私の原稿を読んだ家内から言われました。「五木寛之さんの本に大河の一滴というのがあったね。」 あ、そうだった。私はその本も、同名のDVDビデオも持っています。しかし、どうして同じような名前を使っていたのだろう、と一瞬いたずらを発見されたような一種の気まずさを覚えました。五木さんの本を共感を覚えながら読んだ記憶がありますから、きっと私の考えに影響を与えて共感し、私の心の中に何かを残す言葉として沈んでいたのだと思います。
私は、大河だけでなく、河も川も、小川でさえも好きです。それも空から鳥瞰した地図を見たような川ではなく、川岸の一つ所や橋の上から、水が川上の何処からともなく流れてきて川下のどこかへ流れてゆくのを見るのが好きなのです。そしていろんなことを想像することが出来ます。ただ、大人になって行動範囲が広がり経験も豊富になると、地図や記憶、高山や飛行機からの眺めなどの知識から川を日常の目に見える川の姿よりも、立体的に認識してしまいます。それは川(河)のより正しい認識かもしれません。しかし、想像力を制限します。
生命の河は鳥瞰することは出来ません。生命の起源を出発点として長いながい時間、年月をかけて今の瞬間に至っています。この間に個々の水滴としてはいろいろ出現し、あるときは川面で漣をつくり、強風に吹かれて波となり、またいろいろなものをまるで消化しているがごとく溶かし、流し、砕いてきたでしょう。その瞬間々々には個性、つまり自我を以って生きているかのように振舞って、その仕事を終えると何事もなかったように河の流れに溶け込んで川下へと流れて往きます。川下に何が待ち受けているのか、想像はできてもそれは想像でしかありません。
こういう川の中で、個々の水滴は存在する瞬間は確かにあったのでしょうけれど、長い時間の経過する中ではその記憶すら失われ、ただ、今の瞬間に生まれたばかりの水滴が発する水音だけが静寂の中に響くだけです。その音も、次の瞬間には消えていきます。
生命をこのように河川の流れとして譬えるとき、消えた水滴に自分を重ねてその行く末を心配する必要はありません。なぜなら、自我は消えても水滴は河に同化し永遠の流れを継続するからです。自我に固執しなければ生命を河の流れに譬える話も素直に頷ける気がすると思いませんか。
私は、大河だけでなく、河も川も、小川でさえも好きです。それも空から鳥瞰した地図を見たような川ではなく、川岸の一つ所や橋の上から、水が川上の何処からともなく流れてきて川下のどこかへ流れてゆくのを見るのが好きなのです。そしていろんなことを想像することが出来ます。ただ、大人になって行動範囲が広がり経験も豊富になると、地図や記憶、高山や飛行機からの眺めなどの知識から川を日常の目に見える川の姿よりも、立体的に認識してしまいます。それは川(河)のより正しい認識かもしれません。しかし、想像力を制限します。
生命の河は鳥瞰することは出来ません。生命の起源を出発点として長いながい時間、年月をかけて今の瞬間に至っています。この間に個々の水滴としてはいろいろ出現し、あるときは川面で漣をつくり、強風に吹かれて波となり、またいろいろなものをまるで消化しているがごとく溶かし、流し、砕いてきたでしょう。その瞬間々々には個性、つまり自我を以って生きているかのように振舞って、その仕事を終えると何事もなかったように河の流れに溶け込んで川下へと流れて往きます。川下に何が待ち受けているのか、想像はできてもそれは想像でしかありません。
こういう川の中で、個々の水滴は存在する瞬間は確かにあったのでしょうけれど、長い時間の経過する中ではその記憶すら失われ、ただ、今の瞬間に生まれたばかりの水滴が発する水音だけが静寂の中に響くだけです。その音も、次の瞬間には消えていきます。
生命をこのように河川の流れとして譬えるとき、消えた水滴に自分を重ねてその行く末を心配する必要はありません。なぜなら、自我は消えても水滴は河に同化し永遠の流れを継続するからです。自我に固執しなければ生命を河の流れに譬える話も素直に頷ける気がすると思いませんか。