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世襲坊主の独り言

世襲の事情から会社退職後に真宗寺院住職に転身した男が、自分の信心もないのに他人さまに信心を語る苦しさを白状する記録です。

生命の大河

2006-06-24 10:33:43 | Weblog
 私の原稿を読んだ家内から言われました。「五木寛之さんの本に大河の一滴というのがあったね。」 あ、そうだった。私はその本も、同名のDVDビデオも持っています。しかし、どうして同じような名前を使っていたのだろう、と一瞬いたずらを発見されたような一種の気まずさを覚えました。五木さんの本を共感を覚えながら読んだ記憶がありますから、きっと私の考えに影響を与えて共感し、私の心の中に何かを残す言葉として沈んでいたのだと思います。

 私は、大河だけでなく、河も川も、小川でさえも好きです。それも空から鳥瞰した地図を見たような川ではなく、川岸の一つ所や橋の上から、水が川上の何処からともなく流れてきて川下のどこかへ流れてゆくのを見るのが好きなのです。そしていろんなことを想像することが出来ます。ただ、大人になって行動範囲が広がり経験も豊富になると、地図や記憶、高山や飛行機からの眺めなどの知識から川を日常の目に見える川の姿よりも、立体的に認識してしまいます。それは川(河)のより正しい認識かもしれません。しかし、想像力を制限します。

 生命の河は鳥瞰することは出来ません。生命の起源を出発点として長いながい時間、年月をかけて今の瞬間に至っています。この間に個々の水滴としてはいろいろ出現し、あるときは川面で漣をつくり、強風に吹かれて波となり、またいろいろなものをまるで消化しているがごとく溶かし、流し、砕いてきたでしょう。その瞬間々々には個性、つまり自我を以って生きているかのように振舞って、その仕事を終えると何事もなかったように河の流れに溶け込んで川下へと流れて往きます。川下に何が待ち受けているのか、想像はできてもそれは想像でしかありません。

 こういう川の中で、個々の水滴は存在する瞬間は確かにあったのでしょうけれど、長い時間の経過する中ではその記憶すら失われ、ただ、今の瞬間に生まれたばかりの水滴が発する水音だけが静寂の中に響くだけです。その音も、次の瞬間には消えていきます。

 生命をこのように河川の流れとして譬えるとき、消えた水滴に自分を重ねてその行く末を心配する必要はありません。なぜなら、自我は消えても水滴は河に同化し永遠の流れを継続するからです。自我に固執しなければ生命を河の流れに譬える話も素直に頷ける気がすると思いませんか。

霊魂は存在するか

2006-06-22 11:35:38 | Weblog
 きょうは霊魂について考えてみました。実際に霊魂が存在するのかどうかについては私はよく知りません。答えは信じるかどうかによって Yes にも No にもなるようです。 仏教でも、生前のお釈迦さまは形而上学的なこと、つまり立証できないことについては質問されても一切お答えにならなかったそうですが、お釈迦さまが亡くなった後に発達した仏教では、インドの伝統的な輪廻転生の考え方が仏教に取り込まれたようです。仏教の中でも古い形をとどめる南伝仏教でも、ジャータカ物語のようなお釈迦さまの前世の物語が今でも信じられています。

 中国や日本でも、伝統的な民族信仰は死者の霊魂を祀ることを中心に成り立っています。にも拘らず、現代の日本人の大半は、霊魂の存在についてはっきりと返事ができないのではないでしょうか。多くの方は、神さまの霊に祈願し、祟りの無いことを願いながら、その霊の存在については分からないとお答えになります。自分は死んだら無に還って土になるとおっしゃる方も、親の命日にはお坊さんを呼んでお経を上げて欲しいとおっしゃいます。お坊さんは、このときとばかり仏教に関心を持ってもらおうと法話を始めますが、お経が済んで親の霊が慰められたら、お坊さんには早く帰ってくださいと言わぬばかりの姿です。つまり、自分の魂は信じられないが、親の霊は存在するのです。そもそも仏教の教えは今生きている人の生き方を教えているのに、お経は死んだ人の霊を慰めるものだと理解されているようです。お経は、生きているあなたの霊に訴えている仏の言葉なのに、と新米坊主は考えてしまいます。

