Last Date (Mercury)・ERIC DOLPHY
「逢魔が時って言葉を知ってるかい」
夏原が不意に問いかけた。
先程買ってきたレコードの点検に余念のないヒゲ村が顔を上げ、すでに冷めてしまったコーヒーをすすって言った。
「おうまがとき、いったいそれ何なのマスター」
「黄昏っていう意味よ。つまり、変じて禍いの起こる時刻をいうのよ」
隣に座るスミちゃんが口を挟んだ。
「そうなんだ。交通事故も日暮れ時が一番多いんだ。周囲の見通しが悪い時分でもあるが、一日の仕事が一段落ついて、つい気が緩む時でもあるんだろうね」
そんな思いがつまった一枚を夏原は取り出した。
「この『ラスト・デイト』の演奏はドルフィーの最期を暗示しているよね」
「聴く度、いたたまれなくなるのよね。曲のあとに発した最後の言葉を聴くと余計に…」
「重い糖尿病を患っていたドルフィーは、このベルリン公演で客死した。まさに逢魔が時だったんだ」
「怖いけど、何となく惹かれそうな語感でもあるわね。ドルフィーはそれが判っていながらも突き進んでいったとしか思えないわ。自分でも計り知れない何かに揺り動かされるように」
スミちゃんが一瞬恍惚とした表情を見せた。
「たしかに気になる言葉だよね。でもマスターどうして」
ヒゲ村が問いかけると、しばし沈黙が続いた。
『ユー・ドント・ノウ・ファット・ラヴ・イズ』で、フルートの音色がドルフィーの悲痛なこころの叫びとなって響きわたった。
その時、夏原が垣間みせた表情の変化をスミちゃんは見逃さなかった。
「誰にもその時はやってくる。それまでは一秒たりともおろそかにするなって事だよ。ま、これは自分にも言い聞かせているんだけどもね」
「じゃ、マスターは人生の黄昏時に差しかかっているという事だよね。オレなんかまったくピンとこないよ。これが若さっていうもんかな」
ヒゲ村がはしゃいで見せた。
「お前なんか百歳になっても感じないよ」
スミちゃんがケタケタ笑った。
夏原自身も笑いをおさえる事ができなかった。
ドルフィーが終わると、ヒゲ村が一刻も早く聴きたそうにしていたレコードを差し出した。
「たのむよ、マスター」
受け取ったサン・ラのレコードは、夏原も聴いた事がないものだった。『明日の次元への芸術形式』という小難しいタイトルがついていた。
ターン・テーブルにレコードを置きながら、昨日の病院での出来事を思い起こしていた。胃の再検査を受けている間の張りつめた気持。異常なしと告げられた時の安堵感。しかし、そんな事を彼等に告白するつもりはない。
針を落とすと、宇宙の彼方から届いてきたかの如き摩訶不思議な音が飛び出してきた。
その瞬間のヒゲ村の顔は、見ものといえば見ものだった。
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