昭和39年に笠間にアトリエを作りたいという作家たちの要望から、
「芸術村」の構想ができました。昭和40年には、魯山人が住居としていた300平米の
茅葺き民家を北鎌倉より移築し、「春風萬里荘」と名付け、「芸術村」は開設されました。
この茅葺き入母屋造りの重厚な構えの江戸時代中期の民家は、もともとは、
現在の神奈川県厚木市近郊の地にあたる高座郡御所見村の豪族で大庄屋でもあった
伊藤家のお母屋であったものを、昭和の初めに魯山人が、北鎌倉開いた星岡窯の母屋として、
もう1軒の慶雲閣とともに移築したものです。
茶室「夢境庵」は、千宋旦(千利休の孫)よって作られた裏千家の名茶室「又隠」を
手本として魯山人が設計したものです。床柱は黒柿、長押は南天の樹を用いています。
躙り口際の塗り壁になっている部分には貴人口が設けられています。
「芸術村」の構想ができました。昭和40年には、魯山人が住居としていた300平米の
茅葺き民家を北鎌倉より移築し、「春風萬里荘」と名付け、「芸術村」は開設されました。
この茅葺き入母屋造りの重厚な構えの江戸時代中期の民家は、もともとは、
現在の神奈川県厚木市近郊の地にあたる高座郡御所見村の豪族で大庄屋でもあった
伊藤家のお母屋であったものを、昭和の初めに魯山人が、北鎌倉開いた星岡窯の母屋として、
もう1軒の慶雲閣とともに移築したものです。
茶室「夢境庵」は、千宋旦(千利休の孫)よって作られた裏千家の名茶室「又隠」を
手本として魯山人が設計したものです。床柱は黒柿、長押は南天の樹を用いています。
躙り口際の塗り壁になっている部分には貴人口が設けられています。