 さて、ここまで書いてきて、霊魂についての私自身の考えが見えてきました。以下、断定調で書きますが、そういうことではないかしら、と思いながら書いているのだとご理解ください。

 実体ではないのですが、霊魂は存在します。生きているあなた、私たちの身体はあなたの霊魂、私の霊魂によって占有されています。それぞれ自我を持っていて私の霊魂は私の身体にあって、私であることを主張し続けます。私の身体を働かせて、自我の実体があることを証明して見せます。

 私が死んだとき、つまり身体が生存の条件を満たせなくなったとき、私の霊魂は私の身体から離れ、親の霊魂ともいうべき太古から続く生命の大河に戻ります。その生命の大河にあっては、私の霊、あなたの霊、彼の霊というものはありません。自我は一切失われます。しかし、生命の大河という親の霊の意思や主張は存在すると思います。その意思によって私どもの個々の霊は支配され、身体を与えられて子孫をつくり、生命の大河を未来に継続して流す使命を与えられているのです。

 ま、私は、今のところザッとこんな風に考えています。結論は霊魂は存在する。よって、私自身は死んだら塵になって無に帰すとは考えていません。

死んだら土に還るのか

2006-06-18 14:05:45 | Weblog
 よく「私は死んだら土に還るだけです」という人がいらっしゃいます。神仏よりも科学技術のほうを信じる傾向のある現代人に多いのです。また、少しは仏教に関心がある方の中にも、私という実体はなく空なのだ、という仏教書を読んで、間違った理解をしてしまって、だから、私は死んだら塵になって消えるのみ...と変に共感してしまっている人もおられるようです。

 霊魂の存在を信じる人は「土に還る」などとは言いません。土に還るのは亡骸だけだからです。こういう方は、輪廻転生や、地獄、極楽を信じ、更には神霊界の住民になるなど死後の生活の安泰なことを願って、自分の信仰を大切にされていますから、それはそれでここでは問題はないようですね。

 問題なのは、霊魂の存在は信じられないし、一方どう考えても自分が塵にならなくてはならないという不条理も受け入れられないと思いながら、あきらめ気味に「塵になるだけ」だと呟く人の存在です。こういう人の中には、宗教を最初から敬遠している方が多いような気もします。
 
 親鸞聖人の孫でいらっしゃる覚如上人が、その著『改邪鈔』に次のように記していらっしゃいます。
『往生の信心の沙汰をば手がけもせずして、没後喪礼の助成扶持の一段を当流の肝要とするように談合するによりて、祖師の御己証もあらわれず、道俗・男女、往生浄土のみちをしらず、ただ世間浅近の無常講とかやのように諸人思いなすこと、心うきことなり。かつは、本師聖人の仰せに云わく、「某親鸞 閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたうべし」と云々 これすなわち、この肉身をかろんじて仏法の信心を本とすべきよしをあらわしましますゆえなり。これをもっておもうに、いよいよ喪葬を一大事とすべきにあらず。もっとも停止すべし。』

 これは片方では、葬式仏教の主催者には耳の痛くなる内容であるが、もう一方では人が亡くなった後に残る亡骸は、魚にやろうとも、つまり、土に戻ろうとも塵になろうとも、大切なのは生きているときからの信心であることを説いていらっしゃいます。

 このテーマのついては、日を改めて考えて見たいと思っています。

今を生きること

2006-06-15 19:55:34 | Weblog
 死んだら私は何処へ行くのか、こう思って身を縮めてしまう人も多いのではないでしょうか。もっとも、現代の日本人の多くは少なくとも人前では、死について真面目に考えてはいないように見えるので、こういうことで身を縮めるなどということもしないのかもしれませんが...

