで、夜が明けて提灯を消す
様子が歌われています。
次の写真の”日本橋”の文字は、徳川慶喜の筆によるもの
だそうです。


知人が、私の2011.9.13の”複製”の道路元標のブログを
見て、道路の中央にある”本物”の道路元標の写真を、
危険を冒して撮って送ってくれました。




上の写真は、京橋の江戸歌舞伎の碑です。
京橋は昭和38年に、京橋川が埋め立てられた際に撤去され
ましたが、写真の京橋の擬宝珠(ぎぼし)が残っています。

次の写真は、「西郷・勝会見の地」の碑です。
JR田町駅の手前、第一京浜(旧東海道)沿いの左手の三菱
自動車本社前に「西郷・勝会見の地」の碑があります。

官軍の江戸城総攻撃を目前にひかえた1868年)、東征軍
参謀・西郷隆盛と、徳川家陸軍総裁・勝海舟の会談が、
ここ田町の薩摩藩邸で行われました。

レリーフは、左が西郷隆盛、右が勝海舟です。
この会見で、江戸城の無血開城が決められたことにちなんで
建てられた碑です。


次の写真は、「高輪大木戸跡」です。

第一京浜(旧東海道)のJR田町駅と品川駅の中間くらいの
左手に、こんもりとした一里塚のようなものが見えて来ます。

江戸全体の治安維持のため、江戸の南の入口として設けられた
木戸で「大木戸」と呼ばれ、当時は、街道の両側に石垣が築
かれていましたが、現在は海岸側の石垣のみが残っています。
当時は、明け方六ツに開き、暮れ六ツに閉じて、治安の維持と
交通規制の役割を果たしていました。
江戸を発つ旅人の見送りは、ここで行われるのが一般的で、
茶店が多くあったそうです。




「1:品川宿」
当時、浮世絵の様にJR品川駅の前は海でした。
京急・北品川駅の前から始まる現在の旧東海道は、海沿い
だったそうです。

下の写真は品川寺(ほんせんじ)とその梵鐘です。



この鐘(梵鐘 )は、徳川家綱の寄進ですが、幕末に海外へ
流出しパリ万博に展示された後、所在不明となっていました。

その後、スイス・ジュネーブの美術館で発見され、同市の
好意により品川寺に返還されました。
それが縁となり、品川区とジュネーヴ市は友好都市となった
そうです。
下の写真は、大森・鈴ケ森です。

八百屋お七を何とか救おうと、役人は、”お前は14歳だ
よな”と聞きますが、”いいえ、15歳です。”と答えた
ために、火あぶりの刑に処せられてしまいます・・・

(八百屋お七が縛り付けられた鉄柱を差し込んだ石の丸い穴)

「2:川崎宿」

当時、多摩川には橋が掛かっていませんでした。
浮世絵は、対岸の川崎宿へ向かうために多摩川を船で渡る
「六郷の渡し」です。

川崎の繁華街から京急・八丁畷(はっちょうなわて)駅まで、
旧東海道は、写真の様に、真っ直ぐな一直線の道です。

畷は”まっすぐな長い道”を意味するそうで、八丁畷は、
1丁=1町=約110mとして、約900mの真っ直ぐな道
ということらしいです。

八丁畷(はっちょうなわて)駅の手前の右側に、芭蕉の
”麦の穂を たよりにつかむ 別れかな”の碑があります。

(風にも揺れる頼りない麦の穂を頼って歩く、旅立ちの
 別れであるよ。)

この当時の芭蕉は、頼りにならない麦の穂に頼らざるを
得ない程に弱っていて、この5カ月後に大阪で亡くなります。

芭蕉が故郷の伊賀へ帰る最後の旅で、江戸に於ける最後の
句だそうです。

生麦事件の碑は、昨年、私が歩いた時から、場所が移り、
碑の囲いも写真の様に新しく作り直されていました。
(工事のため仮移転。)

生麦事件は、幕末の動乱期に起こった外国人殺傷事件で、
賠償問題から薩英戦争にまで発展しました。

イギリス人が馬に乗って、生麦村を通りかかった際に、
大名行列を避けることなく通り過ぎたため薩摩藩の藩士達
は、そのイギリス人を惨殺してしまいました。 

その後、薩摩藩は膨大な賠償に耐えながらも切りつけた藩士
らを守り通します。

また、同時に、欧米の力を知り、イギリスとの関係を深め、
倒幕へと舵を切ります。

生麦事件に関与した海江田信義らの藩士は、維新後、明治
政府の要人として、近代国家の礎づくりを担ったそうです。

「3:神奈川宿」



京浜東北線の車窓から良く見える、上の写真の本覚寺は、
石段を登ると、アメリカ領事館の石碑があります。
当時、米国大使は、この高台の本覚寺から、現在の横浜駅
周辺の埋め立てが、横浜開港に間に合うか否か、埋め立て
状況を監視していたそうです。

また、前記の生麦事件の際、命からがら逃げ延びた
イギリス人2人が駆け込んだ先でもあるそうです。
この時、この2人の治療をしたのが、アメリカ人の
医師ヘボンでした。
そう!中学で習ったローマ字のヘボンです。
あのヘボン式ローマ字で有名なヘボンは、同じ旧東海道
沿いの近くの宋興寺で施療所を開いていました。

(宋興寺の境内にあるヘボンの碑)


浮世絵で見ると、現在の横浜駅周辺の繁華街は、何と!
左手の海の中です!

ペリーに開港を迫られた幕府は、この浮世絵の左手の海を、
急遽、埋め立てて横浜港として開港します。
と言うことは、横浜駅周辺は最近まで海だったんだ!

バスの旅では、旧街道から、浮世絵にある断崖を、写真の
急な階段で降りて、当時海だった横浜駅西口へ向かいます。

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コメント一覧

更家
よく泣いた
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
幕末の志士たちは、よく泣いた、という話は意外でした!

田町駅と品川駅の中間の大木戸が完全な形で残っているのは驚きでした。
iina
西郷・勝会見
http://blog.goo.ne.jp/iinna/
テレビの人気番組のように東海道五十三次を、路線バスだけを使って向かうのも面白い旅になりそうに思えます。

やはり、更家さんは「西郷・勝会見の地」の碑を押さえます。
幕末の志士たちは、よく泣いたそうです。武士は食わねど高楊枝というくらい気位が高かったことからすると意外
に思えますが、それほど情が深かったのでしょうね。

そして、田町駅と品川駅の中間に、一里塚が残っているものですね。

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