75年ぶりに訪れた美保基地(資料館)で、広報班・班長井上一等空尉の詳しい説明を聞きながら当時の記憶が少しずつ蘇ってきました。
美保空は予科練生の大量募集を受け施設が間に合っていませんでした。14期だけでも4500人がおりました。
朝6時に起床から就寝までの分刻みの毎日でした。
予科練の教育は極めて激しく厳しいものでした。歯を食いしばり日夜訓練に取り組みました。
そして昭和20年5月中旬に特殊兵器搭乗要員として志願し大篠津駅から軍用列車に乗って、山口県熊毛郡平生町の柳井潜水分校に向かいました。
当時の大篠津駅は、現在の大篠津駅とは違っていることを井上一等空尉から伺い、又わたしが寝起きした宿舎の場所も、だいたいこの辺りではないかと教えていただきました。
現在の大篠津駅
この辺りに宿舎があったはずです。
普段なら1時間以上も立って話しを聞くことなど出来ないのですが、この時ばかりは疲れを感じませんでした。
実年齢は95歳ですが、気持ち年齢は18歳に戻っていたようです。
あっという間の時間でした。
あらためて、航空自衛隊美保基地、基地渉外室広報班・班長井上一等空尉に感謝いたします。
続く
偶然こちらのホームページに辿り着きました。
美保海軍航空隊にいらっしゃったとのこと、私の祖父はそこで副長をしていた彌永常人です。
私が5歳(1976-77ころ)の時に祖父は亡くなったので、当時のことは何も聞いておりません。幼少時私は鳥取市に住んでいましたが、祖父のことを境のおじいちゃんと呼んでおり、境港に住んでいた祖父の家に遊びに行くのを楽しみにしていた記憶があります。
平成元年からは東京におりますが、4年前に子供を連れて美保基地を見学して参りました。初めて資料館に入り、当時のお話を解説していただきました。
子供にもいい勉強になったと思っております。
岩田様にご健康をお祈りしております。
岩田様のご健康をお祈りしております。