 実は、私は、独りで居るときなどに、いつか自分も死ぬときが必ず来る、と考えると、逃げ場のない恐怖感に襲われることがあります。こういうときはお念仏を称えると、気持ちが落ち着くのですが、だからといって、100%阿弥陀如来やお浄土の教えを信じている自分がいるのかというと、そうでもないような気もするのです。

 きっと、お浄土に往ったとして、もうそこにいる私は今の私ではなく、大自然に合一した何かであり、今の私がお浄土に迎えられた時の私を心配する必要はないのでしょう。すべてを阿弥陀さまにまかせて、心安らかに、ということなのでしょうけれど... それでも、やっぱり死んでからの無限の時間を考えると、恐ろしい気がします。

 さて、このように自分の死の瞬間を見つめて、死後の心配をしてしまうのが凡人ですが、その前に、今から死ぬまでという時間があります。この期間は1秒かもしれませんし、20年以上あるのかもしれません。冷静に考えてみると、死後の心配よりは、死を迎えるまでのこの時間のほうがずっと大切なのかもしれません。

 特に何も考えないで生活していると、未だ迎えていないこれからの日々、時間は、今まで生きてきた時間と同じように、どんどんと取り戻すことができない過去に流れて行ってしまいそうです。

 私は、もし死が恐ろしいなら、今の生きている瞬間をもっと大切にしなければいけない。そして今という瞬間から死を迎えるまでの時間を、この生きている瞬間、瞬間の連続として捉えなければいけない、と考えました。何故なら、1寸先は闇と言われるように、死と隣り合わせの時間だからです。

 仏教のいろいろな本を読むと、信心を獲得した(または、悟りを得た)とき、往生が決定するように書いてあるのに出会いますが、そうなることによって、本当に臨終を迎えたときには、生と死の間に境界線がない、つまりシームレスなお浄土参りができるのかも、と感じたことでした。

 ただ、信心が固まり、往生が決定したというレベルに達したとしても、生きているのですから、依然、自我を維持しているわけです。

 自我を維持するがゆえに、それが原因の苦も背負うことになるのですが、楽しみもあるかもしれません。そして何よりも幸せなことには、これから始まる「生きている時間」にはまだ迎えていない時間であるがゆえに反省の必要がなく、終わった日々を省みて悔いるという苦しみはまだ生じていません。

 悔いが生じないためには、悔いが生じることのない今を生きることが前提ですね。死後の自分を意識しながら、今の瞬間を大切に過ごせる、と考えることができる時間、それが今の瞬間、その瞬間に続く今日1日!!

 難しいですね。どのように表現すればよいのか... つまり、死後と同じく阿弥陀さまのお側に自分を置いて、それでいてまだ生きていける、という時間です。今の瞬間から、阿弥陀さまのお浄土にお邪魔させて頂くと考えればよいのでしょうか。ですから、明日はもうありません。精一杯、後生を頼む今日があるだけですね。

はじめまして

2006-06-14 21:52:49 | Weblog
 ひともすなるブログ、我も...とばかり、ここに私のページを開設いたしました。ほとんど私の私的な勉学、思索の記録となろうかと思いますが、わざと他人さまの目に晒すことによって、自分への刺激としたいと考えております。
 私は、世襲の事情により、近江の真宗寺院の住職を一昨年から引き継ぎました。
会社を退職しての転身、資格は以前から持っていましたが、会社では技術屋でしたから、坊主としての勉強はゼロに等しい状態でした。
 それが突然勉強を始めたわけです。しかし、修行よりも信心を強調する浄土真宗では、付け焼刃の勉強ではすぐ刃が欠けてしまいます。
 そういうわけで、このページを信心獲得の記録の場としたいと考えて始めました。性格上、かなり真面目くさった内容になろうかと思いますが、もし、読んでいただける方があれば、ご理解のほどを。